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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

箱崎公園。旧箱崎小。都立日本橋高校校舎。小転校。(震災復興52小公園。その20。)

2013-12-16 20:24:49 | 震災復興小公園

④箱崎公園(旧箱崎小)
奥に見えるのが、区立箱崎小→都立日本橋高校→水天宮ピットの建物。
公園の西側から旧校舎を望む。公園は、首都高箱崎インターに近く、複雑に高速道路の橋脚があり、すぐ南には、IBMの高層ビルなどが建ち並ぶ地域にある。そうした喧噪を忘れさせる児童公園風の空間になっています。夜には、クリスマスツリーなどのイルミネーションが点灯するようです。
土曜日に訪れたせいか、家族連れがちらほら。平日の昼休みなどにはサラリーマンなどで賑わうような印象。
学校、公園を再整備したために、公園と校舎区域とは関連がなくなっているようだ。
公園の一角にある「吉田松陰像」。
 説明板によると、

 現在の水天宮ピットの場所が、旧東京市箱崎尋常小学校として使われていた昭和12年(1937)の末、当時6年生の児童であった岩井光子さんが病気で亡くなった。
 光子さんは成績優秀なうえ、特に吉田松陰の生き方に深く感銘を受けており、亡くなる前に自分の貯金で、学校内に吉田松陰の銅像を立ててくれるよう両親に遺言を残した。
 両親は生活が苦しい中でこの遺言を実現し、昭和13年(1938)3月22日に除幕式が盛大に催された。当時この話は教育美談として東京日日新聞に表彰され、時の文部大臣や東京市の関係者など多数が参列した。吉田松陰像は竹山蘭山が製作するとともに、話に感銘を受けた当時の海軍大将高橋三吉が台座の「松陰先生」の文字を揮毫した。
 昭和19年(1944)4月、小学校は全自動が戦火を逃れるため疎開したのち廃校となったが、吉田松陰像は同じ場所で日本橋箱崎町の変遷を見守り続けてきた。
 平成22年度に都立日本橋高校の移転と箱崎公園改修工事にあわせ、吉田松陰像をこれまで以上に町の方々に親しんでいただくため、この場所に移設することとなった。 平成23年(2011)3月


「水天宮ピット」正面玄関。

 この建物・校舎には、最近まで「日本橋高校」があった。そこには、興味深いいきさつがあるようです。

《都立日本橋高校の場合》
1940年1月12日 - 府立十七中学校設置認可(府立七中(現・墨田川高)内)
9月13日 - 敷地の決定(葛飾区亀有一丁目1765番地外58筆)
1942年1月31日 - 府立葛飾中学校と改称
10月1日 - 府立第二化学工業学校跡に移転(東京府東京市向島区寺島町三丁目106番地)
1943年7月1日 - 都制実施に伴い都立葛飾中学校と改称
1944年4月1日 - 旧日本橋区立箱崎小学校(旧校舎)に移転(東京都日本橋区箱崎町三丁目1番地)
1947年2月6日 - 都立日本橋中学校設立決定(中央区箱崎町三丁目1番地(従来の都立葛飾中学校内において))
4月1日 - 都立日本橋中学校開校(東京都立葛飾中学校の教職員・生徒及び卒業生を引き継ぐ)
5月24日 - 校章制定
1948年4月1日 - 都立日本橋新制高等学校と改称、夜間定時制課程を設置
1950年1月28日 - 都立日本橋高等学校と改称
2009年4月1日 - 東京都中央区日本橋箱崎町18-14墨田区八広・東京都立向島商業高等学校敷地内へ移転


《都立葛飾野高校の場合》
1940年1月12日 - 東京府立十七中学校として府立七中(現墨田川高校)内に設置。
1941年6月30日 - 敷地を現在地(葛飾区亀有1-1765)に決定。(※日付に違いあり。)
1942年1月31日 - 東京府立葛飾中学校と改称。(※「寺島」に移転の記述なし)
1943年7月1日 - 東京都立葛飾中学校と改称。
1948年4月1日 - 東京都立葛飾新制高等学校と改称。(※同じ校舎に「日本橋」と「葛飾野」が存在した?)
1949年2月7日 - 移転先の日本橋から新校舎に移転完了。この日を創立記念日とする。
1949年4月1日 - 東京都立葛飾高等学校と改称。
1950年1月28日 - 東京都立葛飾野高等学校と改称。

(どちらもそれぞれのHPによる)。

 ということは、「府立十七中」は二つに分かれた、それとも最初から「二つ」あったということ? 
 「府立葛飾中」が日本橋への移転に伴って、地元の地名に基づいた名称「日本橋」になり、2年後、当初の建設予定地・葛飾区亀有に新校舎が完成、移転した時が「葛飾」、後「葛飾野」の創立記念日となっています。
 その後、幾星霜を経て、「日本橋高校」が「葛飾野高校」と同じ、隅田川以東の下町地域に移転してきたことで、ようやく(再び)双子の「旧制府立十七中」になった、ということになります。

 「日本橋高校」は、かつては「小転校」と言われ、小学校の校舎を転用していたために、狭隘な敷地でいろいろ教育活動に支障があった、それが墨田区内に移転したことで新たな学校づくりが進むことになりました。

震災復興校舎の特徴である正面入口の庇。
東側と南側は、新しくタイルを貼ってあるが、西側の部分などはかつてのままの校舎・外形になっている。


 現在、コの字型の校舎すべてが残っているわけではなく、西側にあった校舎はありません。

 基本的には、台東区立東浅草小(旧待乳山小)や旧柳北小の外形と似ています。
「東浅草小」。しっかりした鉄筋造りで、築85年とは思えない現役校舎。
「柳北小」。南側からの眺め。ここも再利用・活用されている。
すぐ北にある「箱崎湊橋通り」。「湊橋」は、「日本橋川」に架かる橋の名。
首都高橋脚に囲まれながら、二階建ての民家や神社がある、昔ながらの一角。

 中央区内の復興小学校校舎の現状と今後の方策に関する資料の一部を以下に掲載します。

 平成23年3月で 5校(明正小、阪本小、常盤小、城東小、泰明小)を残すのみとなっています。 校舎以外に転用された事例は、十思スクエア(旧十思小)、京華スクエア(旧京華小)、水天宮ピット(旧箱崎小→都立日本橋高校)の 3校があります。

・・・
 復興小学校の価値として日本建築会からは以下3点が指摘されています。

(1)小学校教育に関する東京市の理想高さを示す建物としての価値
・大地震にも耐えうる「絶対耐火耐震」を目標とした構造計画としました。
・環境面および衛生の向上のために、蒸気式暖房設備や自動水洗便所を備えた最新の設備計画としました。
・緊急時における児童の避難も考慮し、廊下や階段の幅を従来より広くしました。
・採光通風を重視し窓の面積大きく、また室内換気考慮して天井を高くしました。特に明るさを必要とする図画教室や屋内体操場にはトップライトも設置しました。
・校舎の配置はコ字型平面を基本として、南向きの校庭は、土埃発散防止と水はけ改善するために、タールを主成分とした当時の新材料であった防塵舗装を採用しました。

(2)表現主義的な外観デザインによる建築の秀作としての価値
・既成の規範にとらわれず、建物の平面や造作の細部などに曲線をよく用い、建築物の・開口部にアーチ形を多用するなど、当時のヨーロッパで見られた新建築の流行に影響を受けた自由な造形が用いられました。表現主義建築とも呼ばれています。
・平面計画、架構形式、および各部の寸法には統一規格に倣っていますが、一方で外観のデザイン(建物の立面)についてはそれぞれ個性をもたせました。

(3)小公園の付設や避難拠点として位置づけにみられる都市計画的な価値
・都心部に建てる小学校地が狭隘であため、それを補うために小公園を隣接してつくり、かつ非常時の避難場所としても使えるようにしました。
・校舎と小公園が一体化し、周辺地域のアイデンティティをかたち作るランドマークとして、豊かな都市空間を形成しています。

(「第1回明正小学校改築準備協議会資料(平成23年3月18日)株式会社文化財保存計画協会 http:/www.city.chuo.lg.jp/kosodate/kyouikuiinkai/kyogikai/siryou2.pdf」‎より)

 以上、震災復興小公園・小学校についての歴史的な価値についてまとめられていました。


1870年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。「箱崎町三丁目」と記されている上あたりが旧箱崎小。左に「湊橋」。右下には「日本銀行」創業の地。
「日本銀行創業の地」の碑。永代橋西詰付近。
 碑面には 「創業時の本館」の図が彫られたプレートが取り付けられています。
碑文 日本銀行創業の地
 明治十五年十月十日日本銀行はこの地で開業した
 明治二十九年四月日本橋本石町の現在地に移転した
 創業百周年を記念してこの碑を建てる
      昭和五十七年十月
         日本銀行総裁  前川春雄
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久松児童公園(久松小学校)。(震災復興52小公園。その19。)

2013-12-15 22:57:15 | 震災復興小公園
 ここは、まさに開設当初のように、公園・学校が一体型の運営を行っているところ。

③久松(児童)公園(久松小)
学校開校時は午後4時までは学校の校庭として使用、その後、児童公園として開放される仕組み。墨田区内の一部の復興公園・小学校であったやり方。その代わり、校門の西側には、歩行者道路を挟んで、広く細長いスペース・公園がある。


1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
 中央に、現「久松小」。その西側には堀割(「神田川」と「隅田川」を結んでいた「浜町川」のことか?)


