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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

反町駅~東白楽駅。(「東横フラワー緑道」その2。)横浜その14。

2014-03-10 20:20:07 | 鉄道遺跡
 初春の日差しの下での散策。「フラワー緑道」というネーミングの通り、大きな灌木はない代わりに、足下の花壇には草花が植えられ、緑も多く、目を楽しませてくれます。
り。、
「高架歩道橋」から眼下に国道1号線を望む。
 この「歩道橋」は、東急東横線の旧高架橋を再利用、反町駅南側から国道1号をまたいで反町駅北側の緑道へと通じている。
 地上線時代の東横線はこの先東白楽駅まで高架だった。橋桁は東横線時代に使用されていたものをそのまま流用している、らしい。
「国道1号線」東側。
「フラワー緑道」の北側を望む。
木道の部分にかつて使用されていたと思われるレールがはめ込まれている。


緑道上に等間隔で設置されているコンクリート製の換気口。真下を電車が通過すると、走行音が聞こえてくる。


緑道沿いで見かけた酒屋さん。クラシックな店構え。
線路上にまだ雪が残っていた(注:撮影 2月26日)。中央奥が1946(昭和21)年に廃止された新太田町駅の跡地。砂地の広場となっている。
広場の入口にある「東横フラワー緑道」の碑。
広場脇の案内図。高島山トンネルからここまでで、全長の約3分の2を歩いたことに。
新太田町駅跡地付近。ここからゆるい上りになって現在のトンネル入口に着く。


前方、遠くに見える白い建物は「神奈川工業、神奈川総合高校」。

1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。中央が「神奈川工業高校」。線路右手に鉄道用地が見える。

地下線化したトンネル上部の広場。来た道を振り返る。
東横線。前方が「東白楽」駅方向。右のスロープは、「二ツ谷公園」に通じ、「滝の川せせらぎ緑道」と結ばれている。



スロープを下った辺りからトンネル入口を望む。

案内図。赤い矢印から矢印まで、約1.4㎞の道のり。
 お手頃で、落ち着いた散歩コースでした。東京からやって来る機会もありませんが、草花の手入れを含めて、地元の方々にとってはすてきな「フラワー緑道」に違いないことを感じました。
 こうして、「JR東神奈川駅」まで戻りました。
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高島山トンネル~反町駅(東急東横線地上線跡「東横フラワー緑道」。その1。)横浜その13。

2014-03-09 21:22:19 | 鉄道遺跡
 2004年2月、みなとみらい線(横浜駅 - 元町・中華街駅)開業に伴い、直通運転を行う東急東横線の反町駅および横浜駅が地下化され、2011年、その線路跡が全区間「緑道」として整備された。
 緑道の愛称は、「東横フラワー緑道」。  
 地下化以前は、住宅街を通過する高架線、地上線だったために騒音も激しかったが、現在は静かで落ち着いた住宅街の中を緑道が続いている。花壇、樹木、水飲みが設置されているほか、木道にはモニュメントとして「線路」がはめこまれている。       





1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。が「高島山トンネル」。が「桐畑橋」。下方が横浜駅方向。JR線、京急線の跨線橋が「青木橋」。

 今回、その緑道を「高島山トンネル」から「東白楽駅」付近まで歩いてみました。

横浜駅方向を望む。かつての高架線は撤去され、緑道になっている。

反町駅-横浜駅間に位置する高島山を貫通するトンネル。
 かつてはトンネルの南側に「東急・神奈川駅」があった。
 地上線の廃止後、高島山トンネルが歩行者用に改修・整備されて開通したことで、反町駅周辺から横浜駅までの歩行所要時間が大幅に短縮された。
旧線路が旧東海道と交叉する、そのすぐ北側に高島山トンネルは位置する。案内図。


散策する人、乳母車で通る人・・・、自転車の乗り入れが禁止なので、安心して行き来できそう。
トンネル付近から横浜駅方向を望む。このトンネル、開放する時間帯が決まっている。
トンネル内。
トンネル周辺で行われる予定の「イルミネーション体験」の案内。
トンネルを出ると、線路を模したタイル張りの歩道が続く。中央の橋は「桐畑橋」。
振り返ってトンネルを望む。
線路伝いに歩く雰囲気。遠く左に見えるのが、「反町駅」駅舎。
案内図。
「反町駅」。童話調の民家仕立てで、面白い雰囲気。
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横浜鉄道。JR横浜線。東神奈川。横浜市場。廃線跡をたどる。横浜編その4。

2014-02-25 21:05:42 | 鉄道遺跡
 もう一つ「東神奈川と東高島」とを結ぶ貨物支線の遺構探し。この路線は、前回の「鶴見」~「桜木町」(高島線)、その支線・瑞穂埠頭への貨物線(のちの米軍専用線)とは異なり、横浜線(「東神奈川駅」)から派生した支線。
 もともとは、1908年(明治41年)、八王子や信州で生産された生糸を横浜へ輸送することを目的として、「横浜鉄道」によって開業した東神奈川駅 - 八王子駅間(現・横浜線)に由来。
 横浜鉄道は、神奈川沖の海を埋め立てて岸壁を建設し、そこに貨物線を伸ばして海陸連絡を図る構想のもと、東神奈川駅から海側へ貨物線を延長することになった。すでに東神奈川駅のすぐ海側には京浜電気鉄道(後の京急本線)の線路があったために、京浜電気鉄道の線路を高架化することになり、京浜電気鉄道・仲木戸駅の下をくぐって、横浜鉄道の線路が延長された。その時、海岸側に設置された駅が海神奈川駅(現・神奈川水再生センターの一部)で、1911年(明治44年)に開業。
(「神奈川水再生センター - 横浜市」公式HPより)
 この海陸連絡線は開業から国鉄が営業することになり、その後1917年(大正6年)、横浜鉄道は正式に国有化され、国鉄横浜線となった。
 この横浜鉄道の海陸連絡線は、横浜港において初めての臨港貨物線だったが、岸壁を造成できないままに終わって、本格的な船舶との連絡を果たすことはできなかった。
 横浜線の海陸連絡線は、東神奈川駅の東側で横浜線から分岐して南へカーブを切り、京急本線を仲木戸駅の下にあるガードでくぐって、国道15号(第一京浜)を横断して千若町の海神奈川駅へ至る構造であった。東神奈川から高島までの貨物線もこれと平行して敷かれていた。

線路の跡だと思われる駐車場。中央奥に行ったところが「東神奈川」駅構内。
京急「仲木戸」駅」ガード。この下を通って東高島駅方向に向かった。ガードの中央付近に古い煉瓦造りの部分が残っている。
旧線路脇の「仲木戸公園」煉瓦造りの門柱、塀。
「第一京浜」の歩道橋から仲木戸駅方向を望む。赤丸が京急線とのガード。そこをくぐって二つの貨物線が赤線のように進んでいた(一方はそのまま東に向かい「海神奈川」へ、もう一方は南にカーブして高島線「東高島駅」付近で合流)。
ゴルフ練習場のフェンスに沿って線路があった。右にカーブして運河を渡り、東高島駅に通じていた(「東神奈川」~「高島」)。
現在は、民間会社の構内。
当時の橋梁が現存している。
運河に架かる橋梁。

 第一京浜に架かる歩道橋。そこに案内図がありました。
(注:上が北になるよう回転させている。)が東高島駅。その下(南側)一帯が構内。付近にも引き込み線があった。現在はすっかりなくなっていて、再開発(計画)を予定しているようす。左(西)の○が「第一京浜」。
付近。引き込み線があったところ。現在は、かなり規模が大きい駐車場(空き地?)。
東高島駅構内。付近。
構内は広い。
 西側部分は、線路は撤去され、陸上での物流関係の集積場になっている。
かつてのホーム跡?
頻繁に電気機関車や貨物列車が行き来している。

横浜市場へ向かう支線の跡?
線路は遮断されて、ここから市場へ向かう線路跡は見当たらなかった。
市場へ向かう支線が通っていたと思われる「星野公園」から東高島駅方向を望む。

1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。中央に大きく広がる「東高島駅」から分かれて南に進む線路が横浜市場への支線。現在は、すでに廃線。

昭和初期の頃のようす(「今昔マップ」より)。赤い線が貨物線。「仲木戸」駅付近に「御殿町」という地名があるのに注目(赤丸)。「仲木戸」駅名は、神奈川御殿の「仲木戸」の由来。
神奈川御殿。
「国土交通省 関東地方整備局 横浜国道事務所」HPより引用)

これは、運河にうち捨てられた「廃船」!

