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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

旧玉川上水(西新宿三丁目付近)

2011-09-30 23:33:52 | 河川痕跡
 「西新宿三丁目」。車が激しく行き来する広い甲州街道を渡って、すぐのところに玉川上水の跡地と地下にもぐった京王電鉄線の跡地の上に、広い遊歩道があります。文化服装学院(かつては、円筒形の校舎。今は素敵な建物に変わり、大学を併設)を通り、新宿南口の交差点まで、自転車通行禁止の遊歩道。かつてこの辺り、玉川上水と京王線が併行してあったところ。渋谷区立の公園となっています。
 その遊歩道へ行くには、横断歩道を利用せず、甲州街道の歩道橋を渡っていくのが、オススメ。その揺れ方は並ではありません。もう吊り橋みたいな感じ。吊り橋は自分の足の運びで揺れますが、ここは違います。車の振動で下から突き上げるような揺れ方。一瞬ビックリ!地震が来たのか!地に足が付かない感じ!
 歩道側から目を凝らして見ていると、歩道橋は目に見えるほど揺れていました。
天神橋。
天神橋のわきにある「箒イチョウ」。
勿来橋。
千駄ヶ谷橋。
葵橋。この通りは、「葵通り」と称しています。
「アオイ会館」町会の事務所のようです。
煉瓦造りのモニュメント。
昼休み。サラリーマンや学生が行き交う道筋。ここは渋谷区に位置します。左が甲州街道。新宿区側。 
「角筈」という懐かしい地名が付けられた歩道橋。これこそが「揺れる歩道橋」
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古隅田川探訪

2011-09-26 21:51:05 | 河川痕跡
 旧水戸街道散策(といってもママチャリで行きつ戻りつですが)のついでに古隅田川、足立区と葛飾区で、今はすでに流れのなくなった古隅田川を遊歩道として整備し、復元しています。そのようすを見て回りました。
 実は、足立区と葛飾区の区界がこの流れ。蛇行していた流れに合わせて、区界が入り組んでいます。どうしてJR亀有駅から綾瀬駅にかけて区界が複雑になっているのか、地元の方でもその理由を知る方は少なくなってきました。
 旧水戸街道と古隅田川。自転車で約1時間30分のささやかな「旅」でした。
古隅田川の跡。舗装道路ですが、微妙なカーブがかつての水路を連想させます。右が足立区、左が葛飾区。
直線道路に改修されていますが、細い水の流れを再現して、古隅田川を蘇らせています。右が葛飾区、左が足立区。
ところどころに四阿を設置して「出会いの」場「憩いの」場にしてあります。右が足立区、左が葛飾区。
この辺りは、水路も広く、水辺の草花も多くて、かつての古隅田川の面影を彷彿させるような雰囲気です。右が葛飾区、左が足立区。
案内板が埋もれるように設置されいます。両区で整備した割には目立たない場所にありました。
綾瀬川への落ち口。淀んだ水が流れています。
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千川上水。千川駅前。

2011-07-17 17:15:53 | 河川痕跡
 玉川上水と武蔵境の境橋から分かれて流れる「千川上水」。その千川上水にちなんだ駅が「千川」副都心線・有楽町線です。豊島区と板橋区との区界近く。ここに「千川上水」の跡が親水公園として整備されています。このご時世、全く水は流れていなくて、枯山水の趣き、といったらほめすぎ。住宅地の脇を細く続いています。
 遊び場ほどの幅もなく、散歩道という感じです。ただ桜の古木が植えられていて、春には豊かな花が一面に。夏は、ほどよい木陰となっています。小さな砂場に備え付けられたベンチで女子高校生が二人、暑い日差しを避けてのんびりと楽しそうな会話。近所には「都立千早高校」があります。
説明によると、千川上水は桜の名所だったとか。
この辺りには、数本、桜の木が植わっています。枝が頭上すれすれの古木です。
古そうな桜の木。


遊具?が道のまん中に。
2箇所ほど、水道管の上部がむき出しになっています。
要町3丁目の交差点。正面が板橋側になります。千川上水はJR板橋駅の南側付近まで続いていたようです。
千川親水公園と道路をはさんで、千早高校の一角。
旧千川小でのお化け大会の宣伝。学校ってもともと不思議なところですが。

 ここまで千川上水をたどってきましたので、こうなったらJR板橋駅付近まで、その行く末を追いかけてみます。
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千川上水

2011-07-09 23:13:05 | 河川痕跡
 境橋(武蔵境駅の北西・都立武蔵高校から少し北の地点)で玉川上水から分岐して流れていた「千川上水」。都の清流復活事業で再び流れが蘇って、緑道の散策路。五日市街道に沿って緑と水の豊かな遊歩道の一部を歩きました。炎天下の中でしたが。境橋から武蔵野大学付近まで。上水の両側は交通量の激しい舗装道路ですが、水路は、木が生い茂り、土の道が続きます。途中、大きな交差点では渡るのがけっこう大変でしたが。

