人生いろは坂

人生は山あり谷あり、そんなしんどい人生だから面白い。あの坂を登りきったら新しい景色が見えてくる。

御大師様のお祀りの日

2006-04-18 17:17:41 | Weblog
 今日は年に一度の御大師様のお祀りの日だった。私の住んでいるところ
にも小さなお堂がある。近所のお年寄り達が世代を越えてお祀りをしてき
たお堂である。中にお祀りされているのは弘法大師ではないとの事だが昔
から弘法大師同様手厚く祀られてきた。
 4月18日には私の地元児島に点在する大師堂では何処でも御大師様を
お祀りし、お参りに訪れる人達を待つ。そして心ばかりのものをお礼にお
接待と称して差し上げる。これは四国八十八カ所で行われているお接待と
同じ事である。
 仏教では現世で善行を積むと来世は必ず極楽へ行けると信じられてきた。
仏教の教えの一つにお布施がある。お布施は何もお寺さんにお金を包んで
渡すことではない。善行を積むことがお布施だ。従って、お参りに来た人
にご苦労様とねぎらいの言葉をかけ心ばかりのものを渡すのもお布施で
ある。

 今の人は科学万能の世の中で来世など信じてはいない。そして、来世
には極楽と地獄があることも信じる人はいない。しかし、誰も来世を見て
きたものも体験しその記憶を持ち帰ったものもいない。従って、絶対に
ないと誰が断言できようか。
 私達が子供だった頃までは極楽も地獄もあるものと本気で信じていた。
親も祖父母も子や孫達にそのように教え、悪いことはしてはいけないと
厳しく戒めていた。信じる信じないは個々人の勝手だが、私は極楽も
あれば地獄もあると信じている。
 チベット仏教ではその辺のことを詳しく伝えているので興味のある人は
ぜひ読んでみて頂きたい。また、キリスト教もイスラム教も形こそ異なる
が来世はあると教えている。

 そんなわけで今日は朝から大師堂を開放し、祭壇には花や果物やお菓子
をお供えし、お接待のお菓子や缶ジュースを準備してお参りに来てくれる
人を待った。
 実はこのお接待は久しく途絶えていた。私の家内の母達が長らく続けて
きたのだが年を取り続けていくことが出来なくなっていた。私がここの管理
を引き受けてから何とか再開したいと願っていた。幸いな事に私の呼びかけ
に応じ参加してくれた人達が再開してくれた。実にありがたいことである。
 ここのご本尊様は実に霊験あらたかな御大師様だと聞いている。密かな
奇跡を起こしてきたことはあまり知られていない。熱心な信者は岡山の方
にもおられ御寄付も頂いている。

 親鸞上人の教えを書いた歎異抄の一節に次のような事が記されている。
「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるに世のひとつねに
いはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をやと。・・・・」この一節
は次のように解説されている。
 善事をなすものは善人、悪行を離れることのできぬものは悪人である。
しかしまた悪人には悪行を離れることのできぬ悲しみがあり、善人には善
事を頼むということもあるであろう。そこに善人には自力の限界を知らざ
る限り、本願他力に帰するということがないという迂遠さがある。けれど
も悪人は大悲の願心をきいて直下に心身に応えるものがあるであろう。
まことに深長の本願である。それ故に自力作善の人は、弥陀の本願(の正機)
でなく、他力をたのみたてまつる悪人は、最も往生の正因(を身につけし
もの)である。

 歎異抄は親鸞上人の弟子であった唯円が師の教えを忠実に伝えたもので
あるとされている。親鸞上人は理屈を言わずに一心不乱に念仏を唱え仏に
すがりなさいと諭している。それを上記のような回りくどい表現で伝えて
いる。現代人はとかく理屈っぽい。信心は理屈ではなく心から救われたい
と願う心だと教えているのではないだろうか。そして、善行を積み重ねる
ことこそ罪深い私達が救われるただ一つの道ではないだろうか。
 悪人は自らの罪深さを素直に反省し仏にすがりなさい。善人はなおも徳
を積んで、それに頼むことなく(おごることなく)更に徳を積みなさい。
そうすれば必ず来世は極楽に行けるであろう。

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