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再び「仲木戸」訪問。廃線踏切跡。米軍施設。高島線。横浜その3。

2014-02-24 21:08:14 | 鉄道遺跡
 京急「仲木戸」駅下車。神奈川宿。再び訪問。
「瑞穂橋」沿いに残る貨物線の橋梁。
 かつての瑞穂埠頭への貨物支線を転用した在日米軍基地「横浜ノース・ドック」(「在日米軍港湾輸送施設」)専用線が高島線・信号所から分岐し、燃料輸送に使用されていた。すでに役割を終えたが、そのまま残っている。
橋梁から西北側を望む。線路は右にカーブして「高島線」と合流していた。
「高島貨物線」との合流近くの踏切跡から瑞穂橋方向を望む。
廃線してもそのまま残っている踏切のレール上に車が駐車している。
踏切跡への道の入口。「駐停車禁止」の看板には、違反「者」(「車」ではない!)は米軍レッカーで撤去します、とある。もちろん、現在はそうではなさそうだが。この地域が米軍の支配下であった証。と思ったが、踏切跡を渡っていくと、こんな看板が目に入った。
「専用地に付き米軍と日本製粉に御用の方以外の立入り御遠慮下さい」。
 この奥の一角には、現在も米軍関係施設がある。地図には、「FLEETMAILCENTERYOKOHAMA」とある。そこでは、極東からペルシャ湾に至る米海軍関係の郵便業務を行っている、とのこと(「横浜ノース・ドック」の関連施設)。米軍施設が点在している地域。
奥が、「日本製粉」横浜工場。
雑草に埋もれた線路。高島線との合流付近。
鶴見駅方向に向かう貨物列車(「石油タンク」が長く連なっている)。

 高島線は、東海道本線の貨物支線のうち、神奈川県横浜市鶴見区の鶴見駅から同市神奈川区の東高島駅を経由し同市中区の桜木町駅を結ぶ貨物専用線、およびその支線の通称。
 2012年初頭時点で現存する区間は、桜木町まで。鶴見で東海道本線や貨物線の東海道貨物線、武蔵野線に接続し、新鶴見信号場や東京貨物ターミナル駅方面へと連絡している。また、桜木町では根岸線に接続している。「JR貨物」の貨物列車が運転され、鶴見以東と根岸線を結ぶ中継ルートの役割を果たしている。
 路線網がこのように縮小される前は、横浜港一帯に臨港線と貨物駅を張り巡らせており、横浜市内に発着する貨物および船舶と連絡する貨物の取り扱いを行っていた。
 かつては「新興」発着の化学薬品輸送、「東高島」発着の在日米軍基地「横浜ノース・ドック」専用線発着のジェット燃料輸送、「日本製粉専用線」発着の小麦輸送、「横浜市場」発着の鮮魚輸送などがあった。
 東神奈川駅と高島駅を結ぶ貨物支線もかつて存在し、廃線跡や橋梁は現在も残っている。

 高島線や東海道貨物支線を旅客線にしようという地元自治体の運動があり、現在、京浜臨海部再編整備協議会が東海道貨物支線の貨客併用化への取り組みを行っている。
 さらに、路線と関係する神奈川県や東京都の地元自治体により結成された東海道貨物支線貨客併用化整備検討協議会も東海道貨物支線(高島線を含む)の貨客併用化を路線所有者のJR東日本に対して要望しており、2012年には同協議会が貨客併用化の検討ルートを公表している。

「東神奈川駅」コンコースにある大正時代初期の絵図。赤丸が「現東高島駅付近」かつての神奈川砲台跡。赤く塗られた部分が「横浜倉庫」の倉庫群。
コメント (1)
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運河の岸壁。廃線橋梁。東高島駅。・・・久々の廃線発見の旅。横浜その2。

2014-02-13 22:44:06 | 鉄道遺跡
 少し戻って、南から西の方へ。この道路は最近できたようだ。

 
「三井倉庫」裏手の運河沿い。
「コットンハーバータワーズ」4棟と「コットンハーバー マリナゲートタワー」1棟からなるマンション群。
「三井倉庫」の岸壁。煉瓦造りの部分などがあって、かなりの古さを感じる。左手が貨物線。
運河側から望む。右手が「三井倉庫」。
「会社道踏切」。

廃止となった鉄道線の橋梁。1959(昭和34)年までは、東神奈川駅へ向かう貨物支線として存在していた。
ゴルフ練習場(当時の地図では変電所の施設があったようになっている)の脇を通って東神奈川駅方面に向かっていた。

1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。運河を斜めに渡っているのが、「東神奈川駅」からの貨物線跡で、中央に大きく広がる「東高島駅」に通じていた(当時はすでに廃線)。

運河に架かる橋梁のみ残っている。ぜひ今後も保存してもらいたいものだ。

鉄橋を通過する電気機関車(実は、その向こうの本線を通過している)。

 その機関車の向かう先に「東高島駅」がある。
「東高島駅」という標識。
 現在は、車扱貨物の臨時取扱駅となっており、貨物列車の発着はなくなっている。


《駅の概要》(以下「Wikipedia」参照)
 鶴見と桜木町を結ぶ貨物線である「高島線」の中間駅で、当駅より鶴見方は複線、桜木町方は単線となっている。通常運転停車のできない桜木町駅に代わって一部の貨物列車が当駅で運転停車や上下交換を行う。当駅は2005年(平成17年)度を最後に貨物の発着実績がなく、信号場としてのみ機能している。

《歴史》
 当駅付近に最初に線路が敷設されたのは、横浜鉄道(後の国鉄・JR横浜線)が東神奈川駅から貨物線を延長してきたとき。
 1910年(明治43年)10月に東神奈川からの線路が延長され、海岸側に設置された海神奈川駅は1911年(明治44年)12月10日に正式開業した。これは横浜鉄道の創業者グループが別に経営していた横浜倉庫の倉庫や岸壁との連絡を狙ったもので、現在、高島線が通過している千若町二丁目の埋立地は、横浜倉庫が埋め立てを行っている。
 その後、鶴見と高島を結ぶ複線の貨物線が1917年(大正6年)6月17日に開通した。
 1923年(大正12年)9月1日には関東大震災が発生し、その復興を兼ねて1924年(大正13年)10月1日、東神奈川 - 高島間の貨物支線上の駅として東高島駅が開業した。東高島駅は構内の周囲を運河に囲まれており、水陸連絡貨物を主に扱った。敷地は、元々神奈川台場として造成されたもので、その上に覆土を行って線路を通した。

 1934年(昭和9年)6月15日に高島と山内町(後の横浜市場)を結ぶ2.6 kmの貨物線が開通した。東高島構内まで本線と並行し、そこで南へ曲がって横浜市場駅へ通じる構造であった。
 1935年(昭和10年)7月15日には入江と瑞穂を結ぶ2.8 kmの貨物線も開通した。
 1955年(昭和30年)1月17日に、東高島駅はそれまでの東神奈川 - 高島間支線の駅から、高島線上の駅に所属変更された。これに伴い、東神奈川からの線は東高島終点となった。また瑞穂への支線も東高島駅分岐になり、横浜市場への支線も東高島駅分岐になった。
 しかし、横浜線の貨物輸送量減少に伴って東神奈川と東高島を結ぶ貨物線は不要となり、1959年(昭和34年)4月1日に廃止となった。さらに米軍が占有して使うようになった瑞穂埠頭にあった瑞穂駅へ通じる貨物支線は1958年(昭和33年)5月1日付で国鉄の路線としては廃止となった。その後米軍の専用線としての使用が続けられた。
 その後、貨物輸送の形態の変化に伴って横浜臨港線関連の貨物輸送は減少していき、1982年(昭和57年)11月15日付で横浜市場への貨物支線も廃止となった。
 1987年(昭和62年)4月1日付で国鉄分割民営化により日本貨物鉄道(JR貨物)の駅となった。隣接する高島駅は1995年(平成7年)2月27日に廃止となり、同時に東高島 - 高島間が単線化された。これにより東高島駅は複線と単線の接続する駅となっている。

《年表》
1917年(大正6年) 6月17日 - 海神奈川信号扱所開設。高島線と、東神奈川駅と海神奈川駅を結ぶ貨物支線の平面交差地点。海神奈川駅構内扱い。東神奈川駅と高島駅を結ぶ連絡線が開通。
10月1日 - 横浜鉄道が正式に国有化。
1923年(大正12年)2月1日 - 専用線発着貨物の取扱を開始。
1924年(大正13年) 1月1日 - 海神奈川駅から独立、千若信号場となる。
10月1日 - 東神奈川 - 高島間の貨物支線上の駅として東高島駅開業。
1934年(昭和9年)6月15日 - 高島 - 山内町間開通、実質的には千若信号場で分岐。
1935年(昭和10年)7月15日 - 入江 - 瑞穂間開通、実質的には千若信号場で分岐。
1955年(昭和30年)1月17日 - 東高島駅の所属を高島線に変更、千若信号場を統合。瑞穂への支線、横浜市場への支線が当駅分岐扱いになる。東神奈川からの支線が当駅終点となる。
1958年(昭和33年)5月1日 - 瑞穂駅への貨物支線が廃止され、在日米軍専用線に転用。営業範囲を小口扱および車扱貨物(ただし、小口扱貨物は同停車場接続駐留軍専用線発着のものに限る。)とする。
1959年(昭和34年)4月1日 - 東神奈川駅への貨物支線が廃止。
1970年(昭和45年) 9月15日 - 高島線電化開業。
10月1日 - 電気機関車による貨物列車牽引を開始。
1982年(昭和57年)11月15日 - 横浜市場駅への貨物支線が廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により日本貨物鉄道の駅となる。
1995年(平成7年)2月27日 - 当駅と高島駅の間が単線化。

(「Wikipedia」より)

