台風は足早に日本海を北上し、日本列島を横断したようである。しかし
ながら私の住んでいるところでは、期待した雨はその形跡すら止めない
ほどのものであった。
一方、夕方のNHKニュースでは東京、埼玉、千葉周辺の集中豪雨に
よる被災状況が長時間報じられていた。何と皮肉なことか。何とか出来る
ものなら、この雨の何分の一かでも、こちらで引き受けたいと思ったほど
である。
ちなみに、この夏の平均気温が一番高かったのは岡山県だと報じられて
いる。未だ秋の気配は見えない。周辺の畑では秋まき野菜のシーズンなのに
畑すら耕すことが出来ないくらい土は固く乾燥しきっている。
幸いにも我が家では井戸というものが未だ機能しており、枯れることなく
日々使い続けている。井戸はありがたい。
さて、日本の農業人口は5年間で22パーセントも減ったと9月8日付の
朝日新聞が一面で報じている。食料の自給率が40パーセントを切り、農村
の少子高齢化は益々深刻度を増している。このまま行けば日本の農業は
どうなるのだろう。農業に直接携わっていない者でさえ心配になってくる。
加えて日本の森林が中国を初めとする諸外国の資本によって買われて
いると聞けば、改めて農林業が置かれている状況の深刻さを考えざるを
得ない。
農地もさることながら山林は私達の生活の全てに影響を及ぼしかねない
ような国家的財産である。一個人の所有物とは言いながらも山林は二酸化
炭素の貴重な吸収源であり、河川の多くは山林に依存している。地下水も
同じである。
これらが他国の人によって勝手に開発されたらどうなるのだろう。想像
することすら恐ろしいことである。実は私達もかつては同じようなことを
他国に対してやってきた。熱帯雨林での乱開発である。材木の伐採輸入や
アブラヤシの栽培促進などである。これらによって熱帯雨林の多くは失われ
インドネシアなどの国土は荒廃したままである。因果は巡ると言うことなの
だろうか。
農業は生やさしいものではない。夏の暑い時にもクーラーの利いた快適な
オフィスで仕事をしているような訳にはいかない。特に今年のように30度
を超えるような日が何日も続くようになると、決して楽な仕事だとは言い
難い。
反面、喜びも少なくない。実りの時には何とも言えない喜びがある。
また、野菜や穀物の日々の変化も工場やオフィスでは感じることの出来ない
喜びである。
今、若者の多くは生きがいや喜びを見いだせないまま仕事を続けている。
これは個人としても国としても大きな損失である。そして自暴自棄に陥った
若者も少なくない。精神的な負担や長時間労働に心を病んでいる若者も
多いと聞けば、農林業こそ自分らしさを取り戻せる貴重な仕事だと言える
だろう。
40年近くも農家でもないのに土に直接関わってきたものだからこそ
良いことも悪いことも差し引いて農林業を勧めることが出来る。但しゼロ
からのスタートとなると生やさしいものではない。また、農業で一定程度
の収入を得ることも簡単ではない。一定期間の行政の手厚い支援が必要だ。
農村も急速に高齢化が進んでいる。我々のような世代が農村で生き残って
いる間の今こそ、若者を農村に送り込む最後のチャンスではなかろうか。
一度荒れてしまった農地を元の状態に戻すことは容易なことではない。
農村には今日まで蓄積してきた多くのノウハウがある。このノウハウを
早く若い世代に伝承したいと思うのだが。
さて、今年初めて稲を植えてみた。テレビで紹介されていた「米食う人々」
という番組の中で、タイの山間部での陸稲栽培を見てからの事である。
本来、稲は大量の水を必要とする穀物である。その穀物が焼き畑で栽培
されているのを見て、さして手間暇かけずに出来るこれからの農業は
これだと思ったのである。
思いついたら早速実験をしてみたくなった。と言うわけで畑の片隅に
種籾を直播きして栽培を始めた。種籾を蒔いた時期は周辺の田んぼと同じ
時期であった。しかし、周辺の田んぼより遙かに早く収穫の時期を迎えて
