定年バカ
瀬古浩爾
SB新書
を読み終えた。
目次は次の通りである。
第1章 定年バカに惑わされるな
達人ヅラした偽物
定年からがおもしろいという輩
第2章 お金に焦るバカ
第3章 生きがいバカ
第4章 健康バカ
第5章 社交バカ
第6章 定年不安バカ
第7章 未練バカ
第8章 終バカ
第9章 人生を全うするだけ
以上
私も定年に関連した本をよく読んだ
ので、彼の本を読むと、ちと恥ずか
しい思いがする。
定年をテーマにすれば、本が売れる
という商売根性がもととなって、こ
のような本は書かれているそうで、
一度振り返ってみる必要があるとは
思う。
クールに斜に構えた視点の意見は、
定年をなんとかしろと、煽りがちな
社会的風潮にあって、その脅迫的な
圧力から、解放されるかもしれない。
そういう意味では、まだ読まれてな
い方には、一度本屋で本をめくって
見られたら、いかがでしょう。
ところで、
彼は、定年はだれにとっても初めて
の経験と言っている。
彼は幼稚園、小学校、中学校等、な
にもわからない場所にいきなり放り
込まれて、幼い頭といつの間にか形
成されていた性格だけで、なんとか
やってきたのである。
と、言っている。
しかし、大事な視点が欠けている。
それは、上り坂の人生と下り坂の
人生の違いを念頭においてないこ
とである。
定年に向かう人生前半は、成長志
向、未来思考の人生である。
勿論、ドロップアウトして、社会
に迷惑をかける人もいるのである
が。
普通は、未来は開けているはずと
いう期待感を誰もが密かに抱いて
いる。
なんとかなるんじゃないの。
である。
しかし、
定年後の人生は、死に向かって、
経済的無力感、社会的無力感、精
神的無力感、体力的無力感に苛ま
れる日々を過ごしている。
人生前半の経験は参考にならない
はずである。
彼は、
だれにとっても初めての経験と言っ
ている。
が、本当のところ、慰めにはならな
い。
彼は、彼なりに、うまくいっている
からと、思っているから、そのよう
な発言ができるのでは。
おそらく、作家で定年とは縁のない
身分のせいもあるはずだ。
これまた
斜に構えた気持ちで私は、受け止め
ている。
定年のない仕事の人が、定年で
右往左往する人を揶揄している。
時代の傍観者として、日々死にゆく
我が身を冷静に捉えられる人は、多
くはない。
ところで、
幸田露伴曰く。
三つの幸福があるという
惜福とは、
自分に与えられた福や運を
使い尽くすことなく、取っ
ておくこと
分福とは、
自分に来た福や運を
ひとり
占めせずに分け与えること
植福とは、
自分の子孫や後からくる
もののために福や運の
種まきをすること
老いて、このようなことができる人
は、定年後の人生に戸惑うことは
ないが、それだけの力量のある人は
限られている。
凡人の私は、次のような言葉が
相応しいと思っている。
くよくよしてもしかたがない。
どのみち予想したとおりにはなら
ないのだから。
オードリー・ヘプバーンの名言集
にあった言葉だ。
実は、いくつかの憂えたことが、
いつのまにか、状況が変化して、
消失してしまったことがあった
からだ。
また、自分の人生を振り返って
みても、そのような連続だった
と思い起こしているからだ。
現状況は、刻一刻変化していて
未来に立ち現れる現状況は、全く
違うものとして立ち現れる。
くよくよしてもしかたがない。
どのみち予想したとおりにはなら
ないのだから。
いい言葉であるが、これまた
想定外の人もいる。
予想した通りには、ならなくて、
想定外のことばかり、子孫楚歌に
陥っている人。
そう、件の小池氏の現状である。
舛添氏を蹴散らしたあの勢いは、
いまいずこ。
哀れでならない。
ところで、
また、次の言葉も気に入っている。
夢があろうとなかろうと、楽しく
生きている奴が最強。
よっぽど、経済的に切羽詰まった
状況でもないかぎり、周りから見
ても、いつも楽しげに生きている
生き方に優る生き方はないのでは
なかろうか。
こうも達観できればいいのだが。