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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「堀切菖蒲園」~京成電鉄「堀切菖蒲園」駅(用水路跡をたどる。その1)

2012-09-17 19:22:40 | 河川痕跡
 JR「綾瀬」駅東方、高架線をくぐるあたりで古隅田川から分岐し、南下する用水路は葛飾区立青葉中学校の北側で、今度は西と南に分かれます。南に向かう用水路は、南東へ蛇行しながら、区立双葉中学校の東側を通って左折し、曳舟川方向に向かいます。もう一方は、南西に下って平和橋通りの脇を通り、京成電車「堀切菖蒲園」駅のホーム下をくぐって、「区立堀切菖蒲園」の北に。そして、綾瀬川に合流していました。今回は、綾瀬川合流点跡から堀切菖蒲園駅までの探索です。
 「葛飾区立堀切菖蒲園」は、花菖蒲の名所として知られ、京成電車「堀切菖蒲園」駅の南西500mほど(徒歩約10分)のところにあります。貴重な江戸系花菖蒲を中心に、200種6000株の花菖蒲が植えられており、見ごろは、6月の中旬。その頃は訪れる人々でにぎわいます。その歩行者道路が今回の用水路跡。正門前の広い道ではなくて(この道も用水路跡ですが)、一本北側、マンションの小道がそれです。
向かい側が綾瀬川。かつては綾瀬川に流れ込んでいました。
綾瀬川合流点からの最初の橋。「中田橋」という橋名が残されています。ここから歩行者道。かつての用水路跡。
水の流れこそありませんが、手入れの行き届いた植木が続く落ち着いた道。
その用水路跡の一本北側の広い道。この道は、明治時代末期に荒川放水路が開削される以前は、対岸の鐘淵から通じていた「古道」のようです。JR綾瀬駅の南東付近で日光街道・千住の宿から分岐した「水戸街道」と合流します。この道は隅田川の左岸(東側)を通って江戸市中に向かっていたと思われますが、現在では、まったく見当がつきません。荒川放水路の開削によって分断された道路や土地が多くありました(四股。木根(下)川。堀切・・・)。
明治13年の頃。かつての堀切橋(現在よりも南の地点の荒川に架かっていた)に通じる道につながって現在の中央通り・平和橋通りと続いていたようです。地図中「村」という字の左あたりが現在の荒川・綾瀬川の土手。地図の左下、北西から南東に斜めに続く水路(綾瀬川から中川へ通じていたもの)は荒川放水路の開削で消滅した(鐘ヶ淵付近で隅田川と合流していた綾瀬川も荒川と並行する水路に変更された)。
住宅の裏を縫うようにして続く。
唯一、短いですが、モニュメント風の流れがありました。
「堀切菖蒲園」駅近く。人通りも多く、道幅も広くなっています。かつても広い水路でした。
道ばたに橋名が残されていました。「毛無池橋」。
駅横の商店街。ここには小高い樹木があってかつての用水路の雰囲気が残っていました。ガード下から南を望む。
駅ホーム下の地下道。用水路跡。ここから綾瀬・小菅方向へ。

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葛飾区役所~木根川(綾瀬川)(用水路跡をたどる・その2)

2012-09-02 20:32:24 | 河川痕跡
葛飾区役所の通りから立石駅方向への道。
このあたりにもサクラの並木があり、緑道風の道が続きます。小間物屋さんなどちょっとしたこじゃれた商店が並んでいます。左手に少し見えるショー・ウィンドーは「タカラトミー」。
青戸方向から来た水道(すいどう)道に合流。このあたり、以前は石屋さんの土地になっていて、区役所へ行くのに少し迂回していました。
水道(すいどう)道に沿って。左側の歩道。このあたりは、かなりごみごみした街並み。京成線の高架工事とも関連して「再開発計画」が持ち上がっています。反対運動の幟などもちらほら。立石は古くから商店街など賑わったところ(「ハイボール」「酎ハイ」の発祥の地?)。街おこしのイベントがさかんに行われています。
京成線の踏切付近から北側を望む。
用水路は左に向かい、立石大通り方向へ。
立石大通り(奥戸街道)際、「大道橋」跡。「大道橋」と記された柱が残っています。
大通りを越えて進みます。
桜並木が続きます。
用水路跡は駐輪場になっています。その案内板に「古道橋」という記載がありました。
これがその橋があったところ。「立石大通り」は律令制時代からの「古道」。市川の国府台までほぼ一直線でつながっています。しかし、ここに「古道橋」という橋名があることは、この東西に続く道がもともとの「古道」? 残念ながら、西は渋江公園で遮られ、東は民家になってしまい、昔の古道(直線道路)だったかどうかは、不明でした。左の角は「菊島小児科医院」。
用水路跡の緑道はほぼ直線で木根川方向に続きます。
木根川方向から立石方向を望む。
車が時々通りますが、両側を木に覆われた静かな道。途中には児童館や児童公園などがあります。
正面が綾瀬川。遠くに見えるのはスカイツリー。上は首都高の橋脚。このあたりは、高速道路の建設などで大変化し、元々の水路(跡)は確認できず。