1970年代のようす(「同」より)。中央が「久松小」。東側にある広い通りは「清洲橋通り」。

 なお、「goo」の昭和22年の航空写真では堀割は残っていて、橋が架かっている。さらに同じく昭和37年では、すでに堀割はなくなり、一部、民家が建っている。

 「久松小」は、都内でも「中央区立常盤小」などと並ぶ、古い歴史ある学校の一つ。

沿革
1873年(明治6年)3月 - 「第一大学区第一中学区二番小学久松学校」として久松町三十八番地にて創立。校名の由来は伊予松山藩主の末裔・久松定謨伯爵(右写真)の巨額の寄付によるもの。
2002年(平成14年)11月 - 創立130周年記念式典を行う。
2012年(平成24年)11月 - 創立140周年記念式典を行う。


関東大震災により校舎全焼。当時の在籍児童数1,396名、職員27名、学級数24。


昭和 4年 5月 震災復興本建築鉄筋コンクリート三階建校舎完成

昭和18年 7月 東京都久松國民学校と改称
昭和19年 8月 第二次世界大戦の激化により縁故疎開、集団疎開を勧告


昭和20年 3月 戦災により校舎全焼書類の大部分焼失、通学区域の9割以上が焼失。(以上、「久松小」HPより。)


 訪問した時間帯がまだ学校の校庭として使用中だったため、公園内には入れず。遠目の写真のみ。
現在の校舎。
校舎全景。
公園東側。プールが隣り合っていて、細い通路。奥に運動場・児童公園が広がる。

西側。歩行者専用道路をはさんで、こちらにも「久松児童公園」が広がる。堀割を埋め立てて作られているので、広く細長い。
併設の「久松幼稚園」側から南を望む。児童の帰りを待つ親子連れで公園は賑やか。
右が小学校側。

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十思公園。伝馬町牢屋敷跡。吉田松陰。(震災復興52小公園。その18。)

2013-12-14 20:12:31 | 震災復興小公園
身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

 吉田松陰の辞世の歌。吉田松陰が処刑された「伝馬町牢屋敷」跡の「十思公園」内に大きな石碑に刻まれています。小塚原刑場で処刑(斬首)された、との記述も時に見受けられますが、吉田松陰を始め幕末の国粋思想家は小伝馬町牢に置かれ、牢内で斬首されており、小塚原刑場は遺骸の取り捨てられた場所。
左手の石碑。

 大老・井伊直弼による安政の大獄が始まると、江戸の伝馬町牢屋敷に送られた松陰は尋問に際し老中暗殺計画の詳細を自供し、自身を「死罪」にするのが妥当だと主張。これが井伊の逆鱗に触れ、安政6年(1859年)10月27日に斬刑に処された。享年30(満29歳没)。
 獄中にて遺書として門弟達に向けて『留魂録』を書き残しており、その冒頭に記された辞世は“身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂”。また、家族宛には『永訣書』を残しており、こちらに記された“親思う心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらん”も辞世として知られている。
 処刑後、小塚原回向院(東京都荒川区)の墓地に葬られたが、文久3年(1863年)に高杉晋作ら攘夷派の志士達により現在の東京都世田谷区若林に改葬された。(以上、「Wikipedia」参照)
「回向院」。

   
  
  左が1880年代のようす。右が2010年代のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
 左図で、左中央の大きな空間を中心として広がる一帯が、「伝馬町牢屋敷」の跡地。空白になっているのは、なかなか跡地の土地利用が決まらなかったためのようだ。現在の大安楽寺、身延別院、村雲別院、旧十思小学校、十思公園一帯にあたる。

 江戸時代の刑法には現在の懲役や禁固に類する処罰が原則として存在せず、「伝馬町牢屋敷」は現代における刑務所というより、未決囚を収監し、死刑囚を処断する拘置所に近い性質を持った施設。2618坪(約8639平方メートル)の広さがあった。江戸城外・常盤橋外に牢屋敷にあたる施設が設けられたのは天正年間。それが慶長年間に小伝馬町に移って来たようである。明治8(1875)年に市ヶ谷監獄が設置されるまで使用された。周囲に土手・堀を廻し、南西部に表門、北東部に不浄門が設けられていた。
 牢屋敷の責任者である囚獄(牢屋奉行)は石出帯刀であり、代々世襲であった。その配下として40人~80人程度の牢屋役人、獄丁50人程度で管理が行われていた。(以上、「Wikipedia」参照)

時の鐘。日本橋石町に設置されていたこの鐘が鳴ると共に処刑が執行された、という。

大きな説明板。

江戸三縁史蹟

石時町時の鐘宝永時鐘
工第四号  指定書
  石町時の鐘一口
所在地 中央区日本橋小伝馬町    所有者 東京都中央区役所
銅鐘   高さ一・七米口径九三糎    宝永辛卯四月推名伊予藤原重休
右を都重宝に指定する。
     昭和二十八年十一月三日   東京都教育委員会
江戸時代最初の時の鐘で、二代将軍秀忠の時は江戸城内の西の丸でついていたが鐘楼堂が御座の間近くで差障りがある為、太鼓にかえて鐘は日本橋石町に鐘楼堂を造って納めたのが起源で、明暦三年、寛文六年、延宝七年と三度も火災にあい破損したので、その後身として宝永八年に鋳造されたのがこの宝永時鐘である。音色は黄渉調長久の音という。享保十年旧本石町三丁目北側の新道の間口十二間奥行十九間三尺の土地に鐘楼堂を建て、時銭として一軒につき一ヶ月永楽銭一文ずつ当鐚で四文ずつを商業地区の大町小町横町計四百十ヶ町から集めて維持していた。鐘役は最初から代々辻源七が当たっていたので、辻の鐘とも呼ばれていた。鐘楼下では俳人蕪村が夜半亭と名づけて句会を催して深川の芭蕉庵と共に有名であった。当時江戸には日本橋石町、浅草、本所、横川町、上野芝切通、市ヶ谷八幡、目黒不動、赤坂田町、四谷天竜寺の九ヶ所に時鐘があったが石町時鐘はその最古のものである。石町鐘楼堂から二丁程の所に伝馬町獄があった。囚人たちは種々な思いをこめてこの鐘の音を聞いたことであろうし、処刑もこの鐘の音を合図に執行されたが処刑者の延命を祈るかのように送れたこともあって、一名情けの鐘ともいゝ伝えられている。幕末時鐘廃止後は石町松沢家の秘蔵となっていたが、十思後援会が寄進を受けて昭和五年九月十思公園に宝永時鐘々楼を建設し当時の市長永田秀次郎殿で初撞式を挙行した後東京に寄進した。

吉田松陰先生終焉之地
吉田松陰先生は天保元年(西暦一八三〇年)八月四日長州萩の東郊松本村で杉家の二男として生まれた。幼い頃に吉田家をついだ。成人しての名を寅次郎という。吉田家は代々山鹿流兵学師範の家であったので、早くから山鹿流兵学その他の学問を修め、その道を究めて、子弟の教育につとめた偉人である。安政元年三月師の佐久間象山のすゝめで海外渡航を計画し、下田から米艦に便乗しようとして失敗、下田の獄につながれたが伝馬町獄送りとなって途中、高輪泉岳寺の前で詠んだのが有名な次の歌である。「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」同年九月まで約六ヶ月間伝馬町獄に留置されていたが、国元萩に謹慎の身となって帰って後の松下村塾での教育が最も偉大な事業であろう。薫陶を受けた中から有爵者六名、贈位者十七名、有位者十四名等多くの著名の士が出て中でも伊藤博文、山県有朋、木戸孝允等は、明治維新の大業に勲功のあった人物である。わが国歴史の上での三大変革といえば大化の改新、鎌倉幕府の創立、明治維新の三であるが、その明治維新にこれら松下村塾生の動きが大きな力となったことを深く考えたいのである。後松陰は安政の大獄に連座して再び伝馬町獄に入牢となった。安政六年七月九日江戸の長州藩邸から初めて評定所に召出されたが、その時「まち得たる時は今とて武蔵野よいさましくも鳴くくつわ虫かな」と決心を歌にのべている。しかし幕府の役人を動かすことが出来ず、その後の三回の取調べで死刑を覚悟した十月二十二日に父、叔父、兄へ宛て永訣の書を送っているがその中にあるのが「親思ふ心にまさる親ごころけふのおとづれ何と聞くらん」の一首である。また処刑の時の近づいたのを知って十月廿五日より廿六日の黄昏までかゝって書きあげたのが留魂録でその冒頭に「身はたとひ武さしの野辺に朽ちぬともとゞめ置かまし大和魂」十月念五日 二十一回猛士 と記してある。松陰はこれを同囚で八丈島に遠島になった沼崎吉五郎に托したが二十年後当時神奈川県令で塾生であった野村靖に手渡したものが現在残っている留魂録である。それによって当時の法廷の模様、訊問応答の次第、獄中の志士の消息等がわかり、自己の心境と塾生の行くべき道を示したもので崇高な松陰魂の指南書ともいえるものである。安政六年十月二十七日は処刑の日であった。揚屋を出る松陰は次の詩を高らかに朗吟して同囚の士に訣れを告げたのである。「今吾れ国の為に死す 死して君親に背かず 悠々たり天地の事 鑑照明神に在り」継いで刑場では「身はたとひ」の歌を朗誦して従容として刑についた。行年三十歳明治廿二年二月十一日正四位を贈位され昭和十四年六月十思小学校々庭に留魂碑が建設された。

江戸伝馬町牢屋敷跡
史第二十九号  指定書
  伝馬町牢屋敷跡
所在地 中央区日本橋小伝馬町一の五先    所有者 東京都(中央区管理)
地積   一三・四五坪(二二尺四方)
右を都史蹟に指定する。
     昭和二十九年十一月三日   東京都教育委員会
伝馬町牢は慶長年間、常盤橋際から移って明治八年市ヶ谷囚獄が出来るまで約二百七十年間存続し、この間に全国から江戸伝馬町獄送りとして入牢した者は数十万人を数えたといわれる。現在の大安楽寺、身延別院、村雲別院、十思小学校、十思公園を含む一帯の地が伝馬町牢屋敷跡である。当時は敷地総面積二六一八坪、四囲に土手を築いて土塀を廻し南西部に表門、北東部に不浄門があった。牢舎は揚座敷、揚屋、大牢、百姓牢、女牢の別があって、揚座敷は旗本の士、揚屋は士分僧侶、大牢は平民、百姓牢は百姓、女牢は婦人のみであった。今大安楽寺の境内の当時の死刑場といわれる所に地蔵尊があって、山岡鉄舟筆の鋳物額に「為囚死群霊離苦得脱」と記されてある。牢屋敷の役柄は牢頭に大番衆石出帯刀、御□(木+豕)場死刑場役は有名な山田浅右エ門、それに同心七十八名、獄丁四十六名、外に南北両町奉行から与力一人月番で牢屋敷廻り吟味に当たったという。伝馬町獄として未曾有の大混乱を呈した安政五年九月から同六年十二月までの一年三ヶ月の期間が即ち安政の大獄で吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎等五十余人を獄に下し、そのほとんどを刑殺した。その後もこゝで尊い血を流したものは前者と合わせて九十六士に及ぶという。これ等愛国不尽忠の士が石町の鐘の音を聞くにつけ「わが最期の時の知らせである」と幾度となく覚悟した事であろう。尚村雲別院境内には勤王志士九十六名の祠と木碑が建てられてある。
          昭和二十九年十一月
  江戸史跡保存協賛会

