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リタイアーのよもやま話

「壮」の過ごし方をまちがえるな 楽しむ者にしかず

2010-12-27 23:27:56 | 若い時に読みたかった本

 

渡部昇一氏の「知的余生の方法」という本を読んでいる。

若いころ彼の「知的生活の方法」という本を読んで、
かなり、影響を受けた。

その後、田中角栄氏の擁護論をぶち上げたので、彼には
興ざめしたことがあった。

というのも、その頃、わたしは、かなりマルクスに傾倒
していたからである。

ただ、就職してから田中氏の政治力については、興味が
あったので、彼のことをよく調べた。

主義主張が異なるわりには、その実行力については、
敬服するようになり、その面では、彼のファンになった。

彼が、国会議員に当選した頃の写真は、立場の違いを
超えて、本当にびっくりするほど、ほれぼれするいい男
であった。

男として生れて、あんなに輝いて見える時があるなんて
うらやましく思えてならない。

ほんの少しでもいから、あやかりたいものだ。

とは言うものの、残念ながら、娘の方は品が無くて、とても、
人間の品位では、親子とは思えないのは残念である。

本来なら、二世の方が、洗練され貴族的な方向に向かうはず
なのに。

娘の醜さを見なくて済んだのは、田中氏としては、幸いだっ
たかもしれないと思ったりしている。

 


ところで、渡部氏、その後、マスコミで売れっ子になって、
気色悪くなったが、久しぶりに、タイトルに惹かれて、
買ってみることにした。

 

さて、昔、読んだ佐藤一斎の『言志晩録』の中に、次のような
文があった。


少ニシテ学ベバ、則チ壮ニシテ為スアリ
壮ニシテ学ベバ、則チ老イテ衰ヘズ
老イテ学ベバ、則チ死シテ朽チズ

である。


この本を読んだのは、30歳前半のことだと思う。

 

これについて、渡部氏が本の中で、取り上げているが
その理解について、教わることがあって、感嘆して
しまった。

 

以下、抜粋してみたい。

 


ここで大切なのは、「壮ニシテ学ベバ、則チ老イテ衰ヘズ」なの
である。

壮年期には、みんか一生懸命に働いている。仕事の揚では常に学ぶ
ことがある。

だから壮年期によく仕事をしてきた人は、学び続けてきたという
自覚がある。

ところが、これが案外錯覚なのである。

壮の時、壮年時代というのは、その人の人生の中で、最も働き盛り
で、仕事も充実している時なのだが、だからこそ、ごまかされやすい。

仕事に打ち込んでいる時には、真剣になって仕事についての勉強も
し、新しい情報にもどんどん接する。

そして、勉強すればする程仕事も面白くなっていく。

だから、「学んでいる」と思い込んでしまうのだ。

だが、こうして一生懸命に働いて定年を迎え、ではこれから何を
やっていこうか、と考えた時、ハタと、何も学んでいなかったこと
に気づく。

やることが何も思いつかない。

仕事中に学んだことが、その会社や地位を解れた途端に、何の役
にも立たないことに気づく。

こういうことが多いのだ。

これでは、壮にして学んだことにはならない。

忙しく仕事をしているから、学んでいるように誤解しているだけで、
決して学んではいない。

仕事上の勉強を、自分自身の勉強と勘違いしただけなのだ。

「壮ニシテ学ベバ、則チ老イテ衰ヘズ」というのは、必ずしもそう
いう学び方のことをいっているのではない。

必しも仕事上での「学ぶ」を意味しているわけではない。

まずこのことに注意する必要がある。


退職後も活躍できる人とは


例えば、私はこれまで多くの編集者に接してきたが、定年で
編集の仕事を離れてから活躍している人が何人もいる。

~カット~などである。

こういう人たちは、現役時代に~カット~、素晴らしい業績を挙
げてきた。

編集という仕事は、時には、昼夜の別なく忙しいことのある
職種である。

普通なら、他のことに手を出す余裕などないけずである。

しかしこの人たちは、仕事とは別に、常日頃から自分の興味のある
ことを勉強し、それを蓄積してきたのだと思う。

だからこそ、定年となって自由になった途端に、自分の好きな
ことに腕を発揮できたのだろう。

 

また、元外交官のO氏の例を挙げたい。

「〝年齢は六十歳以上がよい……私自身、~カット~

現役中よりもいまのほうが、はるかによく物事が見える……〟

その通りと思う。

五十歳の現役時代のわたし(文の修正あり)と今の私では物の
見方が比べ物にならない」

これこそ「壮にして学んだ人」が古稀を越してから言える言葉
である。


外交官は必ず「少にして学んだ人」であり、しかも「壮にして」
各ポスト、各任地が変るたびに、新しい言葉の学習もふくめて、
学び続けなければならない職業である。

しかしそれでは一斎の言う「壮ニシテ学ベバ」には不十分である
ことが、O氏の発言からわかる。


~途中カット~

 

