プレイ・ジョブ
ポール・アーデン
サンクチュリア出版
に次のような、刺激的な文章があった。
想像せよ。
誰もが刺激的な人生を送りたいと思っている。
でも、雄牛のツノを素手でつかむのは怖い。
安全に、手軽に、ただ刺激だけが欲しい。そうすると
人はつい安易な行動に出てしまう。
誰かの人生を借りて、彼らの興奮を擬似的に味わう
わけである。
多くは有名な反逆者に、自分の人生を投影してみる。
彼らのような才能が、自分にも少しあるような気に
なって。
自分がたとえばジョン・レノンやアーネスト・ヘミング
ウェイ、レイニー・ブルース、シャニス・ショップリン、
アンディ・ウォーホルにでもなったかのように。
しかし彼らとは決定的に違う。
彼らは真剣に選択すべき場面で、いつも信じられない方
ばかりを選んできた。
そうすることで自分が一体この先どうなってしまうのか、
まったく考えようとしなかったのだ。
それでも彼らは気づいていた。
堅実な方を選ぶことだけは、とにかく危険だということを。
以上。
福本伸行人生を逆転する名言集
竹書房
やはり、次のような強烈な文章があった。
感動などないっ?
あんなものに┄┄
オレが求めているのは┄┄
オレの鼓動 オレの歓喜 オレの咆哮
オレのオレによる
オレだけの┄┄感動だったはずだ!
他人の感動に満足するな!
状況
日本中が湧いた2002 FIFAワールドカップ。
建設会社で働く黒沢は、同僚たちとテレビ観戦し
ながらビールを飲み、声を張り上げ、熱狂的な歓声
を上げて大騒ぎをしていた。
日本代表選手の活躍に一喜一憂し、涙まで流しながら
熱い声援を送っていた黒沢だったが、その一方で胸の
奥がどんどん冷えていくのを感じていた。
「他人事じやないか。他人の祭りだ?」。
そして、日本がトルコに0対1で敗れて日本のワールド
カップ敗退が決定した日、黒沢は唐突にわかってしまう。
「あんなものに……感動などないのだ??!」と。
スポーツ、映画、テレビ、マンガ、小説etc.……あらゆる
ものが。
〝感動〟を売りにする昨今。世間にはいたるところに
感動があふれている。
応援しているチームの逆転勝利に泣き、映画のヒロイン
の不治の病に泣き、バラエティ番組の離れ離れになっていた
親子の再会に泣き、恋愛小説の恋人たちの不遇の愛に泣く。
もちろん、こうした感動は人生の潤いにはなるだろうし、
中には真に心を揺り動かされて人生に影響を与えることも
あるだろう。
しかし、「夢と感動をありがとう!」なんて言ってるだけ
のうちは、ただの傍観者でしかない。
他人の感動はしょせん自分の感動ではないのだ。
自分は汗の一滴もかかず、傍観しているだけで手に入れた
ものが、本物の感動のはずがない。
本物の感動は自分自身行動の中にしかないからだ。
世間にはびこる安易な感動で気持ち良くなって満足しない
ように心がけたいものだが、自分自身の行動で感動を手に
入れるためには、それ相応の苫労を伴うのも事実。
以上。
この二つの文章の言わんとすることは、基本的に同じだ。
わたしは、退職して、ツタヤのビデオをよく観るように
なった。
実は、観ていて、不愉快な思いもしながら、なんとなく
気晴らしがしたくて、観ている。
福本伸行は、こう言っている。
スポーツ、映画、テレビ、マンガ、小説etc.……あらゆる
ものが。
〝感動〟を売りにする昨今。世間にはいたるところに感動が
あふれている。
応援しているチームの逆転勝利に泣き、映画のヒロインの
不治の病に泣き、バラエティ番組の離れ離れになっていた親子
の再会に泣き、恋愛小説の恋人たちの不遇の愛に泣く。
もちろん、こうした感動は人生の潤いにはなるだろうし、中に
は真に心を揺り動かされて人生に影響を与えることもあるだ
ろう。
しかし、「夢と感動をありがとう!」なんて言ってるだけの
うちは、ただの傍観者でしかない。
他人の感動はしょせん自分の感動ではないのだ。
以上。
複雑な気分である。ビデオなんて観ていて、不愉快な
気分になるから、なおさら、情けない。
ポール・アーデンは、こう言っている。
誰かの人生を借りて、彼らの興奮を擬似的に味わう
わけである。
多くは有名な反逆者に、自分の人生を投影してみる。
彼らのような才能が、自分にも少しあるような気に
なって。
自分がたとえばジョン・レノンやアーネスト・ヘミング
ウェイ、レイニー・ブルース、シャニス・ショップリン、
アンディ・ウォーホルにでもなったかのように。
以上。
昔、マルクスに夢中になった、今となっては、複雑な
気分だ。最近、サッカーに興味を持ちだした。いよいよ
複雑な気分だ。
森村誠一氏は、こう語った。
定年後、第二の人生のスタートラインに立って、「これから
自由にしなさい」といわれたとき、そこには、「何をしても
いい自由」と、「何もしなくてもいい自由」がある。
以上。
このようなこともあって、「何をしてもいい自由」を希求は
するものの。
現実は、厳しい。「何をしてもいい自由」の「何を」が、
そう見当たるものではないのに、衝撃を覚えるのだ。
そして、忌まわしい「何もしなくてもいい自由」の誘惑
に怯える。
わたしたちの生活は、「商品」に埋めつくされた生活を
している。
常に、誰かの意図が託された商品を選ぶしかない生活を
なかにある。
オレのオレによる
オレだけの┄┄感動だったはずだ!
これって、どうしたら見つかるのだ。
ところで、
斉藤一人氏は、こう語っている。
○1000人に1人、1万人に1人
あのね、〝すごいいい女〟って、1000人に1人ぐらい、
いるんですよ。
学校のなかには、〝すごいいい男〟も1000人に1人ぐらい
いて、すごい足の速い子も、
すごい歌のうまい子も、1000人に1人ぐらい、いるんです
けれど。
それと同じように、1000人に1人ぐらい、英語の文法を覚え
るのが得意な生徒がいるのです。英文法達人がいます。
それで、〝すごいいい女〟は1000人に1人なんだけれど、
〝うんとすごい、いい女〟になってくると1万人に1人ぐらい
になる。
それと同じように、英文法の達人は1000人に1人だけど、
天才級になってくると1万人に1人です。
以上。
私自身のなかに、1000人に1人の才能があるのだろうか。
それは、厳しい話だ。
オレのオレによる
オレだけの┄┄感動って、見つかるのだろうか?