この付近の今昔。
  
  
1880年代のようす。              2010年代のようす。上方に葛飾区役所。下方に京成立石駅。

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青戸(中川)~葛飾区役所(用水路跡をたどる・その1)

2012-08-31 19:55:55 | 河川痕跡
 かつて昭和30年代まで、葛飾区には農業用の用水路が縦横に流れていました。今、そのほとんどがなくなって、道路や緑道公園になっています。
 今回は、青戸七丁目・環七から西に向かい、葛飾区区役所の横、京成立石駅付近、そして木根川までの折り畳み自転車での旅です。ところどころにかつての用水路があったころの雰囲気を彷彿とさせるものが残っています。
中川の土手。
 水路はここから西に向かい、環七を過ぎ、途中で現在の水戸街道を越えてお花茶屋方向へ。分岐した流れは、南に向かって再び水戸街道を越え、京成の高架線をくぐり、葛飾区役所前の桜並木へ。東西を貫く水路は昔からの土手道でもあったようです。
 そこからは、柴又浄水場からの「水道(すいどう)道」にしばらく並行して進む。分岐し、立石大通りを抜けてからは緑道となって西南に進み、木根川薬師近くの綾瀬川に合流する、という実に東から西、そして南へ、と区内を進む水路跡です。
土手直下の墓地付近には古木が残っています。慈恵医大も大改装し、新装なった病院へ。また、土手下にあった東洋インキ、タングステン等の跡地には大きな高層マンションが建設中とこのあたりも大きく変わってきました。
 余計な話ですが、亡くなった吉本隆明さんは、若い頃に東洋インキの労働組合をやっていて、せっせとガリ版印刷で組合ニュースを作っていた、とか。
環七の交差点。ケヤキの古木。
区立中青戸小の少し北側。東を望む。
少し進むと、広い道路から左に入った細い道になります。
両側は植え込み。両側よりも少し低くなっていて、用水路だったことを物語っています。
水戸街道・東京ガスの手前の空地。この空間が水路跡。
水戸街道を渡ったところ。水路は左に向かいます。もともとはほぼ直線で南西に向かっていました。水戸街道ができるときに水路が変更されたようです。
四ツ木火葬場の手前で、水路が二手になって一つは再び水戸街道方向、一方の水路はお花茶屋駅付近で曳舟川に合流します(こちらの方が幅も広く土手道になっていました)。正面・水戸街道の向こうには「ドンキ」。
京成高架線をくぐったあたり。ここから区役所横の桜並木になります。
すっかり夏模様のサクラ。
満開のサクラ(4月9日撮影)。区役所が建設された頃から水路も埋められて舗装道路となり、サクラの並木もできました。
今年の春。
木漏れ日。沿道には滝もあって目にも耳にも涼しい道です。
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八か村落し親水緑道(続編その2)