右手に見えるのが、かつてのホームの屋根。
運河側は駐車スペース。
ゴルフ練習場の岸壁。煉瓦造りのところもあって、かなり古い。


「龍宮橋」大正12年の架橋。遠くに廃線となった橋梁、その奥が「三井倉庫」の建物。
「星野橋」付近にある「案内図」。上部の四角形の部分を歩いた。

2000年代初め頃のようす(「今昔マップ」より)。赤い線が1900年代初め頃の海岸線、赤丸が「神奈川砲台」のあったあたり。

 この付近はまだまだ見所満載のところ。近々また来ようと思っています。


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京急・仲木戸駅。高島貨物線。横浜ノースドック。瑞穂橋。久々の廃線発見の旅。横浜その1。

2014-02-12 22:31:19 | 鉄道遺跡
横浜 2月11日。
 お祝い事があって、JR「東神奈川」駅近くまで。ここは、JR線と京急線が高架橋で結ばれていて、乗り換えに大変便利。でも、近いのにまるで駅名に関連がない(都内足立区の京成線・関屋駅と東武線・牛田駅のよう)。
 終わって、帰り道。ちょっと寄り道。港の方向へ。先日の大雪が道ばたにはまだまだ残っていて、それでなくても肌寒い午後でした。そこでの発見。
 といっても、ここは廃線マニアには有名なところ、とあとで知りました。
「村雨橋」から南側を望む。運河の入り組んだ港町。
西側を望む。高速道路付近がかつての海岸線。昔の海岸線沿いに今でもお寺が並んでいる。


1880(明治13)年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。「神奈川砲台」の上方、海の部分が今回歩いた辺り。左側の陸地に京急線、JR線がある。

途中の広大な「神奈川水再生センター」敷地にあった煉瓦造りの暗渠。
側面。
説明板。
 明治17年外人居留地であった関内山下町付近にあった約4㎞の暗渠の一部。近代下水道の模範として最も古いものだそうだ。

前方の踏切を貨物列車が通過する。
「千鳥橋」からの眺め。右に貨物線(「鶴見」と「桜木町」を結ぶ高島線)。


三井倉庫への引き込み線。海陸両面に通じる運搬手段として鉄道(貨物輸送)が大活躍していた。
三井倉庫群の裏手(運河沿い)。

「瑞穂橋」沿いに残る貨物線の橋梁。
 かつての瑞穂埠頭への貨物支線を転用した在日米軍基地「横浜ノース・ドック」専用線が高島線・信号所から分岐し、燃料輸送に使用されていた。すでに役割を終えたが、そのまま残っている。
1970年頃のようす(「同」より)。左上よりカーブして運河を越えている。

倉庫への道路に架かる鉄橋(「瑞穂橋」の手前にある)。
同。

橋梁から西北側を望む。線路は右にカーブして「高島線」と合流していた。
かつては複線で、現在残っているのは単線。

橋梁方向。
正面が在日米軍基地。
「United States Army Yokohama North Dock Gate 1」在日米軍港湾輸送施設。


管 理 在日米陸軍施設管理本部、在日米海軍横須賀基地司令部
 この施設は、第836米陸軍輸送大隊、在日米海軍横須賀補給センター、日本区域艦船支援隊等が使用している。
 ふ頭地区では、大型・小型船舶用バース、野積場、倉庫等があり、物資の搬出入や軍人・軍属等の移動に伴う貨物輸送業務等が行われている。
 郵便地区では、極東からペルシャ湾に至る米海軍関係の郵便業務を行っている。
 また、陸上自衛隊が建物 約1,870m2を共同使用している。

(参考)最近の入港実績

年度   入港実績(隻)

平成18年度 59
平成19年度 50
平成20年度 58
平成21年度 40
平成22年度 27

*昭和40~45年の年平均 802.3隻

《経過》
昭21. 4.15 ふ頭地区と郵便地区が接収された。
昭47. 2.16 広域避難場所に指定された。
昭47.12.21 日米合同委員会において陸上自衛隊の共同使用が合意された。
昭48. 3.14 日米合同委員会においてモータープールの返還の合意がされた。
昭48. 3.31 制限水域の一部(幅30m、長さ1,046m)が返還された。
昭49. 2. 8 モータープール代替施設建設工事が完了し、モータープール (99,563.67m2)が返還された。平 7. 3.27 瑞穂橋架け替え工事が完了し、供用が開始された。
平 7.11.24 施設内への進入路建設のための共同使用を申請した。
平 7.12.12 埋立工事(第1期・約30,900m2)がしゅん工した。
平 7.12.25 水域の一部(約30,900m2)が返還された。
平 9. 1.13 グアムから機能を移転した米海軍横須賀補給センターの定期輸送業務が開始。
平 9. 6.26 沖縄の実弾射撃訓練の本土移転に伴う、砲・車両等の陸揚げが行われた。 (以後、年1、2回の陸揚げが行われている。)
平 9. 9.26 横浜冷蔵倉庫の代替倉庫が提供された。
平10. 6.18 日米合同委員会において、公共バースへの進入道路建設のための共同使用が合意された。
平11. 2.25 公共バ-ス建設の為の地先埋立工事(第2期・約138,000m2)がしゅん工した。
平12. 3.31 日米合同委員会において、神奈川ミルク・プラントの返還条件である代替冷蔵倉庫の提供について合意された。
平14. 6.25 公共バースへの進入路の供用が開始された。
平14. 8.25 米陸軍所有の舟艇5隻が保管のため、施設内に搬入された。(以後、平成16年9月までに舟艇32隻が搬入されている。)
平18. 6.30 同施設に所在していた極東地区軍事海上輸送司令部がシンガポールに移転した。
平21. 3. 5 日米合同委員会において一部土地等の返還が合意された。
平21. 3.31 土地等の一部(土地 約27,000m2、水域 約2,500m2、瑞穂橋等)が返還された。
(以上、HPより)

 全面返還されるよう、交渉も進んでいるようだが、その暁には大規模な再開発が行われるようだ。

「瑞穂橋」からの眺望。みなとみらい地区。
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城東電車。越中島貨物線。弾正橋。石田波郷。「南砂緑道公園」。その2。

2013-12-11 21:28:19 | 鉄道遺跡
 ぐるっと曲がって、北東のはずれ付近。この先は、越中島貨物線のガードをくぐればもう少しで「明治通り」、というところに、車輪のモニュメント。

説明板
 この緑道公園は、もと都電(城東電車)の走っていた用地にみどりといこいの散歩道として建設されたものです。
 城東電車は大正9年から設置され、この緑道公園の区間は昭和2年にしかれましたが、昭和47年11月に廃止されるまでチンチン電車の名称で広く親しまれていました。
 この車輪は都電に使用されたものです。車軸 昭和28年8月製造/車輪 昭和40年10月(ギア側)製造・車輪 昭和41年4月(アクスルカラー側)製造



 「砂町線(すなまちせん)」は、かつて亀戸・水神森と東陽町・洲崎を結んでいた都電の路線で、都電29系統と38系統として東京都交通局によって運営されていました。
 もともとは大正2年(1913)に設立された「城東電気軌道」という私鉄の路線で、1920年に一部区間(水神森 - 小名木川間)が開通し、1929年に全線開通しました。1938年には東京地下鉄道と合併、1942年に東京市電気局に買収されました。1972年11月12日に全線廃止。もう一つの路線は、大正14年(1925)全線開業の江戸川線(錦糸町・西荒川間と東荒川・今井間)。

停留所
 水神森―竪川通―竪川―大島三丁目―大島一丁目―小名木川―北砂三丁目―北砂二丁目―境川―仙台堀川―南砂三丁目―第四砂町小学校―南砂二丁目―東陽公園前―洲崎停留場

全盛期の都電路線図(「Wikipedia」より)。
 現在、運行している都電は、荒川線のみ。

 そこで、廃線跡について(以下、「Wikipedia」参照)

 都電は道路を運行していたため、廃線跡はほとんどの場合道路に埋もれてしまい、現存していない。しかし、一部の専用軌道など、廃線跡として残っているものもある。

①船路橋
 港区芝浦二丁目にあった、都電の車両工場へ繋がる専用の橋である船路橋は、21世紀初頭まで残っていた都電の数少ない廃線跡であった。対岸の工場跡には難民やホームレスの収容施設が建てられたこともあった。しかし、工場跡地を含む一帯が芝浦アイランドとして再開発されるのに伴い撤去された。
 2007年5月28日に同じ場所に掛け替えられた新しい船路橋には、来歴にちなんでタイルでレールをかたどった装飾が施されている。

②亀戸緑道公園・竪川人道橋・大島緑道公園
 砂町線は水神森から大島一丁目までは明治通りに沿うような形の専用軌道となっており、途中竪川を専用橋で渡っていたが、廃線後は竪川を境に以北は亀戸緑道公園、以南は大島緑道公園として整備され、専用橋跡は「竪川人道橋」として歩行者専用橋に転用された。現在は橋の北詰に都電をあしらったモニュメントとともに説明板が置かれている。

