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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

国鉄・勝田線廃線跡をたどる(「志免緑道」)。その2。

2013-03-20 19:38:10 | 鉄道遺跡
 少し風のある雨の中の探索でした。

「志免」駅へ向かう緑道(廃線跡)から公園方向を望む。
上亀山駅跡公園のすぐ脇の街道。
趣のある店構えのお酒屋さん。全国の地酒・焼酎を扱っているみたいです。「きっと見つかるいいお酒」と看板に。
緑道(線路跡)の脇にあったボイラー? 建物の裏庭にあった。何なのか説明板は、なし。
右が緑道。頭上にはけっこう長く大きな藤棚。
国鉄用地の境界を示す標識。「工」の字がある。
同じ標識が二つ。歩いた範囲ではここだけにしか残っていないようだが。
側溝に沿って置かれていた(手前と奥)。
境界線の標識では他には「志免町」が目に付くのみ。
左側に田畑が広がっている。その脇を走っていた「勝田線」。
「コブシ」の花。モクレン科の落葉広葉樹。早春に他の木々に先駆けて白い花を梢いっぱいに咲かせる。別名「田打ち桜」とも。
春の訪れを感じさせる。
小川を越える橋桁。鉄道のときのものが使用されているような。
道路を越えて進んでいく。この緑道は自転車や歩きでけっこう地元の人には利用されているようで、雨の日にもかかわらず、犬の散歩や買い物などでけっこう行き来があった。
 「志免町」には現在、鉄道が通っていない。国鉄時代(JRになっても)、路面電車風にこまめに小駅を作り、沿線住民の便宜を図っていたら面白かったのに。
長めの橋。ここにもかつての橋脚の土台が使われているような。頑丈なコンクリート製。
来た道を振り返る(上亀田駅方面)。
大きな幹線道路に出る手前。左手が緑道。
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国鉄・勝田線廃線跡をたどる(「志免緑道」)。その1。

2013-03-19 23:33:37 | 鉄道遺跡
 福岡へ行ったらここにもぜひ、と。「国鉄勝田線」跡。地下鉄空港線で「福岡空港」駅まで。そこから徒歩で北東の方角、ほぼ一本道のゆるい上り坂。「上亀山駅跡公園」へ向かいました。飛行機の発着音がひっきりなしに聞こえてくる道筋。空港からわずかのところにある町が「志免町」。

 勝田線(かつたせん)は、かつて福岡県福岡市博多区の吉塚駅と同県糟屋郡宇美町の筑前勝田駅とを結んでいた、日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線(地方交通線)。1985(昭和60)年に全線が廃止となりました。その跡は、ほぼ自転車・歩行者のみが通れる緑道になっています。
 元は、沿線から産出する石炭の輸送と宇美八幡宮参詣客の輸送のため、筑前参宮鉄道が敷設した鉄道路線。1918年に末端部が貨物線として開業、翌年に全線が開業し旅客営業を開始しました。沿線の糟屋炭田から産出する石炭の輸送で賑わったが、同炭田が閉山すると急速に衰退していきました。

1942年(昭和17年)「筑前参宮鉄道」が九州電気軌道に合併し「宇美線」となる。
1944年(昭和19年)戦時買収により国有化、吉塚 - 筑前勝田を勝田線とする。
1965年(昭和40年)宇美 - 筑前勝田間の貨物営業を廃止
1981年(昭和56年)志免 - 宇美間の貨物営業を廃止
1985年(昭和60年)4月1日 全線廃止 。

 志免・宇美両町内の区間は、大半が遊歩道として整備されていて、御手洗、上亀山、志免の各駅跡は公園となり、特に志免駅跡はホームや線路、信号機などが保存され、勝田線現役時代の写真なども展示された鉄道公園として整備されています。
 「吉塚」駅~「上亀山」駅、「志免」駅~「筑前勝田」駅は時間的にたどれず。出発時間までの3時間ほど。ほぼ志免町町内を通る廃線跡の一部をたどってみました。
この橋を渡ると、「志免町」。
「志免緑道」入口から北西方向を望む。「吉塚」駅方向へ緑道(廃線跡)は伸びています。ここから吉塚駅からの線路跡はまだところどころに確認できるようだ。航空写真でも確認できそう。
単線だったことが幅の狭さでも分かる。
よく整備された緑道が続きます。
工場と住宅の間を抜けていきます。輸送量増強のための複線化、駅の拡幅などはなかなか難しかったのか?
線路のすぐ脇を通るバス通り。地元住民の輸送手段としてはバスかマイカーというふうになっていったようだ。
左がバス停広場。
「志免町大字別府字出料」。
トンネルのようなモニュメント。線路際まで住宅が迫っています。
ところどころなくなっている柱もありますが、なかなかの迫力。
枕木を敷き詰めてあるところも。
「上亀山駅跡公園」。周囲が住宅地の中にありました。広い楕円形の公園。その形がホームがあったことを偲ばせる。ただ、それらしい駅・鉄道の痕跡は見当たらず。
「御手洗」駅方向。


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国鉄下河原線跡をたどる(「国分寺」~「東京競馬場前」)その2

2013-02-03 13:04:05 | 鉄道遺跡
 この緑道にはオートバイなど車の通行が禁止のため、歩行者や自転車が往き来してけっこう賑やか。よく整備された道沿い、灌木や草花が植わっていて、「緑道」らしい雰囲気。車の通りが激しい「府中街道」の歩道に比べ、断然安心な道。
説明版。「その1」での説明内容とほぼ同じですが。(枕木を再活用しているのが、いい。)

 明治43年(1910)東京砂利鉄道として主として多摩川の砂利運搬を目的に国分寺・下河原(府中市南町3丁目)間に開通しました。
 大正9年(1920)に国有の貨物線となり下河原線と改称・・・
 ここに残る線路は今はなき下河原線を記念してその一部を残したものです

