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画は歌川広重(1797年)~(1858年)
(安藤広重)号は一立齋(いちりゅうさい)作
「江戸名勝図絵」より
「築地門跡」です。
*御文章 一帖の十五 宗名
問うていはく、当流をみな世間に流布(るふ)して、
一向宗となづけ候ふは、
いかやうなる子細にて候ふやらん、不審におぼえ候ふ。
答へていはく、あながちにわが流を一向宗となのることは、
別して祖師(親鸞)も定められず、
おほよそ阿弥陀仏を一向にたのむによりて、
みな人の申しなすゆゑなり。
しかりといへども、経文(きょうもん=大経・下)に
「一向専念無量寿仏」と説きたまふゆゑに、
一向に無量寿仏を念ぜよといへるこころなるときは、
一向宗と申したるも子細なし。
さりながら開山(親鸞)はこの宗をば浄土真宗とこそ定めたまへり。
されば一向宗といふ名言(みょうごん)は、
さらに本宗より申さぬなりとしるべし。
されば自余の浄土宗はもろもろの雑行(ぞうぎょう)をゆるす、
わが聖人(親鸞)は雑行をえらびたまふ。
このゆゑに真実報土の往生をとぐるなり。
このいはれあるがゆゑに、別(べっ)して真の字を入れたまふなり。
<略>
☆よく晴れました。
東京は櫻が開花したとか。北海道はまだこれから々です。
さて、当ブログも本日で300回目であります。
ご来場心より感謝申し上げます。
スタイルは変えませんので今後もお暇なときにご来場のほどを。
手前酔いどれのテーマの一つが「再考明治維新」です。
従来の解釈にはおおいに疑問を持っています。
日本人にとってはたして幸せなことであったのかなと。
司馬遼太郎さんは江戸時代をあまり好みませんでしたね。
五人組などの連座制を強制した「密偵政治」、だから暗い。
明治維新で開国したんだ。近代国家のスタートだ。
そもそも家康が嫌いですもね。
さて、どうかな? 民衆にとっては。
「四民平等」はいいが「国民皆兵」を強制されるし、
年貢から金納に変えられぐっと負担を増大させられる。
その他いろ々あってキリがない。
江戸時代は戦(いくさ)はお侍様の仕事。
百姓、町人は関係ない、ハッキリしてたようです。
昨日書いた孝明天皇は「公武合体派」といわれています。
案外機能しておれば面白い政体になっていたかもしれませんよ?
内戦も起きなかっただろうし、その後の日本史、世界史が一変しますね。
孝明天皇の攘夷の詔勅を今日の終わりに、
*「時局御軫念の御述懐一帖」
文久二年(1862)五月十一日
「惟(思う)に因循姑息、旧套(旧来のやり方)に從いて改めず、
海内(国内)疲弊の極(結果)、卒(つい)には
戎虜(じゅうりょ、外国人)の術中に陥り、
坐しながら膝を犬羊(西洋人)に屈し、殷鑑遠からず、
印度の覆轍(二の舞)を踏まば、
朕実に何を以てか先皇在天の神靈に謝せんや。
若し幕府十年を限りて、朕が命に従い、
膺懲の師(懲らしめの軍隊)を作(おこ)さずんば、
朕実に断然として神武天皇神功皇后の遺蹤(いしょう、前例)に則り、
公卿百官と、天下の牧伯(諸侯)を師(ひき)いて親征せんとす。
卿等其(それ)斯(この)意を體(たい)して以て報ぜん事を計れ」
*「徳川家茂に賜はれる勅書」
元治元年(1864)正月二十一日
「…然りと雖も無謀の征夷は、実に朕が好む所に非ず。
然る所以の策略を議して、以て朕に奏せよ。
朕其(その)可否を論ずる詳悉、以て一定不抜の國是を定むべし。
(中略)嗚呼、朕汝と與(とも)に誓て哀運を挽回し、
上は先皇の霊に報じ、下は万民の急を救はんと欲す。
若し怠惰にして、成功なくんば、殊に是朕と汝の罪なり」
*孝明天皇御製
あさゆふに民やすかれと思ふ身の
こころにかかる異國のふね
澄ましえぬ水にわが身は沈むとも
