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リタイアーのよもやま話

1割バッター

2012-11-01 06:48:38 | 人生

数日前の話しである。ミスドーで、一服して新聞を
読んでいたら、興味深い文章があった。

以下、その抜粋である。

出した商品は失敗も多い。

でも、9個失敗しても、10個目でヒットすれば、
全部取り返せておつりがきます。

それくらいの感覚でやらないと宝の山は探せません。


1割りの「欲しい人」に勝機

90%の反対者がいても、10%の熱烈な支持者が
いれば、その商品には大きなチャンスがあります。

キングジム社長  宮本  彰


以上。

デジタルメモ「ポメラ」のメーカーの社長である。

この製品には、興味をもっていたが、最近、親指
シフトの機種が出ているというニュースがあって、
喜んでいた。

もっとも、昨日、調べてみたら、このキーボード
は、十分に完成しているとは言い難いようだ。

このシステムが熟成されるまで、購入はまたれる
だろう。

ただ、実際問題どれほど使うのだろう。そこが、
問題だ。

昔、オアシスポケットというのがあって、いつも
携帯していたが。

今は、ソフトのオアシスは使っていない。キーボード
の方は、親指シフトを使い続けている。

職場にいた時、情報の共有問題で、マックからウィン
ドウズに移り、ワープロソフトもワードに変更した。

今では、使い続けているのは、キーボードだけに
なってしまった。

ところで、今朝、この記事に目を通していて、山中
教授の言葉を思いだした。

「1回の成功のうらには9回の失敗がある」 である。

ところで、わたしたちは、学校教育で、100点主義
だ。

「1割バッターでも大成功」という教育は受けない。

勿論、野球の「3割パッターは、名選手」というような
例え話しをする著者もいたが、このような発想も指導
されない。

学校生活の価値体系と、現実社会で、生き抜く力が
相関しない矛盾に、誰もが悩んでいるうちに、人生
が終わってしまう。

やっかいなことだ。


誰もが刺激的な人生を送りたいと思っている

2012-10-09 21:15:49 | 人生


プレイ・ジョブ   

ポール・アーデン

サンクチュリア出版


に次のような、刺激的な文章があった。

 

想像せよ。

誰もが刺激的な人生を送りたいと思っている。

でも、雄牛のツノを素手でつかむのは怖い。
安全に、手軽に、ただ刺激だけが欲しい。そうすると
人はつい安易な行動に出てしまう。

誰かの人生を借りて、彼らの興奮を擬似的に味わう
わけである。

多くは有名な反逆者に、自分の人生を投影してみる。

彼らのような才能が、自分にも少しあるような気に
なって。

自分がたとえばジョン・レノンやアーネスト・ヘミング
ウェイ、レイニー・ブルース、シャニス・ショップリン、
アンディ・ウォーホルにでもなったかのように。

しかし彼らとは決定的に違う。

彼らは真剣に選択すべき場面で、いつも信じられない方
ばかりを選んできた。

そうすることで自分が一体この先どうなってしまうのか、
まったく考えようとしなかったのだ。

それでも彼らは気づいていた。

堅実な方を選ぶことだけは、とにかく危険だということを。


以上。

 

福本伸行人生を逆転する名言集

竹書房


やはり、次のような強烈な文章があった。

 

感動などないっ?

あんなものに┄┄

オレが求めているのは┄┄

オレの鼓動  オレの歓喜  オレの咆哮

オレのオレによる

オレだけの┄┄感動だったはずだ!

 

他人の感動に満足するな!

