旧歌舞伎座取り壊しのための「さよなら公演」より。平成22年(2010年)3月。このときの公演は、歌舞伎の名場面集という雰囲気の演目でした。
他の演目を含め、玉三郎、仁左衛門、富三郎、などそうそうたる役者が勢揃いした公演でした。この時にすでに勘三郎がいないのが残念、至極。
鎌倉・浜松屋に、若党四十八を供に、武家娘が現れ、早瀬主水の息女お浪と名乗り、婚礼支度の品物を選ぶうちに、そっと鹿子の裂(きれ)を懐に入れます。見とがめた番頭が帰ろうとする娘の懐から、鹿子の裂を引き出し、万引きと思い込み娘の額を算盤で打ちます。
しかし、鹿子は他の店の品であったことが分かり、若旦那の宗之助が四十八に詫びるが、四十八はお浪につけられた額の傷をもとに、金を要求する四十八に対し、主人幸兵衛は百両を出して詫びます。
大金を受け取り帰ろうとするお浪と四十八を、店の奥に居合わせた玉島逸当という侍が呼び止めます。
逸当はちらりと見えた腕の刺青に、お浪を男と見破ります。見抜かれた二人は、居直ってその正体を明かします。女装していたのは、弁天小僧菊之助、四十八は南郷力丸でした。
この場面での名台詞
知らざあ言って聞かせやしょう
浜の真砂と五右衛門が歌に残せし盗人の
種は尽きねえ七里ヶ浜、その白浪の夜働き
以前を言やあ江ノ島で、年季勤めの稚児が淵
百味講で散らす蒔き銭をあてに小皿の一文字
百が二百と賽銭のくすね銭せえ段々に
悪事はのぼる上の宮
岩本院で講中の、枕捜しも度重なり
お手長講と札付きに、とうとう島を追い出され
それから若衆の美人局
ここやかしこの寺島で、小耳に聞いた爺さんの
似ぬ声色でこゆすりたかり
名せえゆかりの弁天小僧菊之助たぁ俺がことだぁ
二人が居直って悪態をつくのに対し、幸兵衛は弁天が受けた傷の膏薬代として二十両を差し出す。しぶる弁天を南郷が説き伏せ、二人はようやく腰を上げる。浜松屋を出た二人は、道々、騙りの道具として使った重い武家の衣裳を坊主が来たら、交互に持とうと「坊主持ち」に興じながら帰ってゆく。
安堵した浜松屋では逸当を奥座敷へ案内します。しかし、この逸当こそ、実は弁天小僧や南郷力丸の頭である大盗賊・日本駄右衛門でした。
松本幸四郎
この後、稲瀬川の場面となり、弁天小僧を先頭に、忠信利平、赤星十三郎、南郷力丸、そして日本駄右衛門の白浪五人男が勢揃いし、一人ずつ名乗りを上げ、捕手と渡り合う見せ場になります。
実に小気味よい展開のお芝居で、名優達の手慣れた演技も見所。
この歌舞伎は、文久2年(1862)3月に江戸市村座で初演されたときの演目は「青砥稿花紅彩画」(あおとぞうし はなの にしきえ)河竹黙阿弥作。
「青砥」は追っ手の「青砥藤綱」に因んでいます。実在の青砥藤綱は鎌倉時代後期の人物で、『太平記』などにも記されていますが、江戸時代には、藤綱は公正な裁判を行い権力者の不正から民衆を守る「さばき役」として文学や歌舞伎などにしばしば登場します。
かつて夜に滑川を通って銭10文を落とし、従者に命じて銭50文で松明を買って探させたことがあった。「10文を探すのに50文を使うのでは、収支償わないのではないか」と、ある人に嘲られたところ、藤綱は「10文は少ないがこれを失えば天下の貨幣を永久に失うことになる。50文は自分にとっては損になるが、他人を益するであろう。合わせて60文の利は大であるとは言えまいか」と答えた。(「Wikipedia」より)
京成電鉄・青砥駅の「青砥」は、「青砥藤綱」に由来するようです。町名としては川運(古利根川・中川)の港を意味する「戸」(「戸」は「津」が転じたもの)からきた「青戸」で、混同される場合が。
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