にごしはせじなよろづ國民(くにたみ)
(安藤広重)号は一立齋(いちりゅうさい)作
「江戸名勝図絵」より
「築地門跡」です。
*御文章 一帖の十五 宗名
問うていはく、当流をみな世間に流布(るふ)して、
一向宗となづけ候ふは、
いかやうなる子細にて候ふやらん、不審におぼえ候ふ。
答へていはく、あながちにわが流を一向宗となのることは、
別して祖師(親鸞)も定められず、
おほよそ阿弥陀仏を一向にたのむによりて、
みな人の申しなすゆゑなり。
しかりといへども、経文(きょうもん=大経・下)に
「一向専念無量寿仏」と説きたまふゆゑに、
一向に無量寿仏を念ぜよといへるこころなるときは、
一向宗と申したるも子細なし。
さりながら開山(親鸞)はこの宗をば浄土真宗とこそ定めたまへり。
されば一向宗といふ名言(みょうごん)は、
さらに本宗より申さぬなりとしるべし。
されば自余の浄土宗はもろもろの雑行(ぞうぎょう)をゆるす、
わが聖人(親鸞)は雑行をえらびたまふ。
このゆゑに真実報土の往生をとぐるなり。
このいはれあるがゆゑに、別(べっ)して真の字を入れたまふなり。
<略>
☆よく晴れました。
東京は櫻が開花したとか。北海道はまだこれから々です。
さて、当ブログも本日で300回目であります。
ご来場心より感謝申し上げます。
スタイルは変えませんので今後もお暇なときにご来場のほどを。
手前酔いどれのテーマの一つが「再考明治維新」です。
従来の解釈にはおおいに疑問を持っています。
日本人にとってはたして幸せなことであったのかなと。
司馬遼太郎さんは江戸時代をあまり好みませんでしたね。
五人組などの連座制を強制した「密偵政治」、だから暗い。
明治維新で開国したんだ。近代国家のスタートだ。
そもそも家康が嫌いですもね。
さて、どうかな? 民衆にとっては。
「四民平等」はいいが「国民皆兵」を強制されるし、
年貢から金納に変えられぐっと負担を増大させられる。
その他いろ々あってキリがない。
江戸時代は戦(いくさ)はお侍様の仕事。
百姓、町人は関係ない、ハッキリしてたようです。
昨日書いた孝明天皇は「公武合体派」といわれています。
案外機能しておれば面白い政体になっていたかもしれませんよ?
内戦も起きなかっただろうし、その後の日本史、世界史が一変しますね。
孝明天皇の攘夷の詔勅を今日の終わりに、
*「時局御軫念の御述懐一帖」
文久二年(1862)五月十一日
「惟(思う)に因循姑息、旧套(旧来のやり方)に從いて改めず、
海内(国内)疲弊の極(結果)、卒(つい)には
戎虜(じゅうりょ、外国人)の術中に陥り、
坐しながら膝を犬羊(西洋人)に屈し、殷鑑遠からず、
印度の覆轍(二の舞)を踏まば、
朕実に何を以てか先皇在天の神靈に謝せんや。
若し幕府十年を限りて、朕が命に従い、
膺懲の師(懲らしめの軍隊)を作(おこ)さずんば、
朕実に断然として神武天皇神功皇后の遺蹤(いしょう、前例)に則り、
公卿百官と、天下の牧伯(諸侯)を師(ひき)いて親征せんとす。
卿等其(それ)斯(この)意を體(たい)して以て報ぜん事を計れ」
*「徳川家茂に賜はれる勅書」
元治元年(1864)正月二十一日
「…然りと雖も無謀の征夷は、実に朕が好む所に非ず。
然る所以の策略を議して、以て朕に奏せよ。
朕其(その)可否を論ずる詳悉、以て一定不抜の國是を定むべし。
(中略)嗚呼、朕汝と與(とも)に誓て哀運を挽回し、
上は先皇の霊に報じ、下は万民の急を救はんと欲す。
若し怠惰にして、成功なくんば、殊に是朕と汝の罪なり」
*孝明天皇御製
あさゆふに民やすかれと思ふ身の
こころにかかる異國のふね
澄ましえぬ水にわが身は沈むとも
にごしはせじなよろづ國民(くにたみ)
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