2012-07-21 11:49:00 | 河川痕跡
 JR亀有駅の北西にある葛西用水。「八か村落し」はそのすぐ東側、南北に流れていました。葛西用水とどのように交差していたのか、気になるところです。
正面が水路跡。南北に葛西用水がながれています。現在は、葛西用水は緑豊かな親水公園となっています。「八か村落し」の方は、道路に沿った親水緑道。
葛西用水を越えたすぐ西側にある案内プレート。
「碇伏越橋」。葛西用水との交差地点。葛西用水の下をくぐっていた。
 ※伏越(ふせこし・ふせごし)とは、木や石の樋を地中に埋め、逆サイフォンの原理で交差する川をくぐって水を送る仕組みのこと。
交差する葛西用水。復活事業で豊かに流れています。
このあたりには、橋名にちなんでの「碇」をテーマにしたモニュメントが3つ、水路に沿って展示されています。
その一つ。「木猫」?これは「木」の間違いでは。
歩道の脇に細い水路が続きます。
住宅街に沿った水路は、やや広め。流れもあって、落ち着いた散歩道です。
南側を望む。その先は、古隅田川につながっています。
古隅田川跡から見た八か村落水路跡。
葛西用水の東側にある「八か村落親水緑道」の標識。 
 この水路は、古隅田川の北側を曲がりながら西に進んでいました。六木からは、葛西用水の東側をほぼ南北に貫いていました。
北上すると、路地のようになって、大谷田陸橋近くの環七にぶつかります。環七側から見た用水路(跡)。
 この先・北側のかつての流れは、道路になっていて分かりません。が、都立足立東高校の西側の道路がかつての水路と思われます。それを北に向かうと、佐野家屋敷森の西、そして花畑運河まで水路跡をたどることができます。このあたりが六木、佐野・・・、ということで、六木(むつき)、佐野新田(さのしんでん)、大谷田(おおやた)、蒲原(かばら)、北三谷(きたさんや)、普賢寺(ふげんじ、現在のJR綾瀬駅の北)、五兵衛新田(ごへいしんでん。現在のJR亀有駅の北東)、伊藤谷(いとや・現在のJR綾瀬駅の南西)と北東から南西に向かって「八か村」を巡っていた水路というわけです。
大谷田陸橋を越えたあたり。広い歩道になっています。
団地の東側の道路。「誕生」というモニュメント。
足立東高校前の道路。
南側を望む。
大谷田。この道がかつての水路跡? 北に向かいます。
八百免公園。昔の屋敷風の四阿。
説明版。このあたりに「八か村落し水」がきていた、という。
「佐野いこいの森」。屋敷の西側。
屋敷内の森の一部。日曜日と水曜日は一般開放されています。
六ツ木地区。このあたりまで水路があり、西の方にも水路が分かれていました。
 大谷田陸橋以北は八百免公園の説明版の他は、これといった水路の面影はないようです。
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八か村落し親水緑道(続編その1)

2012-07-16 19:55:23 | 河川痕跡
 「八か村落し親水緑道」は、2009-05-30にアップしたことがあります。
 
 ・・・葛飾区にある「曳舟川親水公園」は常磐線の線路をくぐってしばらく行くと、足立区に入り、名称も「葛西用水親水公園」と変わる。葛飾区側と違って用水の流れを自然に生かしたようになっていて、親水公園らしい感じがするのは、こちらの方。
 途中、「八か村落し親水緑道」に出会う。この用水は、「八ヶ村落堀」を整備改修したもの。「八ヶ村落堀」は江戸時代にこの辺りが新田地帯であった頃、現在の足立区の東北、六木から大谷田、東和を通り、南西の綾瀬にまで続く長い水路であった。
 名前の由来の「八ヶ村」とは、六木(むつき)、佐野新田(さのしんでん)、大谷田(おおやた)、蒲原(かばら)、北三谷(きたさんや)、普賢寺(ふげんじ)、五兵衛新田(ごへいしんでん)、伊藤谷(いとや)の八つの村を指し、水路がこの地域を経由していたことから、「八ヶ村落堀」と呼ばれていた。足立区東部の新田地帯の下水・雨水を排水する重要な水路であった。一方で、近年、下水道が完備するまで、この水路が増水し、近隣住民は、たびたび水の被害にあっていた。 この流れは、昭和22年の航空写真でもはっきりと分かる。
 現在は、綾瀬駅北口付近まで、さらに葛西用水を越えた東側までよく整備された緑道になっていて、住宅街のなかにありながら、緑も水量も多く、憩いの空間を与えてくれている。
 降りしきる雨の中、しっとりと落ち着いた静かな雰囲気の緑道でした。・・・
 
 さらに、2011-8-11にも掲載しました。  
 
 ・・・現在は、下水の再利用によって、綾瀬駅北口付近から東に向かい、葛西用水を越えた東側までよく整備された緑道になっています。住宅街の中にありながらも、木々の緑も豊かで、水量も多く、憩いの空間を与えてくれています。残念ながら、場所によっては電力削減策によって、全く流れが途絶えてしまったところもありますが。
 葛西用水から少しばかり西に、炎天下の中でしたが、歩いて見ました。今日の終点は、公園になっていて、そこには、小高い丘と小さな遊水池がありました。北に隣接された保育園からは、子供達の、暑さに負けないような賑やかな声が響いていました。今度は、もう少し、西に向かって歩きたいと思います。
西に向かう道路に沿って流れていますが、現在は節水中のため、流れはないまま。
交差する道路をわたる手前にある「標識」。
道路を渡ると細い流れが続いています。流れに沿って遊歩道も整備され、歩きやすい道が続きます。
サルスベリ(百日紅)の花。街路樹として、花火のように青空に照り映えるサルスベリよりも、こういうふうに流れにさしかかるように咲く方がマッチしています。
今日の終点の公園の流れ。
親水緑道は、もっと西へ向かっていきます。・・・
 以上がこれまでUPした記事。写真も去年のもので、節電のため、水路に水がないところが目につきました。
 