 千川上水は元禄9年(1696年)、玉川上水を現在の西東京、武蔵野両市境で分水したものです。北の石神井川と南の妙正寺川の分水界上をぬって練馬から板橋を抜け、巣鴨までを開渠(素掘り)とし、それから先を木樋(木管=土中埋設)で江戸までつないでいます。
 設計は水利の第一人者河村瑞賢が行い、施行請負は一般に多磨郡仙川村(現調布市仙川町)出身といわれる徳兵衛(一説に常陸の住人とも)、太兵衛の両名で、道奉行伊勢平八郎の監督の下に工事に当たりました。このとき、当初予定されていた幕府費用だけでは間に合わず、480両余を自前で出資したと伝えられています。
 こうした功により、のちに両名には千川の姓が与えられ、名字帯刀が許されることとなり、また併せて千川水路取締役を拝命して、上水の管理を任され、水使用料徴収の権利を得ました。
 千川上水は、はじめ小石川白山御殿、湯島聖堂、上野寛永寺および浅草寺への給水を主な目的とし、その周辺の武家屋敷や町家への飲料水にも利用されていました。宝永4年(1707年)には川沿いの村々から出された灌漑用水への利用願いが許可され、多磨郡6か村、豊島郡14か村に分水が引かれることになりました。
 その後、江戸への上水としては享保7年(1722年)に一度、さらに天明6年(1786年)に再度の廃止をみて、むしろ水田灌漑面に大きな役割を果たしながら幕末を迎えています。練馬区域では石神井川や中新井川沿いの水田に多大な恩恵を与えました。
 幕末から明治にかけて、千川上水の水は滝野川の反射炉(慶応元年着工、中断)や王子の抄紙会社(明治6年設立、のちの王子製紙)、板橋の火薬製造所(同6年、旧金沢藩敷地内)などの工業用水として利用され始めました。明治13年(1880年)には岩崎弥太郎(三菱の創始者)の立案で千川水道会社が設立されました。これは明治40年、東京市に近代水道が引かれるまで存続しました(同41年4月解散)。
 その後、千川上水の水は大蔵省や都水道局、あるいは六義園の池水などとして利用されていましたが、昭和43年(1968年)の都営地下鉄工事で六義園の水路が中断され、45年には都水道局が取水を中止、さらに46年には大蔵省が工業用水道に切り替えたため、事実上、千川上水の水利用の歴史に終止符が打たれました。
 (以上、練馬区のホームページより)
 
 こうみると、重要な水資源であったことが分かります。武蔵野台地を東に40㎞以上にわたって流れていたとは、まったく知りませんでした。今回、玉川上水との分岐点からほんの少しだけ歩いてみたにすぎません。
 千川上水は五日市街道の中央の緑地帯の中を流れています。入り口の石段の先には、ひっそりと「清流復活碑」(鈴木元都知事の書)がありました。緑道の中央に2mくらいの幅で千川上水が流れています。遊歩道はけっこう緑が豊かな灌木で覆われ(ケヤキや桜などの並木道)いて、今日のような焼けるような暑い日差しを感じさせないほど。
 井の頭通りがぶつかって暗渠に。交差点を過ぎると、再び中央緑地帯に入ります。柳橋交差点で武蔵境通りと交差し、武蔵野大学前まで緑の中の水辺歩きが続きます。この先、五日市街道の分岐道となっていますが、上水は真っ直ぐ東に流れて行きます。大学前は斜めに入る「鈴木街道」の入り口になっていて、その角地に大きな「文字庚申塔」が一基。説明板には、次のようなことが書かれています。
「天明4年(1784)9月、この大きな文字庚申塔は、上保谷新田の入口に建立されました。塔右側面の銘文中に「願主新田中」とあるのは、新田村の全戸によってこの庚申塔が造立されたことを意味します。塔正面の左脇に、他の庚申塔に例をみない「五穀成就」と彫られています。村中あげて穀物が実ることを庚申に祈った、その願いを読みとることができます。この塔造立の前年の天明3年は、浅間山の大噴火・洪水・冷害が重なって江戸時代最大の飢饉が始まった年であり、翌天明4年は関東各地にその影響が及びました。村の入口から飢饉が侵入しないようにと、それを防いでくれる庚申の強い霊力に祈願して建てたのが、この塔であったはずです。塔の下部には十万に通じる道しるべを銘文して、上保谷新田の地理的な位置を示し、上端に庚申の種子(ウン)、下端に三猿を刻んで庚申の像客の一部を表現しています。天明4年の原位置は、現在の場所とほぼ同じであり、塔の正面は東方を向いていました。」と。
 武蔵野大学前からずっと千川上水の緑地帯が続きますが、今日はこれまで。練馬区に入ってからもなかなか興趣のある「上水」道があるようです。また暗渠になったり、「清流」になったりと・・・。さらには、池袋線沿線、そして池袋、そのもっと先まで流れを辿ってみたいものです。
 写真は、境橋交差点。奥が玉川上水、手前から千川上水が始まります。
取水口近くの碑。
ここから始まります。
武蔵野大学付近。
両側は激しい車の通り。静寂な道が続きます。
「文字庚申塔」の下部。道しるべになっていますが、向きはかなり違っています。
武蔵野大学の交差点のたもとにある「供養塔」天保年間のもの。
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東急・池尻大橋から小田急・梅ヶ丘まで