道路をまたいで線路が埋められている。
ほぼまっすぐな線路跡の緑道が続く。
線路(跡)脇。草木に埋もれて「踏切事故者」の供養碑がひっそりと。花が手向けられてあった。
在りし日の「下河原線」のようす。のどかな田園風景が広がっています。
川べりを行く汽車。
JR南武線の跨線橋。なだらかな坂が長く南に下っていく。このあたりは、鎌倉街道など歴史的な道筋があって、説明碑が立てられている。
交差する鎌倉街道(坂を下りきったところ)から来た道を望む。
道ばたの草むらの中に、線路際などに見かける赤さびた柵。遺構?
東京競馬場前方面との分岐。右が多摩川方向。中央高速の高架橋をくぐってから西南にカーブし、多摩川に向かう。左が競馬場方面。線路(跡)は、競馬場に向かって急カーブで東南に進む(約0.5㎞)。
「しばまみち」という道しるべ。
来た道を振り返る。
「電車ごっこ」と題されたブロンズ像。
広々とした空間。終点の駅舎は、このあたりにあったのか。
競馬場に向かう人びとは上に南武線が通る地下道を抜けて向かった。
「川崎街道」という道しるべ。「府中街道」は「川崎街道」とも。競馬場の西側をかすめ、神奈川県川崎まで続く道。
「東京競馬場」は中央左奥に広がっている。
 この項は、以上で終了。「府中本町」(武蔵野線の終点の駅)から「西国分寺」まで戻った。歩いた距離は、約6.5㎞。機会があったら、多摩川方面に向かった下河原線跡をたどってみよう。
 
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国鉄下河原線跡をたどる(「国分寺」~「東京競馬場前」)その1

2013-02-02 16:26:23 | 鉄道遺跡
 久々に廃線を訪ねる旅。今回は「国鉄下河原線」跡。線路跡は、緑道(公園)風になっていて、自転車と歩行者が通る道筋。二カ所ばかりレールなども埋め込まれ、説明版もしっかり。
 この路線、当初は、中央線・国分寺から分岐して南下し、多摩川の河川敷までつながっていた貨物専用線。途中、「東京競馬場前」(当時は国鉄の中では一番長い駅名だった)への路線を分岐していました。したがって、旅客線でもあったわけです。その廃線跡を訪ねて。
 JR「国分寺駅」南口からスタート。駅の南西地域は国鉄の中央鉄道学園跡地など再開発が進んでいて、高層マンションなどが整然と建てられています。

 国分寺駅からしばらく中央線に平行して西に向かって走っていた「下河原線(単線)」。その線路跡は整地され、幅があることや灌木が一列に並んでいることくらいしかかつて線路があったという痕跡は残っていません(3,4年前にはまだ線路がしかれていたそうですが)。
中央線沿いの南側の敷地。
ぽつんと朽ちた枕木が一本横たわっていました。
 中央線・武蔵野線が交差する「西国分寺駅」の東南側付近も駐輪施設、ロータリーなど、区画整理が行われていて、「下河原線」の痕跡は見当たらない。
武蔵野線をはさんで東側のマンション。微妙な曲線を描いているのが、南西にカーズして向かう線路跡をうかがわせる。(西国分寺駅南の地点)
 下河原線は「武蔵野線」の南行する線路となった。そのため、ほぼ平行する府中街道をひたすら南に進むと、「北府中駅」に。
東芝の工場。引き込み線があってJRのオレンジ色の車両が見える。引き込み線は、もちろん、現役。
「府中刑務所」南西端。
 しばらく府中街道を進み、「市民球場」を過ぎて右折。
ここで、武蔵野線とはお別れ。
武蔵野線がトンネルに入り、ここから線路跡の道が始まる。中央の建物が線路跡になっている。
ここから本格的な「下河原線」跡の緑道。
細長い公園の中に線路が敷かれ、ベンチや枕木を使ったホーム(モニュメント)がある。
説明版。

「下河原線の歴史」 

 ここは、かつて国鉄下河原線の線路敷でした。
 明治43年(1910)、東京砂利鉄道が多摩川の砂利の採取運搬を目的に、国分寺から下河原(府中市南町3丁目)まで貨物専用鉄道を開通させました。その後、大正3年(1914)の多摩川大出水による被害で一時閉鎖しますが、大正5年(1916)に軍用鉄道として復活し、大正9年(1920)に国有化され、名称も下河原線となりました。昭和8年(1932)に東京競馬場が開設すると引き込み線がもうけられ、昭和9年(1934)より競馬開催日に限り乗客輸送するようになりました。戦時体制が深まってきた昭和19年(1944)国分寺~東芝前間で通勤者専用電車を運転、戦後の昭和24年(1949)からは国分寺~東京競馬場前間の常時運転が開始されましたが、昭和48年(1973)の武蔵野線開通にともない旅客が廃止になり、昭和51年(1976)には貨物線も廃止され66年間にわたる歴史の幕を閉じました。
 この跡地は、府中市が国鉄から用地を受けて自転車・歩行者道、花と緑の緑道として整備し、郷土の森や市民健康センターなどを結ぶ、市民のための道として生まれ変わりました。            府 中 市

公園を南側から望む。直線のレールが延びている。
「京王線」のガードをくぐる。サザンカが道に沿って植えられ、紅い花が今を盛りに。
足下には枕木が柵として再活用されている。
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一之江~東小松川。モニュメント。城東電車江戸川線跡をたどる

2012-09-30 19:59:06 | 鉄道遺跡
 城東電車江戸川線(東小松川~今井)。
 廃止されてすでに60年、上野公園~今井間のトロリーバスが消えてからも、44年が経過しました。今井街道(旧行徳道)を走っていたトロリーバスの遺構はもうすでにありませんが、並行して専用軌道を走っていた城東電車(後に都電)の線路跡は、道路や住宅に変わっていて、道路や住宅、公園の緑地帯の雰囲気で、何とか痕跡を「感じる」だけです。
 城東電車・江戸川線は、今井街道のすぐ南側に専用軌道のかたちで走り、その廃止後、トロリーバスは今井街道を走っていました。

〔歴史〕
明治43年 5月 6日 本所区錦糸町~南葛飾郡瑞江村大字上今井 電車軌道敷設出願
明治44年 3月 7日 東京府と調整の上で内務省より特許(免許)下付
大正 2年 1月     城東電気軌道株式会社 創立
大正 6年12月30日 小松川線   錦糸堀~小松川 3.38km 開通
大正10年 1月 1日 砂町洲崎線 水神森~大島四丁目 1.0km 開通
大正13年 7月11日 砂町洲崎線 大島四丁目~仙気稲荷(稲荷前) 開通
大正14年12月31日 江戸川線   東荒川~今井橋 3.178km 開通
大正15年 2月     小松川(後に西荒川から)~東荒川 に連絡バス運行開始 (当初は徒歩で小松川大橋を渡った)
大正15年 3月 1日 小松川線   小松川~西荒川 0.2km 開通
昭和 2年 3月 8日 砂町洲崎線 仙気稲荷~東陽公園前 開通
昭和 3年 6月 3日 砂町洲崎線 東陽公園前~洲崎 開通
昭和12年 3月25日 東京乗合自動車株式会社と合併し、更に東京地下鉄道株式会社と合併
昭和17年 2月 1日 東京市に全線買収され市電に編入される
昭和18年 7月 1日 都制施行により都電と名を改める
昭和27年 5月19日 都電26系統 東荒川~今井橋 廃止
昭和27年 5月20日 トロリーバス101系統 上野公園~今井 開通
昭和43年 9月28日 都電25系統 西荒川~須田町 廃止、トロリーバス101系統 上野公園~今井 廃止
昭和47年11月11日 都電38系統 錦糸堀~門前仲町 廃止 (現:荒川線を除いて都電全廃)