 ところで、たまたまあれこれと「ブログ」巡りをしていると、先日亡くなった地井さんが2012年1月10日、テレビ朝日「ちい散歩 下町のお洒落スポット 亀有さんぽ」で、「街道を流れる小川のわきにある『八か村落し親水緑道』の解説を読む地井さん。」という紹介記事がありました。
 そこで、在りし日の地井さんの姿を回想しつつ、久々に自転車で出かけてみました。暑夏のひとときです。
蒲原方向からの水路(八か村落堀の一部)と本流の合流地点。
区立蒲原中前の水路跡。かなり幅広い水路でした。
公園の南に続く道。
東綾瀬公園からの道に出会います。
木漏れ日の緑道がしばらく続きます。
東京メトロ・北綾瀬駅への高架線の下をくぐります。
大きな道路に架かっていた「綾北橋」。
ここまで来ると、町中になって道路脇のせせらぎも細くなってしまいます。
このあたりで、古隅田川と合流する水路とまっすぐ綾瀬川方向に進む水路とが分かれていました。左が古隅田川跡の緑道公園。正面が綾瀬川方向。
公園の水路には水が流れていませんでした。正面が綾瀬駅方向。
水路跡を振り返る(東方向)。

 実は、この水路は、足立区の北東・六木地区からの排水路。その痕跡を訪ねて、次回は、葛西用水の東側、足立区東部を北上します。
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古隅田川跡をたどる(番外編その2)(お花茶屋駅~四つ木・綾瀬川合流点)

2012-07-15 11:56:54 | 河川痕跡
 お花茶屋駅から道はほぼまっすぐ南に向かいます。東側にある曳舟川と並行しています。かつての水路は、一部が「みどりの散歩道」と表示された緑道になっていますが、大半は一般道路でした。
京成上野線「お花茶屋駅」。懐かしい駅です。駅前の雰囲気(特に南側)は50年前とほとんど変わらず。
右側が水路跡。
まだ水路が残されているような雰囲気が。
「みどりの散歩道」脇。サルスベリ(百日紅)が咲き始めていました。
歩行者と自転車が行き交う道。「みどりの散歩道」という標識もかすれ気味。
途中見かけた現役の銭湯「末広湯」さん。
葛飾区立四つ木中脇。かつてここが水路だったと思う人も少ないのでは。
合流点近くから北東側を望む。
綾瀬川との合流点。頭上は、首都高。
すぐ脇にあった「六方排水場」。
ここに来て初めて見た水(排水)。
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古隅田川跡をたどる(番外編その1)(常磐線高架下~お花茶屋公園)

2012-07-12 20:37:28 | 河川痕跡
 葛飾区と足立区の区界、葛飾区立一の台中の西側を通って常磐線にぶつかった古隅田川跡の道は、常磐線の高架線に沿って西に向かいます。一方、そこから分岐して南に流れ、区立青葉中の西側、区立双葉中の東側を通ってお花茶屋公園の北側、その先で亀有方向(古隅田川から分岐して)から伸びてきた水路と合わさり、葛西用水(曳舟川)の西側をほぼ並行して流れ、区立四つ木中の脇を通り、綾瀬川に合流していた水路がありました。お花茶屋駅付近までは緑道公園風なところや「唐桶橋」という橋名など痕跡はありますが、そこから南側は果たして?
 今回は、まずお花茶屋駅付近まで。
常磐線の高架下。ここから南方向に水路は進みます。正面がその跡の道路。
しばらく行くと、信号機のある交差点。よく見ると、道路が盛り上がっています。交差する道路は、旧水戸街道。用水路の上を道路が渡っていた証拠。
反対側から見たもの。こういう様子は、運河の多かった深川付近でも見られます。
左が旧水戸街道。この先が用水路との交差点。
交差点を過ぎると、水戸街道は右に曲がっていきます。この先が、通称「大曲り」。
青葉中西側。50年くらい前は、この用水路でアメリカザリガニなどがいた。ザリガニ取りは、割り箸の先の糸にスルメを付けて取った。今はどうするのでしょうか?
クチナシの花が植えられていい香りが。