状況

日本中が湧いた2002 FIFAワールドカップ。
建設会社で働く黒沢は、同僚たちとテレビ観戦し
ながらビールを飲み、声を張り上げ、熱狂的な歓声
を上げて大騒ぎをしていた。

日本代表選手の活躍に一喜一憂し、涙まで流しながら
熱い声援を送っていた黒沢だったが、その一方で胸の
奥がどんどん冷えていくのを感じていた。

「他人事じやないか。他人の祭りだ?」。

そして、日本がトルコに0対1で敗れて日本のワールド
カップ敗退が決定した日、黒沢は唐突にわかってしまう。

「あんなものに……感動などないのだ??!」と。

スポーツ、映画、テレビ、マンガ、小説etc.……あらゆる
ものが。

〝感動〟を売りにする昨今。世間にはいたるところに
感動があふれている。

  応援しているチームの逆転勝利に泣き、映画のヒロイン
の不治の病に泣き、バラエティ番組の離れ離れになっていた
親子の再会に泣き、恋愛小説の恋人たちの不遇の愛に泣く。

もちろん、こうした感動は人生の潤いにはなるだろうし、
中には真に心を揺り動かされて人生に影響を与えることも
あるだろう。

しかし、「夢と感動をありがとう!」なんて言ってるだけ
のうちは、ただの傍観者でしかない。

他人の感動はしょせん自分の感動ではないのだ。

自分は汗の一滴もかかず、傍観しているだけで手に入れた
ものが、本物の感動のはずがない。

本物の感動は自分自身行動の中にしかないからだ。


世間にはびこる安易な感動で気持ち良くなって満足しない
ように心がけたいものだが、自分自身の行動で感動を手に
入れるためには、それ相応の苫労を伴うのも事実。


以上。


この二つの文章の言わんとすることは、基本的に同じだ。

わたしは、退職して、ツタヤのビデオをよく観るように
なった。

実は、観ていて、不愉快な思いもしながら、なんとなく
気晴らしがしたくて、観ている。


福本伸行は、こう言っている。


スポーツ、映画、テレビ、マンガ、小説etc.……あらゆる
ものが。

〝感動〟を売りにする昨今。世間にはいたるところに感動が
あふれている。

  応援しているチームの逆転勝利に泣き、映画のヒロインの
不治の病に泣き、バラエティ番組の離れ離れになっていた親子
の再会に泣き、恋愛小説の恋人たちの不遇の愛に泣く。

もちろん、こうした感動は人生の潤いにはなるだろうし、中に
は真に心を揺り動かされて人生に影響を与えることもあるだ
ろう。

しかし、「夢と感動をありがとう!」なんて言ってるだけの
うちは、ただの傍観者でしかない。

他人の感動はしょせん自分の感動ではないのだ。

以上。

複雑な気分である。ビデオなんて観ていて、不愉快な
気分になるから、なおさら、情けない。


ポール・アーデンは、こう言っている。


誰かの人生を借りて、彼らの興奮を擬似的に味わう
わけである。

多くは有名な反逆者に、自分の人生を投影してみる。

彼らのような才能が、自分にも少しあるような気に
なって。

自分がたとえばジョン・レノンやアーネスト・ヘミング
ウェイ、レイニー・ブルース、シャニス・ショップリン、
アンディ・ウォーホルにでもなったかのように。

以上。

昔、マルクスに夢中になった、今となっては、複雑な
気分だ。最近、サッカーに興味を持ちだした。いよいよ
複雑な気分だ。


森村誠一氏は、こう語った。

定年後、第二の人生のスタートラインに立って、「これから
自由にしなさい」といわれたとき、そこには、「何をしても
いい自由」と、「何もしなくてもいい自由」がある。

以上。

このようなこともあって、「何をしてもいい自由」を希求は
するものの。

現実は、厳しい。「何をしてもいい自由」の「何を」が、
そう見当たるものではないのに、衝撃を覚えるのだ。

そして、忌まわしい「何もしなくてもいい自由」の誘惑
に怯える。

わたしたちの生活は、「商品」に埋めつくされた生活を
している。

常に、誰かの意図が託された商品を選ぶしかない生活を
なかにある。


オレのオレによる

オレだけの┄┄感動だったはずだ!

