Byrd, Misa a 3 voces. The Tallis Scholars
2~3日、申告の作業に夢中なっていたら、
疲労がたまっているのに、気付かなかった
ようだ。
その上、例年になく冷えきっていて、体力を
消耗したようだ。
今日あたりは、どこか偏頭痛気味だ。だいたい
こういう時は、体がこっているのだが、緊張
がとれないままになっている。
それが、自覚症状がないので、余計にやっ
かいだ。
今夜は、しばし、ぼんやりして過ごすこと
にして、早々と寝ようかと思っている。
そのようなこともあって、今日は、さりげなく
聴ける音楽を聴いてすごすことにした。
年も重ねたので、気持ちに「枯れた」部分が
生じ始めたのか、ロマン派の音楽が「鬱陶
しい」と感じられて、聴くに耐えられなく
なってきた。
気負うことない、さりげない時間が流れる。
疲れた心に、そ~っと、静に寄り添うような
音楽で身を包み、疲れが癒えるのを静に待
つ。
これは、これで、贅沢な時間ではないか。
とある本にあった話だ。
「何年生きてきたかなんて問題じゃ
ないさ。寿命があとどれくらい残って
いようと、人命の重さには変わりは
ない」
「若い人はそう言う、だがね、実際は
違うんだ。人間の価値は、今どこに
いるかで決まるんじゃない。これから
何ができるかで決まるんだ」
40歳の男と70歳の男の会話だ。
70歳の男は、この年齢になって
も、
「人間の価値は、これから何が
できるかで決まるんだ」と語っ
た。
70歳の男は、
別の箇所で、
「あまりゆっくりもしておれん」
「私に残された人生は短いんでね」
と語っている。
70歳になっても、なにかとやるべき
ことがあるようだ。
ところでだ。
この70歳のような心持ちの人が、
現実には、どれほどいることだろう。
大概の人間は、60歳をして、賞味
限の切れた労働力として、取りあ
つかわれる。
60歳をすぎて、人は、使用価値の
ない存在として、社会から処遇さ
れるようになっている。
大方の人は、これから、何がで
きるんだい?
そのような私に、どれほどの
値打ちが残っているんだろう。
自嘲しながら、自壊し朽ち果て
んばかりの様にある。
こんなにも、老い方が難しい
なんて、誰が想像していたこと
だろう。