別の角度からのもの。戦後は生活汚水で汚れた川でしたが、現在は、「一之江境川親水公園」として区民の憩いの場として親しまれています。
区民・地域の熱い思いが込められているようです。
東側を望む。
 1996(平成8)年4月にこの親水公園が出来る以前、橋台跡がしばらく残っていました。今あるのは、後で作ったモニュメント。場所的にはほぼあっていますが、本来の線路とは方向が異なっています(もう少し西向き)。
上がトロリーバス。下が城東電車。
ケース越しに親水公園側から今井街道側を望む。
 今井街道と境川が交差する付近の「一之江境川親水公園」にあるガーター橋と線路のモニュメント、ガラスケースに収まったトロリーバスと電車のブロンズ模型により、半世紀以上の昔、ここに城東電車やトロリーバスが走っていたことを示しています。
今井街道の歩道上のモニュメント(トロリーバス)。
同じく城東電車の絵柄のはめこみ。「マッチ箱電車」という愛称? 大正14年から昭和27年と記されています。
江戸川線の東小松川駅(終点)は、荒川に突き当たる場所にあって、現在の首都高の橋脚下辺りになります。このあたりの一画が終点。当時は大きな敷地になっていました。今は工場、住宅地に。
 終点付近は、首都高のインターチェンジ新設工事のため、用地買収が進み、空地が増えていました。古くからの知人の中に、首都高建設で立ち退いて高速脇に家を新築、再び移転せざるをえない方がいます(もともとは都電敷地跡に家があったそうです)。こういうケースも珍しい。代替地は示されず、自分たちで補償金を元手に探さなければならない、とか。
 いずこを問わず、都市計画に翻弄される一家は多いようです。河川の整備、(高速)道路建設、鉄道の高架化、区画整理・・・、さまざまなかたちで住むところを追われる話は、身近にも聞きます。
 
 線路跡など城東電車が走っていたなどの具体的な遺構・痕跡は残念ながら見当たりません。道路や公園・・・。
 今井街道(旧行徳道)のすぐ南側に線路があったことは、昭和22年の航空写真ではっきり確認できます。また、昭和38年撮影の航空写真でも、すでに線路など撤去された跡地が家屋の並び方や道路、空地など線状に残っていました。が、今では、皆目、見当もつきません(昭和38年の写真では、線路跡にまるで電車のように連なった家屋が数軒、終点近くに見られますが、その後の高速道路建設のためになくなっているようです)。
 せめて道路くらいは、とそのあたりを行きつ戻りつして探索して回りましたが、これだと確定できる道路(線路跡の)もはっきりしませんでした、残念!
お寺の塀沿いの道。
細長い敷地の児童公園。
「環七」近くの細い直線道路。
 それぞれ、各家屋・敷地の裏に面している直線道路、というのが、何となくの根拠。「一之江保育園」の敷地もそんな感じでしたが。
今井街道。「環七」方向を望む。
今井街道。小松川橋方向を望む。
今井街道から南を望む。正面の建物あたりに線路があった、と思われます。
都営新宿線・一之江駅付近。
 城東電車(都電)」(廃止後のトロリーバス)は、もう少し東南、江戸川に架かる今井橋・東詰まで続いていました。
 
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やっちゃば緑道

2012-08-08 23:38:36 | 鉄道遺跡
 中央卸売市場・足立市場への引き込み線跡。JR北千住駅の南方からの引き込み線が廃止されたあと、足立区が整備して緑道にしたものです。昭和38年の航空写真にも写っています。

 現在の足立市場の概要(HPによる)
 足立市場は都内で唯一の水産物専門の中央卸売市場です。松尾芭蕉「奥の細道」の矢立初めで有名な千住大橋のすぐ近く、隅田川と国道4号線(日光街道)に面しており、交通アクセスの良い便利な場所にあります。
その立地を生かし、城北地域の拠点市場として、都内城北地区や千葉北部、埼玉南部などへ水産物を供給しています。
敷地面積は、約四万二千平方メートルと中央卸売市場としては小規模ですが、都民の台所として日々安全な水産物の安定供給に努めております。
◆足立市場の歴史
 足立市場は、川魚・青物・米穀を中心に天正年間に始まったといわれております。その後、奥州・常陸に通じる街道の要衝の地として発達し、神田・駒込と並ぶ江戸3大青物市場の一つに数えられ幕府の御用市場となりました。
 東京都は、昭和17年に現在地(千住橋戸町)を買収、施設を整備し、同20年2月11日に千住河原町にあった青果市場荷受組合と西新井村本木町にあった東京北魚市場を収容した総合市場として中央卸売市場足立市場を発足させました。しかし、昭和20年4月13日、開場後わずか62日目に戦災にあい、施設が全焼したために木造での営業を余儀なくされました。
 戦後は、市場整備のための用地買収が行われ、昭和43年から新しい施設の建設が始まりましたが、取扱量の増加に伴って施設の狭隘化が著しくなったため、青果部門を昭和54年9月17日に足立区入谷(北足立市場)に分離・移転させ、足立市場は水産物の市場として改めて発足し、現在に至っています。
◆足立市場の特徴
 足立市場で取り扱っている水産物は、まぐろ類が約8%、鮮魚が約30%、残りの62%は冷凍品や塩干加工品などです。まぐろ類は早朝5時半からせりを行っており、足立市場の仲卸業者だけでなく近隣の地方卸売市場の仲卸業者なども売買参加者としてせりに参加しています。鮮魚は、あじ、かつお、さば、さんま、するめいかなどの大衆魚を中心に取り扱っています。冷凍品や塩干加工品も多種多様な品物を扱っています。 また、小さい単位での卸売を行う店もあるなど、買出人が買いやすい市場です。
 