2010-10-14 22:56:10 | 河川痕跡
 目黒川(めぐろがわ)。東京都世田谷区、目黒区および品川区を流れ東京湾に注ぐ河川です。
 河口付近では古くは「品川」といいました。河口付近の流れが緩やかであったため、古くは港として使われ、品の行き交っていた川でした。これが「品川」の起こりとされています。
 世田谷の三宿付近で北沢川と烏山川が合流して目黒川となり南東へ流れ、品川区の天王洲アイル駅付近で東京湾に注いでいます。
 この間、東急・池尻大橋駅から目黒川(せせらぎ緑道)をさかのぼり、小田急・梅ヶ丘駅まで歩いてみました。目黒川は、起点(北沢川と烏山川の合流点)から国道246号の池尻大橋までの区間は暗渠化されていて、地表部分には人工のせせらぎを抱いた緑道(目黒川緑道)が整備されています。カルガモや鯉、ザリガニなど様々な生物が棲みついています。「国道246(青山通り)」を越えた南側下流は、大きな流れになっています。「清流復活事業」として、目黒川を流れる水の大部分は、新宿区の東京都下水道局落合水再生センターで下水を高度処理したものを導いているとのことです。
 烏山川と北沢川(北沢用水)との分岐を過ぎると、北沢川緑道。桜並木が続く道になっていて、車も通らず、自転車も禁止で、気持ちよい散歩道になります。春になると、さぞかし見事な「桜満開」という風情を感じさせます。
 途中、環七を横切りますが、その辺りが、「宮前橋」。かつてのままに橋の名前が次々と出てきます。かつての流路のうち、梅ヶ丘駅南から烏山川との合流点下流までの間は、世田谷区の「ふれあいの水辺事業」により、暗渠の上に人工のせせらぎが再現されているわけです。
 梅ヶ丘駅北。赤堤通りに面して「東京都立梅ヶ丘病院」がありました。この病院は、東京都立都立精神科病院でした。
 さらに、児童・思春期精神疾患の専門病院として、治療対象疾患は、発達障害圏(広汎性障害、アスペルガー障害、自閉症、多動性障害・ADHD、学習障害・LDなど統合失調症、摂食障害、睡眠障害、チック障害、行為障害、虐待など幅広く、またより深く取り扱っていました。
この病院の前身は、斎藤茂吉の義父斎藤紀一の設立した青山脳病院(1907年開院)。当初は青山にありましたが、1924年失火によって全焼し、1926年に現在地へ移転しました。(青山にあった分院は、1945年の空襲で全焼)。
 1926年には茂吉が院長に就任しました。1945年(昭和20年)3月に東京都に移管され「東京都立松沢病院分院」となりました。その後1948年(昭和24年)4月に児童患者の入院を開始し、1952年(昭和27年)11月に「東京都立梅ヶ丘病院」となりました。1974年(昭和49年)6月に小児専門病院としての性格が明文化されました。
 その後、2010年3月1日、東京都立清瀬小児病院・東京都立八王子小児病院と統合し、東京都立小児総合医療センターとなることに。当院の移転は3月6日に行われました。
 世田谷区としては、この跡地を地域の福祉・医療等に役立つような計画を立てているようです。  
 斎藤茂吉の碑が、病院の入り口近くに。周囲を工事用のパイプに覆われ、人知れず置かれてありました。
池尻大橋からの北西・目黒川緑道の入り口付近。
烏山川から分かれて北に向かう北沢川。このあたりは、素敵な桜並木が続きます。
暗渠になった地上には、浄化された下水道が流れています。
環七を渡ります。宮前橋。
梅ヶ丘駅北側の緑道。北沢川の名残です。
梅ヶ丘病院正門横の斎藤茂吉の碑。
往時を偲ばせる古木。
 直線距離にして約3キロ。歩いて約1時間の散歩でした。
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