 平成二年三月公園整備に伴い由来板を作り直しここに設置するものである。中央区土木部公園緑地課
説明板付近から「時の鐘」方向を望む。喧噪のオフィス街から一歩入ったところ、小さいが静かな公園風景。
緑も多く、よく整備されている。
児童遊具はこじんまり。

 周囲には、「伝馬町牢屋敷」跡だけに、曰く因縁のありそうな寺院もあって、ちょっと異質な感じがする「震災復興小公園」でした。
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「十思スクゥエア」(旧十思小学校)。(震災復興52小公園。番外編。その4。)

2013-12-13 22:39:17 | 震災復興小公園
②十思公園(旧十思小)

 日本橋小伝馬町にある公園。「十思」と言う名前は隣接する廃校になった小学校の名前。今は「十思スクゥエア」という中央区の施設になっている。この小学校は明治11年創立。そのときの住所が「第一大区第一中学区第十四小区」と中国の司馬光の著書「十思之流疏」と掛け合わせた命名だそうです。「十思小学校」は関東大震災後の復興小学校のひとつで、その歴史ある建物を保存しようと区の施設として存続させることになった。公園は、学校と一体型の「震災復興52小公園」の一つ。

 旧十思小学校は明治11年に十思学校として開校しました。“十思”という名称は、開校当時の住所であった旧伝馬上町が第一大区第一中学区第十四小区に属する、つまり十四小区の学校であることからと、資治通鑑※1の「十思之疏」※2の十思の語と音が通じるところから「十思小学校」と名づけられました。この「十思之疏」は人の主となる者の守らなければならない大道であって、申し分のない枚処世訓であり、十思小学校の校風にも反映されていていました。

※1資治通鑑(しじつがん):
宗の司馬光の著書。周の威烈王から五代の終わりまで、113主1362年間の歴代君臣の事跡を編年体に編纂した書。治世に利益があって歴代為政者の鑑(かがみ)とするに足る意

※2十思之疏(じっしのそ):
唐の名臣魏徴が、大宗皇帝にさし上げた十か条を列挙した、天子のわきまえなければならぬ戒め

見可欲則思知足 欲すべきを見れば則ち足るを知ると思う
:欲しいと思ったときでも、足りれば十分であることを知って、いたずらに多くをのぞまないこと。

将興繕則思知止 将に興繕せんとすれば則ち止まるを知ると思う
:工事などを起こすにあたっては、止めるべき程度を知ること。

処高危則思謙降 高危に処すれば則ち謙降を思う
:高い地位にいる人ほど、へりくだるようにしなければいけないこと。

臨満盈則思ユウ*損 満盈に臨めば則ちユウ*損を思う
:みちみちている時には、心をおさえておごることがないようにすること。

遇逸楽則思ソン**節 逸楽に遇いては則ちソン**節を思う
:遊びくらすようなことは、ひかえて少なくするように心がけること。

在宴安則思後患 宴安に在っては則ち後患を思う
:宴をはって楽しむときも、後にわずらいや心配があることを考えること。

防壅敝則思延納 壅敝を防ぐには則ち延納を思う
:りっぱなよい帝王といわれるためには、かしこいけらいをもちいて、そのいましめを受け入れること。

疾讒邪則思正己 讒邪を疾むには則ち己を正すを思う
:よこしまで、人をそしるようなことをにくむには、まず自分自身の言動を正しくすること。

行爵賞則思因喜而僣 爵賞を行うには則ち喜によって僣することを思う
:位や賞を与える時には、喜びのあまり、分をこすようなことのないようにすること。

施刑罰則思因怒而濫 刑罰を施すには則ち怒によって濫することを思う
:刑や罰を行う時には、怒ったあまりに、不適当な刑や罰にしてしまうことのないようにすること。

*本来の字は「手辺」に「邑」、「ユウ損」=自分の心を抑えへりくだるの意。
**本来の字は「手辺」に「尊の旧字体」、「ソン節」=へりくだるの意

 「おやじ」注:どれも、今の為政者(自公政権のおごりのままのアベ政権運営)に突きつけたい教訓です。

 「十思スクエア」として生まれ変わった校舎は昭和3年に完成した建物で、それ以前は開校から度重なる火事などの災害により焼失しています。
 新しい校舎になってからは、戦火をのがれ平成2年3月に廃校となるまで、多くの卒業生をおくりだしました。廃校後、生徒たちは日本橋小学校に統合され、小学校としての役割を終えた校舎は、日本橋特別出張所仮庁舎として使われた後、平成12年に改修工事を行い「十思スクエア」として生まれ変わりました。
 また、この建物は関東大震災後の復興小学校の特徴である公園を隣接しており、この十思公園にはこの地の歴史を伝える史跡があります。江戸時代伝馬牢屋敷がここにあったため、安政の大獄により処刑された吉田松陰関連の碑が並んでいます。これらは以前、十思小学校の校庭にあったものです。また、十思公園には江戸城下に時刻を知らせていた本石町(現、日本橋室町3丁目)の時鐘が移転されています。
(「」HPより)

小学校として使用されていたころの建物。(「同」HPより)
現在のようす。

旧東京都中央区立十思小学校(現中央区十思スクエア)
 ◎設計:東京市
 ◎施工:鴻池組
 ◎竣工:昭和3(1928)年12月30日
 ◎構造:鉄筋コンクリート造り3階建て
 ◎所在地:東京都中央区小伝馬町5-1

❖東京都選定歴史的建造物
 旧十思小学校は明治十一年に開校し、現在使用されている建物は、関東大震災を機に、耐震・耐火性の高い鉄筋コンクリート造りの校舎として建て替えられたものである。
 震災復興期につくられた装飾性の強い小学校建築の代表作であり、その中でも特に地域とのつながりを重視した、アーバンデザインの優れた建物として評価が高い。表現主義と呼ばれる建築様式で、カーブさせた隅部、アーチ窓、半円形の円柱等の意匠に特徴がある。
 正面玄関口がある南西隅部は特にカーブが大きく、全面に小広場があるなど建物の顔となっている。
 また、隣接する公園は、震災復興期に同時に計画されたものである。
 平成二年三月の廃校後、改修工事を経て、平成十三年からは区の複合施設「十思スクエア」として広く区民に利用されている。
半円形の窓、円柱に注目。
円柱を取り入れた外壁(西側)。
曲線にしてある建物の角。
風合いのある側面。
屋上縁のデザインも
凝っている。
独特の校舎の造りとなっていた。


台東区立坂本小学校とは窓の形こそ異なるが、円柱を用いた外壁はよく似ている構造。



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中央区立常盤公園。常盤小学校。(震災復興52小公園。その17。)

2013-12-12 19:13:51 | 震災復興小公園
 中央区編。神田から小伝馬町、馬喰横山まで。「江戸通り」を西から東へ、それから南に折れて。3箇所の探訪。なかでも、震災復興校舎が現役で活用されている二つと学校と一体化しているようすの一つ。常盤→十思→久松。
1970年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。左から「常盤」、「十思」、「久松」。久松小の右下にある広い公園は、関東大震災復興事業の一環としてつくられた「浜町公園」。隅田公園(台東区、墨田区)、錦糸公園(墨田区)とともに計画され、1929(昭和4)年に開園した。現在、公園内のレイアウトはかなり変わっている。


①常盤公園(常盤小)
線路際の道と学校の建物にはさまれた小さな公園。藤棚はしっかりとあります。

常盤小学校
都内でも有数の歴史を持つ学校の1つ、今年で140周年。

沿革
1873年(明治6年)3月 - 幼童学所と称しとして本町一丁目13番地にて創立。
1873年(明治6年)6月 - 「第一大学区第一中学区第四番小学常盤学校」として本町二丁目5番地にて官立となる。
1881年(明治14年)8月 - 本革屋町5番地に男女合併の校舎落成。
1895年(明治28年)3月 - 「常盤小学校校歌」が出来る。
2002年(平成14年)11月 - 創立130周年記念式典を行う。
2008年(平成20年)3月 - 創立135周年記念式典を行う。(「常盤小」HPより)

1880年代のようす。赤丸が、「常盤小学」(「同」より)。
 関東大震災の後に鉄筋コンクリートづくりの校舎で再建されており、復興小学校の1つに数えられている。この校舎は東京都選定歴史的建造物に指定されている。


 東京都選定歴史的建造物
 中央区立常盤小学校 
            所在地 中央区日本橋本石町4-4-26
            設計者 東京都
            建築年 昭和4年(1929)

 常盤小学校は、明治6年に開校し、現在使用されている建物は、関東大震災を機に、耐震耐火性の高いコンクリート造の校舎として建て替えられたものである。
 震災復興期の小学校建築は、装飾性を加味したスタイルと、機能を重視したインターナショナル・スタイル(国際建築様式)の二つの傾向があったが、この校舎は前者の代表作である。
 アーチのついた出入口、半円形の窓とその窓台、半円形の庇など幾何学的な装飾が特徴で、建築様式としては表現主義と呼ばれる。
 ビルが林立する中で、今なお往時の景観を残している。

 東京都


校庭正門。

 近代産業遺産 平成20年 経済産業省

 日本銀行、日本橋や三越百貨店日本橋本店等が周辺にある。
(「常盤小」HPより)


 立地条件の良さと、校風の良さから教育に関心があり、ほとんど、学区外から越境通学することが当たり前のように行われている。スクール・バスが月島方面から運行されている。
 進学熱の高い家庭が多いため、卒業後は中学受験をして、難関国私立中高一貫校や都立中高一貫校に進学する生徒が他の公立小学校と比べて多い。(この部分、「Wikipedia」参照)

校舎南側面。窓の意匠に注目。
右奥が玄関。アーチに特徴がある。
東側の校舎。
 その東側壁面。
左奥が、体育館(講堂)。
屋上の庇に注目。

《参考》
台東区立黒門小学校・校舎西側。同じようなデザインの窓。


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城東電車。越中島貨物線。弾正橋。石田波郷。「南砂緑道公園」。その2。

2013-12-11 21:28:19 | 鉄道遺跡
 ぐるっと曲がって、北東のはずれ付近。この先は、越中島貨物線のガードをくぐればもう少しで「明治通り」、というところに、車輪のモニュメント。