そういう日常の仕事以外の仕事を自らに課し続けるということが、
本当の意味で「壮ニシテ学ベバ、則チ老イテ衰ヘズ」なのであろう。

新聞記者や雑誌記者などでも同じで、通常の仕事の他に自分の
興味のある分野をある程度、究めていった人が、退職後も活躍
している。

老齢になっても続けうる分野の勉強のもとは「壮」のうちにできる
のである。

 

お酒より「内発的興味」を楽しむ


どんな分野においても、こういう人は数多くいるのである。

彼らは皆、常日頃、何らかの形で、仕事以外の勉強を日々積み重ね
ている。

これが、定年後にあふれ出てくる。

「壮にして学ぶ」とは、こういうことなのだと私は思う。


もちろん、仕事上の専門分野について、自分の得意とする部分を深く
追究していくのもいいだろうし、全く別のことでもかまわない。

自分が興味を持ったものを、毎日毎日、少しずつでもいいから
勉強していく。

この小さな蓄積が、定年と同時に花開くことにつながるのだろう。

 

もちろん、好きなことをやるとはいえ、仕事をなおざりにする
などというのは論外だ。

実際、本末が転倒しているような人は、仕事そのものがうまく
行きにしない。

私は、こうした仕事以外の興味は、どんなことでも必ず人には
生まれてくると思う。

興味がわかないとしたら、自分の中でまだ気付いていないだけ
のことだ。

仕事で出会ったテーマでもよいし、仕事以外のことでも構わない。

自分が一番興味がわくことを見つけることが重要である。

私はこれを「内見的興味」と称した。

本書を読む方は、少しでも早く自己の「内発的興味」を発見し、
毎日毎日、少しずつでもいいから勉強していくとよい。

この小さな積み重ねが、将来、花開くのである。

少しでも早く自分の内なる知的欲求を見つけることが犬切である。

 

そして、私の経験則から言えば、仕事の後に晩酌でお酒を楽しむ
などよりも、自分の時間を「内見的興味」に応える勉強や訓練
に当てる方がずっといい。

そうすれば、今日は一杯などというささやかな享楽よりも、もっと
充実感のある、知的な刺激に富む余生を迎える素地ができてくるで
あろう。

早くその準備を始めることが必要である。

学者の間で囁かれている話では、晩酌が一番の楽しみとか、酒宴が
この世の楽しみになっている人は、きちんとした本を残せないとい
うのである。


以前に私は荒垣秀雄氏と毎年二度ほど食事を共にする機会を持った
ことがある。

この人は朝日新聞の「大声人語」の名コラムニストだった。

その荒垣氏がふとこう洩らされた。

「晩酌の習慣のある記者で本を書いた者はいないね」と。

ただし私は、晩酌をして幸福感を持って布団に入る生き方も、ひとつの
人生の美学であり、立派なことだと思う。

私の縁戚にも知人にもそういう人がいて、幸福そうな晩年であった。

私かここで言っているのは、もうひとつ別の幸福感、充実感を求めたい
人のためのヒントなのである。


また、仕事とは一見関係ないテーマでも仕事での経験が役立つことも
大いにありうるのである。

~カット~

現役時代の仕事と「内見的興味」とはつながることが少なくない
のである。

毎夜晩酌する時間を自分の「内発的興味」に費やせば、もっと
別の知的な、別の楽しい時間が広がっていくはずである。


余生に知的な沃野が広がる可能性があるのである。

 


「壮」の過ごし方をまちがえるな

 

私は上智大学で文学部の教師を長い間務めてきた。

私たちの職業は、定年後もいわゆる知的生活を続けていき
やすい職業である。

にもかかわらず、定年退職した途端に、木から猿が落ちたみたいに、
俯抜け状態になってしまう人が多い。

「ああ、終わったか」と、何もかも辞めてしまうのだ。

こういう学者は結構多い。

毎日怠らずに大学の授業をこなし、教室ではさも高等な講義を
しているように学生たちには思われていても、その実態は、
十年一日のごとく、作成したノートに従って講談をしているだけ、
という人が意外と多い。

