消費期限終了

リタイアーのよもやま話

頭痛

2011-01-31 06:58:12 | 日記

最近、頭痛を伴いながら、起きるようになった。

昨日なんか、めざましが鳴る前に、目がさめて、
しばらくベットの中で、何時かなと思いながら、
もたもたしているうちに、次第に頭痛が始まった。

だんだん、ひどくなるので、たまらなく、ベットから
出ることにした。

大分ながい間、そのようなことから免れていたのだが。

現役時代そのようなことがあったので、5時半には、
どうしてもベットから出る習慣があった。

寝たりない気分はあるのだが。

どういうわけか、朝の5時半頃が頭痛にならない
ぎりぎりの時刻であった。

ということで、退職した頃は、やはり5時半には
起きていた。

しかし、自分の気持ちの中に、無職の苛立ちで、
剥きになって生活をしていて、それが血圧を上げる
原因になっているのかと思ったりしたものだから、
起床時間を少し遅めにするようにした。

ゆるくしたのである。

でも、とうとうそうもできなくなってしまった
ようである。

頭痛がするのである。

だから、今朝も、朝目が覚めて、どうしよう
かと思っているうちに、ほんのかすかに、頭の
どこかで、おかしくなってくるような気がした。

トイレに行くついでに、時計をみたら、5時半に
なっていたので、起きることにした。
書斎にはいって、コンピュータの前に座ると、目が寒い。

厚着をして、ヒーターをつけてみても、早すぎる
のだろう。目が寒い。

そこで、コートのフードを頭から、被るとどういう
わけか、幾分かあたたかくなってきた。

寒いのは、いやだが、

再び頭痛が始まっては、元の生活のリズムに戻す
しかない。

安逸な生活に浸ろうとするわたしを内から責めてやま
ないようなものがあるのだろうか。

なんて、昨日あたりは、頭痛をしながら思った。

退職した当初は、無職である身分を責めてやまない
ものが沸きたってやまなかったが、あれから
4年も経つと、心のどこかで、しだいにゆるやかに
なっていく自分に、このようなことも「あり」かと
許容していくものがあるのだが。

安逸さを責めたてるものが内からわきだしてくるの
も辛い。

しかし、現実の退職組の人間には、安逸さを許容
される現実もある。

特段、やることがないのである。

いや、やらなくても済むのである。

現役であれば、確実に8時半には、職場の門を
潜っていなければならない。

どんなに、寒くても、大雨でも、風が吹いても
若干の体調が悪くても。

現実は、朝の6時半頃から、空家なっている
もとの住宅で、コンビニで買ったおにぎり
を食べながら、一仕事をしている時期があった
くらいだ。

今振り返ると、これは、普通の生活ではない。

でも、今では、朝食を終わって、食器を洗い
終わると、9時前であったりして、どこかで、
戸惑っている自分がいるが、特段、生活
で不都合が生じるものでもない。

自堕落な生活を許容されるうちに、次第に
自分の無能さが醸成される生活が日常に
なっていくのか。

何にしても、退職による格段の収入の差、
それによる身動きの取れない現実、そのことに
抗っても、労働力として消費期限が完了した
という現実が、自分の無能さを了解するように、
強引に迫る。

子どもがいる人だったら、経済的社会的な無能さを
たてにして、子どもたちから、無能さを強引に認知
させんがばかりに振る舞われだす。

そのようなことに抗うようにして、渾身の力を振り
絞ろうなんて、剥きになっても、二日とは神経も
体力も持たないのだから、今度は、体の方が老いと
無能さを認知するように責めたててくる。

筋力トレーニングを試みて、老け込まないように
抗ってみても、今年の冬あたりから、老いたのか、
乾燥肌になり、体が、あちこちかゆい。

現実は、強引に自分の無能さを強いる方向に
時間が進んでいる。、

世に、70歳になっても80歳になっても、職業
上も、経済上も現役いられる人たちがいるが、彼
らのような身分でもないかぎり、大方の人間は、
皆、粗大ゴミ化した無能な己の存在を認知する
よう強いられてくる。

孫の面倒も見れる間は、どこかで、重宝される
余地が残っているが、そのようなことも無くなれ
ば、アウトである。

どこからも、誰からも、いてもいなくてもいい
存在に成り果てる。

そうなると、周囲の手かせ足かせとならぬよう
疎まれないようにするのが、いや、それ自体が
すでに疎まれた存在であるが、そのような日常
が過ぎる。

どこまでも、無能な存在の認知を強要されてやま
ない日々に、苛まれるというのが凡愚の老いかと
いう思いが、頭をよぎってやまないのである。

 


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