③南砂緑道公園
 砂町線は南砂三丁目から南砂二丁目までも専用軌道になっていた。南砂三丁目交差点附近から西へ入って「小名木川貨物線」を潜り、江東南砂団地(旧:汽車会社東京製作所工場跡地)をぐるりと囲むように東陽町まで延びていた専用軌道跡は、南砂緑道公園として整備されている。

④西荒川付近
 小松川線も亀戸九丁目より国道14号から外れて終点の西荒川まで専用軌道が続いていた。廃線後もしばらくの間空き地となっていたが整備され、江東区側の大部分は「浅間通り」と言う名称の道路として整備された。旧中川を渡っていた専用橋跡は1995年同じ場所に「亀小橋」という名称の道路橋が架橋された。道路橋から先は再開発事業に伴い、江戸川区さくらホールと新築移転後の小松川第二小学校の敷地、区道、病院の敷地にそれぞれ取り込まれ、また終点西荒川駅跡は首都高速7号小松川線の高架脇の側道となっているが、これも再開発事業に伴い周囲が更地となり、かつ2002年までにスーパー堤防として整備されたため地形も変形しており、面影はまったく残っていない。

⑤一之江線
 東荒川より今井橋までの全線は今井街道のすぐ南側を走る専用軌道だった。現在の起点の東荒川は首都高速7号小松川線の高架下・神社脇で、南に折れる形で道路として続いている。小松川境川親水公園を跨ぎ、東小松川二丁目西児童遊園を経て、船堀街道から先は一旦民地(宅地)に取り込まれる。途中廃線跡に設置された貞明児童遊園がある。また、一之江境川親水公園の上にガーダー橋が掛けられているが、都電設置時と方向・位置が異なっている。この先廃線跡は保育園敷地や道路となり、また新中川開削時に水没している。終点の今井橋は新大橋通りの高架下付近となっている。なお、都営新宿線の一之江駅は一之江線の一之江電停跡ではなく、瑞江電停跡付近に立地している。

⑤池ノ端地区
 上野公園前より池ノ端二丁目までの区間。不忍池の畔の専用軌道跡は、入り口付近が下町風俗資料館となり、そのまま上野動物園までは公園内歩道として跡を辿ることができるが、モノレール高架下より先は動物園敷地のほか、上野グリーンクラブ敷地等の民地となっている。池之端二丁目電停跡は、児童公園として都電が展示されている。

⑥新宿遊歩道公園「四季の路」
 靖国通りから大久保車庫に向かう回送線用専用軌道の跡である。もともとは13系統が運行されていたが、1948年12月25日に13系統は明治通りから四谷三光町交差点で靖国通りに入る路線に付け替えられ、従来の軌道は翌1949年4月1日より回送用軌道として運用された。新宿区役所前交差点から新宿六丁目交差点(新田裏)へ抜ける遊歩道として整備されていて、新宿ゴールデン街を囲むような線形となっている。

⑦角筈終点
 13系統は角筈から先も新宿通りに線路が向かっており、新宿通りとの交点に角筈終点があった。1953年6月1日に廃止され、跡地は区画整理され痕跡を残しておらず(現在の靖国通りから新宿通りに向かう道路はやや東側に位置している。)、2013年現在は丸井新宿東口ビルが建っている。

⑧大久保車庫周辺
 東大久保(抜弁天)より新田裏(新宿六丁目交差点)までの区間。牛込より新宿駅方向にかけて下る坂道で、途中に大久保車庫があった。道路として整備され、現在は牛込より新宿駅方面への一方通行道路となっている。

⑨喰違見附
 若葉一丁目から赤坂見附までの区間。専用軌道は両端から坂を下る形で見附跡のトンネルをくぐっていた。なお、このトンネルは都電唯一の専用トンネルだった。1963年7月にトンネルは廃止され、赤坂方は首都高速4号新宿線の敷地となり、トンネル入口は首都高速の赤坂トンネル入口に改築されている。四谷方は桜並木となっている。1963年より1967年12月までの同区間は外堀通り脇の専用軌道を単線で運行していたが、こちらは外堀通りの歩道となっている。

⑩渋谷駅
 1911年8月3日、前身の東京市街鉄道が渋谷地区まで延伸した際の終点は「中渋谷」であった。宮益坂下から渋谷川を渡り、山手線をくぐらずそのまま直角に向きを変えて山手線に沿い、現在の玉川通りを越えたところに中渋谷終点が位置していた。2013年現在は東急東横線の高架廃線跡となっている。
 1923年3月29日より1957年3月25日まで、青山線の渋谷駅前電停は渋谷駅西口に位置していた。1938年からは東急百貨店1階に食い込むように存在していたが、これは従来あった線路の上に建物が建築されたためである。建物は現存しているが、改装されており痕跡は残っていない。
 1957年3月26日以降は天現寺橋線の渋谷駅前電停に集約された。このターミナルは、都電廃止後形状を若干変更しただけで(34系統用停留所をバスに転用するため、行き止まりとなっていた部分を通り抜けられるようにした)そのまま都営バスのバスターミナルに転用された。このターミナルは長らく使用されたが、1990年代後半に明治通りの交通運用改善を狙った駅前広場整備が実施され(バスターミナル部を西側、一般車線を東側に集約)、その際、残置されていた軌条、架線柱などはすべて撤去された。

⑪恵比寿線
 戦前に廃止された区間であり、天現寺橋より伊達跡までの間は外苑西通りになっており、その先は一部が道路になっているほかは民地(宅地)になっている。

⑫広尾線
 外苑西通りの道路敷地になっているが、天現寺橋から西麻布を経て北青山一丁目までは専用軌道であった。

 併用軌道を廃止する場合、事業者は原状を回復する必要があるため、原則として軌条類は撤去される必要がある。しかし、都電の大規模廃止が実施された時期は、全国的に事業者の経営問題による軌道の廃止が相次いでおり、現状復旧費用が事業者の収支をさらに悪化させる懸念があったことから、特例として軌条の上に5センチのオーバレイ舗装を行うのみで原状復旧とみなしてよいこととなっていた。このため、経年により線路のある部分が浮き出し、軌道がわかるような箇所がいくつかあったが、そのような箇所は舗装改修の際の撤去や街路拡幅工事により2000年代前半までに概ね処理された。 現在も残っている部分としては、墓地下 - 学術会議前の港区道、橋梁に組み込まれている部分(中央区築地橋、勝鬨橋)などがある程度である。なお、銀座通り(通り三丁目 - 新橋)については、使用していた軌条をすべて共同溝の立杭に転用しているほか、御影石は整備のうえ歩道の舗石としてリサイクルしている。

 なお、②~⑥、⑧は現地に出向き、確認済み。残りは、機会をつくって、ぜひ探索します。ただ、渋谷駅付近は変遷が激しくいったいどうなっているのか? 「渋谷川」跡をたどる機会にでも探ってみようかと。

「越中島線・城東電軌こ線ガード」とある。
ガード。もともとは複線だったが、現在は単線で運行。この南側で「汽車製造会社東京製作所構内」への引き込み線があった。その東側には「小名木川(貨物)駅」。
越中島方向から亀戸(新小岩)へ向かう貨物列車(気動車)。タイミングよく出会えました。
ガード上を通過する気動車。

「明治通り」側から来た道を望む。正面がこ線ガード。
それまでの専用軌道から「明治通り」上の併用軌道となって、北上する。

亀戸に向かう途中でみかけた案内図。そこには、小名木川・越中島貨物線の引き込み線(明治通りを越えて東南に向かう)が残っていました。赤丸の部分。今はまったく痕跡はなさそうです。

旧弾正橋モニュメント。
 弾正橋は、大正時代、城東電軌鉄道の鉄道橋として砂町運河に架設され、その後、明治通りの道路整備に伴い、昭和5年に道路及び鉄道橋として生まれ変わりました。
 弾正橋の名前の由来は、もともと境川に架かっていた橋の名前でしたが、大正13年からの震災復興事業のために境川が埋め立てられ、取り壊されたことを惜しみ、つけられたものです。
 なお、現在の南砂一帯は江戸時代から明治時代にかけ砂町新田と呼ばれ、その中に八つの地区があり、その一つが「弾正」でした。・・・
 平成の世となり、弾正橋も撤去の必要が生じ、ここに橋名板と当時の橋の面かげのレリーフを残し、橋の歴史をとどめるものとしました。 平成8年9月 江東区

 砂町運河に架けられた時の名前は何だったのか、など、命名・来歴(いきさつ)が今ひとつわかりにくい。※「城東電軌鉄道」というのも、おかしい。正式には「城東電気軌道」。

1917~24年(大正時代・関東大震災前)(以下、「今昔マップ」より)。「弾正」という地名が見える。上方に「境川」が流れている。
1927年~39年(昭和初期)。「境川」は埋め立てられ、道路となっている。城東電車(上の方に、「城東電気軌道」とある)の鉄橋が「弾正橋」。まだ「明治通り」がない頃。
 明治通りは1927年(昭和2年)の都市計画に基づき、東京初の環状道路となる「環状5号線」として順次、建設整備工事が始まった。
1965年~68年(昭和40年代)。「砂町運河」が「仙台堀川」となっている。その跡が、現在の「仙台堀川公園」。都電は、健在。
1992年~95年(昭和後期)。「仙台堀川」が公園として着々と整備中の頃。すでに都電の線路はない。

