川北義則氏の「みっともない老い方」にあった
話しである。
「第二の人生は延長線ではない」
の中から、抜粋してみた。
リタイアすれば「ただの人」。それがわかって
いない輩がけっこういる。
そのまま気づかなければ、こういう人の第二の人生は、
つらくなるだけだろう。
お金持ちの有名人とレストランにまつわる実話を、一つ
紹介しよう。
ロックフェラー一世がいつものレストランヘ行くと、
「混んでいるから」と断られた。
ロックフェラーにすれば、「おれを誰だと思っているんだ」と
いう心境だったのだろう。激怒した彼は即座に会社に連絡し、
あっという間にその店を買い取ってしまい、悠然と食事をし
たという。
「おれを誰だと……」という場面でいばりたい人は、この
くらいのことができなければいけない。
第二の人生は、第一の人生の延長戦にはあらず。
まったく新しい人生なのだ、と肝に銘じよう。そうでないと
人格を疑われるか、大恥をかいてバカにされるのがオチだ。
第二の人生は、肩書も何もない、「素」のままの人間なので
ある。
会社勤めの現役時代は、①社会的地位、②肩書、③人間関係
-この三つがあった。
それがリタイアと同時にあっさりなくなってしまうのだから、
この格差は大きい。
現役のときに想像していたよりも、現実はよりショッキングな
出来事なのだ。この自覚がないと、第二の人生は生きていけ
ない。
以上。抜粋である。
文章の中に、次の文章がある。
会社勤めの現役時代は、①社会的地位、②肩書、③人間関係
-この三つがあった。
それがリタイアと同時にあっさりなくなってしまうのだから、
この格差は大きい。(大事なの抜けている。給料である。)
退職生活について、書かれた本が多くなった。その本の中では、
このような記述が何度も出てきた。
しかし、定年前に、このようなことを教示してくれる人は、いない。
何しろ、現役の生活に、かつての退職先輩の生活が交差することは
ない。
たとえ、偶然に出会うことがあっても、このような話しの内容
まで、深く話し込むことはない。
何しろ、そのようなことをあらためて意識する退職者は、そう
多くはないし、意識してもあえて語る人は、これまた稀で
あろう。
いろいろと退職生活の説明会があっても、当の説明者が現役バリ
バリであって、退職者でないのであるからして、退職後の心構え
なんて、指導できるわけがない。
ここんところは、皮肉だ。
もっとも、現役時代は、退職して無くなってしまう「①社会的
地位、②肩書、③人間関係」をいかに確保するかということが
日々の大きな課題である。
それが、就職するということであり、生活することであり、
家庭を営む根源でもある。
であるからして、そのよう日々にあって、退職したら無意味
になるなんて知識を得ても、現実の生活の足かせになるだけ
である。
結局、①社会的地位、②肩書、③人間関係に振り回される
生活になる。
そして、自ずと、アイデンティティーの確立もこれらの
ことが、前提となっている。
それだけに、
リタイアすれば「ただの人」。それがわかって
いない輩がけっこういる。
ということだが、別の言葉で言い換えれば、「何者でもない」
という現実を強いられるということであり、アイデンティテ
ィーの崩壊でもある。
ある意味で、人生前半、アイデンティティーの確立が、至上
命題であったはずだが、それとは、真逆の現実が到来すると
いうことでは、そんな馬鹿なであり、いわゆる想定外の現実に
直面することになる。
森村誠一氏は、語った。
定年後、第二の人生のスタートラインに立って、「これから
自由にしなさい」といわれたとき、そこには、「何をしても
いい自由」と、「何もしなくてもいい自由」がある。
「何をしてもいい自由」とは、自分の夢を実現したり、新しい
ことに挑戦することである。
会社、組織での人生のしがらみを捨てて、未知の分野に進む
覚悟である。
以上。
「何をしてもいい自由」とは、自分の夢を実現したり、新しい
ことに挑戦することである。
これが、容易ではない。
ところで、森村誠一氏
老後が存在し、余生を過ごすためには条件がある。
それは、社会構造の中に組み込まれて人生をおくって
きたか、そうでないかだろう。
自分からその日暮らしの職業を選んだ人や、あるいは
自分の意志で定職につかなかった人、自由と引き換えに
社会構造の中に組み込まれることを拒んだ人などの場合は、
余生はない。
こういう人たちは、年金を払わず、健康保険も未加入、
貯蓄もない人が多いので、病気になっても簡単に医者に
診てもらえない。
終の棲家もないわけである。住所不定の場合もる。
この人たちは、余生の心配をすりも 日々の糧を得る
ことを考えざるを得ない。
別の意昧での、覚悟ある生涯現役かもしれない。
大多数の人は学校を出て、就職をして、人生のスタート
ラインに立つ。
組織の中で仕事と責任を分担し、使命感を持って働いた人、
十代のうちから手に職をつけるために厳しい修行をして
きた人、親の家業を継いだ自営業の人、各方面のプロ
フェッショナル、スペシャリスト。
何十年も働き、その途上で結婚をしたり、赤ん坊が生まれ
たり、家を買ったり、子供が自立したり、そして再び夫婦
ふたりで暮らしていく頃には、多少の蓄えもできる。
そこで、やっと会社での現役の定年を迎える。
そんな人たちが、第二の人生を新たな覚悟を持って生きて
いく。
それを余生というのであろう。
と語ったが、
このことを踏まえると、
リタイアすれば「ただの人」。それは、大きな贅沢
でもあることに、気づかされる。
ある意味で、貴族的生活の到来なのも知れない。
「何をしてもいい自由」とは、自分の夢を実現したり、新しい
ことに挑戦することである。
会社、組織での人生のしがらみを捨てて、未知の分野に進む
覚悟である。
というが、いつも社会的評価を前提とした生活をしてきたので、
他者の評価を想定しない生き方なんて、意味があるかなんて
考えてしまうから、やっかいだ。
純粋に自分自身の評価だけで、行動する勇気も自信も培った
経験なんてないから、お先真っ暗の気分になってしまう。
それにしても、なんとかしなくては。
である。
浮浪雲のようになれたら、いいのだが、残念ながら、あそこ
まで、達観はできない。