おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

台ケ原宿~教来石宿~蔦木宿~とちの木。その6。(「甲州街道」をゆく。第12日目)

2017-11-24 20:35:02 | 甲州街道
 これから「金沢宿」に向かいますが、途中の「とちの木」の集落で街道歩きは終えて、JR「富士見駅」から帰ることとします。

 瀬沢の集落に入ると急坂が続きます。「吉見屋」の先で道は二股に分かれますが、左の急坂を上って行きます。


(14:10)分岐点に道標らしき石碑。
                              中央に「富士・・・・」、「右・・道」、「左・・道」?

その先、左手の石垣のところにも「道標」。「右・・・」。

古仏群。

 この付近の「国道20号線」沿いに『瀬沢古戦場』の碑があります。
瀬沢の戦い
 天文11年(1542年)3月に信濃瀬沢で行なわれた甲斐守護・武田晴信(信玄)軍と信濃諏訪の領主・諏訪頼重軍並びに信濃守護・小笠原長時連合軍の戦い。
 天文11年(1542年)3月、諏訪頼重は晴信の政権基盤がまだ盤石でないのを見て、信濃守護・小笠原長時と連合して甲斐への侵攻を図った。これに対して晴信は自ら出陣し、諏訪・小笠原連合軍を甲信国境で迎撃する。この合戦での被害はまだ盤石な体制を築けていない武田軍にむしろ被害が出たとされ、激戦が繰り広げられた。しかし晴信は瀬沢に本陣を布いて徹底的に抗戦し、遂に連合軍を退けたとされる。
ただし、確実な史料においてこの合戦に関するものは一切見られない。
 「瀬沢の戦い」は武田氏による諏訪氏の滅亡を正当化するために後年に創作された合戦ではないかとする考察もあり、合戦そのものの存在が疑問視されている。
(以上、「Wikipedia」参照。ただし、出典・論拠が不確かなようです。)



                    

けっこうな上り坂が続きます。

(14:19)右手の丘の上に「知的障害者厚生施設「しらかば園」が見えてきたら、急坂も終わりです。
 
                                                     振り返って望む。

ゆるやかな上り坂になります。

「とちの木」の集落に入ります。

                               

(14:30)「とちの木公民館」。
                              「とち」は漢字表記だと「」と書きます。

 ここで「芧の木」集落からJR「富士見駅」へ向かいます。約1600㍍ほど歩きます。



                               

「国道20号線」を越え、ゆるやかな上り坂を進みます。

(14:59)「富士見駅」。

 東京起点 182.9キロメートル
 標高 955.2メートル
 富士見駅は中央本線の中では標高が一番高く、分水嶺に位置する。
八ヶ岳山麓の裾野に広がる富士見町は鉄道が開通してから避暑地として知られ分譲別荘地などが増え、今は四季を通じてスポーツが盛んである。

富士見駅・跨線橋からの八ヶ岳。


 ここ「富士見町」には、かつて、結核の高地での長期療養を主目的としたサナトリウムとして「富士見高原療養所」が存在し、多くの著名人などが入院、療養に専念したところです。
 中でも、堀辰雄は1931年(昭和6年)夏に大喀血をし、療養生活に入ります。
 1935年(昭和10年)婚約者の矢野綾子の療養のため高原療養所にともに滞在しましたが、5ヶ月後に綾子は25才で死去。
 彼女との療養生活を元に「風立ちぬ」(1938年・昭和13年作)が生まれました。

 その後、この施設は現在、総合病院「JA長野厚生連富士見高原病院」として、1981年(昭和56年)に長野県厚生連の管理に移管、後に周辺地区の病院・診療所・老人福祉施設を運営する組織として「富士見高原医療福祉センター」が成立すると、富士見高原病院はその富士見事業部下の本院として位置付けられました。
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