砂町運河跡
 区民の憩いの場として親しまれているこの仙台堀川公園は、かつて砂町運河として民間の手により開削された、例の少ない運河です。
 砂町が農村から工業の町へと発展していくなかで、船による輸送力の向上を見越して運河の開削が計画され、大正8年(1919)に東京運河河土地株式会社が創立されました。大正11年(1922)に着工し、小名木川の合流点から現在の都立東高校の正面にあたる東砂7-19までの南北の一線、続いて旧舟入川合流点から横十間川合流点までの東西の一線が昭和8年(1933)までに完成しました。
 昭和23年(1948)、東京都に移管された砂町川と名称を改め、昭和40年(1965)、河川法の改正に伴い、仙台堀川の一部となりました。 
 昭和30年(1955)ごろまでは、周辺の製材工場の木材が水面に浮かぶ光景がみられましたが、砂町が工業地帯から住宅地へと変貌をとげると、運河としての役割も終わり、昭和55年(1980)に埋め立てられ、親水公園として生まれかわりました。 平成10年(1998)3月 江東区教育委員会

明治通りと清洲橋通り(旧境川)との交差点。
境川の変遷図。

小名木川沿いに新しくできた石田波郷の句碑。「雪敷ける町より高し小名木川」(「砂町を愛した俳人 石田波郷生誕百年記念碑」)




石田波郷 略歴

大正2年(1913)愛媛県温泉郡垣生村(現・松山市)に生れる。本名・哲大(てつお)
昭和12年(1937) 俳誌「鶴」創刊、主宰者となる
昭和21年(1946)~33年(1958)江東区北砂町1-805(現・北砂2丁目付近)に住む
昭和34年(1959) 朝日新聞俳壇選者となる
昭和44年(1969)『酒中花』により芸術選奨文部大臣賞受賞

波郷が砂町時代に詠んだ句(抜粋)

はこべらや焦土の色の雀ども(S21)
百方の焼けて年逝く小名木川(S21)
砂町は冬木だになし死に得んや(S22)
一樹無き小学校に吾子を入れぬ(S25)
春三日月も砂糖工場の灯も淡し(S28)
葛飾に歳時記を閉づ野火煙(S33)

 以上、HPより。

小名木川。中央奥が小名木川・越中島貨物線の鉄橋。
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運転免許更新。汽車製造。大砲鋳造。「南砂緑道公園」。その1。

2013-12-10 19:30:35 | 鉄道遺跡
 運転免許更新。今度こそ「ゴールド」かと思いきや、相変わらずのスピード違反などがあだとなり、またしても2時間講習の対象へ。ゴールド免許は夢の夢。
 こうして、先日、「東陽町」の「江東運転免許試験場」まで行ってきました。思ったよりも空いていて順調に終了。周りを見回すと、けっこう同年配の年寄りも多い。この世界にも高齢化社会が訪れているようです。
 70歳を過ぎると、教習所に行って実地運転が課せられることになるとか。免許返上の手続きのしかたとかの相談者もいたりして、だんだん身につまされる様相。
 かつては「ヒヤリハット」事故、みたいな話があったが、そんな用語はなくなっていました。講習内容も、運転への注意喚起はもちろんですが、自転車の運転にまつわる話が目立つようです。免許書き換え時だけではなく、高齢者対象の運転安全教室とか自転車講習(保険加入なども含めて)など、こまめな地域での開催が必要性をつくづく感じました。


 せっかくの冬晴れ。かつての城東電気軌道(都電)跡の「南砂緑道公園」を歩き、亀戸まで。
 ここには、広大な敷地を擁した「汽車製造会社東京製作所」が存在していた。東京製作所で製造した車両は小名木川駅から「越中島支線」をD51形牽引で発送されていたとのこと。
 都電は、東陽町(須崎)から「汽車製造」の敷地の西側をぐるっと回って北を通り、亀戸方向に向かっていました。(1972年に廃止)。

汽車製造

1896年(明治29年):設立。
1899年(明治32年):大阪市西区島屋新田(現此花区島屋・安治川口駅前)に工場を開設(2013年現在は新大阪郵便局、佐川急便大阪店が建っている。)。
1901年(明治34年):客車・貨車製造の大手であった平岡工場(南葛飾郡本所、後 東京市城東区砂町)の創業者であり、社長の平岡凞を、副社長に迎える形で両社は合併、社名を大阪汽車製造合資会社に改称。それぞれの工場を大阪本店、東京支店とした。合併前同様、大阪本店は機関車、東京支店は客車・電車・貨車を主に製造した。
同年、製造番号1番が完成。台湾総督府鉄道部向けE30形という車軸配置2-4-2(1B1)形(先輪1軸+動輪2軸+従輪1軸の意味)タンク機関車であったが、輸送中の海難事故により水没している。 1936年(昭和11年):東京・丸の内に本社を移転、大阪本店を大阪支店に改称(東京支店は変更なし)。
1941年(昭和16年)に完成したC59 1で、製造番号2000番を達成した。
1944年(昭和19年):二箇所の支店(工場)をそれぞれ大阪製作所、東京製作所に改称。
1948年(昭和23年):戦後、日本国有鉄道(国鉄)としては最初で最後となった新製蒸気機関車のE10形5両を製造した。
1954年(昭和29年):帝都高速度交通営団(営団)丸ノ内線向けに300形の製造開始
1963年(昭和38年):東武鉄道向け車両としては最後の8000系電車2編成(8104・8105F)が完成。8000系としては最初で最後の製造となった。
1964年(昭和39年):東海道新幹線0系電車の製造開始。営団東西線5000系の製造開始。
1968年(昭和43年):宇都宮工場(栃木県河内郡河内町、現:宇都宮市)を開設する。同工場では貨車の製作を担当した。
1970年(昭和45年)12月:営団千代田線・6000系第12・13編成が完成。営団向けの車輌としては最後であった。
1972年(昭和47年):神戸市に本社のある川崎重工業と合併。同社を存続会社とし汽車製造株式会社を解散する吸収合併で、会社設立76年目で終結。以後、当時製造中の103系電車や新幹線0系電車なども製造権は川重へ移転することとなる。
最終製造は3月27日に出場した国鉄DE10 1171(製造番号3572)。私鉄最後の製造車両は京成3300形電車3353 - 3356号であった。なお、この間に製造された機関車は3,651両、電車は1,854両、客車は2,414両である。 (以上、「Wikipedia」参照)
 川崎重工業と合併後、東京製作所も廃止され、公営住宅や公立学校などが建てられている。

工場があった1965年ころのようす(「今昔マップ」より)。都電も健在でした。


1970年のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。工場廃止後、都電も廃止され、広い敷地跡に公営住宅、公立学校の建設がかなり進んでいます。

現在のようす(「今昔マップ」より)。
赤い線が都電跡の緑道公園。
「東陽町」側公園入口。
「永代橋通り」を望む。
澄み切った冬晴れの空。地元の方々の手による管理も行き届いた、緑豊かな公園です。


サラリーマン達も昼休み、紅葉の下で憩いのひととき。
長州藩大砲鋳造所跡。 
説明板。

 パリのアンヴァリッド(廃兵院)に、長州藩主毛利家の紋章がある青銅の大砲が保存されています。この大砲には、次のように刻まれています。
十八封度礟 嘉永七歳次甲寅季春/於江都葛飾別墅鋳之
(じゅうはちポンドほう かんえいしちさいじこういんきしゅん/こうとかつしかべっしょにおいてこれをちゅうす)
 「江戸切絵図」を見ると、現在の南砂2、3付近に長州藩主松平大膳大夫の屋敷があったことがわかります。「葛飾別墅」とは、この屋敷をさしています。
 長州藩では、嘉永6(1853)年12月、三浦半島の砲台に備えつける大鵬を鋳造するため、鋳砲家を江戸に呼び寄せました。翌7(安政元)年正月、幕府の許可を得て、佐久間象山の指導のもと、砂村の屋敷内で大砲の鋳造を始めました。
 当時、尊皇攘夷の急先鋒だった長州藩は、この大砲を三浦半島から下関移し砲撃により関門海峡を封鎖しました。これに対して、元治元(1864)年イギリス・アメリカ・フランス・オランダの連合艦隊が篠の堰の砲台を攻撃、陥落させました。パリの青銅砲はこの時、フランス軍により海に渡ったものです。 平成5年3月 江東区教育委員会
久々に不思議な絵のシールを見つけました。赤丸のところ。
これ!