これって、どうしたら見つかるのだ。


ところで、

斉藤一人氏は、こう語っている。

○1000人に1人、1万人に1人
あのね、〝すごいいい女〟って、1000人に1人ぐらい、
いるんですよ。

学校のなかには、〝すごいいい男〟も1000人に1人ぐらい
いて、すごい足の速い子も、

すごい歌のうまい子も、1000人に1人ぐらい、いるんです
けれど。

それと同じように、1000人に1人ぐらい、英語の文法を覚え
るのが得意な生徒がいるのです。英文法達人がいます。

それで、〝すごいいい女〟は1000人に1人なんだけれど、
〝うんとすごい、いい女〟になってくると1万人に1人ぐらい
になる。

それと同じように、英文法の達人は1000人に1人だけど、
天才級になってくると1万人に1人です。

以上。

私自身のなかに、1000人に1人の才能があるのだろうか。
それは、厳しい話だ。


オレのオレによる

オレだけの┄┄感動って、見つかるのだろうか?

 


がんばった人ではなく、楽しんだ人が幸せになれる。

2012-09-04 22:03:46 | 人生

ある本にあった話しである。


   がんばった人ではなく、楽しんだ人が
   幸せになれる。


  「人生は努力が大切」と言われ続け疲れて
しまった君の言葉を押す言葉


 がんばることが大切だと教わった。

 自分で「がんばっている」と思っているがんばり
は、偽物のがんばりなのだ。

 自分で自分のことを「がんばっている」と思って
いる人たちは傲慢な人が多い。

 「こんなに自分は嫌いなことを我慢してがんばって
いるのだから、あなたも我慢しなさい」と開違った方向
へ走ってしまう。

 自分は心底幸せに楽しんでいるだけなのに、周囲から
見たらまるで「がんばっている」ように見えるのが正し
いがんばり方なのだ。

  がんばるから続くのではなく、楽しいから続くだけ。


以上。


がんばった人ではなく、楽しんだ人が幸せになれる。

自分は心底幸せに楽しんでいるだけなのに、周囲から
見たらまるで「がんばっている」ように見えるのが正し
いがんばり方なのだ。

  がんばるから続くのではなく、楽しいから続くだけ。

ということだが、わたしの貧しい人生では、残念ながら
そのような事例には、出会ったことがない。

わたしの両親は、生き延びるために必死だったし、
わたしはわたしで、いつも背伸びして、周囲の流れ
についていくので、必死だったから、

「がんばった人ではなく、楽しんだ人が幸せになれる。」
なんて、考えたこともないし、見渡してもそのような
人は見当たらない。

ただ、一人だけ、高校の同窓生で、楽しいそうな夢を
追い続け、結局はキリギリスの人生になったのがいた
のだが。

わたしにとっては、なんかできそうなことをやって、
仕事にありつくことが大事だった。

いつも、mustの人生だった。何かをやって楽しい
という感覚を覚えたことはない。

いつも、mustだった。

残念だ。

「がんばった人ではなく、楽しんだ人が幸せになれる。

自分は心底幸せに楽しんでいるだけ」

ということを称賛しているが、えてして、楽しんで、
楽しませるのが俺の仕事、日常の煩わしい仕事は、
誰かの仕事なんてのが、けっこう多い。

話しは、飛躍するが、「新型鬱病の人達の生き方」も
そのように見えたりしているが。

「自分は心底幸せに楽しんでいるだけ」ということが、
皮相的な生き方でなく、そのことが、社会の期待に
合致する結果を生み出すようなことであるのは、そう
あることではないのではないか。

「そもそもすべきでないことを、いくらうまくやっても
意味がない」という話しがあるが、「自分は心底幸せに
楽しんでいるだけ」が、そのような延長線上にあること
も、ありがちだし、難しいところだ。

著者の言う話しは、1%の人達の話しかもしれない。

この話しは、本質的なことではあるかもしれないが、
一般化するには、容易ではないかも。


今回紹介した文章で、引っ掛かったのは、


 がんばることが大切だと教わった。

 自分で「がんばっている」と思っているがんばり
は、偽物のがんばりなのだ。

 自分で自分のことを「がんばっている」と思って
いる人たちは傲慢な人が多い。

 「こんなに自分は嫌いなことを我慢してがんばって
いるのだから、あなたも我慢しなさい」と開違った方向
へ走ってしまう。

この箇所だ。

「こんなに自分は嫌いなことを我慢してがんばって
いるのだから、あなたも我慢しなさい」

背伸びして、生きてきただけに、この文章には、
ひやっとするものがある。

自分の胸のうちに、「放漫さ」が宿っていたきらい
があると思っているからだ。


「オレに出来るかな?」
なんて考える以前に、何がやりたいか。
出来そうなことかの中から探してるうちは、
きっと何も見つからないぜ。

という人がいたが、オリッピックで活躍
している人たちが、たいがい子どもの頃から
世界一になることを夢みていたのようで、
そのような発想をすることじたいが、わたし
たちの時代には、想像できない話しだった。