さらに南に進むと、自動車道路ではなく、こんな緑道がありました。
しばらくカーブが続き、かつての水路らしい面影があります。橋柱なども残されています。これは、道標の感じですが、判読不能。
双葉中東側。このあたりでは、水路は左に右に直角方向で曲がっていきます。このあたりも、50年前の中学生には、危険を伴う格好の遊びどころ。
お花茶屋駅前の商店街を横切って東に進みます。
道幅が広くなって、自動車道は曲線を描いています。流れを模したものではないようです。かつての印象では、直線の水路でした。
ここで、亀有方向から南下してきた水路と合流し、お花茶屋駅の脇を抜け、四つ木方面へ。
曳舟川親水公園側から見た水路跡(正面奥)。
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古隅田川跡をたどる⑤(千住柳原付近)

2012-07-10 21:25:17 | 河川痕跡
 さて、荒川を越えて、足立区千住柳原付近。最寄り駅は東武牛田駅、京成関屋駅。このあたりは、道路となっていて、かつての川筋(水路)は、道路の様子から偲ぶのみ。牛田駅、関屋駅周辺の探索です。

正面が荒川。この道がかつての水路跡と思われます。現在、千住旭町と柳原との境となっています。

少し下ったところ。正面が荒川側。

牛田駅方向から東北を望む。1947(昭和22)年撮影の航空写真(gooの地図)では、この通りが水路となっています。北の方から少し東に向きを変えて流れていました。少しカーブしているのが分かります。
このあたりで、水路が二つに分かれていきます。一つは、そのまま関屋駅の東南側に、もう一つは、ほぼ南に下って隅田川につながります。



1880年代のようす。明治初期の「柳原」付近。
 綾瀬川(東南)、古隅田川(西)、隅田川(南)とに囲まれた田園地帯。西側は千住の宿。水路が入り込んでいます。浸水湿地帯でもあったようで、集落の周りはぐるりと土手で囲まれています(南にその一部が見える)。ただ、中央の二股の水路は「古隅田川」ではなさそうです(用水路か)。
 その囲みの外側に流れているのが「古隅田川」(水路の変更あり)。その跡が、現在の写真の道路だと思われます。現在、その道路に沿って内側に同じように湾曲した道がありますが、それがその土手(輪中のようなもの?)の跡かもしれません。下(南)のところで二つに分かれています。



2010年代のようす。
 「荒川(放水路)」の開削、京成・東武線の線路敷設など、さらにその後の宅地開発などで大きく様変わりしていますが、何となく輪郭は残っているようです。

一つ目の水路。
この道は行き止まり。かつては道路だったようで、白線などが残っています。

東武牛田駅上り線ホーム下。鉄橋として残っています。
反対側。下り線ホーム下になります。

堀切橋をくぐっていきます。関屋駅方向を望む。この堀切橋よりもかつては今よりも南側に橋がありました(東武「堀切」駅近く)。ちなみに、荒川をはさんで東には京成電鉄の「堀切菖蒲園」駅があります。明治末期から大正にかけて人工河川としての荒川放水路ができる以前は、この辺り一帯、同じ葛飾区内としての地域でした。荒川が開削される前、柳原村は葛飾区に属していました。東武線の線路も今よりももっと東側に大きく曲がり、現在の荒川の真ん中辺りを通っていました。

荒川と旧綾瀬川を結ぶ水門。正面が荒川。このあたりにかつての「堀切橋」がありました。

葛飾区側から望む。かつての堀切橋は、木製の橋でした。
旧堀切橋への道路(葛飾区堀切)。

「足立共済病院」の前の道路は、かつての水路跡。左手手前が、病院。これがもともとの古隅田川跡。綾瀬川に合流し、さらに下流の鐘ヶ淵付近で隅田川に注いでいたと思われます。