「尊皇攘夷の急先鋒だった長州藩。」とあります。赤丸が藩邸。長州の今のアベさん。「尊皇」はもちろん、攘「夷」とは反「中国」「韓国」「北朝鮮」ということに。


学校の校舎の一角。
紅葉と落ち葉と快適な遊歩道。
かつての線路跡をイメージしたカーブ(当時、北西の角はかなりの急カーブでした)とか停留所の雰囲気。
高層の公営住宅。
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二つの踏切。谷田川跡をたどる。番外編。

2013-09-01 12:45:46 | 鉄道遺跡
 駒込駅近くには二つの踏切が有名。一つは山手線唯一の踏切。もう一つはかつての踏切。この二つを紹介します。
山手線唯一の踏切。手前が踏切、向こうは「湘南新宿ライン」(もともとは「貨物線」)の跨線橋。名称は、「山手線第二中里踏切」。駒込と田端の間にあります。
「跨線橋」から踏切を望む。
駒込駅方向を望む。よく見ると、線路はいったん下ってまた駅の方に上っています。底のあたりが「中里用水(谷田川)」跡。

 さて、もう一つは、「踏切」跡。
この踏切は、かつて駒込駅と「山手線第二中里踏切」との間にあった。もしかしたら「第一中里踏切」?跡。線路を挟んで直線の道が断ち切られています。北側から。向こう側を見ると、一部分が下に下がっています。踏切の名残?
反対側。どういうわけかフェンスに扉がありました。
振り返ると、直線の道路が先の方まで延びています。
(「今昔マップ」より。戦前のようす。上の赤丸から「第二中里踏切」、「第一中里踏切?」、「中里用水架道橋」。ということになりそうですが。

 これで、「不忍池」から「中里用水架道橋」までたどりました。次回は、王子駅で下車して「石神井川」の分岐付近?から駒込駅まで「谷田川」(中里用水)跡をたどってみます。
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旧小名木川駅付近を通過するディーゼル機関車。(越中島支線をたどる。その4。)

2013-07-29 19:30:54 | 鉄道遺跡
 小名木川駅跡にできた巨大なショッピングモール「アリオ北砂」。整備された道路の西側に越中島貨物線があります。単線でほぼ一直線。小名木川の橋梁を通過してまもなくレール輸送列車(復路)が通るはずです。橋の向こうに見えるのは「ツイン・タワー」。
 午後2時40分過ぎ。このあたりには踏切がありませんが、機関車は警笛を鳴らしてゆっくりとやってきました。そして、10分くらい停車。そして、「越中島貨物駅」に向かいました。午後の暑い日差し。自転車、歩きの親子連れ・・・、誰も気にとめる風がありませんでした。見慣れた風景なのでしょう。
高架になっていますが、それほど高くなく、目の前を通過する感じ。
最後尾。何やら作業用の工作機械のよう。
逆光のためあまりうまく撮れなかった。
けっこう長い貨車です。
「越中島貨物駅常備」「レール輸送専用」という標記。
先頭車両。どういう用い方をするのか工作機械車両が先頭にも。
左手が「越中島」方向。
しばらくして発車しました。
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南砂鉄道公園。城東電車跡。汽車製造会社跡。(越中島支線をたどる。その2。)

2013-07-08 19:29:07 | 鉄道遺跡
 まだ現役の「越中島支線」。単線のまま南に進んでいきます。
「南砂鉄道公園」。複線だったJRの線路部分を緑道公園に整備してあります。フェンス越しに目の前を通過する貨物列車が見られる絶好の場所。ただし、1日に2便(往復)なのでタイミングが肝心。
線路に並行しています。隣にある現役の線路と高さも幅も同じで、一直線なところがいい。
「清洲橋通り」を越える。この道路はかつての「境川」跡。
歩道橋の名称に「さかいがわ・・・」とある。
かつてのようす。「境川」の流れが赤い線。(「今昔マップ」より)
その後、道路となり、荒川を「葛西橋」で渡っていた。(同)
現在のようす。その先の「葛西橋」(赤い線)は廃止され、葛西橋通りが「葛西橋」を越えるようになった。(同)
「幹線27号踏切」。「葛西橋通り」を平面で通過する踏切。東側には「明治通り」があるなど交通量は多い。
亀戸方向を望む。
仙台堀川(緑道公園)を渡る鉄橋。
横十間川親水公園から続く自然豊かな親水公園。水面ギリギリの複線のままの鉄橋。

「締川踏切」。いわれは? 
亀戸方向を望む。
越中島方向を望む。

「城東電車」を鉄橋で越える。
現在は、城東電車は廃止され、緑道公園になっているが、ガード下の標識にはいまだに「城東電車」と記されている。
 この南側に広大な敷地を擁した「汽車製造会社東京製作所」が存在していた。東京製作所で製造した車両は小名木川駅から「越中島支線」をD51形牽引で発送されていた。
モニュメント。
線路跡は緑豊かな遊歩道になっている。モニュメントのある場所から西を望む。かつての城東電車(のちの市電・都電)は広大な「汽車製造」の敷地をぐるっと回って東陽町(須崎)の方に向かっていた。


汽車製造
1896年(明治29年):設立。
1899年(明治32年):大阪市西区島屋新田(現此花区島屋・安治川口駅前)に工場を開設(2013年現在は新大阪郵便局、佐川急便大阪店が建っている。)。
1901年(明治34年):客車・貨車製造の大手であった平岡工場(南葛飾郡本所、後 東京市城東区砂町)の創業者であり、社長の平岡凞を、副社長に迎える形で両社は合併、社名を大阪汽車製造合資会社に改称。それぞれの工場を大阪本店、東京支店とした。合併前同様、大阪本店は機関車、東京支店は客車・電車・貨車を主に製造した。
同年、製造番号1番が完成。台湾総督府鉄道部向けE30形という車軸配置2-4-2(1B1)形(先輪1軸+動輪2軸+従輪1軸の意味)タンク機関車であったが、輸送中の海難事故により水没している。 1936年(昭和11年):東京・丸の内に本社を移転、大阪本店を大阪支店に改称(東京支店は変更なし)。
1941年(昭和16年)に完成したC59 1で、製造番号2000番を達成した。
1944年(昭和19年):二箇所の支店(工場)をそれぞれ大阪製作所、東京製作所に改称。
1948年(昭和23年):戦後、日本国有鉄道(国鉄)としては最初で最後となった新製蒸気機関車のE10形5両を製造した。
1954年(昭和29年):帝都高速度交通営団(営団)丸ノ内線向けに300形の製造開始
1963年(昭和38年):東武鉄道向け車両としては最後の8000系電車2編成(8104・8105F)が完成。8000系としては最初で最後の製造となった。
1964年(昭和39年):東海道新幹線0系電車の製造開始。営団東西線5000系の製造開始。
1968年(昭和43年):宇都宮工場(栃木県河内郡河内町、現:宇都宮市)を開設する。同工場では貨車の製作を担当した。
1970年(昭和45年)12月:営団千代田線・6000系第12・13編成が完成。営団向けの車輌としては最後であった。
1972年(昭和47年):神戸市に本社のある川崎重工業と合併。同社を存続会社とし汽車製造株式会社を解散する吸収合併で、会社設立76年目で終結。以後、当時製造中の103系電車や新幹線0系電車なども製造権は川重へ移転することとなる。
最終製造は3月27日に出場した国鉄DE10 1171(製造番号3572)。私鉄最後の製造車両は京成3300形電車3353 - 3356号であった。なお、この間に製造された機関車は3,651両、電車は1,854両、客車は2,414両である。

跡地には、都営住宅や公立学校などが建てられている。

工場時代。赤い線が都電。黄色い○が汽車製造東京製作所。(「今昔マップ」より)
現況。(同)


2010年代のようす。緑道公園が都電跡。

補足(2009年に投稿の「おやじのつぶやき」ブログより)
 汽車製造「平岡工場」の成立

 先月末、両国駅にほど近い、墨田区立緑図書館で興味深い資料展示があった。墨田区の交通機関の変遷のうち、機関車、電車(市電)の製造会社であった「汽車会社平岡工場」に関する展示であった。その一部を資料等で紹介する。
 なお、汽車製造株式会社は、川崎重工業への吸収合併によって、今は存在していない。
 日本の鉄道車両は、1872(明治5)年、新橋・横浜間の鉄道の開業以来、一貫して輸入で賄われてきた。客車・貨車はその後国内製造が開始されたが、当時は民間の重工業が未熟であったため、これら客貨車の製造は各鉄道事業者が自営工場で行っていた。
 工部省鉄道局新橋工場の技師であった平岡凞は、そのような状況を打開して車両のさらなる国産化を推進するには民間に鉄道車両工業を興すべきと考え、1890(明治23)年、鉄道局を辞して、東京市小石川区の陸軍東京砲兵工廠の敷地・設備を借用し、渋沢栄一や益田孝らと匿名組合平岡工場を設立した。これが、民間客貨車工場の最初であった(ただし、個人経営の会社)。
 平岡は1871(明治4)年に渡米、ボストンやフィラデルフィアの鉄道車両工場で当時最新の鉄道車両技術を学んで帰国後、伊藤博文の紹介で鉄道局新橋工場に奉職していた。
 1895(明治28)年には京都電気鉄道へ28人乗り路面電車車両の車体を納入した。これは日本初の営業運転に供された電車であり、後に京都電気鉄道が市営化されて京都市電になった後「N電」と呼ばれた、狭軌線用車両群の第1陣に当たるものであった。
 その後、1896(明治29)年、「汽車製造合資会社」を創立して、それまでの砲兵工廠の借地を返納し、翌4月より本所区の総武鉄道本所駅(現・JR総武本線錦糸町駅)の隣接地に「平岡工場」を建設した。1901(明治34)年、第1号の機関車完成。さらに、電車の製作も開始する(大阪市電)。
 この頃、錦糸町駅南口には牧場があり、その経営者でアララギ派の歌人、伊藤左千夫がその牛乳を平岡工場に配達していたという。