あまり良い話しではないが、何しろ、わたしたち
の時代には、アルバイトという言葉が周囲にな
かった。

今の時代は、食べるだけだったら、なんとか
凌げる。

わたしたちの時代には、それができなかった。

だから、今の若い人には、壮大な夢ももち得る
のかもしれない。

ところで、普通の人は、傑出した能力がないもの
だから、できそうなことを必死にさがして、生活
するために、人生を生きることになる。

やりたくない事を日常的にやってると、
本当にやりたいものが見えなくなっちゃう。

そのうちに、金をやりたい事に使う度胸も
なくなっちまうぜ。

という人がいたが、おおかたの人の人生
なんて、そんなものだろう。

出来そうなことかの中から探してるうちは、
きっと何も見つからないぜ。

という話しだが、大方の人は、さして、やりたく
なくても、できそうなことをやるしかない。

そして、そのような生活が続き、何も見つから
ないうちに、人生が終わってしまうのだろう。

そんなことだから、たいていの人間は、退職する
と、とりあえず時間があっても、何がやりたかった
ことなのか、分からないことになる。

だから、我慢の人生を強いられて、結局は、放漫さと
無力感の狭間で、大方の人は老いていくのかもしれぬ。


自分は心底幸せに楽しんでいるだけなのに、周囲から
見たらまるで「がんばっている」ように見えるのが正し
いがんばり方なのだ。

  がんばるから続くのではなく、楽しいから続くだけ。

できうれば、そうありたいのだが、宝くじを当てる
くらい、もしかして、大方の人間にとっては、違う
世界のことかもしれない。

いずれにせよ、大方の人間が自分の放漫さで呻吟
しながら、老いていくのかも知れない。

そして、疲れ果て、惚けていくのだろう。


娘の自殺手伝った両親逮捕

2012-07-29 20:08:45 | 人生

娘の自殺手伝った両親逮捕…首つるひもを準備
読売新聞 7月28日(土)3時7分配信

 千葉県警柏署は27日、同県柏市伊勢原、無職大坪
芳博容疑者(69)と妻の睦子容疑者(67)を自殺
う助容疑で逮捕した。

 発表によると、2人は娘の無職女性(38)から「自殺
したい」と打ち明けられ、27日午前1時半頃、自宅2階
の洋室に首をつるひもを設置するなどして自殺の準備をし
た後、娘を残して外出し、自殺を手伝った疑い。

 2人は午前2時頃に帰宅、娘をひもから下ろした後、約
1時間後に「娘が自宅で首をつって自殺した」と110番
した。

   駆けつけた救急隊が病院に搬送したが、娘はすでに死亡
しており、柏署員が両容疑者に事情を聞いたところ「娘が
死にたがっていたので手伝った」と話したという。

 柏署は、娘の自殺の動機や両容疑者が手伝うに至った
経緯を調べている。


以上。

夫婦が、70歳を手前にして、娘が自律できない。

だけでなく、「自殺したい」なんて、言われたたら、
なんのために、育ててきたのだろう。

老夫婦の老後をたよるわが子が、「自殺したい」と
言い出す。

なんて、不条理な人生だ。

それを良しとする親のこれまでの人生、なんだったん
だろう。

わたしは、結婚しなかったことを後悔している。
そして、子どもをつくらなかったことも後悔している。

わたしの死後の後始末をしてくれる人がいない。という
ことも、今更どうしようもないことだが、大きな後悔と
なっている。

せっかく、結婚して、子どももできて、どうして、人生
の結末がこのようになるのだろう。

どうしてなのだろう?