もう一つの水路。
東武牛田駅改札口西側にある公園。「隅田川関屋の里」を再現したはめ絵がありました。富嶽三十六景の一つ。このあたりを水路が通っていました。

京成関屋駅ホームから見た、かつての水路跡。奥が隅田川方向。この辺は、工場地帯。隅田川を利用しての海運が盛んなところでした。

京成線のガードをくぐっていきます。

東京水辺ラインの船着き場があります。隅田川の上流を望む。

左側に巨大なモニュメント。
 この水路は、近代になって、「古隅田川」からの支流を開いた運河の跡のようです。

 こうして足立区千住の古隅田川をさぐっていくと、明治時代に掘削された荒川がなかった時には、埼玉県南足立郡綾瀬村であった日ノ出町、葛飾区に属していた柳原などこの川によって県境や区界になっていたことが分かります。
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古隅田川跡をたどる④(東京拘置所裏)

2012-07-08 12:25:23 | 河川痕跡
 古隅田川の流路。現在、水戸橋付近で終わっている水路も、かつては(昭和30年代までは)荒川河川敷付近に荒川放水路に取り残されたように三日月型に残っていましたが、それもまったくなくなりました。
 ここから先(西側)は、現在の綾瀬川、荒川の流れにさまたげられ、流れの痕跡は確かでありません。現在の隅田川に鐘淵付近で合流していた旧綾瀬川と合わさっていたようですが(荒川と隅田川の間にある水路が旧綾瀬川の痕跡。ちなみに墨堤通りに架かる橋が「綾瀬橋」)。
 他にもまだ残されています。その一つが東京拘置所の北側の水路。また、「京成関屋」駅・東武牛田駅付近北側に道路として・・・。
 今回は、東京拘置所(地元的には「小菅刑務所」)北側の水路。ただし、明治13年頃の地図では綾瀬川の流れの一部で、本来の古隅田川の流れとは異なるようです。途中から五反野親水公園が接続しています。
 かつては、平和橋通り~JR綾瀬駅南~伊藤谷橋~東武五反野駅までよく自転車で通りました。それから25年以上。久々に訪れ、その変わりように驚きました。
中央奥に見えるのは、常磐線。水路にせりだして遊歩道ができています。かつては、ただの濁った堀割のようでした。その後、水質改善事業が行われ、魚を放流したり、亀などを生息させたりと努力したようです。ずいぶんときれいな水になりました。そのせいでしょうか、「釣り禁止」の立て札がやけに目立つのが気になりました。
右手が拘置所側にある官舎。かつては、刑務所を囲む堀のように思っていましたが。世間とは隔絶した世界。以前は、刑務所の外側に高い壁が二重に設置されていた記憶が。拘置所も近代的な建物に変わってそれもなくなったのでしょうか。ここには、例のアサハラ(松本)が収容されています。
西のはじ。
ここから水が流れ出ている。本来は逆で、ここから北千住方向に流れていたはず。現在は、綾瀬川の方に向かって流れています。
ここから「五反野親水公園」北西に向かっていきます。
せせらぎ公園風。以前はただのどぶ川でした。
新しい伊藤谷橋から下流(水戸橋方向)を望む。以前は何の変哲もない橋でしたが、ずいぶんと立派になりました。
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古隅田川跡をたどる③(常磐線高架下~足立区大六天排水場)

2012-07-07 12:18:45 | 河川痕跡
 常磐線の高架下をくぐると、親水公園。その後は、緩やかなカーブになっています。かつては綾瀬駅の方向、北側に急に流れを変え、駅の北側をカーブして再び常磐線を越えて南西に続いていきました(そのせいで、葛飾区と足立区との区界も入り組んでいます)。その流れの跡は、現在、公共の駐輪場などになっています。
 法務省の登記所の北、「レンゴー葛飾工場」の北西付近には新たな流れが作られ、古隅田川を再現した流れとして続いています(まるまる葛飾区内になる箇所と葛飾区と足立区の区界になる箇所とがある)。西に進むにつれて、綾瀬川との合流点(第六天排水場)付近は、かつての古隅田川らしさが残っています。
幅広い道路の中央に散策道が続いていきます。途中、四阿風の休憩所があります。
西側。けっこう大きな鯉が泳いでいます。
旧古隅田川跡。古い感じの護岸。                                                                    木製の遊歩道(川にせり出した)が続きます。