学生を相手に講義をするとなると、その準備や何やかやで忙しい。

研究室には学生が質問に訪れたりする。

これにもいちいち答えなければならない。

年に何回かは学会などもある。

これが私たちの仕事なのだが、これをこなしていると、毎日ちゃんと
勉強している気になってしまう。

これが危ない。

こうしていつの問にか定年が来て、大学を去ってしまうとヽ何も
やることがなくて当惑してしまう。

講義や学校の仕事ばかりこなしてきたため、肝心要の、自分自身の
研究がおろそかになってしまった。

定年退職してそれに気がついても時すでに遅しというわけだ。

もっとひどいと思うのは、最終講義すらできない大学の教師が
いるということだ。

最終講義というのは、退職にあたり、自分の研究の話を、学生
だけではなく、卒業生や同僚や後輩教授たちを前に披露する
講義のことである。

自分はこれまでこういう考えで研究を続けてきたという報告でも
いいし、こういう先生についてこういう研究をやってきたという
思い出話でもいい。

あるいは、現状や未来への展望でもかまわない。

それにもかかわらず、これらのことが一つもできない文科系の
研究者がいる。

これは恐ろしいことだと思う。

彼らは、学生相手にしか講義をしてこなかったため、同じ研究者を
前にしては、怖くて話せない。

自分の業績のなさ、不勉強が、一目でわかってしまうからだ。

学生相手の講義ならいくらでもごまかせても、同僚研究者の
前ではごまかしがきかない。

ある有名な東大教授もそうだった。

~カット~

名前だけは有名だったが、その内実は何も研究してこなかったのだ。

講義をしたり、試験の採点をするのが自分の仕事で、それを十二分に
こなすのが勉強だと思っていたのだと思う。

 

楽しむ者にしかず


この「内発的興味」については、孔子の『論語』にこんな言葉がある。

「これを知る者はこれを好む者にしかず、これを奸む者はこれを楽しむ
者にしかず」
       
~カット~

                                    
ともあれ、この言葉は、真面目にやっていれば「知る」ことができる。

しかし「知ったこと」というものは実によく忘れるものである。

だが「好き」でやったことは身につくから忘れることも少ない。


そして孔子は、更に良いのは「楽しむ」ことだと言うのである。

孔子の場合は「知る」も「好む」も「楽しむ」も道徳である。

何か良いことかを知るだけよりは、良いことが好きだという方
がすぐれている。

それより更に良いのは良いことをしていること、つまり徳を
実践していることが楽しいことだと言っているのだ。

これは道徳だけの話でなく、学問一般でも、芸術の世界でも、
仕事の世界でも同じことであろう。

「楽しむ」境地にまで至ったかどうかは、定年後にわかると
思う。


知的生活を送れないインテリ

~カット~

残念ながら、多くの人がそうではない。

好きで英文学の教授になったからといって、英文学を
楽しむ境地にまでは達していない。

教授の地位を楽しむ者は大勢いるかもしれない。

学ぶことを楽しむ人は実は案外少ないのではないかという
印象を受ける。

楽しむ境地の人は、定年退職しようが転職しようが、ずっと
楽しみ続けている。

だから、何も問題はない。

しかし、大多数の、好きでやっているだけの人は、定年になった
途端に、何もやる気が起きなくなってしまいやすいのだ。

 

壮の時代ではなくとも、誰しも若い頃からあれをやりたい、
これをやりたいと思っていたことの一つぐらいはあると思う。

仕事で忙しく、仕方なくその欲求を抑えてきた人もいるだろう。

定年退職をチャンスだと考え、その抑えてきたものを復活させて
やればいい。

やりたいことを、思う存分やればいい。

楽しくて仕方がないことならば、犯罪行為でなければ何でも
かまわない。

楽しければ、知的な興味もどんどん湧いてくる。

それこそが「知的余生」なのである。

以上。


かなり、教わることが多くて、長い抜粋になってしまった。


「これを知る者はこれを好む者にしかず、これを奸む者はこれを
楽しむ者にしかず」

渡部氏がとりあげたこの言葉は、わたしは、わたしが30代前半
だと思ったが、中学時代の恩師の家を訪問した時に、恩師が
話されたのを今でも覚えている。

この言葉を、時折、思い出すことがあったが、今回のこの本の
中で、出会うことになった。

懐かしく思われる。

渡部氏は、「これは道徳だけの話でなく、学問一般でも、芸術の
世界でも、仕事の世界でも同じことであろう。」と言っているが、
勿論わたしもそうだと思っていた。

そして、そうありたいと思った。

であるが、残念ながら、今まで自分がやってきたことのなかで、
果たして「楽しむ」境地まで、達したものがあったか大変疑問
に思っている。

恐らく、わたしが仕事の面で、ぱっとしなかったのは、いつに
なっても、努力の言葉しか出てこず、勉める段階を超えること
ができなかったからだと思っている。

「楽しむ」境地まで、達することができなかったのは、すごく
残念なことだと思っている。

もっとも、わたしの人生で、楽しいと思った記憶があんまり
ないので、根本的に何かが間違っているのではと思っている
が、今まで、残念ながら、何とかしようと思っても、どう
しようもなくて、この歳まで、来てしまっている。