<震災関連死>「避難所疲れ」原因が47%

2012-07-14 06:29:41 | 人生


ヤフーのニュースである。


<震災関連死>「避難所疲れ」原因が47%…復興庁調査
毎日新聞 7月12日(木)22時16分配信

 復興庁は12日、東日本大震災の被災者が避難所などで
体調を崩して亡くなる「震災関連死」について、原因調査
の中間報告を発表した。
  死亡原因として「避難所生活の肉体・精神的な疲労」が
半数近い47%に上り、最多。

  次いで「避難所への移動による疲労」(37%)、「病院
の機能停止による既往症の悪化」(24%)の順となった。

  死者の9割が70歳以上の高齢者だった。

 中間報告は12日、関連死の原因・対策に関する関係省庁の
検討会で報告された。

  復興庁は3月末に震災関連死と認定した1632人のうち、
岩手、宮城、福島の3県18市町村の1263人を調査。
  6月末までに529人分の死因を集計した。

 死亡診断書などによる調査で最も多かったのは、避難所生活
の肉体・精神的疲労による249人。具体的には「断水して
トイレが不備な環境で水分を控えた」「避難所の狭いスペース
に詰め込まれ疲労困憊(こんぱい)した」などの事例が報告さ
れた。

 病院の機能停止による127人については、病院職員がほと
んど避難し適切な治療が受けられなかったり、食事がままなら
ず、余震の危険から点滴も外されるなど、深刻な事例が相次い
だ。
  原発事故に起因するストレス死も21人に及び、「家族と
面会できなくなり、心身ともにストレスを受けた」「放射能へ
の不安」などの例が紹介された。

 復興庁は今後の課題として、転院先に患者のカルテなどを引き
継ぐことや、家族と離れて遠方に転所したことのストレス解消の
必要性などを指摘した。

  残る約700人分の調査も早急に進める。【岡崎大輔】

以上。

  寝たきりの父親のリハビリをするために、毎日病院に通って
いるが、よく病院のクーラーが故障して、多目的ホールみたい
なところに、患者が集められる。

  そのために、患者のペットやサイド机を移動するのだが、
ただでさえ忙しい病院のスタッフのスケジュールを考える
と、大変な余分な作業となる。

  ところで、 ある程度の従業員のいる事業所は、避難訓練が
義務づけられている。もちろん、父親が寝ている病院だって
その義務があるはずだ。

  のだが、現実の寝たきり病院の状況を見ると、それは、物理
的に不可能である。

  これで、東日本大震災などのような災害が発生した時に、
状況は現実的にアウトである。                      

  辛い真実だが、患者をおいて病院のスタッフ自身が避難
するしかない。

  つまり、見殺しにするしかない。寝たきりの患者の家族
としても、これは、受け入れるしかない現実である。

  東日本大震災の時に、患者をおいて逃げたという医者が
いたとかというニュースが流れたが(このニュースは誤報
だったという話しが後日あったが)、しかし、毎日寝たきり
の患者を見ている家族として、複雑な気分である。

  救いようのない患者と殉職をした方がいいのか、生き
残って、災害を免れた人達の医療に尽くしたほうがいい
のか、難しい判断だ。


  ところで、東日本大震災で膨大な数の人々が、家を失っ
た。家を建てたことのない私は、自信がないから建てな
かったこともあって、その災難に絶句してしまう。

  自分自身が退職してみて、退職後の「生きる力」が
衰弱していくのに、愕然としているが、70代になり、
平均寿命まで、間が無くなったという切羽詰まった
年代に全てを失うというのは、残酷である。

  多くの高齢者は、過去と共に生きている言われる。
その過去を地震と津波で一掃されてしまっては、
「生きる力」の源を失うようなものだ。


<震災関連死>「避難所疲れ」原因が47%、辛い
人生になったものだ。

南海トラフ地震「死者40万人」もというニュースも出たり
したが、単純計算で1000万人規模の避難生活者が出てくる
と、アバウトに推察ているのだが、なんとも言い難いもの
がある。

こんな未来が、予想されるなんて、なんて残酷な時代だ。