説明板
 この緑道公園は、もと都電(城東電車)の走っていた用地にみどりといこいの散歩道として建設されたものです。
 城東電車は大正9年から設置され、この緑道公園の区間は昭和2年にしかれましたが、昭和47年11月に廃止されるまでチンチン電車の名称で広く親しまれていました。
 この車輪は都電に使用されたものです。車軸 昭和28年8月製造/車輪 昭和40年10月(ギア側)製造・車輪 昭和41年4月(アクスルカラー側)製造



 「砂町線(すなまちせん)」は、かつて亀戸・水神森と東陽町・洲崎を結んでいた都電の路線で、都電29系統と38系統として東京都交通局によって運営されていました。
 もともとは大正2年(1913)に設立された「城東電気軌道」という私鉄の路線で、1920年に一部区間(水神森 - 小名木川間)が開通し、1929年に全線開通しました。1938年には東京地下鉄道と合併、1942年に東京市電気局に買収されました。1972年11月12日に全線廃止。もう一つの路線は、大正14年(1925)全線開業の江戸川線(錦糸町・西荒川間と東荒川・今井間)。

停留所
 水神森―竪川通―竪川―大島三丁目―大島一丁目―小名木川―北砂三丁目―北砂二丁目―境川―仙台堀川―南砂三丁目―第四砂町小学校―南砂二丁目―東陽公園前―洲崎停留場

全盛期の都電路線図(「Wikipedia」より)。
 現在、運行している都電は、荒川線のみ。

 そこで、廃線跡について(以下、「Wikipedia」参照)

 都電は道路を運行していたため、廃線跡はほとんどの場合道路に埋もれてしまい、現存していない。しかし、一部の専用軌道など、廃線跡として残っているものもある。

①船路橋
 港区芝浦二丁目にあった、都電の車両工場へ繋がる専用の橋である船路橋は、21世紀初頭まで残っていた都電の数少ない廃線跡であった。対岸の工場跡には難民やホームレスの収容施設が建てられたこともあった。しかし、工場跡地を含む一帯が芝浦アイランドとして再開発されるのに伴い撤去された。
 2007年5月28日に同じ場所に掛け替えられた新しい船路橋には、来歴にちなんでタイルでレールをかたどった装飾が施されている。

②亀戸緑道公園・竪川人道橋・大島緑道公園
 砂町線は水神森から大島一丁目までは明治通りに沿うような形の専用軌道となっており、途中竪川を専用橋で渡っていたが、廃線後は竪川を境に以北は亀戸緑道公園、以南は大島緑道公園として整備され、専用橋跡は「竪川人道橋」として歩行者専用橋に転用された。現在は橋の北詰に都電をあしらったモニュメントとともに説明板が置かれている。

③南砂緑道公園
 砂町線は南砂三丁目から南砂二丁目までも専用軌道になっていた。南砂三丁目交差点附近から西へ入って「小名木川貨物線」を潜り、江東南砂団地(旧:汽車会社東京製作所工場跡地)をぐるりと囲むように東陽町まで延びていた専用軌道跡は、南砂緑道公園として整備されている。

④西荒川付近
 小松川線も亀戸九丁目より国道14号から外れて終点の西荒川まで専用軌道が続いていた。廃線後もしばらくの間空き地となっていたが整備され、江東区側の大部分は「浅間通り」と言う名称の道路として整備された。旧中川を渡っていた専用橋跡は1995年同じ場所に「亀小橋」という名称の道路橋が架橋された。道路橋から先は再開発事業に伴い、江戸川区さくらホールと新築移転後の小松川第二小学校の敷地、区道、病院の敷地にそれぞれ取り込まれ、また終点西荒川駅跡は首都高速7号小松川線の高架脇の側道となっているが、これも再開発事業に伴い周囲が更地となり、かつ2002年までにスーパー堤防として整備されたため地形も変形しており、面影はまったく残っていない。

⑤一之江線
 東荒川より今井橋までの全線は今井街道のすぐ南側を走る専用軌道だった。現在の起点の東荒川は首都高速7号小松川線の高架下・神社脇で、南に折れる形で道路として続いている。小松川境川親水公園を跨ぎ、東小松川二丁目西児童遊園を経て、船堀街道から先は一旦民地(宅地)に取り込まれる。途中廃線跡に設置された貞明児童遊園がある。また、一之江境川親水公園の上にガーダー橋が掛けられているが、都電設置時と方向・位置が異なっている。この先廃線跡は保育園敷地や道路となり、また新中川開削時に水没している。終点の今井橋は新大橋通りの高架下付近となっている。なお、都営新宿線の一之江駅は一之江線の一之江電停跡ではなく、瑞江電停跡付近に立地している。

⑤池ノ端地区
 上野公園前より池ノ端二丁目までの区間。不忍池の畔の専用軌道跡は、入り口付近が下町風俗資料館となり、そのまま上野動物園までは公園内歩道として跡を辿ることができるが、モノレール高架下より先は動物園敷地のほか、上野グリーンクラブ敷地等の民地となっている。池之端二丁目電停跡は、児童公園として都電が展示されている。

⑥新宿遊歩道公園「四季の路」
 靖国通りから大久保車庫に向かう回送線用専用軌道の跡である。もともとは13系統が運行されていたが、1948年12月25日に13系統は明治通りから四谷三光町交差点で靖国通りに入る路線に付け替えられ、従来の軌道は翌1949年4月1日より回送用軌道として運用された。新宿区役所前交差点から新宿六丁目交差点(新田裏)へ抜ける遊歩道として整備されていて、新宿ゴールデン街を囲むような線形となっている。

⑦角筈終点
 13系統は角筈から先も新宿通りに線路が向かっており、新宿通りとの交点に角筈終点があった。1953年6月1日に廃止され、跡地は区画整理され痕跡を残しておらず(現在の靖国通りから新宿通りに向かう道路はやや東側に位置している。)、2013年現在は丸井新宿東口ビルが建っている。

⑧大久保車庫周辺
 東大久保(抜弁天)より新田裏(新宿六丁目交差点)までの区間。牛込より新宿駅方向にかけて下る坂道で、途中に大久保車庫があった。道路として整備され、現在は牛込より新宿駅方面への一方通行道路となっている。

⑨喰違見附
 若葉一丁目から赤坂見附までの区間。専用軌道は両端から坂を下る形で見附跡のトンネルをくぐっていた。なお、このトンネルは都電唯一の専用トンネルだった。1963年7月にトンネルは廃止され、赤坂方は首都高速4号新宿線の敷地となり、トンネル入口は首都高速の赤坂トンネル入口に改築されている。四谷方は桜並木となっている。1963年より1967年12月までの同区間は外堀通り脇の専用軌道を単線で運行していたが、こちらは外堀通りの歩道となっている。

⑩渋谷駅
 1911年8月3日、前身の東京市街鉄道が渋谷地区まで延伸した際の終点は「中渋谷」であった。宮益坂下から渋谷川を渡り、山手線をくぐらずそのまま直角に向きを変えて山手線に沿い、現在の玉川通りを越えたところに中渋谷終点が位置していた。2013年現在は東急東横線の高架廃線跡となっている。
 1923年3月29日より1957年3月25日まで、青山線の渋谷駅前電停は渋谷駅西口に位置していた。1938年からは東急百貨店1階に食い込むように存在していたが、これは従来あった線路の上に建物が建築されたためである。建物は現存しているが、改装されており痕跡は残っていない。
 1957年3月26日以降は天現寺橋線の渋谷駅前電停に集約された。このターミナルは、都電廃止後形状を若干変更しただけで(34系統用停留所をバスに転用するため、行き止まりとなっていた部分を通り抜けられるようにした)そのまま都営バスのバスターミナルに転用された。このターミナルは長らく使用されたが、1990年代後半に明治通りの交通運用改善を狙った駅前広場整備が実施され(バスターミナル部を西側、一般車線を東側に集約)、その際、残置されていた軌条、架線柱などはすべて撤去された。

⑪恵比寿線
 戦前に廃止された区間であり、天現寺橋より伊達跡までの間は外苑西通りになっており、その先は一部が道路になっているほかは民地(宅地)になっている。

⑫広尾線
 外苑西通りの道路敷地になっているが、天現寺橋から西麻布を経て北青山一丁目までは専用軌道であった。

 併用軌道を廃止する場合、事業者は原状を回復する必要があるため、原則として軌条類は撤去される必要がある。しかし、都電の大規模廃止が実施された時期は、全国的に事業者の経営問題による軌道の廃止が相次いでおり、現状復旧費用が事業者の収支をさらに悪化させる懸念があったことから、特例として軌条の上に5センチのオーバレイ舗装を行うのみで原状復旧とみなしてよいこととなっていた。このため、経年により線路のある部分が浮き出し、軌道がわかるような箇所がいくつかあったが、そのような箇所は舗装改修の際の撤去や街路拡幅工事により2000年代前半までに概ね処理された。 現在も残っている部分としては、墓地下 - 学術会議前の港区道、橋梁に組み込まれている部分(中央区築地橋、勝鬨橋)などがある程度である。なお、銀座通り(通り三丁目 - 新橋)については、使用していた軌条をすべて共同溝の立杭に転用しているほか、御影石は整備のうえ歩道の舗石としてリサイクルしている。

 なお、②~⑥、⑧は現地に出向き、確認済み。残りは、機会をつくって、ぜひ探索します。ただ、渋谷駅付近は変遷が激しくいったいどうなっているのか? 「渋谷川」跡をたどる機会にでも探ってみようかと。

「越中島線・城東電軌こ線ガード」とある。
ガード。もともとは複線だったが、現在は単線で運行。この南側で「汽車製造会社東京製作所構内」への引き込み線があった。その東側には「小名木川(貨物)駅」。
越中島方向から亀戸(新小岩)へ向かう貨物列車(気動車)。タイミングよく出会えました。
ガード上を通過する気動車。

「明治通り」側から来た道を望む。正面がこ線ガード。
それまでの専用軌道から「明治通り」上の併用軌道となって、北上する。

亀戸に向かう途中でみかけた案内図。そこには、小名木川・越中島貨物線の引き込み線(明治通りを越えて東南に向かう)が残っていました。赤丸の部分。今はまったく痕跡はなさそうです。

旧弾正橋モニュメント。
 弾正橋は、大正時代、城東電軌鉄道の鉄道橋として砂町運河に架設され、その後、明治通りの道路整備に伴い、昭和5年に道路及び鉄道橋として生まれ変わりました。
 弾正橋の名前の由来は、もともと境川に架かっていた橋の名前でしたが、大正13年からの震災復興事業のために境川が埋め立てられ、取り壊されたことを惜しみ、つけられたものです。
 なお、現在の南砂一帯は江戸時代から明治時代にかけ砂町新田と呼ばれ、その中に八つの地区があり、その一つが「弾正」でした。・・・
 平成の世となり、弾正橋も撤去の必要が生じ、ここに橋名板と当時の橋の面かげのレリーフを残し、橋の歴史をとどめるものとしました。 平成8年9月 江東区