仕事以前の問題である。

わたしのどこで、どのようにして、間違ってしまったの
だろうと思ったりしているが、とりあえず年金を獲得
することができたので、良しとすべしではと思ったり
するが、やりは、何かとやりきれない思いをする。

ところで、渡部氏は、「ここで大切なのは、『壮ニシテ
学ベバ、則チ老イテ衰ヘズ』なのである。」と語り、
縷々論を展開しているが、このことについて、これだけ
の考察を展開されていて、いい本に出会えたと思った。


「老後 は皮相的な人生観に対する恐るべき判決である」
とヒルティは言ったが、ある意味で同じことを語って
いるのではと思ったりしている。

また、ドラッカーは

 学ぶ事ができず、習得することができず、しかも
持っていなければならない資質がある。

 他から得ることができず、自ら身につけていなけれ
ばならない資質、それが真摯だ。

とも言っている。

皮相的でないように、真摯であるようにと努めてきた
人生ではあったと思うが、どこにも、楽しめるものが
なかったのは、残念だが、これで、老後が若干
救われるものになれたらと祈るしかない。


一流たちの修業時代

2010-08-22 23:36:05 | 若い時に読みたかった本

一流たちの修業時代(野地秩嘉著 光文社新書)を
読んでみた。

その本の最後に、あとがきの代わりにということで、
「修業時代とは何か」ということで、まとめがあった。

その文章が印象に残ったので、抜粋で、紹介してみたいと
思った。


以下、抜粋。


ここに登場した人たちに共通するのは、自制と余裕を
兼ね備えていることである。

すなわち自制とは、自ら律しつつ見つめる作業であり、
余裕とは、仕事をしながら楽しんでいる自分を発見する
ことだ。



修業時代とは、自分自身を徹底的に見つめる時代の
ことであり、修業時代の終わりとは、仕事を楽しんで
いる自分を発見することだ。

修業とは技術を磨くということではなく、磨こうと悪戦
苦闘している自分自身を他人の目で客観的に評価すると
いうことだ。

自分を見つめる作業を欠いた悪戦苦闘は、修業と呼べない
のである。

したがって、修業時代がひと山超えた時とは、仕事のなかに
いる自分を楽しむことができた瞬間である。

私が考える修業時代とは、自分を見つめることであり、

それが終わった瞬間とは、仕事の最中に、ふと微笑む
自分を発見した時である。


以上、抜粋。



わたしは、おそらくこのような本を若い時に、読むべき
だったと反省した。

わたしたちが、子どもの頃、この修業時代という言葉に
どういうわけか、封建的な雰囲気を重ねたのは、理由が
どうであれ、不幸なことであった。

自由・平等、民主主義という言葉は、さして、能力が
あるわけでもない私を、持ち上げたことになったの
ではなかろうか。

もしかして、われわれの多くは、「ほめ殺し」された
のかも知れない。

これは、今になって考えてみると、不幸なことであった
ように思う。


イチロウも石川 遼も、そして、今回の興南高校の野球部
の生徒の文集にもあったように、何かをなし遂げた人は、
小学校の時にすでに、大きな目標に向かって走っている。

我々は、今になってみれば、受験勉強至上主義という
忌まわしき偏った価値観に洗脳されてしまった。

いわゆる頭さえよければという奇形児になってしまった。

われわれは、農業という仕事から、サラリーマンに憧れた。

しかし、われわれは、賃金奴隷ともいわれる労働者に
飼育されたのだ。自ら。

退職して、自由になったはずだ。しかし、その自由に戸惑
うばかりで、身の振り方が分からない。

われわれの多くは、夢を語るということを知らなかった。

そして、夢に向かうことも知らなかったように思う。

ただ、誰かの言いなりになることが、上手にできるかと
いう愚かな競争をやってきたようだ。



子どもが育つ魔法の言葉

2010-08-03 11:26:57 | 若い時に読みたかった本
ドロシー・ロー ノルト/レイチャル・ハリス著
の「子どもが育つ魔法の言葉」の話だそうである。

これは、受け売りである。

以下、その文章である。


「子は親の鏡」

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる

とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる

不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、
みじめな気持ちになる

子どもを馬鹿にすると、引っ込みじあんな子になる

親が他人をうらやんでばかりいると、子どもも人を
うらやむようになる

叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」
と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信を持つようになる