足立市場の北東。道路をはさんで「緑道」が始まり、北に向かって進みます。
古びた鉄柵。鉄道敷地の境界線に用いられます。その当時のままなのか断続的に続きます。
町工場や家の裏側に沿って進みます。単線ですが、途中複線になっていた箇所もあったと思われます。
線路の土台のコンクリートが残っています。このあたりは複線?
北側の駐車場から撮りました。正面奥がその土台。左側が緑道。
草むらの中に鉄道標識が横に倒されたまま残されていました。鉄道標識にはうといので、何なのか? 四角い柱、斜めに切られた部分に「4」という数字が記されています。
「墨堤通り」の歩道橋の一部に複線だった頃の橋桁の跡?
歩道橋の脇にある旧家の冠木門。
左がJRの線路、右は住宅の塀。現在の線路に沿って細く長く続きます。
この先で、合流していたと思われます。
JRの高架線の脇には線路に沿ってしばらく細長い家屋が縦に並んで建っていて、右側の建物とは向きが異なっています。もしかしたらかつての線路跡に建てられた建物。
 
 ところで、「やっちゃば(場)」とは「青果市場」のこと。そのせりのかけ声の「ヤッチャ~」から、ヤッチャバの名が起こったといわれています。
 現在の足立市場は「水産物専門の市場」となっています。元々は旧日光街道沿いに立ち並んだ町並みが、「やっちゃば」だったところのようです。京成千住大橋駅の東北側の旧日光街道沿いにに広がっていました。次回はその探索編。



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京成電鉄「博物館動物園駅」跡。

2012-05-15 19:57:08 | 鉄道遺跡
「博物館動物園駅」。1933(昭和8)年、上野駅まで京成本線が開通したのに合わせ、東京帝室博物館(現・東京国立博物館)、東京科學博物館、恩賜上野動物園や東京音樂學校・東京美術學校(現在の東京芸術大学)などの最寄り駅として開業した。しかし、老朽化や乗降客数の減少のため、1997(平成9)年に営業休止、2004(平成16)年に廃止となった。廃止後も駅舎やホームは現存する。
 相対式ホームで、上下線で互い違いにホームが設置されていた。改札口は上りホーム側に設置されていた。地上の出入口は、皇室用地だった東京帝室博物館の敷地内と上野動物園旧正門へ続く2か所があった。
 前者は中川俊二設計で、国会議事堂中央部分のような西洋様式の外観が特徴で、国会議事堂よりも建築時期は古く、営業休止時まで供用されていた。後者は、昭和40年代に現行の動物園正門が開設されたことで人の流れが変わり、まもなく閉鎖された。閉鎖後は東京都美術館の資材倉庫として利用されている。
 地下の壁面には東京芸術大学の学生が描いたとされる「ペンギン」「ゾウ」の絵画がある。最後まで木製の改札ラッチが使われていた。大規模な改修を受けなかったため、昭和初期のレトロな雰囲気を色濃く残していた。また、自動券売機が設置されなかったため、当駅発行の乗車券は駅員による手売りであった。
 ホームや通路は薄暗く、壁はむき出しのコンクリート、さらには戦前、戦中、戦後にかけての長い営みを経てところどころで煤けていた。改札からホームへ向かう階段の途中にトイレが設置されていた。
 当駅の休止にあたって、「記念乗車券(ありがとう博物館動物園駅 営業休止記念乗車券)」が発売され、5枚セットの各硬券乗車券には、ホームや改札、ペンギンの絵画など、当駅の特徴あるイメージが添えられていた。
 休止・廃止された理由として、ホームの有効長が短いため、京成では最も短い4両編成しか停車することができず、その4両編成でさえも先頭車両の端の部分はホームからはみ出している状態だった。はみ出ている部分には列車と壁の隙間に台を設置して対応していたが、このことが安全面で問題になっていた。
1981(昭和56)年以降、普通列車の一部が6両編成になったことで停車する列車本数が減り、乗降客の多くが南隣の本線の終着駅・京成上野駅を利用するようになった。同駅からの距離は0.9kmと近い。
 休止直前は営業時間が7時台から18時台までで、1時間に1本も列車が停車しない時間帯があった。駅員は一人勤務であり、駅員の休憩時間確保のためにこのようにしていた。さらに、開業以来本格的な修繕がなされていないため、老朽化が進んでいた。自動券売機や自動改札機が設置されておらず、改修や維持に大規模な投資が必要だった。
 乗降客数が最も多かったのは、1972(昭和47)年に中国からジャイアント・パンダが上野動物園に来園し、その後に起こったパンダブームの頃と言われる。
 現在、駅舎(地上部分)である西洋式建物の地上口には、廃止となってから「博物館動物園駅跡 京成電鉄株式会社」のレリーフが掲示された。この地上口は扉こそ閉じられているが、休止前と変わらない。
 地下施設のホームや改札も休止前の状態を保っており、列車が通過する際のわずかの間に見ることができる。上下線とも進行方向左側を眺めていると、地下道、地上への階段、案内表示などがそのままであるのがわかる。非常灯が点灯しているが暗めである。
 1991(平成3)年頃から「上野の杜芸術フォーラム」(2003年よりNPO法人)を中心に「M in M」(Museum in Metro)と称し、西洋式建物を含めた地下施設の保存・再生を提案している。なお、営業休止以降も西洋式建物については定期的にクリーニングを行っている。また、毎年9月から10月頃にかけてこの界隈で開催されるイベント「art-Link 上野 - 谷中」にも度々当駅を利用した企画が行われている。
1995,1996年の3月には、駅構内をアート空間として照明・音響・映像などの演出を試みる『光と音のインスタレーション』というイベントが催された。
2010(平成22)年12月から駅舎取り付けの照明灯が復元された。電球はLEDのものを使用している。
                                                (以上、ウィキペディアを参照)

 子どもの頃、親に連れられて、あるいは小学校の遠足で、上野動物園や博物館に行くのに利用した記憶があります。上の記事のように、薄暗く、何だか空気が淀んだような臭いがして、子供心にもあまり利用したくない駅でした。長じてからは利用した経験がありません。上野駅の方で降りた、というよりも動物園などにも行かなくなったということでしょうか。
 ただし、当時の京成上野駅も今のこぎれいな雰囲気の駅・ホームとは違って、地下駅特有の天井が煤けて薄暗く、得体の知れない臭いも漂ってきて、あまり印象がよくありませんでした。帝都営団地下鉄(現東京メトロ)銀座線の駅などもほぼそんなようでしたが。充分な空調設備などはなかった時代だった。
 帰りの電車。出発して右に左にカーブを繰り返し、スピードを出し始め、あっという間の通過ですが、ホームがはっきりと見えました。明かりが灯されて黄色の柱、壁も見えたような・・・。
ひっそりとした佇まい。気がつかない通行人も・・・。屋上の部分の彫り物も、西洋風。
博物館側の出口。
動物園側の出口。
東京都美術館本館の建物と道路を隔てた場所にある。現在何に使われているか不明。出入り口、窓はすべて封鎖されている。
旧駅舎壁面のプレート。
京成電車。かつて走っていた電車の色調。今も4両編成。




