人生いろは坂

人生は山あり谷あり、そんなしんどい人生だから面白い。あの坂を登りきったら新しい景色が見えてくる。

自然に生きる

2010-12-01 06:10:11 | Weblog
 簡単な事のようで、いざ実行となるとなかなか出来ないのが「自然に生きる、あるがままに生きる」
と言うことではないだろうか。

 誰しもそのようにありたいと思いながら、自分の思いや我(が)に勝てなくて、あらぬ生き方をして
いる人が少なくない。かくゆう私もその一人である。

 動物の多くは本能のままに生きている。食べたいときに食べ、眠りたいときに眠る、欲もなく
あるがままを生きている。従って、死に対する恐怖もない。病気になればひたすらじっと耐えて
回復を待つ。そして寿命が尽きれば死んでいく。

 私達はなまじ智恵というものを得たが故に、様々な悩みや苦しみを抱えることになってしまった。
ひたすら生き続けたいと願っている。死に対する恐怖心も強い。

 人間には本能に基づく欲以外に様々な欲を持っている。それが物欲であり金欲ではないだろうか。
持って死ぬことも出来ないのに、いつまでも物欲は絶えない。土地は自分のものだと主張する。本当に
そうなのだろうか。土地は誰のものでもない。地球自身のものである。そこには境界線も国境もない。
あるのは自然の広がりだけである。その空間に鉄条網を張り巡らして国境を主張している。滑稽以外の
何ものでもない。

 ましてや個人の土地所有など、今が暮らせていけばそれで良いではないか。孫子に残すべきものでも
ない。孫子は孫子の力で生きていけばよい。なまじ財産など残すから兄弟げんかや関係のない親族まで
入り乱れての争いになってしまう。それまでの人間関係が脆くも崩れてしまうことになる。お金も物も
土地もこの世の約束事に過ぎない。

 かつての高僧は畳一畳ほどの小屋に寝起きしたという。持ち物は身につけている衣と托鉢用のお椀が
一つだけ。飢えと雨露さえしのげれば良いと畳み一畳ほどの小屋住まい。庭はなくとも窓を開ければ
目の前の景色全ては自分のものである。四季折々の変化を間近に感じながら生きていたという。まさに
究極のエコな生き方だと言えよう。持ち物は何もないのだから盗まれる心配もない。鍵も必要はない。

 なまじ蔵など建てるほどの財産を持っているから心配で枕を高くして寝ることも出来ないのでは
ないだろうか。隠し持っていた虎の子の財産を庭に埋めていたら、いつの間にか誰かに盗まれたと
言う笑えない事件がある。誰が盗んだのだろう。いずれ身近な人の仕業に違いないと思うのだが
家人にも知られたくない金欲とは何なのだろう。

 人は裸で生まれ裸で死んでいく。地位の高い人もお金持ちもみんな一緒である。人は死の前には
平等に出来ている。何一つこの世で得たものは持っていけない。地位も名誉も財産もこの世だけの
約束事に過ぎない。全ては夢幻なのである。

 従って、この世で得たものはこの世で使い切る方が良い。それも人に喜ばれること感謝されること
に使いたい。その方が孫子に残すより遙かに価値があるように思うのだが。

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