年表 (「汽車会社70年の歩み」による)
1890年(明治23年)3月28日 - 東京市小石川区に匿名組合平岡工場が開業。
1894年(明治27年)10月31日 - 匿名組合解散。以後、平岡凞の個人経営に移行。
1896年(明治29年)3月31日 - 小石川の工場を陸軍省に返納。
1896年(明治29年)4月1日 - 東京市本所区に平岡凞の自有工場を開設、操業開始。
1901年(明治34年)7月 - 汽車製造合資会社(汽車会社)、平岡凞より平岡工場を譲受。汽車製造東京支店となる。
1928年(昭和3年)- 南砂町に工場を建設開始。
1931年(昭和6年) - 汽車会社東京支店は東京府南葛飾郡砂町に移転。旧平岡工場をすべて南砂町に移転完了し、工場は閉鎖。
 
 閉鎖後は、「江東楽天地」がその跡地を買収し、江東劇場、本所映画館を開場。現在は、「東京楽天地」と改称し、「LIVIN」や映画館、天然温泉、フットサルコートなどのある娯楽施設になっている。
現在のようす。
駅前の一等地にある広い敷地。
当時の工場の敷地。上が現・総武線。左側が錦糸町駅方向。右に見える川は、横十間川。「汽車会社の鉄道車両製作の回顧(汽車製造株式会社大阪工場 市山一二 鉄道ピクトリアル No262,264 1972/3-4)」より拝借しました。

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西武池袋線・「上り屋敷(あがりやしき)」駅跡。「欅」。「自由学園明日館」。・・・

2013-06-05 19:12:29 | 鉄道遺跡
 今回は、西武線池袋線・「上り屋敷」駅跡付近の探訪。
 「上り屋敷(あがりやしき」駅は、1953(昭和28)年まで存在した駅。池袋を出て、JR線路を越えるための高架線を終えてしばらく進んだところにありました。
 西武鉄道の前身である武蔵野鉄道が1929(昭和4)年、池袋駅 - 椎名町駅間に駅を設置。駅名としてこの一帯の地名「上り屋敷」が採用されました。第二次世界大戦中の1945年(昭和20)年、戦況悪化を理由に営業が中止され、終戦後も再開されることはなく、結局、1953年(昭和28)年に正式廃止されました。今でも駅のプラットホームの痕跡は残っています。
 今の「西池袋」は、その昔の住所表記は雑司ヶ谷(大字)であり上屋敷(小字)でした。しかし、「上屋敷」(上がり屋敷)といういわれは定かではないようです(「かみやしき」ならそういう大名屋敷みたいな名付けだが、ここらあたりにはそういう大きな屋敷はなさそう。徳川様の屋敷のこと? まして、「あがり」という言い方は・・・)。
「上り屋敷」という名称は、北側にある公園と町会の名に残っていました。
 JR山手線・目白駅の改札口を出て「目白通り」を西に向かって2つ目の信号を渡って右の細い道に入ってしばらく進むと、住宅街の先に西武池袋線の踏切が見えてきます。ここから一つ西側にある踏切との間に上下線のプラットホームと駅舎がありました。
 よく見ると、上りも下りも線路の用地が沿線のほかの場所よりも少し高く盛り土され、広くなっています。西武新宿線・「西鷺宮」駅の遺構とよく似ています。
まだ駅がない頃。(線路の北側に「雑司谷旭出」と記されている。雑司ヶ谷地域は現在の山手線をはさんで大きく広がっていた。) 
駅名が記されている。のところ。
すでに駅はなくなっている。の部分。西方の駅は「椎名町」駅。 

「目白庭園」の北側。閉園時間だったので中に入れず。この道の少し北側に駅がありました。
奥に見えるのが、上り線のホーム跡。少し盛りあがっています。上り線の手前側に駅舎がありました。
下り線ホーム跡。
草で覆われています。
駅舎跡は、「サンクス」の店になっていました。
上り線ホーム跡。
民家に接するようにホームがありました。

写真を撮りおえて、今度は池袋駅方向へ。
東側(池袋駅側)の踏切への道。
家と家との間に巨大な古木が。
この欅の全貌。すごい! 近所には、この欅を名に取り入れたマンションがあるそうです。
「自由学園」明日館講堂。
講堂正面玄関。
「明日館」。国の重要文化財に指定されています。

 自由学園明日館(みょうにちかん)は、1921年(大正10)、羽仁吉一、もと子夫妻が創立した自由学園の校舎として、アメリカが生んだ巨匠フランク・ロイド・ライトの設計により建設されました。
 明日館建設にあたり羽仁夫妻にライトを推薦したのは遠藤新。帝国ホテル設計のため来日していたライトの助手を勤めていた遠藤は、友人でもある羽仁夫妻をライトに引きあわせました。夫妻の目指す教育理念に共鳴したライトは、「簡素な外形のなかにすぐれた思いを充たしめたい」という夫妻の希いを基調とし、自由学園を設計しました。
 空間を連続させて一体構造とする設計は、枠組壁式構法(2×4構法)の先駆けとの見方もあります。木造で漆喰塗の建物は、中央棟を中心に、左右に伸びた東教室棟、西教室棟を厳密なシンメトリーに配しており、ライトの第一期黄金時代の作風にみられる、高さを抑えた、地を這うような佇まいを特徴としています。プレイリースタイル(草原様式)と呼ばれるそれは、彼の出身地・ウィスコンシンの大草原から着想を得たもので、池袋の界隈に開放的な空間を演出しています。道路を隔てた南西には、300人収容できる遠藤新設計の講堂がならび、重要文化財・自由学園明日館は構成されています。
 1934年(昭和9)に自由学園が南沢(東久留米市)に移転してからは、明日館は主として卒業生の事業活動に利用されてきました。その後、明日館の歴史的、芸術的価値が評価され、1997年(平成9)5月、国の重要文化財指定を受けました。関東大震災や第二次世界大戦の空襲からも免れた明日館でしたが、80年の歳月のなかで老朽化が顕著になったため、1999年(平成11)3月から2001年(平成13)9月まで保存修理工事が行われ、同年11月に再開業いたしました。(自由学園明日館」HPより)

 「自由学園」は、独特の教育方針に基づく学校として有名。学生の多くが学園内の寮で生活し、キャンパスの維持管理はとくに危険な仕事を除きすべて生徒の手によって行われています。これは毎日の生活を生徒自身が責任を持って行うという「自労自治」の精神に基づいています。文部科学省の学習指導要領にとらわれない独自の教育方法で知られ、たとえば学生による稲作(田植え・収穫)、女子部生徒が学園内農場で野菜を育てる農芸、男子部生徒による酪農(豚・牛を育てる)など、それによって得た給食調理も生徒自身が行っています。
 このような教育理念・方針に賛同する保護者・学生・卒業生(友の会)によって根強く支えられてるようです。

JR山手線との交差橋。

 何年か前に、西武新宿線の「西鷺宮駅(にしさぎのみやえき)」(表記は、「西鷺ノ宮駅」?)跡を訪ねました。その記録を改めて。

・・・ 車窓から見える両脇の盛り土に当時のプラットホームの遺構を見ることができます。また、上り線の駅舎があったところは、その一部が西武鉄道の変電所の建物になっています。・・・
 写真は、下井草駅側から見たもの。左が上り、右が下り線。両側にホームがあった。
下り線のホーム跡。
上り線のホーム跡。東側の奥(かつての駅舎のあたり)には、現在、変電所がある。
変電所側から見たもの。下り線電車が通過中。
変電所。このあたりに改札口(橋上の駅舎だった)に向かう階段があったはず。通学生は、この道を右(北)に学校に向かった。・・・


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国鉄・勝田線廃線跡をたどる(「志免緑道」)。その5。旧志免鉱業所竪坑櫓。

2013-03-24 21:54:03 | 鉄道遺跡
 旧志免鉱業所竪坑櫓(きゅうしめこうぎょうしょたてこうやぐら)。志免鉱業所(志免炭鉱)の遺構です。近代建設技術史上の価値が高く、国の重要文化財に指定されています。かなり大きな建築物で、近づくとその巨大さに圧倒されます。高さ47.65メートル、長辺15メートル、短辺12.25メートル。地中の石炭層まで垂直に掘られた竪坑が地下430メートルまで延びています。
 この施設は、「志免鉱業所」の採炭夫を昇降させ、石炭を搬出するためのもの。地上にある櫓(やぐら)の部分は1941年(昭和16年)に着工し、1943年(昭和18年)に完成。地下の竪坑は櫓の完成後1943年(昭和18年)から1945年(昭和20年)にかけて開鑿されました。その後、1964年(昭和39年)に閉山となり、そのまま残されています。
 もともと、この志免鉱業所は1889年(明治22年)に海軍が軍艦の燃料である石炭を確保するために開設したもので、現在残っているこの竪坑櫓も、海軍により建造されました。終戦後は国鉄所有の鉱業所に。他の炭鉱と同じくエネルギー革命により昭和39年に閉山。最初から最後まで「国営炭鉱」という珍しい経営スタイル。
 この巨大な「竪坑櫓」は戦時中にもかかわらず、イギリス製の鉄鋼を用いた鉄筋コンクリート造。当時の価格で200万円(関連施設含む)もの予算をかけて建設されました。
 巻上機室(1000馬力)が櫓の高層部、高さ35メートルの位置に置かれているワインディング・タワー(塔櫓捲式)と呼ばれる形で、終戦前に建設されたもので現存しているのは世界でも志免炭鉱と龍鳳炭鉱(中国・撫順市)、トランブルール炭鉱(ベルギー・リエージュ州)の3か所だけで、国内でこのタイプの縦坑櫓が現存するのはここのみ、ということです。
 2007年(平成19年)7月31日に国の登録有形文化財に登録され、2009年(平成21年)12月8日、国の重要文化財に指定されました。