綾瀬川との合流点、足立区大六天排水場。
説明版。
綾瀬川からの施設全景。
ところで、「大六天」とはどういういわれが?
 「大六天(一般的には「第六天」)」は、仏教における天のうち、欲界の六欲天の最高位(下から第六位)にある他化自在天をいう。この天に生まれたものは、他人の楽しみを自由に自らのものとすることができる「天魔」とされます。この付近にそれにまつわる神社(寺院)がある、ということに。ただし、南にある小菅神社は関係なしのようです。
 古隅田川のすぐ南の道が旧水戸街道。綾瀬川に架かる橋が「水戸橋」。水戸橋付近も様変わり。この橋も建て替えられ、新しくなりました。
旧水戸橋は閉鎖。首都高が上を通っています。
新しい「水戸橋」。上流を望む。なお「新水戸橋」が下流にあります。
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古隅田川跡をたどる②(北三谷橋~「葛飾聾学校」先)

2012-07-06 20:20:11 | 河川痕跡
 梅雨の晴れ間。北三谷二号橋を過ぎると、道に沿って小さな流れが現れます。相変わらず葛飾と足立の区界。このあたりは道幅も広く、境界線としてははっきりしています。亀有駅北口付近の細い路地とは違います。小さな流れが断続的に続き、途中から、かつての古隅田川の広さではありませんが、それなりの流れになっていきます。鯉や亀などの姿も見えます。あじさいなどの花などもきれいに咲いていて、散策道らしくなります。
かつての流路を感じさせる道筋。
北三谷稲荷橋。道筋には、以前あった橋の名前が記されています。
このあたりから細い流れが続きます。太古の川幅とは比較できませんが、親水公園風になっています。
右が足立区、左が葛飾区。
常磐線の手前。丁寧な案内板が設置されています。
左が常磐線の高架橋。このあたりからは、線路の北側沿いになっていきます。
公園脇の案内板。古隅田川の歴史的な変遷が説明されています。
車道と歩道に段差がつけらています。昔の川に沿った土手道?
「宿添橋」何だか趣のある橋の名。
都立葛飾聾学校西の遊歩道。右が葛飾区、左が足立区。この先で、常磐線をくぐります。
河添公園脇。先ほどと違って流れを感じさせる川幅になっていきます。
親水公園らしい雰囲気。流れも豊かです。
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古隅田川跡をたどる①(足立区と葛飾区の区界。中川~北三谷橋付近)

2012-07-01 12:52:17 | 河川痕跡
 現在の足立区と葛飾区の境界線は、亀有駅東南・常磐線鉄橋下流の中川橋(旧水戸街道)付近から綾瀬駅の西南・小菅東京拘置所脇まで、くねくねと曲がって続いている。これが古隅田川跡。荒川をはさんで、流路は北千住駅東・柳原付近をカーブしながら東に移り、隅田川の水神(隅田川神社)上流付近で現在の隅田川への流路となっていく。
 その昔、大化元年(645)の頃、国、郡、里が制定され住田河(隅田川、古隅田川)の現・足立区側が武蔵国足立郡、現・葛飾区側が下総国葛飾郡として両国の境界が設定された。以後、今に至るまで、足立区と葛飾区との境界線として引き継がれている。
この付近が中川との合流点。葛飾区と足立区との区界になっている。
西側を望む。右が足立区、左が葛飾区。サイクリング・ジョギングロードもここを境に管理が葛飾区と足立区に分かれる。
左手の空き地が、かつてあった足立区長門排水機場跡。
けっこう広い敷地のまま。
「アリオ亀有」(かつての日本製紙工場跡)付近から常磐線のガードをくぐり、古隅田川跡の遊歩道が北に向かって続いていく。右が足立区、左が葛飾区。
住宅地の中を西に向かって続いている。狭い路地をはさんで、足立区(右)と葛飾区(左)に分かれる。
歩行者と自転車しか通れないため、安全。
「環七」にぶつかる。ほぼ西に進む。
「環七」を渡ったところ。「亀有5丁目」バス停付近。
遊歩道は右の細い道だが、かつては川幅はもっと広かったはずで、このあたり、南北の細い道にはさまれて細長く建物が続く。かつての川幅を想像させるが・・・。
遊歩道も広くなったり、狭くなったりしながら進む。
葛西用水との合流点。かつての流路を彷彿とさせるカーブ。
北三谷二号橋跡。西に向かってまだまだ続く。今回は、ここまで。
足立区東和銀座商店街。通称「アモール東和」。古隅田川を暗渠にした道路に沿った形をしているが、この商店街もかつての川筋ではなかったか。閉まっている店舗がぽつぽつと見られたのが残念。
古隅田川跡。左が東和銀座商店街。
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玉川上水(代田橋~五條橋)その2