 砂町運河に架けられた時の名前は何だったのか、など、命名・来歴(いきさつ)が今ひとつわかりにくい。※「城東電軌鉄道」というのも、おかしい。正式には「城東電気軌道」。

1917~24年(大正時代・関東大震災前)(以下、「今昔マップ」より)。「弾正」という地名が見える。上方に「境川」が流れている。
1927年~39年(昭和初期)。「境川」は埋め立てられ、道路となっている。城東電車(上の方に、「城東電気軌道」とある)の鉄橋が「弾正橋」。まだ「明治通り」がない頃。
 明治通りは1927年(昭和2年)の都市計画に基づき、東京初の環状道路となる「環状5号線」として順次、建設整備工事が始まった。
1965年~68年(昭和40年代)。「砂町運河」が「仙台堀川」となっている。その跡が、現在の「仙台堀川公園」。都電は、健在。
1992年~95年(昭和後期)。「仙台堀川」が公園として着々と整備中の頃。すでに都電の線路はない。

砂町運河跡
 区民の憩いの場として親しまれているこの仙台堀川公園は、かつて砂町運河として民間の手により開削された、例の少ない運河です。
 砂町が農村から工業の町へと発展していくなかで、船による輸送力の向上を見越して運河の開削が計画され、大正8年(1919)に東京運河河土地株式会社が創立されました。大正11年(1922)に着工し、小名木川の合流点から現在の都立東高校の正面にあたる東砂7-19までの南北の一線、続いて旧舟入川合流点から横十間川合流点までの東西の一線が昭和8年(1933)までに完成しました。
 昭和23年(1948)、東京都に移管された砂町川と名称を改め、昭和40年(1965)、河川法の改正に伴い、仙台堀川の一部となりました。 
 昭和30年(1955)ごろまでは、周辺の製材工場の木材が水面に浮かぶ光景がみられましたが、砂町が工業地帯から住宅地へと変貌をとげると、運河としての役割も終わり、昭和55年(1980)に埋め立てられ、親水公園として生まれかわりました。 平成10年(1998)3月 江東区教育委員会

明治通りと清洲橋通り(旧境川)との交差点。
境川の変遷図。

小名木川沿いに新しくできた石田波郷の句碑。「雪敷ける町より高し小名木川」(「砂町を愛した俳人 石田波郷生誕百年記念碑」)




石田波郷 略歴

大正2年(1913)愛媛県温泉郡垣生村(現・松山市)に生れる。本名・哲大(てつお)
昭和12年(1937) 俳誌「鶴」創刊、主宰者となる
昭和21年(1946)~33年(1958)江東区北砂町1-805(現・北砂2丁目付近)に住む
昭和34年(1959) 朝日新聞俳壇選者となる
昭和44年(1969)『酒中花』により芸術選奨文部大臣賞受賞

波郷が砂町時代に詠んだ句(抜粋)

はこべらや焦土の色の雀ども(S21)
百方の焼けて年逝く小名木川(S21)
砂町は冬木だになし死に得んや(S22)
一樹無き小学校に吾子を入れぬ(S25)
春三日月も砂糖工場の灯も淡し(S28)
葛飾に歳時記を閉づ野火煙(S33)

 以上、HPより。

小名木川。中央奥が小名木川・越中島貨物線の鉄橋。
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運転免許更新。汽車製造。大砲鋳造。「南砂緑道公園」。その1。

2013-12-10 19:30:35 | 鉄道遺跡
 運転免許更新。今度こそ「ゴールド」かと思いきや、相変わらずのスピード違反などがあだとなり、またしても2時間講習の対象へ。ゴールド免許は夢の夢。
 こうして、先日、「東陽町」の「江東運転免許試験場」まで行ってきました。思ったよりも空いていて順調に終了。周りを見回すと、けっこう同年配の年寄りも多い。この世界にも高齢化社会が訪れているようです。
 70歳を過ぎると、教習所に行って実地運転が課せられることになるとか。免許返上の手続きのしかたとかの相談者もいたりして、だんだん身につまされる様相。
 かつては「ヒヤリハット」事故、みたいな話があったが、そんな用語はなくなっていました。講習内容も、運転への注意喚起はもちろんですが、自転車の運転にまつわる話が目立つようです。免許書き換え時だけではなく、高齢者対象の運転安全教室とか自転車講習(保険加入なども含めて)など、こまめな地域での開催が必要性をつくづく感じました。


 せっかくの冬晴れ。かつての城東電気軌道(都電)跡の「南砂緑道公園」を歩き、亀戸まで。
 ここには、広大な敷地を擁した「汽車製造会社東京製作所」が存在していた。東京製作所で製造した車両は小名木川駅から「越中島支線」をD51形牽引で発送されていたとのこと。
 都電は、東陽町(須崎)から「汽車製造」の敷地の西側をぐるっと回って北を通り、亀戸方向に向かっていました。(1972年に廃止)。

汽車製造

1896年(明治29年):設立。
1899年(明治32年):大阪市西区島屋新田(現此花区島屋・安治川口駅前)に工場を開設(2013年現在は新大阪郵便局、佐川急便大阪店が建っている。)。
1901年(明治34年):客車・貨車製造の大手であった平岡工場(南葛飾郡本所、後 東京市城東区砂町)の創業者であり、社長の平岡凞を、副社長に迎える形で両社は合併、社名を大阪汽車製造合資会社に改称。それぞれの工場を大阪本店、東京支店とした。合併前同様、大阪本店は機関車、東京支店は客車・電車・貨車を主に製造した。
同年、製造番号1番が完成。台湾総督府鉄道部向けE30形という車軸配置2-4-2(1B1)形(先輪1軸+動輪2軸+従輪1軸の意味)タンク機関車であったが、輸送中の海難事故により水没している。 1936年(昭和11年):東京・丸の内に本社を移転、大阪本店を大阪支店に改称(東京支店は変更なし)。
1941年(昭和16年)に完成したC59 1で、製造番号2000番を達成した。
1944年(昭和19年):二箇所の支店(工場)をそれぞれ大阪製作所、東京製作所に改称。
1948年(昭和23年):戦後、日本国有鉄道(国鉄)としては最初で最後となった新製蒸気機関車のE10形5両を製造した。
1954年(昭和29年):帝都高速度交通営団(営団)丸ノ内線向けに300形の製造開始
1963年(昭和38年):東武鉄道向け車両としては最後の8000系電車2編成(8104・8105F)が完成。8000系としては最初で最後の製造となった。
1964年(昭和39年):東海道新幹線0系電車の製造開始。営団東西線5000系の製造開始。
1968年(昭和43年):宇都宮工場(栃木県河内郡河内町、現:宇都宮市)を開設する。同工場では貨車の製作を担当した。
1970年(昭和45年)12月:営団千代田線・6000系第12・13編成が完成。営団向けの車輌としては最後であった。
1972年(昭和47年):神戸市に本社のある川崎重工業と合併。同社を存続会社とし汽車製造株式会社を解散する吸収合併で、会社設立76年目で終結。以後、当時製造中の103系電車や新幹線0系電車なども製造権は川重へ移転することとなる。
最終製造は3月27日に出場した国鉄DE10 1171(製造番号3572)。私鉄最後の製造車両は京成3300形電車3353 - 3356号であった。なお、この間に製造された機関車は3,651両、電車は1,854両、客車は2,414両である。 (以上、「Wikipedia」参照)
 川崎重工業と合併後、東京製作所も廃止され、公営住宅や公立学校などが建てられている。

工場があった1965年ころのようす(「今昔マップ」より)。都電も健在でした。


1970年のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。工場廃止後、都電も廃止され、広い敷地跡に公営住宅、公立学校の建設がかなり進んでいます。

現在のようす(「今昔マップ」より)。
赤い線が都電跡の緑道公園。
「東陽町」側公園入口。
「永代橋通り」を望む。
澄み切った冬晴れの空。地元の方々の手による管理も行き届いた、緑豊かな公園です。


サラリーマン達も昼休み、紅葉の下で憩いのひととき。
長州藩大砲鋳造所跡。 
説明板。

 パリのアンヴァリッド(廃兵院)に、長州藩主毛利家の紋章がある青銅の大砲が保存されています。この大砲には、次のように刻まれています。
十八封度礟 嘉永七歳次甲寅季春/於江都葛飾別墅鋳之
(じゅうはちポンドほう かんえいしちさいじこういんきしゅん/こうとかつしかべっしょにおいてこれをちゅうす)
 「江戸切絵図」を見ると、現在の南砂2、3付近に長州藩主松平大膳大夫の屋敷があったことがわかります。「葛飾別墅」とは、この屋敷をさしています。
 長州藩では、嘉永6(1853)年12月、三浦半島の砲台に備えつける大鵬を鋳造するため、鋳砲家を江戸に呼び寄せました。翌7(安政元)年正月、幕府の許可を得て、佐久間象山の指導のもと、砂村の屋敷内で大砲の鋳造を始めました。
 当時、尊皇攘夷の急先鋒だった長州藩は、この大砲を三浦半島から下関移し砲撃により関門海峡を封鎖しました。これに対して、元治元(1864)年イギリス・アメリカ・フランス・オランダの連合艦隊が篠の堰の砲台を攻撃、陥落させました。パリの青銅砲はこの時、フランス軍により海に渡ったものです。 平成5年3月 江東区教育委員会
久々に不思議な絵のシールを見つけました。赤丸のところ。
これ!

