はじめて玉川大学に出かけました。小田急「玉川学園前」駅を降りと、そこはもう大学の敷地内。小田急線をはさんで丘陵地帯にキャンパスが広がっています。正門の警備員さんから入構許可証を貰って案内図を片手に目的の部署「通信教育部」へ。
緩やかな上り坂。幼稚園から小中学校、高校、そして大学と緑の起伏に富んだ環境の中に建物が点在しています。それぞれしゃれた建物、広大なグランドと環境的には申し分なそう。
教育博物館に立ち寄ってきました。藩校の時代から墨塗り教科書までの教育の歴史が資料展示されています。資料館の一角には、創立者の小原國芳さんの新教育運動、学校設立の理念なども掲示されています。
特に興味深かったのは、朝鮮半島、台湾などの「植民地」での学校教育(皇民化教育、日本語教育など)の教科書など。貴重な資料も展示されていました。一方で、まだまだその実態はつかめていないそうです。
資料室の方から親切な解説を受けました。行きは暑い日差しの中、帰りは木漏れ日の坂道を駅まで戻ってきました。
教育博物館からの道筋。大グランドと校舎。試験中なのか、下校する女子高校生の明るい軽やかな声が響いていました。
立派にすくっと立った樹木。ダイオウショウ。北アメリカ原産の松の木だそうです。名の如く「大王」。
三葉で大きな針のような葉。
創立当時の面影を残す「礼拝堂」。小高い丘の上にあります。中からは、パイプオルガンの演奏が聞こえてきました。
木立の中の「礼拝堂」
礼拝堂への小道。
咸宜園(かんぎえん)。江戸時代、広瀬淡窓によって豊後国日田郡堀田村(現大分県日田市)に創立された全寮制の私塾。「咸宜」とは「みなよろしい」の意味。武士だけでなく、どんな身分でも、男女を問わず受け入れるということでこう名づけられた、という。その「秋風庵」が再現されていました。静かな趣のたたずまい。一人の女子学生が突然部屋から出てきて、縁にたたずんだのには、ちょっとドキッ。
玉川大学
1929年(昭和4年)、創立者小原國芳により「全人教育」を第一の教育信条に掲げて開校された玉川学園を母体とする。幼稚園から大学院まで。
キャンパスは、東京都町田市玉川学園(キャンパスの7割程度)、神奈川県川崎市麻生区岡上(農学部)、横浜市青葉区奈良町(工学部、中・高)の3市にまたがり、敷地面積は59万m²。
1950年(昭和25年)、通信教育部がスタート。当時全国の小学校に多くいた代用教員等の正規の教員免許を持たない現職教員に「小学校教員免許状」を取得可能とさせる全国初の課程として注目され、現在も多くの受講生がいます。
緩やかな上り坂。幼稚園から小中学校、高校、そして大学と緑の起伏に富んだ環境の中に建物が点在しています。それぞれしゃれた建物、広大なグランドと環境的には申し分なそう。
教育博物館に立ち寄ってきました。藩校の時代から墨塗り教科書までの教育の歴史が資料展示されています。資料館の一角には、創立者の小原國芳さんの新教育運動、学校設立の理念なども掲示されています。
特に興味深かったのは、朝鮮半島、台湾などの「植民地」での学校教育(皇民化教育、日本語教育など)の教科書など。貴重な資料も展示されていました。一方で、まだまだその実態はつかめていないそうです。
資料室の方から親切な解説を受けました。行きは暑い日差しの中、帰りは木漏れ日の坂道を駅まで戻ってきました。







玉川大学
1929年(昭和4年)、創立者小原國芳により「全人教育」を第一の教育信条に掲げて開校された玉川学園を母体とする。幼稚園から大学院まで。
キャンパスは、東京都町田市玉川学園(キャンパスの7割程度)、神奈川県川崎市麻生区岡上(農学部)、横浜市青葉区奈良町(工学部、中・高)の3市にまたがり、敷地面積は59万m²。
1950年(昭和25年)、通信教育部がスタート。当時全国の小学校に多くいた代用教員等の正規の教員免許を持たない現職教員に「小学校教員免許状」を取得可能とさせる全国初の課程として注目され、現在も多くの受講生がいます。