広い心で接すれば、キレる子どもにはならない

誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ

認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる

見つめてあげれば、子どもは、がんばりやになる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ

親が正直であれば、子どもは正直であることの大切さを知る

子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ

守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ。

和気あいあいとした家庭で育てば、
子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる


以上。



このような、育てられ方をしたかったものだと思って
感心した。

しかし、現実は無い物ねだりである。

親は、毎日食うのに精一杯だったからである。

貧しいのに、貧しいと思わせなかったことは、
感謝している。


最近、若い夫婦や母親が児童虐待や子殺しで
ニュースになることが多く、胸を痛めている。

できれば、このような詩を高校の3年生の
家庭科の時間あたりに、教えることができたら
と思ったりする。

また、成人式の場で、紹介するのは、どうだろう。

結婚式の機会に紹介するのは?

もしかして、母子手帳あたりに、載せておくのは、
どうだろうか?なんて、いろいろと思ったりする。

結婚は、両性の自由意志だと言っているが、現実に
自分に夫婦としての資質があるかどうかは、検討
しない、親になる資質についても考えることはなく
結婚し、子供作ったりしてしまう。

だから、どのように子育てをするのか、肝心なこと
が欠けたままになって、多くの不幸になっていると
思う。

わたしたちの戦後の社会は、このようなものを忘れて
いたのでなかろうか。

自由をつくる自在に生きる

2010-07-29 23:35:34 | 若い時に読みたかった本
森博嗣氏の「自由をつくる自在に生きる」集英社新書を
読んでみた。


自由についての、あまりにも自由な考え方に、目眩がして
しまうし、ため息も出てしまう。

帯びには、「思いどおりの人生の作り方とは?」

歳をとっても遅くはない、
若くても早すぎない、
混迷の時代を生き抜くために。


とある。できれば、若い時代に読みたかった。

(30代前半には、「荘子」に凝ったので、
この時だったら、読めたかもしれない。)


ただ、われわれの時代は、理論武装という言葉が
はやった時代なので、このような本の需要があった
かというと、厳しい。

もしかして、消化不良をして、悪魔の囁きに聞こえた
のかもしれない。

著者の大学教授という身分がこのような発想を
可能にしたかもしれない。

10代でこの本を消化して読むのは、厳しいかな。

型にはまる時代も必要だから、難しいかな~?

でも、40代の半ばだったら、このような発想を
十分、消化できるかもしれない。

いろいろと迷ってしまう本だと思った。


本当のことを知る力が無い者まで、本当のことを
知る必要があるのだろうか、という疑問を個人的
には持っているからでもあるが。

貧乏は完治する病気

2010-07-05 23:38:53 | 若い時に読みたかった本
金持ちになるための劇的な思考法

貧乏は完治する病気

天野雅博著

あさ出版


この本を、昨日購入して、丁度読み終わったところである。

数日前に、この本をTSUTAYAで見つけた。

で、昨日この本を購入しようと、TSUTAYAに出かけた。

一冊しかなく、目立たないようにと本を棚に返したつもりが
買おうと思ったら、見当たらない。

(PHSで写真をとってなかったことを、すごく後悔した。)

店員に問い合わせたりして、往生際の悪い振る舞いをしたが、
結局、諦め、ちょっと離れた宮脇書店まで、出かけた。

いろいろと探しているうちに、突然と目の前に現れた。

ちょっと、中身をめくって見ると、間違いない。

そして、気づいた。

著者名を間違っていたのだ。

苫米地英人氏絶賛!の帯びを、てっきり著者と勘違い
したのだ。

誰かが言うに、本の中の2割しか、必要なところはない。

と、言っていたが、わたしにとっては、最初から最後まで、
教わることだらけだった。

わたしは、子どもの頃に、金について、疎ましく思うように
育ってしまった。

学生時代は、マルクス主義にはまったので、やはり、どこかで、
金については、疎ましく思い続けいた。


しかし、歳をとって、自力で金をもうけることの大変さに
遅まきながら、気づくことになった。

そのための大変な才能と努力が必要なことについて、羨望の
思いをするようになった。

ということで、以来、結構金儲けに関する本を、恥ずかしながら
乱読してきた。

そういう中で、この本、大変面白く読み終えた。

わたしが、世間知らずのせいもあると思うが、大変勉強になった。


著者の履歴を読んで、そうとう考えさせられた。

中学3年の社会科の副読本に、推薦したいくらいだ。

きっと、世の中に出た時に、役に立つだろう。