いる。来年はもっと過酷な条件下で栽培してみたいと考えている。
ながら私の住んでいるところでは、期待した雨はその形跡すら止めない
ほどのものであった。
一方、夕方のNHKニュースでは東京、埼玉、千葉周辺の集中豪雨に
よる被災状況が長時間報じられていた。何と皮肉なことか。何とか出来る
ものなら、この雨の何分の一かでも、こちらで引き受けたいと思ったほど
である。
ちなみに、この夏の平均気温が一番高かったのは岡山県だと報じられて
いる。未だ秋の気配は見えない。周辺の畑では秋まき野菜のシーズンなのに
畑すら耕すことが出来ないくらい土は固く乾燥しきっている。
幸いにも我が家では井戸というものが未だ機能しており、枯れることなく
日々使い続けている。井戸はありがたい。
さて、日本の農業人口は5年間で22パーセントも減ったと9月8日付の
朝日新聞が一面で報じている。食料の自給率が40パーセントを切り、農村
の少子高齢化は益々深刻度を増している。このまま行けば日本の農業は
どうなるのだろう。農業に直接携わっていない者でさえ心配になってくる。
加えて日本の森林が中国を初めとする諸外国の資本によって買われて
いると聞けば、改めて農林業が置かれている状況の深刻さを考えざるを
得ない。
農地もさることながら山林は私達の生活の全てに影響を及ぼしかねない
ような国家的財産である。一個人の所有物とは言いながらも山林は二酸化
炭素の貴重な吸収源であり、河川の多くは山林に依存している。地下水も
同じである。
これらが他国の人によって勝手に開発されたらどうなるのだろう。想像
することすら恐ろしいことである。実は私達もかつては同じようなことを
他国に対してやってきた。熱帯雨林での乱開発である。材木の伐採輸入や
アブラヤシの栽培促進などである。これらによって熱帯雨林の多くは失われ
インドネシアなどの国土は荒廃したままである。因果は巡ると言うことなの
だろうか。
農業は生やさしいものではない。夏の暑い時にもクーラーの利いた快適な
オフィスで仕事をしているような訳にはいかない。特に今年のように30度
を超えるような日が何日も続くようになると、決して楽な仕事だとは言い
難い。
反面、喜びも少なくない。実りの時には何とも言えない喜びがある。
また、野菜や穀物の日々の変化も工場やオフィスでは感じることの出来ない
喜びである。
今、若者の多くは生きがいや喜びを見いだせないまま仕事を続けている。
これは個人としても国としても大きな損失である。そして自暴自棄に陥った
若者も少なくない。精神的な負担や長時間労働に心を病んでいる若者も
多いと聞けば、農林業こそ自分らしさを取り戻せる貴重な仕事だと言える
だろう。
40年近くも農家でもないのに土に直接関わってきたものだからこそ
良いことも悪いことも差し引いて農林業を勧めることが出来る。但しゼロ
からのスタートとなると生やさしいものではない。また、農業で一定程度
の収入を得ることも簡単ではない。一定期間の行政の手厚い支援が必要だ。
農村も急速に高齢化が進んでいる。我々のような世代が農村で生き残って
いる間の今こそ、若者を農村に送り込む最後のチャンスではなかろうか。
一度荒れてしまった農地を元の状態に戻すことは容易なことではない。
農村には今日まで蓄積してきた多くのノウハウがある。このノウハウを
早く若い世代に伝承したいと思うのだが。
さて、今年初めて稲を植えてみた。テレビで紹介されていた「米食う人々」
という番組の中で、タイの山間部での陸稲栽培を見てからの事である。
本来、稲は大量の水を必要とする穀物である。その穀物が焼き畑で栽培
されているのを見て、さして手間暇かけずに出来るこれからの農業は
これだと思ったのである。
思いついたら早速実験をしてみたくなった。と言うわけで畑の片隅に
種籾を直播きして栽培を始めた。種籾を蒔いた時期は周辺の田んぼと同じ
時期であった。しかし、周辺の田んぼより遙かに早く収穫の時期を迎えて
いる。来年はもっと過酷な条件下で栽培してみたいと考えている。