 
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谷中・天王寺五重塔跡、京成電鉄本線寛永寺坂駅跡。

2012-05-14 20:29:03 | 鉄道遺跡
 JR日暮里駅南口を出て、谷中墓地を通り抜け、五重塔跡から寛永寺坂駅跡、寛永寺、上野公園、博物館動物園駅跡に立ち寄り、京成上野駅から日暮里へ戻る。谷中墓地から上野のお山を一巡り。坂あり、階段あり、名所・旧跡ありで、ちょっと充実した散歩道。見学時間を入れればもっとかかるが、約2時間。案内板も要所要所にあって、迷うところもなさそう。初夏の新緑がまぶしい行程です。
 トップの写真は、五重塔跡。 
 谷中の天王寺五重塔。1644(正保元)年に最初の五重塔は完成したが、1771(明和9)年目黒行人坂の火事で焼失し、19年後の、1791(寛政3)年に近江国高島郡の棟梁八田清兵衛ら48人によって再建された。このときのことは、幸田露伴の「五重塔」として知られている。
 総ケヤキ造りで高さ11丈2尺8寸(34.18メートル)は、関東で一番高い塔であった。明治41年(1908)6月東京市に寄贈され、震災、戦災にも遭遇せず、谷中のシンボルになっていたが、1957(昭和32)年7月6日、放火により焼失した。焼け跡から男女の遺体が発見された。不倫の精算のためだったという。現在は、礎石が残っているだけである。現存する方三尺の中心礎石と四本柱礎石などすべて花崗岩。
 もとは、日蓮宗感応寺と称した。奈良時代からの古寺・浅草寺と幕府の寺・寛永寺の五重塔に負けじと五重塔を建てた。出来た頃は、将軍家光に大いに保護されていたが、1699(元禄12)年、この寺が日蓮宗の中でも過激な、不受不施派(他の宗派からは施しを受けない、施しをしない)の根城だったことから、幕府から邪宗だとして弾圧され、僧侶は流刑に処され、寺は寛永寺の管轄に置かれ、天台宗に改宗させられた。寺名が天王寺に改名されるのは、1833(天保4)年。
意外に狭い敷地。掲示されていた写真。
その先あたりから見えるスカイツリー。新時代の超高層の塔。634㍍の中心柱の構想は、五重塔の柱と同じ考えだとか。
京成電車がJR線を越えて上野の山のトンネルに入っていく。これから終点・京成上野駅までは地下線となる。
トンネルの上は、すぐそばから民家が建ち並んでいる。
寛永寺坂駅跡。右手は言問通りに面している。駅舎がそのまま保存されている。
 寛永寺坂駅(かんえいじさかえき)は、博物館動物園駅とともに、日暮里駅 - 京成上野駅間の地下線に設けられていた地下駅だった。
1933(昭和8)年、京成電鉄が日暮里 - 上野公園(現京成上野)間の地下線を完成させた時、トンネルの入口付近に設けられた。寛永寺の近くにあったため、駅名となった。戦後、一時営業を再開したが、戦後間もなくの鉄道車両の性能・整備状況及び保線状況では急勾配上にある当駅(「寛永寺坂」という急坂がJR線方向に落ちている。)からの発着が困難であり、運行上の危険が生じたことによる保安上の観点と、利用客が見込めないため、廃止になったという。
 駅のあった場所は、上野桜木二丁目交差点付近。跡地は京成電鉄が現在もそのまま保有し、駅舎と駅前広場は「台東倉庫」という倉庫会社に貸し出されている。地下部分(地下線出入口の至近に位置する)は、ホームは取り壊されたものの空間と木の壁は残っており、通行する電車内からも確認できる、下り線側のホーム跡には階段も確認でき、その入口には右書きで「口出」と書かれた案内表示も残っている、とのこと。帰りの車中で目をこらして見ていたが、残念ながらまったく確認できなかった。何しろトンネルを猛スピードで走り抜けるのですから。
「国旗掲揚塔」跡。コンクリートの土台部分が残っている。それによれば、紀元2600年・昭和16年12月8日(時あたかも、真珠湾攻撃の日)に建立となっている。まさにそこにも記されているように「国威発揚」の時代であった。

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新金線(新小岩~金町)旧線路跡

2012-05-09 18:45:22 | 鉄道遺跡
 1947(昭和24)年9月のキャサリン(カスリーン)台風によって、東京の下町東部が大規模な浸水被害を受けたことにより、1949(昭和24)年に始まった、中川放水路(新中川)の開削工事。1963(昭和38)年3月、15年の歳月をかけてやっと完成した。
 この工事、葛飾区や江戸川区などでは、田畑の買収や多くの家屋等の立退きを余儀なくされるなどの大工事であった。
 新金貨物線も、現在のように以前の線路から大きく東側に移動することになり、葛飾区立奥戸中学校は、新中川と新金貨物線との間に移転することになる。
 その当時の線路(旧線路)は、中川放水路(新中川)を越えたあたりで、現在の線路と合流するかたちで新小岩駅方向に進んでいた。
 その線路跡。新中川の左岸手前では、奥戸中学校の北側で現在の線路と離れ、そのまま舗装された広い道に変わって分かりやすいが、右岸側は分かりにくい。おそらく国鉄用地の西側の細い道が旧線路跡のようだ。奥戸新橋(新中川ができる前には、当然存在していない)付近を西南に横断してそのまま総武線に合流していたと思われる。
 なお、複線化の計画があったようで(現在は頓挫している?)、そのためのコンクリートの橋脚部分だけが、新中川にそのまま。これから先も使用されることなく、撤去されずに残されていくのだろうか。金町から新小岩まで複線化計画のための用地が残されているのだが。
 トップの写真は、奥戸中学校側(新中川左岸側)。正面の突き当たりから直線の道路が旧線路跡。
右側の道路が旧線路跡?このあたりで現在の線路と合流している。
右手の直線道路が線路跡?
右が現在使われている線路。電化されている。複線化のための橋脚が残されている。 
対岸の金町(高砂)側を望む。
新小岩側。白く塗られてかなり頑丈な橋脚の土台。
土手から見たところ。雑草の陰に隠れているような。
新小岩側は国鉄用地。
この貨物線。新小岩~亀戸~越中島と支線(非電化)が伸びている。「越中島貨物駅常備」と記された貨物車。
現役で活躍中。
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東濃鉄道駄知線

