おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

行徳。行徳塩田。「今井の渡し跡」。東西線「南行徳」駅~武蔵野線「船橋法典」駅。(「木下街道」をゆく。第1日目。)

2020-11-02 20:47:54 | 木下街道

     10/25(日)。晴れ。「木下(きおろし)街道」。今井橋を出発点に。遠くにスカイツリー。

上流を望む。

「南行徳」駅から西に向かって歩いて「今井橋」のほとりに。ここから出発です。

                   

「今井橋」の江戸川区・対岸付近は来たことがありますが、千葉県側の行徳を訪れたのは初めて。

(「今昔マップ」より。)

中央を流れる川が「江戸川」。左下にある川が「新川」(江戸時代に作られた人工の運河。江戸川と中川を結ぶ)、右の図で南北に流れる川は1963年に完成した「中川放水路(現「新中川」)」。今井橋架橋以前は、渡し船で渡河した。

観光案内図」。

行徳(ぎょうとく)

千葉県市川市の南部、江戸川放水路以南の地域名である。昭和中期までは市川市南部に加えて浦安市の元町地区と船橋市沿岸部及び東京都江戸川区東篠崎を指す本行徳を中心とした広域地名でもあった。現在では、一般的に旧東葛飾郡行徳町の江戸川放水路以南、旧南行徳町の全域を指して使われる。江戸時代には製塩が盛んに行われ(行徳塩田)、生産された塩は舟で大消費地の江戸に運ばれた。(隅田川と中川を結ぶ「小名木川」は別名「塩の道」とも。中川から江戸川までは新川を掘り、新川経由で行徳と行き来する。)

 現在では市川市の区域の一部であるが、これは昭和30年代の合併によるものであり、地理的にも市川市の行政の中心である八幡(やわた)地区や商業の中心である市川地区(JR総武線京成本線の沿線)とは幅約100 - 200メートルの江戸川放水路によって隔てられていて、東京23区方面と船橋市方面を結ぶ東京メトロ東西線が通り、地続きで最近では地域性も似通ってきている南に位置する浦安市との関係が深い。

行徳では、かつて製塩を行う農家が多く行徳塩田と呼ばれた。(ただし、現在の「行徳」とは一致せず、浦安や船橋の塩田も含まれている)。製塩は天候の影響を受けやすく、収入が不安定なため、副業として小規模な塩田を所有する農家が多かったという。

行徳での塩の生産は戦国時代には行われていたが、徳川家康は万が一の際に江戸城が必要とする塩を確保するために行徳塩田を保護した。以後、江戸幕府は塩田の保護とともに江戸と行徳を結ぶ街道や水路の整備を行った。

 製塩方法は、日光で塩水を干しあげ、塩分を含んだ砂をざるかごに入れ、その上から海水を流して塩分をとり、この塩水を塩釜に入れて焼いて塩をつくるもので、海水を干しあげるためには、時期的に暑い旧暦の6月、7月が最も塩づくりに適した時期だった。一方で塩づくりは、一度雨が降ってしまうと3~4日日照りが続かなければ塩稼ぎが出来ないといわれ、天候に大きく左右された。農間余業として行なわれた塩づくりも、塩田地主というほど大きな塩浜を持つ者はおらず、大きくても2町歩弱だった。当時1反歩(300坪)の塩浜で20石弱(約3トン)の塩が生産された。

 江戸時代後期には十州塩などの下り塩の江戸流入によって行徳の塩は脅かされたものの、北関東などに販路を広げることで活路を見出し、明治以後には製塩の近代化も進められた。だが、塩の専売化に伴う生産調整や高潮・水害の影響もあって衰退し、最後まで残った塩田も戦後キティ台風に伴う高潮によって廃止を余儀なくされた。

(以上、「Wikipedia」参照し、補足した)

「行徳」地域は、歴史と伝統・文化がある街並みがあるようです。

しばらく進むと、河岸に「今井の渡し旧跡」の解説板。

寛永8年(1631)10月に許可された水幅118間(約207メートル)、水幅60間(約109メートル)の渡し。大正元年(1912)初代の今井橋が架けられて役目を終えました。
連歌師柴屋軒宗長が永正6年(1509)浅草から船に乗り今井の津頭で下船、紀行文「東路の津登」で紹介したのが文献上のはじまりです。
江戸時代になってからは、江戸からの客は渡しましたが、江戸へ行く客を渡すことは禁じられていました。正保元年(1644)千葉の生実の城主森川半彌の家来男女2人久三郎とイネが駆落ちしてきて禁を犯して今井側へ渡ろうとして捕らえられて船頭とその女房を含めて5名が磔の刑に処せられました。
今井の渡し場から一丁(約109メートル)下流にあった磔場に久三郎とイネは葬られて、目印の石地蔵が建てられて「ねね塚」といわれましたが、何れの頃かの洪水でその所在は不明になったとされています。(「葛飾誌略」)

今井の渡しが、いつ頃できたか定かではありませんが、連歌師柴屋軒宗長が永正6年(1509)に著した紀行文「東路のつと」に、「今井の津」という名前が記されています。このことから、当時の今井にはすでに船着き場があったと思われます。
江戸時代に入ると、徳川幕府は江戸を防衛する目的から付近の河川に橋をかけず、さらに渡船についても厳しい取り締まりを行いました。今井の渡しは一般の旅人は通行できず、農耕などのための川越えは許されましたが、それにも代官への届け出を必要としました。
明治時代になると、渡船は自由となり、地元の人々や成田参詣の人たちにさかんに利用されるようになりました。明治45年、ここに下江戸川橋(のちに今井橋と改称)が架けられるまで続きました。

平成23年3月改訂
江戸川区教育委員会

対岸を望む。旧今井橋の杭の跡か?

街道をはさんだ向かいには「うなぎ そめや」さん。ユニークなご主人、爺・婆、お孫さんたちでまかないをやっているお店。訪問記などを見ると行ってみたくなる雰囲気。左手にはユニークな看板があるようです。知る人ぞ知る名店。


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