2011-12-12 20:27:28 | 河川痕跡
 今回、散策した箇所は、玉川上水が姿を見せる箇所が多いので、歩き甲斐があった。渓谷のようなうっそうとした桜並木。浅い川筋、草花が咲きそろう。そして、児童公園。
 玉川上水は、四季の変わりとともに、さまざまな表情を持った流れです。
代田橋のホームをくぐり、南下した玉川上水はここでしばらく暗渠となります。横に横断する太い鉄管は、和田堀給水所からの導水路。
環七の手前から暗渠になって環七を横切る。環七を地下道でくぐり抜ける。配管が何本も通っていて、「頭上注意」の標識。珍しい体験ができる。
笹塚駅の近くまで水路をたどれる。この橋は、稲荷橋。ただ表面が削られて判読不可能。「昭和○年○月竣工」とある。ものの本によると昭和二年とか。橋の中央に一本柱が立っている。
笹塚駅近く。けっこう深い堀状になっている。
笹塚駅前。暗渠になっているが、この桜の古木が玉川上水沿いであることを示している。
笹塚駅を過ぎると再び水面が姿を現す。このあたりは、少し堀が浅くなる。高低差を考慮しての絶妙な建設技術に感服。
水面沿いに歩道がある。
再び暗渠になって、新宿まで緑道に。遊具施設や広場などが設置されている。
五條橋の手前。笹塚駅からの遊歩道の終点。
通りの向こうが「五條橋」。そこから新宿駅近くまで遊歩道が続く。
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玉川上水(代田橋~五條橋)その1

2011-12-11 16:25:00 | 河川痕跡
 京王線「代田橋」駅で途中下車。玉川上水に沿って、笹塚まで。代田橋駅付近と笹塚駅付近は、玉川上水の流れを見ることができます。途中は緑道公園になっていて、桜の木など樹木も多く、歩きやすい道のりです。枯葉に敷き詰められた上水路でした。
 玉川上水の全区間にわたって桜並木が続くのは、おそらく桜見物をする人出によって、土手を踏み固めるという意図があったようです。
 写真の正面は、代田橋駅のホーム。この下を玉川上水は通過します。
甲州街道は暗渠で通過し、ここから再び水の流れが見えます。上は、首都高。
けっこう深く掘られた水路。枯葉がいっぱいです。桜の季節は、見事。深い渓谷のような雰囲気がすてきです。
淀橋浄水場の機能が終了し、玉川上水も下流は廃止。まったく水が流れないまま、ゴミ捨て場のような惨状になってしまった。それを清流復活事業で再びかつての面影を取り戻します。
 桜なども伐採されずに残り、古木が多い。整備されたおかげで、新しい草花も自然のままに。地元の方々も清流保護のために尽力しているようす。ゴミもほとんど見当たりません。
ただ散策路は流れに沿ってありますが、直接、水面に触れることのできるところは
小平監視所下の清流復活の碑があるところ一箇所なのが残念です。それもしかたないことですかね。
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旧玉川上水(笹塚~西新宿三丁目)

2011-10-02 20:57:09 | 河川痕跡
 今回は、京王線「笹塚」駅下車で、新宿まで辿ってみました。約一時間くらい。ほとんどが舗装された遊歩道。所々遊具がある児童公園になっています。木々も適度に茂っていて、辺りの喧噪からはずれてのんびりと新宿まで歩けます。
 ただ、この遊歩道が玉川上水であることはあまり気がつかないような公園になっているのが、残念。残された橋名と水道局のマークがそれと知れる感じです。大きな通りとの交差もなく(山手通りと神宮の西参道くらい)甲州街道・高速道路の脇を通っていきます。ジョギングするのに、快適でしょうか。散歩する方が時折通り過ぎます。
ここからスタート。
こんな感じの道が続きます。
唯一痕跡らしいもの。「相生橋」大正13年に建造、とありました。
消防学校脇。
甲州街道。モニュメントらしきもの。水路には水が流れていませんでした。この辺りは、地下には京王線。
富士急ハイランドのビル。屋上にはジェットコースター(のモニュメント)。ゴトゴトと電車の通過する音が響いてきます。
明治神宮西参道。
遊歩道の途中で見かけたマンホール。そこには、東京都水道局のマークが。たしかに玉川上水の道。

番外編
笹塚駅近くにあった新宿中村屋の東京工場。
ついでに
最近、府中市内で見かけた曼珠沙華(ヒガンバナ)。黄色い花を咲かせていました。珍しく思って、パチリ。
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