2012-05-04 22:55:25 | 鉄道遺跡
 長いつきあいの知人から誘われて、美濃焼の里、土岐市に行ってきました。年に一度の陶器市が5月の3,4,5日に行われる、ぜひ一度来て下さい、緑もたくさんあって、自然の豊かないいところですから、陶器もかなり安く売っていますし、窯元にも行ってみましょうよ、どんぶり会館なんかもあるし、・・・。
 名古屋市内で勤めていて、定年になってしばらくして地元の駄知に戻った。
 ここは、有名な窯元がたくさんあって、同じように陶器の販売や展示をそれぞれの窯元でやっていますんで。
 志野、織部、黄瀬戸。一大生産地だったんですね、ここは。恥ずかしいが、はじめて地名を聞きました。「どんぶり会館」なんて命名もユニークでよろしい、外見もどんぶりのふたをかたどった、と。こちらも何年も前から誘われていながらなかなか時間もとれず、ようやっと出かけることができました。
 JR中央線・土岐市駅。名古屋駅からは、快速で45分くらい。そこで待ち合わせました。久々の再会でした。他の方も見えるというので、待っているうち、昔はここから鉄道が駄知まで通っていた、廃線になってバス輸送に変わった、と。ここのあたりがホームで、と指さすのでした。えっ、聞き逃しては一大事。陶器市もけっこうですが、ぜひその廃線跡をみたい、ということになって今回の旅は、廃線・痕跡の旅ともなりました。
 東濃鉄道駄知線 路線総延長は、約10キロ、主な駅は、土岐市駅、下石駅、駄知駅(西駅)、東駄知駅(東駅)。沿線で盛んだった陶器生産の原料および製品を運搬するのが、主な目的でした。1922年(大正11年)に地元で設立された当時は、駄知鉄道。1944年(昭和19年)に東濃鉄道駄知線となりました。旅客営業も行っています。最初は、蒸気機関車、後に電化されて電車となりました。
 1972年(昭和47年)、集中豪雨による土岐川橋梁の流失で営業休止に追い込まれ、そのまま廃止となっってしまいました。しかし、社名は変更せずに、継続してバス運行事業を行っています。現在駄知駅は東濃鉄道土岐営業所、東駄知駅などはバスロータリー、新土岐津駅は東鉄の月極駐車場として利用されています。
  駄知線の跡地は一部整備されて、歩行者専用道路となっているとのことで、「だち窯やまつり」ににぎわう窯元見学のついでに、「駄知駅」、「東駄知駅」の現状、遊歩道などを探訪しました。
土岐市駅。駄知線のホームはなく、駐車場になっていました。
線路跡から土岐市駅方向を望む。
中央線から離れて左の方に向かっていきます。
線路跡は歩行者専用道路となっています。奥の歩道橋はかつて踏切だったところ。
橋のふもとにある古い建物。
駄知駅跡。広い敷地がかつての陶器製品積み出しなどの賑わいを彷彿させる。奥の建物は、かつての車庫で、今もバスの車庫として使われている。その車庫の中には、線路が残っていました。
駅の全景。
線路側にあったと思われる看板用の鉄骨の枠組み。
駄知駅はスイッチバック方式になっていた。この写真は、遊歩道(線路跡)と道路の交差点(踏切)に掲示されていたものです。
東駄知駅方向に進んだ線路跡。左手の窯工場からもう使われなくなった煙突が見えます。
東駄知駅への線路跡。工場の敷地内でした。駅は、バスロータリーになっていますが、時刻表では、1時間に1本くらいしかバスも発着していませんでした。
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グラントハイツ・啓志線

2011-08-24 22:57:05 | 鉄道遺跡
 都営大江戸線の終着駅「光が丘」。初めておりたちました。地下から地上に出ると大きなショッピングモールや高層住宅、警察や郵便局、区民ホールなどが建ち並ぶ大きな街の装い。
 ここは、かつては「グラントハイツ」(中には、かつては陸軍の基地、敗戦後米軍に接収されて米軍の基地に。広大な敷地のイメージに関連させて「グランドハイツ」と呼ぶ人もいましたが)。中央には滑走路があった広大な基地でした。
 今は、まったくその面影を残していません。緑の木々の多い広大な公園と文教施設にあふれた地域になっています。
 さらに、ここへの交通手段として、東武東上線「上板橋」駅から分岐して「啓志線」がありました。途中、自衛隊練馬駐屯地を経由してここまで路線が延びていました。
 廃線になった後は、急速な宅地開発でまったくその痕跡は残されていません。田柄川の北側に沿って線路がありました。昭和時代の終わり頃までは、あちこちにまだ痕跡があったそうです。もし、その線路が残っていて運行されていたら、このあたりの交通事情も大きく変わっていたことでしょう。今は、大江戸線が大活躍です。
 田柄高校の正門付近がその線の終着駅だったとか。
このあたりがクラントハイツへの分岐線になっていたところ。
かつてのこの付近の雰囲気、畑が残されています。
田柄川。緑道になっています。この少し北側に啓志線が走っていました。
どういうわけか、恐竜(かわいい?場に添わない?)のモニュメント。
この直線が線路跡? 古い航空写真と見比べると、何となくそんな感じですが。
反対側から。まったく痕跡がないのが残念です。
 いくつかの廃線には、緑道として残したり、モニュメントがあるのですが。宅地開発でそういう余裕もなかったのか、また、基地に対する様々な思いがあったのか。
かつて、ほとんどが農地でした。旧家でしょうか、古い木々が生い茂っていて、昔を彷彿とさせるたたずまいです。
光が丘駅。直線に広い道が北に向かっています。滑走路があったところ。
公園へのプロムナード。子供連れや若者の姿が目立ちます。
 2,3日続いた「寒い」雨空も晴れて、東京地方も再び暑くなりそうです。

 
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武蔵野競技場線・グリーンパーク野球場(その1)