「尊皇攘夷の急先鋒だった長州藩。」とあります。赤丸が藩邸。長州の今のアベさん。「尊皇」はもちろん、攘「夷」とは反「中国」「韓国」「北朝鮮」ということに。


学校の校舎の一角。
紅葉と落ち葉と快適な遊歩道。
かつての線路跡をイメージしたカーブ(当時、北西の角はかなりの急カーブでした)とか停留所の雰囲気。
高層の公営住宅。
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敵の敵は味方。離合集散は政界の常だが。

2013-12-09 21:59:16 | つぶやき
橋下氏、江田新党と「巨大な塊つくる」 維新“発展的解消”も(産経新聞) - goo ニュース
 巨大与党の前で浮き足立つ野党、右往左往。これで、橋下さんがイシハラさんを切れば、イシハラ(超保守派)さんたちは「維新」も東西に分裂して、与党入りも。そのままなら、またしても異質分子の集まり、野合集団と化して、瓦解するのは、早晩目に見えている。出て行かれた渡辺さんみんなも、実は与党入りを狙っているのかいないのか、どう出るか分からない。民主党は、対応を巡って、これでまたまた分裂騒ぎでしょう。
 「残るも地獄、出るも地獄だったら、出る方を選んだ」と離党議員。新党に期待しないが、期待せざるを得ない議員たち。「ほくそ笑む自民党」が見え見えの分裂劇。
 だったら、江田さん、離党への大義名分を失わず初志貫徹。アベ・ファッショ(擬似)政権の前に、何とか一矢を報いてもらいたい。今の政治情勢に大きな危機感、不安感を持っている国民を、少しでもよい方向、明るい方向へ向けてほしいのだ。
 まだまだ衆議院選挙は先の先。党の綱領や政策、党名など、国民が一票を投じるまでの3年間。新党が生まれてはすぐつぶれる、その轍を踏むことなく、先のことを視野に入れてやることが大事ではないか。
 そうでなければ、渡辺さんのいうように、一時のあだ花に終わってしまうだろう。江田さんを除き、選挙基盤のほとんどなさそうな比例区選出の方ばかり。国民の気ままな投票行為(「風」)によって選ばれた方も多いようだ。しかし、そうした風はもう吹くことはないだろう。二度、こりごりした国民は、バカではない。
 

 
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難儀ですね。でも、「憂さも積もれば病となる」。お体ご自愛のほどを。

2013-12-08 21:40:00 | じじばばがゆく
 12月6日。またしてもいつもの善男善女が一堂に会しての、・・・ただの「飲み会」。爺婆が行き惑ひつつあった雨の「日暮里」から早2ヶ月。健康談議が一通り、そして親の介護。90歳を越えて百歳にならんとする親たち。

 自分を生んでくれたお袋だからと下の世話を苦にせずしている善男。今日は、これがあるので、妹に来てもらっているんだ。・・・

 兄貴も弟も死んで、今は兄貴のヨメさんに面倒を見てもらっている善男。それが心苦しくて、そう考えていると、夜もすぐ寝付かれない。・・・

 旦那の両親、こっちの親、順番に見送って、やっと今がある善女。母親が施設に入っているけれど、長い間仕事と育児と面倒でほとんど暇がなかった。今でも、泊まりの旅行なんかいけないし。・・・

 親の方は何とかなっているけど、孫の面倒がけっこう大変な善女。大変よ、まだ結婚しない息子もいるし。・・・

 ・・・。・・・。

 愚痴の一つや二つ、誰にもあるけれど、まだまだ口に出せる苦しみ、悩みはたいしたものじゃない。さ、いいから飲んで、食べて。・・・

 この前、お風呂で倒れて、救急車で運ばれ、しばらく意識不明だった。旦那から「行くなよ」と声を掛けられて気がついた。原因不明らしいの。その代わり肋骨にひびが入ったのよ。うちだったら「さっさと行け!」って言われれそうよ、と他の善女にとても大変うらやましがられながら、それでもたばこを吸い、胸をさすりつつ淡々と話す善女。

 隣の家の息子さん、偉いわよ、障害を持ったお子さんをかかえている女性と再婚して面倒をみているんだって。それを認めた両親もたいしたものだわ。と目をくりくり輝かせて語る善女。

 おかげさまで、私立高校で非常勤講師をしているよ、もう3年。日本史、世界史、何でもやらされているらしいが、と明るく語る善男。ご当人、50代後半でリストラされ、ハローワーク通いだった。今やみんなリストラされて同じ境涯ですよと慰められていたのも、ついこの間。

 糖尿、心筋梗塞って、食事には気をつけていますよ、そりゃあ、と元気いっぱい、風邪をひいている善男を巧みに遠ざける、村一番の大金持ちの善男。

 大病を患ったお姉さんのこと? 今は小康状態で数値も下がって少し安心しています。にこやかに話す、唯一、地元の村に住む善女。 
 

 ここまでの段取りを進め、いつものように相変わらず適当に人数を予約し、他の善男たちには連絡もせず、それでも何とかつじつまを合わせることができた善男。おい、予定通り、あと二人来たら席がなかったぞ、という突っ込みも気にせずにいる、いつもの仕切り屋さん。

 
 こうして、6時から約3時間。話が尽きないまま、カラオケへ。そして、〆には、「マイ・ウエー」。
 
 さて、本日の飲み会の出席者は全部で何名だった? 善男善女のそれぞれの数は? 平均年齢は?

 ところで、我が家の善男・タロウ17歳。つい最近、大脱走して10時間過ぎて戻ってきた、という不届きな一面もある。

 

 次回は、来年7月。日帰り温泉旅行へ行く予定。暑いからイヤだわ。バカじゃないの、今更、混浴でもないでしょう。足湯でいいから、いいから。
 箱根はどう、鬼怒川は、遠すぎる、・・・、小田急線でなかったっけ? 鶴巻温泉。そこにしようか? 
 でも、たぶん落ち着く先は、村の近くにある、いつもの飲み屋でしょう。

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「ダニー・ケイとニューヨークフィルの夕べ」(古きよき映画シリーズ。その49。)

2013-12-07 20:53:06 | 素晴らしき映画
 ダニー・ケイ(1913-1987)が亡くなってから26年。そして、今年が生誕百年。


 映画「5つの銅貨」(実在のコルネット奏者レッド・ニコルズの奇跡的なカムバックを軸とて、彼と妻ボビー、娘ドロシーとの家族愛を描いた映画。)を観て、とても感動。コメディアンというくくりではとらえられない俳優。人情の機微を直感的につかむことができるセンスにはついこちらも引き込まれ、その音楽性の高さと洒脱な演技についほろりとさせられました。
 そうした人情味のあふれるシーンがこの映像でも、随所に見られます。
 「自分は楽譜を読めない」と公言していますが、

 しかし、数多の名手がいるニューヨークフィルハーモニックを手玉にとり、手中に収めていく、その音楽的センスはお見事。合間、合間の語りも抜群。これぞ稀代のエンタテイナーという印象。指揮の身振り手振りはお見事。巧みに指示し、強弱などのつけかたなど、演技力はまさに天性のもの!

 団員も負けずに乗りに乗っての演奏。

 「YouTube」にUPしてくれた方がいて、それをまたまた見させてもらいました。本当に何度観ても飽きません。10に分割してUPされていますが、日本語字幕付きで、十分に楽しめます。実に楽しい「クラシック・コンサート」。
観客みんなを巻き込んでの演奏会。

終幕近く、ニューヨーク・フィルの常任指揮者・音楽監督のズービン・メータメータを呼び、絶賛。

 トランペット4人とダニーケイのスキャットによる、「ベニスの謝肉祭」のブラスバンド(スウィング)アレンジ

 ハエ叩きを持って「リムスキー」さんと「コルサコフ」さん(もちろん冗談ですが)の「熊蜂の飛行」を指揮する


 お得意のコミカルな演技で聴衆を楽しませる見所が、盛りだくさん。
 演奏の合間に、団員の中にいる韓国人、日本人に近づき、「アリラン」「狸囃子」というそれぞれの民謡を二人で歌うシーンなども出色。

最後は、「星条旗よ永遠なれ」ですが、まさに、すべての国々の人間を受け入れる、古き良き、自由な国・アメリカを称讃しています。(彼自身が、移民の子どもでした。)

・・・


 1981年9月に行なったニューヨーク・フィルとの演奏会『ダニー・ケイとニューヨーク・フィルの夕べ』。

 かつては、同名のタイトルでVHSやレーザーディスクで発売、貸し出しされていましたが、現在は廃盤、中古品が高値で取り引きされている、らしいです。

 名作『五つの銅貨』と同様、何とかDVD化してほしいと思います。

※画像は、すべて「YouTube」より借用。

 それにしても、「古きよき」などと「郷愁」にひたっているだけでは何とも歯がゆい、今の世の中です。日本しかり、アメリカしかりですが。
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東陽公園。扇橋公園。(震災復興52小公園。その16。)

2013-12-06 22:59:20 | 震災復興小公園

④東陽公園(東陽小)
永代橋通りと高層ビルに囲まれた公園。
こぢんまりとしたテラス。立ち上がった男性の頭がつきそう。
右奥が「東陽小学校」。
学校との関連は薄い。
街中の公園としては貴重な存在か。
面白そうな多面の滑り台。子どもがたくさん群がっていました。

1920年代のようす(「今昔マップ」より)「臨海小」はあるが、「東陽小」付近は、海岸縁の木材貯蔵場所。「永代橋」通りはほとんど海岸線を通る道。
2000年代。ちなみに「臨海小」付近の標高は、1m、「東陽小」付近の標高は、-1m(「同」より)。
臨海公園にあったものと同じ、過去の洪水のときの水位。はるか見上げるほど。たしかに2mの差は大きい。

⑤扇橋公園(扇橋小)


「木場公園」の北西方向。
学校は、全面改築中。
カーブした藤棚。ここにもありました。
藤棚から小学校方向を望む。
学校との境のフェンス。
「扇橋小」は、110周年の歴史を持つ。

「小名木川」「大横川」「竪川」など運河に囲まれた水辺の街並み。
中央奥が、「扇橋閘門・ロックゲート」。
 江東区の内部水域は、地盤沈下の影響から水位を隅田川の平均潮位に比べ、マイナス1M下げて常に一定にしている。そのため、満潮時の水位差は、3メートル以上。この水位差を調整しながら船を航行させる施設が、扇橋閘門。


パナマ運河と同じ仕組み。
2年前に訪れたときのもの。
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いよいよ大政翼賛会へ。

2013-12-05 23:37:01 | つぶやき
委員会運営に不満、民主2委員長を解任 参院本会議(産経新聞) - goo ニュース
 さりげない記事。でも、いよいよ、という感じ。巨大与党は逆らう野党委員長を解任、与党の委員長に。ことによったら、うるさく言ったら「公明」までも切り捨てる勢い。だから、公明党もアベ・「ファッショ」体制の、ひたすら顔色伺いの、牙を抜かれての「補完勢力」として存在しているだけ。

 「維新」のイシハラと橋下の軋轢、「みんな」の分派行動、・・・。巨大与党のおこぼれ(お恵み)を欲しがってしっぽを振る御仁もたくさんいそう。・・・アベさん、次は、「憎き」共産党への攻撃をしかけそうだが。

 こんなやりたい放題に、国民は置き去り。選挙の時だけが有権者・国民に与えられた「自由」。こうして全権委任体制が確立。麻生が言った、「静かに、静かに」・・・。反対する騒がしい奴らは「テロ」扱いし、国民の目をそらせ、こうして、ことは、成就する。

 「お気に召すまま」に、などと高みの見物は、許されるはずもない、今の時。
 シェークスピアの「お気に召すまま」は、「公爵」「前公爵」兄弟との争いに子ども達の恋愛が絡むお芝居、最後は、すべてがめでたく収まる「大団円」の喜劇。よかった!よかった!