 竪坑櫓とそのすぐ近くに残されている斜坑口(第八坑連卸坑口)、国鉄勝田線跡地(志免駅跡である志免鉄道記念公園ほか)などが「志免鉱業所関連遺産」として経済産業省指定の近代化産業遺産に登録されています。


 遠くからでもよく見える、福岡県志免町のランドマーク的存在の遺構。解体の話も出たそうですが、住民の保存運動が実って現在のような姿で保存されています。
全景。その奥に見えるのが「ボタ山」?
 ボタ山は、石炭を掘り上げた時に出た土(ボタ)を積み上げたもの。あまりはっきりしないので、「志免町」のHPから拝借。

 「現在、西原硬山が4つの峰を残し現存しており、自然史的にも貴重な山となっています。竪坑櫓・斜坑口とボタ山がセットで残っているのも日本で志免町だけです。志免・須恵・粕屋の三町で所有。」(HPでの説明文)

コンクリートの骨格だけですがごつくて威圧感があります。
周囲はフェンスで囲まれ、立ち入り禁止となっています。
グランド側から見たところ。
説明板。

 「竪坑櫓」は、ケージと呼ばれる籠を昇降させるために造られた巨大なビルディングです。この櫓の真下にまっすぐ掘られた深さ430mの「竪坑」という穴を使い、地下から石炭を上げたり、坑員を地下の石炭層まで移動させていました。まるで金づちを立てたような形の櫓に、巻き上げる機械が組み込まれた、エレベーターのような仕組みとなっています。さまざまな形の竪坑櫓の中で最も発達した形式で、地上8階、地下1階のうち、地上1階から5階までを柱のみで構成し、6階以上には壁をつけています。8階部分には吹き抜けの大空間があり、ケージの巻き上げに使われた1000馬力のモーターが、休みなく稼動していました。
 志免と類似する形式で、終戦(1945年)の前に建設された竪坑櫓は、これまで九州で造られたおよそ100の竪坑のなかでも、四山第一竪坑(三井三池炭鉱、荒尾市)にあっただけです。また世界中をみても、現在まで残っているものは、志免のほかにベルギーのブレニーと中国撫順の2か所だけだといわれています。その姿は、機能的で無駄のない造形美をもつ近代建造物であり、世界の産業技術史を語る上でも大切な遺産であるといえるでしょう。
 1957(昭和32)年には、21万トン以上も出炭していた竪坑も、1964年の閉山とともに稼動を停止します。現在、日本に現存する最大規模の竪坑櫓は、日本で唯一、開坑から閉山まで国営でありつづけた志免鉱業所の歴史を物語っています。
 日本の近代化を支えた竪坑櫓が、志免町のランドマーク、そして歴史と文化のシンボルタワーとして、広く親しまれることを願っています。
構造断面図
内部のようす。
操業当時の「支免鉱業所」。

(以上、「支免町」HPより)

斜坑口。
第八坑本卸坑口。1938年(昭和13年)完成。
隣接されている施設。「支免町総合福祉施設シーメイト」。

 昭和40年代前半の頃。父親が筑豊の出身の炭鉱労働者。閉山となって茨城に移り、学校警備員の仕事をしながら家族を育てている、その家族の一人と知り合いました。その方も今は長じて既に立派な社会人。お父さんはすでに亡くなりましたが、その方とは今でも付き合いがあります。
 どこの炭鉱で働いていたかは聞きそびれていますが、戦後の復興・日本のエネルギーを担い、過酷な労働下にあった、そして廃山とともに各地に散っていき、生活を支えたそうした人々と家族の生き様を、こうした遺構を目の当たりにしてふと思い出しました。

 帰りは、再び福岡空港まで。すっかり雨も上がり、少し元気を取り戻して、来た道を歩き始めました。往復約3時間の行程でした。
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国鉄・勝田線廃線跡をたどる(「志免緑道」)。その4。志免鉄道記念公園。

2013-03-22 19:16:26 | 鉄道遺跡
 そろそろ足も疲れてきました。イオンのバカでかいショッピングモールを過ぎると、左手に何やら巨大なタワー状のコンクリート製の建物がちらほら。町並みの間から見えるようになります。しばらく進むと、やっと着きました。「志免鉄道記念公園」。
町長さん自筆の「記念プレート」。
かつてのホームを模したのでしょうか。線路も残っています。
手動信号機も設置されています。
「しめ・志免」。
今にも列車が来るような・・・。
車が通る道路が間にあるのがご愛嬌。
「転轍機」など当時使われていた鉄道関係のものがモニュメントとして置かれています。

枕木も階段として再利用。
 構内・駅舎などもけっこう大規模だったようです。駅舎の復元がないのが残念!
長いホーム。
かつての志免駅のようす。
在りし日の勝田線のようすがタイル写真で掲示されています。


「近代化産業遺産」の記念標。
「志免鉄道記念公園」から望む「志免鉱業所竪坑櫓」。
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国鉄・勝田線廃線跡をたどる(「志免緑道」)。その3。

2013-03-21 19:56:52 | 鉄道遺跡
 県道24号線「福岡東環状線」という広く車が激しく行き交う道路を突っ切って緑道(勝田線廃線跡)は続きます。
その交差点名「南里(みなみざと)駅前」。すでに廃止された駅の名が信号機に残っていました。
この付近に「南里」駅があったようです。
小川に架かる橋の格好は皆、このようにトラス鉄橋を模したような感じ。運行当時はガーター橋だったと思われますが。土台はかつての鉄橋のまま?
このあたりになると、のどかな田園風景が広がります。
土台のコンクリートは鉄道当時のままのようです。
別の角度から見たところ。
橋のようす。歩行者・自転車専用ということが徹底されています。
目の前が大きく開け、巨大ショッピングモールの出現。「イオンモール福岡」。廃線跡・緑道はいったんなくなります。
それにしてもバカでかい建物。地べたの駐車場の広さも都内ではありえないほどの大きさ。さらに屋上にも駐車場。車がひっきりなしに出たり入ったり。「農道につき一般車進入禁止」の立て看板が入口付近にあって、何だか不思議(どの道を指しているのだろう)。

名称:イオンモール福岡
開店日:2004年6月4日
所在地:〒811-2303 福岡県糟屋郡粕屋町大字酒殿字老ノ木192-1
面積:敷地面積…約217,000m²
   延床面積…約106,000m²
   商業施設面積…約83,000m² ※総賃貸面積
駐車台数:約5,200台

 映画館から専門店・・・、なんでも近畿以西では最大級のショピングセンターらしい。

道路を渡ると、再び緑道(廃線跡)が始まります。(しかし、横断歩道もなく、遠くの方に信号機が見えるのみ。しかたなく柵を越えて向こう側に。こんなところで事故ったら一生の不覚になりかねない。見ると、孫を連れたおじいさん、二人でさっさと渡っていた、さすが地元!)
 しばらく進むと、今回の最大の見所へ到着することになります。ここまでの所要時間。「福岡空港」から約1時間20分。距離にして約4.5km。

 ここで、「志免町」の紹介を。
志免町(しめまち)は、福岡市東部近郊の町。人口密度は2012年4月1日現在、全国の町の中では最も高い。また、福岡県内では春日市に次いで第2位、更に鉄道路線の存在しない市町村の中でも沖縄県浦添市に次いで第2位である、とのこと。
 町名の由来は、隣町である宇美町にある宇美八幡宮の注連縄(しめなわ)が張られた土地であることから、という説があるらしい。たしかに「志免」=「しめ」と読むのは難しい。
 志免町は、糟屋郡南部一帯に広がる粕屋炭田と呼ばれる炭田地域の中心部にあり、かつては町内に数か所の炭鉱を有し、石炭産業で栄えた。その後のエネルギー革命の影響で、1964年に国鉄志免炭鉱が閉山したのを最後に町内から炭鉱がなくなった。
 現在は福岡市に隣接していることで、ベッドタウンとして住宅が多数建設され、人口が増加している。
 公共の交通手段としてバスしかないことがいいのか悪いのか。そのせいで、鉄道を潰した国鉄の失敗を責める声もあるらしい。何しろ福岡空港へ歩いても20分足らずで、福岡の中心部に行くにも、割と便利な立地条件。よく福岡市に合併しなかったものだ、と思います。
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