2011-06-25 20:52:51 | 鉄道遺跡
 「グリーンパーク野球場」。中央本線三鷹駅北側に大きく広がっていた「中島飛行機武蔵製作所跡地」に建設されたました。「グリーンパーク」という名称は、終戦直後よりこの一帯を接収していたアメリカ軍が用いていた地名に由来します。公認野球規則に準拠した広いグラウンドと5万人を超える収容能力のスタンドを持つ本格的なスタジアムだったといいます。
 武蔵製作所への引込線跡を利用した、三鷹駅から野球場前の武蔵野競技場前駅に至る中央本線の支線(通称「武蔵野競技場線」)も、1951(昭和26)年4月に新設され、競技開催日には東京駅からの直通電車も運行されました。
 この路線は単線。もともと武蔵製作所への引き込み線は、三鷹駅のすぐ西側の駅・武蔵境から境浄水場の東側を通り北進、工場の北西から構内に入っていました。それを一部付け替え、三鷹駅から球場近くまでの路線にしたものです。
 グリーンパーク野球場は、11951年4月14日より2週間に亘り開催された「東京六大学」の春のリーグ戦で初めて使用され、プロ野球のこけら落しは同年5月5日に開催された「国鉄スワローズ」対「名古屋ドラゴンズ」戦。
 しかし、立地条件(当時の庶民感覚では都心から遠すぎる。グランドがでこぼこで、砂埃がひどい・・・等)の悪さから、その後、ほとんど使用されることなく、結局プロ野球では1951年の1シーズン16試合、東京六大学も同年に19試合が行われたのみで閉鎖されることとなります。
 「武蔵野競技場線」も翌1952年から休止状態となり、1959(昭和34)年11月に廃止されました。廃線跡地は三鷹駅側は「堀合遊歩道」玉川上水から北側は「グリーパーク遊歩道」となってかなり整備された遊歩道になっています。玉川上水にかかる人道橋には廃線跡を示すため、線路のモニュメントがあります。
 野球場は1956(昭和31)年に解体され、跡地は日本住宅公団に売却されて武蔵野緑町団地(現在の名称は「武蔵野緑町パークタウン」)となっています。現在ではカーブ状の外周道路に囲まれた敷地の形に、かつての大きな野球場の痕跡を留めるのみです。
玉川上水に架かっていた鉄橋の橋桁の一部。
玉川上水を越えて「グリーンパーク遊歩道」となります。
当時の鉄道敷地内を示す鉄製のフェンス(貨物線などによくあります)。道の両側に点々と残されています。宅地との仕切りにも利用されています。
境界線となっています。

国鉄(JR)の敷地であることを示す境界。
標識に沿ってフェンスが続いていることで、国鉄(JR)の線路跡であることが分かります。
遊歩道の途中にあった「説明板」
この前出かけた「境浄水場」への引き込み線(跡)との関連が説明されていました。



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西鷺ノ宮駅

2011-06-21 21:58:14 | 鉄道遺跡
 西武新宿線。鷺ノ宮駅から下井草駅と向かう途中、下井草駅に近づく手前、線路の左(南)側には盛り土が、右側(北側)は少し開けた空き地があります。かつてここには、「西鷺宮駅(にしさぎのみやえき)」がありました。表記は、「西鷺ノ宮駅」?
 現在は廃止されています。鷺ノ宮駅と下井草駅との間。昭和17(1942)年、開業で、相対式ホーム2面2線の地上駅でした。
 設置の目的は、駅から北へ約600mの鷺宮5丁目(現上鷺宮)にあった東京府立第二十一中学校(後に東京都立武蔵中学校・現武蔵丘高等学校)への通学者向けであったとされています。当時の第二十一中の校地には第二十中(大泉高校、現在は中高一貫校)、第十八高女(井草高校)、第五商業の計4校の府立学校が置かれていた、とのこと。そのうちの第二十一中以外の3校は昭和19(1944)年までにはそれぞれ別の場所へ移転となっています。
 駅の方はその後、開業からわずか2年後の昭和19(1944)年に閉鎖、昭和28(1953)年にそのまま廃駅となりました。駅舎は、昭和22年の航空写真にははっきり残っています。
 車窓から見える両脇の盛り土に当時のプラットホームの遺構を見ることができます。また、上り線の駅舎があったところは、その一部が西武鉄道の変電所の建物になっています。
 写真は、下井草駅側見たもの。左が上り、右が下り線。両側にホームがあった。

下り線のホーム跡。
上り線のホーム跡。東側の奥(かつての駅舎のあたり)には、現在、変電所がある。
変電所側から見たもの。
変電所。このあたりに改札口(橋上の駅舎だった)に向かう階段があったはず。通学生は、この道を右(北)に学校に向かった。
下井草駅南にあった旧家の庭。かなり大きな農家。郵便局の方まで敷地だったそうだ。鬱蒼とした木々に覆われている。
道路に半分はみ出した古木。
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武蔵境~境浄水場。引き込み線跡。

2011-06-12 22:33:07 | 鉄道遺跡
 かつてJR中央線・武蔵境駅から境浄水場まで引き込み線がありました。境浄水場の濾過用に、多摩川で採取した砂利を運ぶための専用線でした。
 現在は廃線となって、その後が緑道公園として整備され、木漏れ日のもと、ほどよい散歩道になっています。今回は、武蔵境駅から浄水場まで歩きました。中央線は高架工事がほぼ完成し、駅も高架駅として工事中です。かつては本線から支線として緩くカーブしながら北西に向かっていた、その線路が残っていましたが、今はまったくその痕跡はありません。
右側の本線から分岐して、左手奥にカーブしていきます。現在は、工事事務所の建物があるあたり。道路は線路に沿った道。
道路の右側には、JR用地を示す標識が続いている。
しばらく進むと本格的な緑道に。途中の小さな公園。このモニュメントは?滑り台が一つ。
静かな住宅地の中を進みます。
公園の名前はあっても、かつてここに線路が敷かれていたというような説明はどこにもありません。
アジサイの花。
玉川上水の架かる橋「大橋」。
玉川上水に架かっていた線路橋の痕跡(土台)。
対岸から。
野いちごが一つ赤い実をつけていました。
引き込み線は浄水場の中に入って行きました。
浄水場のようす(フェンス越し)。
境浄水場正門。
玉川上水に架かる「桜橋」の橋のたもとに国木田独歩の碑があります。武蔵野を愛した独歩の文中に登場する橋。
碑の表面がかすれているのが残念。「桜橋」という橋名が出てきます。
 ところで、この引き込み線。昭和22年の航空写真では浄水場の東側に向かっていて、西にカーブして浄水場の中に入って行く線路にはなっていません。浄水場開設当時は、中島飛行機製作所への線路としても併用されていたのではないか。
 昭和37年の航空写真では左にカーブして行くのが、はっきり分かります。そして、その東側にはちょうど双曲線を描くように北に向かう線路が写っています。引き込み線は、昭和20年代になってから現在の緑道公園になっている線路になったのではないでしょうか。そして、もともとあった線路は、その一部が武蔵野グリーンパーク野球場へ観客を運ぶ鉄道線(三鷹駅からのもの)になったように思えます。
  武蔵野グリーンパーク野球場は、中島飛行機の跡地に作った本格的な野球場。東京都武蔵野市西窪(現在の住所表記は緑町二丁目)にあった野球場。実働1シーズン、完成から解体までわずか5年と、日本で最も短命に終わった球場として知られています。
 三鷹駅からの支線、通称「武蔵野競技場線」。野球場開設とともに、昭和26年4月に開通しましたが、野球場が閉鎖されてしまい、わずか1年で休止、その後、昭和34年11月に廃線となりました。
 昭和31年の航空写真には、二つの線が相似形のように弧を描いて写っています。境浄水場へは武蔵境から、野球場には三鷹から、と。
 機会があったら、今度は「武蔵野グリーンパーク野球場」と「武蔵野競技場」線の痕跡を求めて出かけてみたいと思います。
玉川上水に架かる人道橋。線路のモニュメント。