 でも、そういくはずもない、今の日本。そして、これからの日本。
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清澄庭園・旧東京市営店舗向住宅。臨海公園(臨海小)。(震災復興52小公園。その15。)

2013-12-04 20:45:52 | 震災復興小公園
 今度は、区立臨海公園と臨海小学校へ。門前仲町の南西。その途中、興味深い建物群。実は、これも関東大震災復興事業の一つ。

「旧東京市営店舗向住宅」

 「清澄公園」のすぐ東隣に接し、「清澄通り」沿いに建つ旧東京市営店舗向住宅。延長、約200メートル。1階が店舗、2階が住居となっています。その歴史はかなり古く、1928(昭和3)年に竣工。大震災後の復興建築ということで、耐震耐火のための鉄筋コンクリートつくり。
「清澄庭園」と清澄通りに挟まれた細長い商店の連なり。かつては総戸数48戸あった、という。
 このように計画的に造られたのは、この清澄の鉄筋コンクリート商店群が初めての例、らしい。

 時代とともに外壁を改修したり、3階や屋上を増築した商店がほとんど。
増築した建物。壁面に階段状の模様。

 しかし、建物ごとの角には竣工当初からのアールデコ調の装飾も残されています。
すでに「築85年」のレトロ建築です。
なかなか渋い!

この一画。いつまでこのまま残っているのか? それにしても、今も現役というのがすごい! 

 門前仲町は、富岡八幡宮の門前町。
旧富岡橋親柱(油堀川公園内)。首都高速9号線の真下。かつての「油掘川」に架かっていた橋。油堀川は、正式には十五間川という名前で、隅田川から富岡八幡宮の北側を通り、木場に至る川だった。

 賑やかな商店街を抜けた右手奥にあるのが、「臨海公園」。

③臨海公園(臨海小)


 今はまったく海を望めるところではありませんが、かつては隅田川河口に臨む地域。その後、越中島などが干拓・開拓されていきました。
1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。のところが、現在の「臨海公園」付近。


1970年代のようす(「同」より)公園南の「大横川」に架かる橋が「越中島橋」。東南が越中島方面。隅田川河口の南西は、佃島方面。
 ちなみに、臨海公園から、お台場まで車で約7キロの道のり。

臨海小の校庭拡張の影響か、内側にカーブしたかたちになっている。校庭とのフェンス。
この辺りも、学童急増地域なのだろうか?
藤棚。
ミニアスレチック。

過去の水害の潮位が記されている。目の位置に堤防の高さ。ところが、東陽公園では、はるか高くにその線が。

「大横川」。
 江戸時代に埋め立てられた場所にできた運河で、竪川と大川(現在の隅田川)の間の十万坪と呼ばれる葦原を流れていた。
 現在、墨田区・業平橋(スカイツリー)付近で北十間川から分流して南へ。江東橋付近は、親水公園として整備されている。その南で、竪川、小名木川、仙台堀川と交差し、横十間川を合わせる。江東区木場付近で西に流路を変え、大横川南川支川を分流し、平久川と交差する。江東区永代で大島川西支川を合わせ、その先で隅田川に合流する。

橋から公園・学校を望む。川の左手に見える乗船場は、1998(平成10)年に運行終了した水上バス用のもので現在は廃止。
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森下公園(深川小)。のらくろ。(震災復興52小公園。その14。)

2013-12-03 20:13:20 | 震災復興小公園
(「資料:江東区森下文化センター/高橋商店街振興組合 製作:タウン紙高橋の会 編集長  露木 茂夫 東京都江東区辰巳 1-5-15-701 TEL 03-6807-8004」HPより)

②森下公園(深川小)


 公園の名称と小学校名が異なる組み合わせ。
通りをはさんで存在する。右が「深川小」。
公園と学校とは完全に隔絶している感じ。
広々とした中央広場。
藤棚のあるテラス。かつてのコンセプトが今も生きている(どこの公園もそうなのがスゴイ!)


紅葉が美しい。
商店街側の校門。


 ところで、「高橋商店街」は、別名「のらくろロード」。通りの東には、「江東区森下文化センター・田河水泡・のらくろ館」があります。(地名の「高橋」というのは、「小名木川」に架かる橋の名前から。「たかはし」ではなく「たかばし」)。

のらくろがいたるところで、お出迎え。
アーケードが続き、道路は、一年中、花吹雪(模様)。

 そこで「田河水泡」について。(以下、「Wikipedia」参照。)
 田河 水泡(たがわ すいほう、1899年(明治32年)2月10日 - 1989年(平成元年)12月12日)は、日本の漫画家、落語作家。本名、高見澤 仲太郎(たかみざわ なかたろう)。
 昭和初期の子供漫画を代表する漫画家であり、代表作『のらくろ』ではキャラクター人気が大人社会にも波及し、さまざまなキャラクターグッズが作られるなど社会現象となるほどの人気を獲得した。
 東京府東京市本所区本所林町(現在の東京都墨田区立川)出身。出生直後に母親が亡くなり、父親が再婚するために、水泡は子供のいなかった伯父夫婦の元で育てられる。中国画や庭いじりを愛好していた伯父の影響で、水泡も絵筆を取るようになる。
 しかし、再婚した父親が数年後に亡くなり、育ての親である伯父も水泡が小学5年生の時に時に亡くなると、一転、生活に困窮するようになり、深川市立臨海尋常小学校(現・江東区立臨海小学校)を卒業後は働きに出ざるを得なくなり、薬屋の店員やメリヤス工場の少年工員として働くという「家庭にめぐまれぬ、苦労の多い、孤独な少年期」を過ごした。
 その後、徴兵され、朝鮮や満州で軍隊生活を送り、1922年(大正11年)に除隊し帰国。帰国後は画家を志し、日本美術学校(現・日本美術専門学校)に入学。村山知義らが主宰する前衛芸術集団『マヴォ』に参加し高見沢 路直と名乗っていたものの深入りはせず、1926年(大正15年)に卒業。
 卒業後、展示装飾の手伝いや広告デザインの仕事でどうにか食いつなぐ売れない絵描き時代を過ごしていたが、もうひとつの夢であった文筆業への進出を試みる。当初は小説を売り込もうと考えていたが、ライバルが多すぎる上に出版社自体も無名の新人は使わないだろうと考え、当時の大衆誌に必ずといっていいほど掲載されていた落語や講談に目を付け、書き下ろし新作の落語の執筆に取り掛かる。
 書き上げた新作落語を大日本雄辯會講談社の「面白倶楽部」に持ち込み掲載されて以降、講談社の別の雑誌からも依頼が来るようになり、売れない絵描きは一転、落語作家として売れっ子になる。当時のペンネームは「高沢路亭」という年寄りみたいなものであり、最初の持込みのときに、対応した編集者から使いの者と勘違いされたというエピソードがある。なお、水泡の新作落語は今日にも残っており、初代柳家権太楼や桂文治 (10代目)が得意としていた『猫と金魚』が有名。
 落語作家として売れっ子となる中で、美術学校卒業という経歴が面白がられ、新作落語に挿絵も描いてほしいという依頼を受けるようになる。1年後には、編集者から依頼を受け、新作落語執筆の合間に漫画の執筆に取り掛かる。初連載は1929年(昭和4年)の『人造人間』。ロボットを主人公としたSF作品であり、日本のロボット漫画のパイオニアとも言える。
 漫画家としてのペンネームは、当初は本名の高見澤をもじった田川水泡(たかみざわ)だったが、その翌1930年(昭和5年)には田河水泡(たかみざわ)に変更。しかし、変則的な読みのせいか、いわゆる誤植に悩まされることになり、当の漫画自体の作者名の部分でさえ「たがわ・すいほう」「たがわ・みずあわ」とルビを振られる事が多かった。当初田河は自筆サイン(おたまじゃくしマーク)にわざわざMIZAWAと言葉を添えるなど対応していたが、少なくとも1932年(昭和7年)頃には自らもタガワスイホウと書くようになり、徐々に「たがわ・すいほう」として定着していった。
 なお、漫画を描くようになってからまもなく、漫画発表の舞台を一般雑誌から子供が読む雑誌(婦人向け雑誌も含む)に移し、初の子供向け連載が1929年の『目玉のチビちゃん』になる。
 1929年(昭和4年)、『目玉のチビちゃん』連載開始と前後して結婚。同作の連載終了後、『のらくろ』の執筆に取り掛かる。同作の執筆のきっかけは、結婚後犬を飼い始めた事により、昔写生中に見た陽気な真っ黒な犬を思い出し、あの犬が今どうなっているか気になったので描いてみたというものである。設定を軍隊にすることにより、自らの徴兵時代を反映させる事が可能になり、独特の世界観を作り上げていった。同作は主人公の階級が上がるたびにタイトルが変わっていくという実験的な作品でもあったが、爆発的な人気を獲得。戦前としては異例の長期連載となった。また、いわゆるのらくろグッズが市場に溢れることになり、日本で初めて漫画のキャラクターが商業的に確立した作品とも言える。1941年に打ち切られるものの、その影響力は凄まじく、幼い頃の手塚治虫はのらくろを模写し、技術を磨いていたという。
 戦後はのらくろの執筆を再開する一方、落語の執筆も再開。さらには日本人の笑いの研究に取り掛かる。漫画以外の書籍が増え、文化人的な存在へと変わっていく。1969年に紫綬褒章を受章。同年、山野を買い取り、それを宅地分譲しながら教育を始めたことで知られる玉川学園八丁目に移住。小田急線を挟んで、南北反対側の高丘の上に居を構えた遠藤周作と並んで、玉川学園という住宅地の代表的な文化人のひとりだった。
 後半生はクリスチャンであった。『サザエさんうちあけ話』によると、長谷川が弟子になったときにクリスチャンである長谷川に夫妻で付き添って自宅の隣にあった教会に通ったところ、後に夫妻で洗礼を受けることになったという。死後に夫人が出した『のらくろ一代記 田河水泡自叙伝(1991年)』では、入信の理由は何度も失敗してきた禁酒を今度こそ成功させるために信仰の力を借りようというものだったとされる。
 代表作「のらくろ」が戦前の作品であるせいで、昭和の終わりごろにはすでに物故者と勘違いされることが多く、新聞記事等で「故・田河水泡」と誤って表記される事件が何度も起こった。
 1989年12月12日、肝臓癌のため死去。90歳没。
 1998年に遺族は、遺品を生地の隣区である江東区に寄贈した。公益財団法人江東区文化コミュニティ財団が運営する「森下文化センター」1階を、田河の常設展示館「田河水泡・のらくろ館」として、ここで常設展示されている。当地は生地の至近である。田河に関する唯一の展示館である。
 弟子に『サザエさん』の長谷川町子や『あんみつ姫』の倉金章介、『猿飛佐助』『ドロンちび丸』の杉浦茂、滝田ゆう、山根青鬼・山根赤鬼、森安なおや、伊東隆夫、野呂新平、ツヅキ敏、永田竹丸などがいる。
 叔父に浮世絵複製の『高見沢版』で有名な高見沢遠冶。夫人の高見沢潤子は、文芸評論家小林秀雄の妹にあたる。

