ここは、まさに開設当初のように、公園・学校が一体型の運営を行っているところ。
③久松(児童)公園(久松小)
学校開校時は午後4時までは学校の校庭として使用、その後、児童公園として開放される仕組み。墨田区内の一部の復興公園・小学校であったやり方。その代わり、校門の西側には、歩行者道路を挟んで、広く細長いスペース・公園がある。
1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
中央に、現「久松小」。その西側には堀割(「神田川」と「隅田川」を結んでいた「浜町川」のことか?)
1970年代のようす(「同」より)。中央が「久松小」。東側にある広い通りは「清洲橋通り」。
なお、「goo」の昭和22年の航空写真では堀割は残っていて、橋が架かっている。さらに同じく昭和37年では、すでに堀割はなくなり、一部、民家が建っている。
「久松小」は、都内でも「中央区立常盤小」などと並ぶ、古い歴史ある学校の一つ。
沿革
1873年(明治6年)3月 - 「第一大学区第一中学区二番小学久松学校」として久松町三十八番地にて創立。校名の由来は伊予松山藩主の末裔・久松定謨伯爵(右写真)の巨額の寄付によるもの。
2002年(平成14年)11月 - 創立130周年記念式典を行う。
2012年(平成24年)11月 - 創立140周年記念式典を行う。
関東大震災により校舎全焼。当時の在籍児童数1,396名、職員27名、学級数24。
昭和 4年 5月 震災復興本建築鉄筋コンクリート三階建校舎完成
昭和18年 7月 東京都久松國民学校と改称
昭和19年 8月 第二次世界大戦の激化により縁故疎開、集団疎開を勧告
昭和20年 3月 戦災により校舎全焼書類の大部分焼失、通学区域の9割以上が焼失。(以上、「久松小」HPより。)
訪問した時間帯がまだ学校の校庭として使用中だったため、公園内には入れず。遠目の写真のみ。
現在の校舎。
校舎全景。
公園東側。プールが隣り合っていて、細い通路。奥に運動場・児童公園が広がる。
西側。歩行者専用道路をはさんで、こちらにも「久松児童公園」が広がる。堀割を埋め立てて作られているので、広く細長い。
併設の「久松幼稚園」側から南を望む。児童の帰りを待つ親子連れで公園は賑やか。
右が小学校側。
③久松(児童)公園(久松小)
学校開校時は午後4時までは学校の校庭として使用、その後、児童公園として開放される仕組み。墨田区内の一部の復興公園・小学校であったやり方。その代わり、校門の西側には、歩行者道路を挟んで、広く細長いスペース・公園がある。
1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
中央に、現「久松小」。その西側には堀割(「神田川」と「隅田川」を結んでいた「浜町川」のことか?)
1970年代のようす(「同」より)。中央が「久松小」。東側にある広い通りは「清洲橋通り」。
なお、「goo」の昭和22年の航空写真では堀割は残っていて、橋が架かっている。さらに同じく昭和37年では、すでに堀割はなくなり、一部、民家が建っている。
「久松小」は、都内でも「中央区立常盤小」などと並ぶ、古い歴史ある学校の一つ。
沿革
1873年(明治6年)3月 - 「第一大学区第一中学区二番小学久松学校」として久松町三十八番地にて創立。校名の由来は伊予松山藩主の末裔・久松定謨伯爵(右写真)の巨額の寄付によるもの。
2002年(平成14年)11月 - 創立130周年記念式典を行う。
2012年(平成24年)11月 - 創立140周年記念式典を行う。
関東大震災により校舎全焼。当時の在籍児童数1,396名、職員27名、学級数24。
昭和 4年 5月 震災復興本建築鉄筋コンクリート三階建校舎完成
昭和18年 7月 東京都久松國民学校と改称
昭和19年 8月 第二次世界大戦の激化により縁故疎開、集団疎開を勧告
昭和20年 3月 戦災により校舎全焼書類の大部分焼失、通学区域の9割以上が焼失。(以上、「久松小」HPより。)
訪問した時間帯がまだ学校の校庭として使用中だったため、公園内には入れず。遠目の写真のみ。
現在の校舎。
校舎全景。
公園東側。プールが隣り合っていて、細い通路。奥に運動場・児童公園が広がる。
西側。歩行者専用道路をはさんで、こちらにも「久松児童公園」が広がる。堀割を埋め立てて作られているので、広く細長い。
併設の「久松幼稚園」側から南を望む。児童の帰りを待つ親子連れで公園は賑やか。
右が小学校側。