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玉電砧線跡と野川

2011-06-02 20:10:59 | 鉄道遺跡
 今回は、「玉電(玉川電気鉄道・東急)と野川」という趣向です。
 東急電鉄「二子玉川」駅。通称「ニコタマ」。かつての駅名は、「二子玉川園」。駅を降りて北の方角が目的地。多摩堤通りをけっこう歩きました。途中の「吉沢橋」交差点。クロスする通りの手前には見慣れた緑道が右に折れて続きます。見慣れた、そう、この道筋は、かつての線路跡ではないか、日頃の嗅覚で近寄ります。そこには「砧線跡」という説明板が。この辺りは、これまで縁遠かったので驚き。
 ちょっと道からそれて吉沢橋を渡っていくと、玉電の写真がレリーフとして橋桁に。玉電について解説した碑がありました。下に流れるのは、野川。
 砧線は、二子玉川園を発車後、ほぼ90度のカーブを描いて国道246号(玉川通り。西に進むと御殿場の先の方まで。東は、渋谷を越えて青山通りとなります。旧称は、大山街道)を横断、現在の二子玉川小学校南側の「中耕地」を経て西に進み、多摩堤通りと平面交差して「吉沢」に至り、吉沢橋で野川を渡り、東京都水道局砧下浄水場(旧渋谷町立浄水場)脇を通り、砧本村までの全長わずか2㌔あまりの鉄道。
 開業は、1924年(大正13)年。二子橋の上流にあたる大蔵付近(東京府北多摩郡砧村)の砂利の輸送を開始しました。砂利輸送を主目的としたことから、「ジャリ電」と呼ばれることもあったという。
 玉電(玉川線)そのものが、二子多摩川付近の砂利を東京都心に輸送することを主目的として路線開設が出願されたことが起源で、1907(明治40)年、玉川電気鉄道の手により渋谷 - 玉川間が開業しました。
 玉川から運んできた砂利を都心に輸送するため、渋谷では、都心に線路を伸ばしていた東京市電と軌道が接続され、渋谷には砂利運搬車両の留置線も設置されました。
 この砧線の線路跡地は、二子玉川駅付近を除き、道路(一部は、歩行者専用)として整備されています。「中耕地停留所跡」地の歩道上には、砧線が走ったことを示すレリーフが埋め込まれ、駅跡には石碑が建てられている、とのこと(時間がなくて見に行けませんでした)。
 2007(平成19)年、現在の吉沢橋が、少し上流にあった新吉沢橋と合わせて架橋し直された際に、玉電についての解説文の碑と欄干には玉電のレリーフが埋め込まれたそうです。
 停留所も少なくて、1947(昭和22)年当時の航空写真では、「中耕地」という駅名が示すように、線路の周囲は田んぼや畑の田園風景が広がっていました。
 終点の砧本村停留所前には、戦前、「わかもと製薬」の工場があり(商品としては胃腸薬の「強力わかもと」が有名?)ました。その跡地は現在、駒澤大学玉川校舎となっています。
 さて、玉川電気鉄道は路線を拡張、1925年(大正14年)、三軒茶屋-下高井戸間に支線(のちの世田谷線)を開業。1927年(昭和2年)には天現寺線渋谷橋より中目黒に至る中目黒線、同年には溝ノ口線(玉川 - 溝ノ口)を開業しました。溝ノ口線の開業時には、多摩川を渡る二子橋の建設費の一部を玉川電気鉄道が負担し、二子橋は橋の中央に線路が敷設された形態の道路・軌道の併用橋となっていました。
 現在「二子玉川」駅ホームの大半は、野川・多摩川の川の上にあり、そのため、駅入り口は北側に一箇所。南側のホームの先端は細くなっています。
 1934年(昭和9年)、二子橋より下流での砂利採取が全面禁止され、さらに玉川電気鉄道の経営権が東京横浜電鉄や目黒蒲田電鉄を経営していた五島慶太らに移って以降は、砂利輸送からは撤退し、軌道線は旅客輸送が中心となっていきます。1938年(昭和13年)、玉川電気鉄道は東京横浜電鉄に合併され、1942年(昭和17年)、社名変更に伴い東京急行電鉄となり、現在に至ります。
 かつての駅名「二子玉川園」は、駅の東側にあった「二子玉川園」という遊園施設に由来しています。戦前から玉川第二遊園地や玉川プールなどが開設され、行楽地として開発されました。玉川第二遊園地は、のち二子玉川園となり、同地には映画館「二子東急」も設けられ、行楽地として栄えましたが、1985(昭和60)年に閉園しました。跡地にスポーツ施設やナムコ・ワンダーエッグ、いぬたま・ねこたまなどのテーマパークが建設されました。2000年代に入って、二子玉川駅東口から二子玉川園跡地にかけて再開発計画が進行しています。将来は東口一帯に2棟のタワーから構成される大規模な商業地域・ホテル・住宅地域が建設される予定ですが、環境破壊につながるとして、反対運動も起こっています。
 「吉沢橋」で越える野川。国分寺市東恋ヶ窪一丁目の日立製作所中央研究所内に源を発する川。小さな河川を合流させながら、多摩川と並んで二子玉川で国道246号新二子橋や二子橋をくぐり、二子玉川駅のホーム下をくぐった先で多摩川に合流します。
吉沢橋上の説明板
吉沢橋を渡って砧本村に続く線路跡(道路)
歩行者道路となっている線路跡
緩やかなカーブが線路を彷彿させる。
二子玉川駅ホーム。田園都市線と大井町線の合流駅。たくさんの乗降客がいます。
ホーム上からの野川(右)と多摩川(左)
吉沢橋からの野川。中央奥が二子玉川駅方向。
野川。清流に大型の鳥が一羽。
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