「小名木川」。
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江東区立八名川公園(八名川小)。新大橋。六間堀。(震災復興52小公園。その13。)

2013-12-02 19:33:36 | 震災復興小公園
 久々に自転車で遠出。震災復興小公園シリーズの江東区編。29日の東京地方は、晩秋の冷え込み。しかし、空はどこまでも青く、澄み切って気持ちがいい。「清澄通り」から「永代通り」、「四つ目通り」から「三つ目通り」・・・。下町の通りを西に東に南に北に。「小名木川」、「大横川」、「竪川」と運河・川の多い街並みでもありました。

①八名川公園(八名川小)

都営新宿線森下駅の南西に位置する。こぢんまりとした広場が中心。
ラジオ体操会場にもなっている。年中無休・江東区では初の会場だったらしい。
藤棚をあしらったテラスはなかなか立派。
藤の古木。
公園側の通用門。公園とは、他の場所ではフェンスで仕切られている。
小学校のフェンス脇には花壇があって、目を楽しませる工夫が。
震災復興校舎(「八名川小」HPより)
 「1929年(昭和4年)3月 現在の場所に鉄筋コンクリート3階建の校舎が完成、落成式挙行。」と沿革史にはあります。

校内にある旧「新大橋」の橋名板。


 志ん於ほはし
 この橋名板は、明治45年に架けられた新大橋の橋名板で、現在の新大橋(昭和52年完成)に架け替えられるまで、江東区側の正面上部のアーチを飾っていたものです。新大橋は、隅田川に架かる3番目の橋として、元禄六年(1693)に架けられました。明治時代になり、橋の交通量が増加したため、それまでの木製の橋から鉄橋に替わり、同時に約200m上流の現在地に架けられました。周囲の飾りは大半がはがれ落ちてしまい、中央の「志ん於ほはし」(しんおおはし)の文字も跡が残るのみとなっています。写真は昭和30年ごろの新大橋ですが、文字は「志んおおはし」となっています。おそらく戦後、橋の改修をした時に文字の部分も修復したのでしょう。
 昭和48年に新大橋の架け替えが決定し、それまでの橋が取り外されることになりました。八名川小学校PTAを中心とした地域の人びとは、町のシンボルとして親しまれてきた橋の記念として、この橋名板を保存することを希望し、ここに残されました。
 なお、中央区側の橋の一部は、明治の面影をとどめる橋として明治村(愛知県犬山市)に移され保存されています。
   平成18年11月                        江東区教育委員会

「新大橋」橋桁。現在の「新大橋」は中央区日本橋浜町 と 江東区新大橋の間にあり、「新大橋通り」 が渡る橋。

 最初に新大橋が架橋されたのは、元禄6年(1694年)。隅田川3番目の橋で、1番目の「(千住)大橋」に対して、「新大橋」と名づけられました(2番目に架けられた橋は「両国橋」)。江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院が、橋が少なく不便を強いられていた江戸市民のために、架橋を綱吉に勧めたと伝えられています。当時の橋は現在の位置よりもやや下流側であり、西岸の水戸藩御用邸の敷地と、東岸の幕府御用船の係留地をそれぞれ埋め立てて橋詰としました。橋が完成していく様子を、当時東岸の深川に芭蕉庵を構えていた松尾芭蕉が句に詠んでいます。
架設中の橋を見て
「 初雪や かけかかりたる 橋の上 」
完成した 『新大橋』 を渡って
「 ありがたや いただいて踏む はしの霜 」
 明治になってからもこの橋はずっと 木橋 でしたが、明治45年(1912) になって、道路橋としては日本初の鋼製トラス橋が架けられました。上にもあるように、その一部は愛知県犬山市の 「明治村」 に保存されている、とのこと。

 この橋は、大正12年(1923) の関東大震災にも崩れませんでした。関東大震災では、「隅田川」 に架かる橋は、火災を逃れてきた人々で溢れていました。ところが、ほとんどの橋は鉄橋であっても床材が木製であったため、市街地の火災が橋にも引火して、多くの犠牲者を出しました。そんな中で、全ての構造が不燃材で出来ていた 『新大橋』 は炎上を免れ、結果的にたくさんの避難住民の命を救うことになりました。これ以来 『新大橋』 は 『ひとたすけ橋』 と呼ばれるようになりました。
新大橋西詰めにある大正12年に起こった関東大震災「避難記念碑」。碑文によれば、神の助けと人智により、隅田川に架かっていた橋の中で焼け落ちなかった「新大橋」上で九死に一生得たことを記念したもの、と。
見上げるほど大きな碑。

「旧新大橋」(明治時代)。この図柄に見える「親柱」が東詰に残されています。
絵の右側に描かれているもの。
装飾的にも趣のある柱です。
「大はしあたけの夕立」(安藤広重作)のモニュメント。

 現在の 『新大橋』 は、昭和51(1976)年 に架け替えられたもの。橋の中央に二本の大きな主塔を配した2スパンの斜張橋で、名橋といわれた旧トラス橋の名声や、歴史のある 『新大橋』 の名を汚さないようにと、そのデザインには特に力を入れたようです。
 (「東京探訪」HP参照)
「新大橋」の全景。
下流の対岸。
テラスにある案内板。「新大橋」の木橋時代の絵が掲示されています。また、そこには「隅田川は最上流の北区・岩淵水門から中央区・浜離宮庭園まで延長23.5㎞」とも記されていました。

 「八名川公園」は、旧「六間堀」に沿ったところ。公園に絵図が掲示されています。
「本所深川繪図」。赤丸が公園の位置。右(北)が「竪川」、左(南)が「小名木川」。二つの運河を結んでいたのが「六間堀」。

1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。「八名川」という地名と「六間堀」が描かれています。
その上流付近(「同」)。右からの流れが「五間堀」。カギ型の一部が現在も墨田区と江東区の区界として残っている。

1970年代のようす(「同」)六間堀は埋め立てられましたが、八名川小学校・公園脇の道路がその跡になっています。

 この付近は、池波正太郎「鬼平犯科帳」の世界でもあります。以下、以前のブログを再掲(2009/5/25)。

 両国駅を出て清澄通りを南に下って行くと、江東区森下町界隈。地図で確認すると、三角形に区切られて区界がある。道路も清澄通りを横切っている。顕著な道筋ということが分かる。区界が新大橋通りと清澄通りという二本の大きな通りで区切られているのではないことに気づく。ここに、五間堀と六間堀があった。もともとは、本所の竪川と深川の小名木川をつなぐ(小名木川まで開通するのは後代)の堀割。
 写真は、五間堀公園、五間堀の跡。都営地下鉄「森下町」駅の地上入口付近。清澄通りを渡ったところには、「弥勒寺橋」跡の標識があり、六間堀のいわれも記されている。この辺りは、東京大空襲で瓦礫が川筋に埋まってしまった。そのためか、戦後すぐに埋め立てられ、今は跡形もない。区界なのがその唯一の「痕跡」。
 この辺りは、「鬼平犯科帳」の世界だ。
 
 六間掘川南端にかかる猿子橋の西たもとは、右が幕府の御籾蔵、左が深川元町の町家であった。その御籾蔵の角地へうずくまっている市口瀬兵衛の前に、現れる長谷川平蔵。「市口さん。いよいよですよ」「天下泰平の世にお笑いくださるな」「何をもって」「かほどのわが子は可愛いものでござる。そのわが子を討った仇が、なんの罰も受けず、ぬくぬくと暮らしておること、許せませぬ」「私も三人の子持ちでござる。よろしいか。私が先に出て行って、浪人どもを駕籠から追い払う。そのとき名乗りをあげて、突きかかるがよろしい」「はい」
 平蔵は瀬兵衛老人のやせこけた両肩を優しく何度もさすってやる。「ご老体。死ぬるということは、思いのほか簡単なものらしい。いざとなれば、少しも恐ろしくないそうな」そして駕籠がやってくる。平蔵は峰うちにして浪人や駕籠かきどもを追い払う。駕籠の中から海坊主のような大男が出てくる。「山下藤四郎。市口伊織が父、瀬兵衛清定ぞ」かすれ声を振り絞って名乗る瀬兵衛。山下藤四郎は信じられぬ顔つきになる。そんな山下に瀬兵衛は腹へ刀を突き込む。
 翌朝になって、平蔵は役宅に戻る。与力や同心たちが緊張の面持ちで平蔵のそばに駆け寄る。長官が二夜も役宅を留守にしたのだから、何か異変があったと思うのが当然であった。「なんでもない。ちょいと遠出をしたのだ。たまにはよかろう」長谷川平蔵は寝間の床にもぐりこむ。目を閉じると、今朝暗いうちにお熊の茶店から去った市口瀬兵衛の小さな後姿が浮かんできた。瀬兵衛は妻と二年も会っていなかった。(ふふ。猿子橋界隈は、昨夜の事件で大変なことだろう。それにしても、あの老人、どこの家中だったのか)もう考えをめぐらすのも面倒になり、平蔵はここちよい眠りの底へ落ちていった。(池波正太郎『寒月六間堀』より)
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