おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

とち(芧)の木~金沢宿~茅野。その2。(「甲州街道」をゆく。第13日目。)

2017-11-28 22:38:10 | 甲州街道
 (11:37)開けたところに出てきます。左手の林の中に小径。この道が残された甲州街道だという話も。
 

左手が広い田んぼ(現在、大規模に土地改良工事中のようです)、左手の高台が「カゴメ富士見工場」と続きます。のどかな山里の風景。


                     駐車場が上の方に。

入笠山方向。

           晩秋の装い。

(11:49)神戸(ごうど)地区に入ります。

「甲州街道サルビア通り」の名称。

季節はずれのため、枯れています。

咲いていると(「Wikipedia」より)、

火の見櫓のところを直進して急坂を下ります。

                       

坂道の途中に「庚申塔」などが建っています。

(11:58)「国道20号線」に合流します。回り込むように左手へ。

「富士見リゾートパノラマ入口」交差点。

 (12:01)その先の右手に大きな記念碑。「博愛 孫文」と刻まれた碑と「小川平吉先生生誕之」碑。
 
小川 平吉
 1870年1月2日(明治2年12月1日) - 1942年(昭和17年)2月5日)は、日本の弁護士、政治家。号は射山。衆議院議員、国勢院総裁、司法大臣、鉄道大臣等を歴任。
 1892年(明治25年)弁護士となり、1901年(明治34年)近衛篤麿に従って上海の東亜同文書院創立に参画。1903年(明治36年)衆議院総選挙に出馬当選、以来当選10回。日露主戦論の急先鋒となり、1905年(明治38年)日比谷焼打事件の主謀者として投獄され無罪。政友会に入り同会幹事長を経て1920年(大正9年)原敬内閣の国勢院総裁。1925年(大正14年)加藤高明内閣の司法大臣、1927年(昭和2年)田中義一内閣の鉄道大臣。1929年(昭和4年)私鉄疑獄、売勲事件に連座して逮捕され、1936年(昭和11年)懲役2年で入獄。政界を引退。1940年(昭和15年)恩赦。
 鉄道大臣当時、全国の駅名を右横書きにし、説明のローマ字を廃止した。平吉には“タコ入道”、“オガ平”、“ズル平”といったあだ名がつけられていた。
・・・
 小川は国粋主義者だった。日露戦争前の議会では主戦運動の先鋒となり、1905年(明治38年)9月、日露戦争講和の時には「戦いに勝ちながら屈辱的講和をなすとは何事だ」と日比谷焼打事件を引きおこし、日韓合併にも積極的に動き、第一次世界大戦後、左傾思想がさかんになると、治安維持法の制定にテコ入れをし自分でも日刊紙『日本』を創刊して左傾思想に対抗した。鉄道大臣在任中それまで左書きだった駅名標をすべて右書に改め、“国粋大臣”の異名をとった。
 小川は鉄道大臣を辞めた2ヶ月後、五つの私鉄買収にからむ収賄事件で起訴され、留置された。中村勝実著『信州の大臣たち』56頁によれば、「大臣在任中の二年間に、二百近い私鉄の営業許可を与え、そのうえ田中義一内閣が瓦解する直前にもその置き土産といって、十数本の私鉄敷設を許可した[12]。しかもそのほとんどが、国鉄や私鉄他社の並行線だったので、とかくの噂を呼んだ。」という。ことに、田中義一内閣瓦解直前の時期に集中して乱発された路線敷設免許の大盤振る舞いは、名阪間で最終的に直接競合することになる路線を構成する2社線に対して同時に認可を与えるなど交通政策上矛盾した、あまりに杜撰極まる内容であり、空前の愚策であるとして各方面の非難を浴びた。
 小川一族について、佐藤朝泰の著書『豪閥 地方豪族のネットワーク』442-457頁によれば、
「閨閥地図を広げれば、新旧の政治家、高級官僚、財界人の名がキラ星のごとく輝いている。地図上には歴代総理大臣が四人。地図をもう少し広くとれば、この倍以上にはすぐ増える。だが小川姓の総理がいるわけでない。輝く星の一つ一つがそれぞれ大きな星座を形成している。たとえていえば、有力家系を縦横に繋げる真綿や星雲のような一族なのである。政界人なら元首相宮澤喜一や鈴木善幸、古くは林銑十郎や吉田茂。閨閥地図をもう少し広くとれば、鳩山一郎、岸信介・佐藤栄作兄弟などにも繋がる。
小川一族がこのような存在になったのは、女系の強さにもよるから、字義どおりの大閨閥なのである。この大閨閥の源は信州の諏訪。戦前の代議士、司法大臣・鉄道大臣などを歴任した小川平吉だ。この人が大閨閥の真綿の大元、つまり繭玉である。」という。

(以上、「Wkipedia」参照。)

このおうちにも「雀おどし」の意匠。

「御射山神戸(みやまごうど)」交差点。


 大きな冠木門のあるおうち。


                          

「東京から184㎞」ポスト(12:08)。

「御射山八幡」交差点。

国道から左手の道を上っていきます。

 
 (12:15)旧道を坂道で登ってゆくと右側に馬頭観音の群れが現れます。新しい馬頭観音が目立ちます。青・チビ・花などの名が刻まれています。

(12:18)その先、左手に目指す「御射山神戸一里塚」。

富士見町指定史跡 御射山神戸の一里塚
 ・・・
 この一里塚は集落の北はずれにあって、江戸の日本橋から四八里め(四九里との説もある)の塚であるといわれ、明治中頃までその役割を果たしていた。道路の東塚にはエノキが、西塚にはケヤキが育っていたが、東塚のエノキは明治初期に枯れてしまったという。
 残っている西塚のケヤキは、塚がつくられた慶長年間に植えられたものと推定され、樹齢はおよそ三八〇年を数える。現在では目通り高で幹の太さが周囲六・九メートル、樹髙は約二五メートルの巨木となり、永い歳月と風雪にたえて堂々たる風格をそなえ、樹勢もなおさかんである。
 甲州街道でこのように塚・ケヤキともに往時のものが保存されている例は他になく、実に貴重な存在である。

平成10年3月 富士見町教育委員会
 

 見事な一里塚。しばし見とれるほどの歴史的な風格があります。
 

「標高917m」という標識。



そこから来た道を振り返る。

一里塚を振り返って望む。

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