おやじのつぶやき

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旧六郷橋遺構。(六郷橋。その2。)

2014-04-05 18:19:26 | 旧東海道

「六郷橋」川崎側・大師道沿いにある記念碑。

 六郷の渡しは、旧東海道における八幡塚村と川崎宿を結ぶ重要な渡船場であった。「北条記」に武田信玄の侵入を阻止するため六郷橋を焼き落としたとある事から古くから橋はあったと思われるが、慶長5年(1600)家康が築橋し、慶長18年(1613)頃にも架け替えられたとの記録がある。
 その後、貞享5年(1688)の洪水で流失してから橋は架けなくなり、もっぱら渡船が用いられた。明治7年(1874)に地元の鈴木左内が有料の木橋を架け、「左内橋」と呼ばれた。大正14年(1925)先代のコンクリート橋が完成、渡船はこの時をもって消滅した。



 六郷(大)橋は千住大橋、両国橋とともに江戸の三大橋とされた。貞享元年に架橋された「六郷橋」は長さ111間 (202m)、幅4間2尺 (約8m)。
 1874年(明治7年)1月に鈴木左内が私費で六郷の渡しに左内橋を架けた。長さ60間(109m)、幅3間(5.5m)の木橋で、通行料を徴収した。この橋は1878年(明治11年)9月に洪水で流された。
 左内橋が流された後しばらく橋がない状態が続いたが、地元の人々が六郷架橋組合を作って1883年(明治16年)に有料の橋を架け、六郷橋と名づけた。1885年(明治18年)に破損したものの引き続き使用され、1900年(明治33年)に京浜電気鉄道(後の京浜急行電鉄)が買収した。
 1903年(明治36年)には通行料の徴収をやめ、1906年(明治39年)に国に譲渡されたが、1910年(明治43年)に流された。流された橋のかわりに長さ52間 (95m)、幅3間 (5m) の仮橋が架けられた。1913年(大正2年)にこの橋も流され、再建された。この橋の親柱は六郷神社に保存されている。
 1925年(大正14年)8月には長さ446.3m、幅16.4m の六郷橋が架けられた。川の水路部分を1本の橋脚と連結した2つのアーチ(タイドアーチ)で越え、河川敷の部分は連続桁橋であった。片側1車線の車道に加え、両側に歩道があった。



 設計した増田淳は大正11年(1922)から昭和10年頃をピークに活動した天才橋梁設計技術者である。東京帝国大学土木工学科を卒業後、15年間米(ミズーリ州カンザス市)に滞在し、その間約30橋の設計・施工を手がけ、1922年(大正11年)11月帰国して、橋梁の設計・監督を主な業務とするコンサルタント会社を設立した。(会社の活動が確認されている約20年間に設計した橋は約70とされ、その範囲は、東北北海道から九州四国、台湾韓国にまで及んでいる。
 増田淳の設計は力強いタイドアーチのほか多重連形の長大なトラス橋(徳島県吉野川橋(昭和3年)は62メートルのワーレントラスが17径間連続し全長は1000メートルを超える)が有名だが、実際には地盤などの環境条件に合わせ景観にも配慮して様々な設計技術が駆使されている。
多くの橋がなお現役として実在するが、下道や上道から可動橋までその構造は実に多彩だ。
東京に現存する橋としては、隅田川に掛かる千住大橋(昭和2年:昭和48年に隣接して新橋が出来たが旧橋も残された)や白鬚橋(昭和6年全長168メートル、ともにタイドアーチ)が有名。
北海道斜里町の旧国鉄根北線越川橋梁や長浜大橋(愛媛県喜多郡長浜町:バスキュール式鉄鋼開閉橋)は文化遺産として登録され、「美々津橋」(宮崎県日向市美々津町 昭和9年 上路アーチ橋)のように土木学会が推奨土木遺産に認定し、地方自治体が有形文化財に指定しているものもある。
「独立行政法人土木研究所」の配布資料によれば、昭和中期、戦時色が強まり橋梁建設事業が少なくなると、ドック、水門、地下鉄などの設計も手がけていたらしいがその後の活動は不詳。1947年(昭和22年)脳溢血で他界した。享年65歳。

(以上、「制作 web-photographer 上野 隆史  Copyright 2003- All rights reserved.(ueno@tamagawa-kisui.jp)」より)


六郷橋歩道上から西を望む。木の陰から橋門の先端部分が見える。
六郷橋脇(大田区側)の宮本台緑地にある1925年の橋門と親柱。
親柱。
橋門の柱の意匠。大正期のモダニズムがうかがわれる。
橋脇の手すり。
橋門上部。アーチが見事。
公園から多摩川方向を望む。
説明板。ここには、「左内橋」(木造)の写真と1925年架橋の橋の写真がある。

 1984年12月、架け替えのための解体・撤去作業中に橋桁が落下し、死傷者18名を出す事故となった。橋門の柱にはこのときの事故で亡くなった5人の氏名と、作家の森村桂による鎮魂の詩が刻まれたプレートが取り付けられている。


雄々しい五人の男たちへ
 星がひときわ美しくまたたいた翌朝、
 橋造りに命をかけた男たちが、
 星の国へいってしまいました。
 どうか、天国で、
 こんどは、虹の橋を造る仕事をして下さい。
        森 村 桂

金子義男 菊池幸雄 小俣方一男 鈴木司郎 三宅郁夫 (1984・12・14)


1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。旧六郷橋。上方、大田区側の河川敷が現在ほど広がり、整備されていないことが見える。

 現在の橋は、1979年(昭和54年)に工事を始め、1997年(平成9年)に完成した。

正岡子規句碑(稲毛神社」内)。「六郷の 橋まで来たり 春の風 子規」。

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