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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

梅小路蒸気機関車館

2011-02-28 20:47:08 | 鉄道遺跡
 京都にはたびたび行きますが、京都駅近くにあって、まだ行ったことがありませんでした。大阪の高槻に行った帰り、連れもいなかったので、これ幸いにと駅から歩いて西へ20分。はじめて来てみました。
 遠くから汽笛の音が聞こえてきて、わくわく。400円の入館料。機関車が扇型車庫にずらり並んで、実に壮観。
 転車台もそのまま。動かして蒸気機関車(SLスチーム号)を回転させ終わったところでした、残念。でも、まだ蒸気を吐いて独特の煙と匂い、たまりませんでした。
 ちょっと遅い時間でゆっくりと見学できなかったのは、惜しかった。館内はそれほど混んではいなくて、子ども連れの若い方も。でも、年寄り夫婦が目立っていました。カップルはほとんど見かけない。
 何だか昨日、京都から高槻までの新快速。通り過ぎるホームにも、線路際にも、たくさんカメラマンが目立ちました。脚立に乗って、望遠レンズ付きカメラを片手に写真撮影。
 こうして、ちょっと遅い、にわか作りの鉄道マニア仲間に入りました。
 写真は、C58形1号機/1938(昭和13)年製造(鳳凰)。
扇形車庫。中央が転車台。
旧二条駅舎。資料展示館になっている。
転車台。
別の角度からの転車台。
動態保存されている機関車。
燃料の石炭。こうして見るのも久々。小学校の時、校舎の裏にあった石炭保管場所から運んできて、「だるまストーブ」に石炭を入れていたのを思い出した。
D51形。
帰りに見かけた電車。駅からの道筋は大きな公園と遊歩道になっている。線路沿いにベンチもあって、いろいろな電車が行き交うのを眺められる。
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JR旧大社駅

2010-08-30 23:42:42 | 鉄道遺跡
 初めて出雲、松江の地を訪ねました。駆け足の旅でしたが、地元の方の案内で宍道湖周辺をぐるり、出雲空港から出雲、そして松江という順路でした。興味は鉄道、そして痕跡。その第1弾。
 明治末期、大正と鉄道の黎明から発展期を共に歩んできた出雲大社の門前町の表玄関。それが、「大社駅」。JR大社線は1990(平成2)年に廃止され、旧大社駅は国の重要文化財に指定されました。
 沿革史を見ると、出雲大社の参拝客のため、明治45年に最初の駅舎が造られ、大正13年、現在保存されている、二代目の駅舎に改築されたとのこと。大正浪漫風の建築美に当時の息吹を感じさせます。純和風の木造平屋建て。屋根から室内にいたる、細かな箇所にまで目配りがきいています。中央屋根部分の鴟尾、屋根の下がり棟の先端には亀の彫り物など・・・。
 駅前広場を出た道筋。大鳥居まで、今も門前町らしい静かで落ち着いた商家や民家が続いています。
待合室中央の出札口。
天井の灯籠風の和風シャンデリア。
ホームから終点付近を見る。このずっと先の方に出雲大社がある。
ホームの右方向。線路跡はりっぱな舗装道路になっている。左手に見える機関車は、D51。
駅舎の説明板。
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東武牛田駅付近貨物線跡

2010-08-04 21:46:44 | 鉄道遺跡
 久々に牛田駅に降りました。京成線は関屋という駅名。暑い中、北千住に用事あって出かけた帰りです。貨物線の跡を再び確認に行ったというわけです。歩道脇にまだ線路が埋もれたまま残っていました。ここは、岡田商事という鉄骨解体業者の敷地。かつては、このあたり、隅田川の海運と一体化して工場があったところです。
 今、再開発でマンションが建ち並んでいます。墨堤通りを横切っていたの本線からの貨物の引き込み線も、その痕跡はわずかになりました。写真は、岡田商事の敷地内に残っている線路です。左から右へかつてのままに2本しっかりと残っています。
ここから先は立ち入り禁止。車の向こうに廃線が続きます。
線路は、敷地内に入っていきます。
埋もれた線路の上を作業車がひっきりなしに動いています。
隅田川との境目。ここに来ると、中の廃線の様子は残念ながら分かりません。
すっかり整備された隅田川。見える橋は、汐入橋。右手が南千住方面。
左の京成のガードをくぐっていた線路。右は、道路でした。
線路は、写真の手前で、左右に分かれて一つは、西側の工場へ倉庫へ。右は直進して埠頭へ。正面が隅田川河畔。

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新宿花園神社と都電通り

2010-07-02 23:23:38 | 鉄道遺跡
 かなり前、何度か花園神社の境内のテント小屋で、芝居を観たことがありました。当時アングラ芝居などと言われていました。随分昔に亡くなった寺山修司さんの主宰する芝居小屋だったか。今も元気な唐十郎さんの率いる芝居だったのか。黒テントだったか、それは何年か前、池上の本門寺でやった時に観に行きました。
 当時の花園神社付近は、何だか猥雑な感じがするゴミゴミした街並みでした。新宿区役所の横にある斜めの路地をたどって行ったものです。参道のような感じが印象的でした。すでに都電は撤去されていて、これがかつての都電通りの跡の公園・通路でした。都電は、今の新宿文化センターに車庫があったようです。
 つい最近、久々にその緑道公園を歩いて、都営大江戸線の東新宿駅(明治通りとの交差点)まで歩きました。相変わらず薄暗い道筋でした。それでも、大勢の人が行き交っています。その先ちょっと広くなった辺りから、ラブホテル街。
 日清食品本社ビルの裏手では、大きな再開発計画で、建築工事が始まっているようです。この辺りは、昔は何があったのでしょうか?このへんの地理には疎い。
 大江戸線は、ずいぶん地下深くにあって、階段を降りるのも、一苦労でした。
 写真は、都電の跡の通りです。
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遅ればせながら初めての西武多摩川線

2010-05-11 22:44:27 | 鉄道遺跡
 ずいぶんと昔(昭和40年代前半)、国鉄時代。中央線武蔵境駅から出ていた西武線を横目で眺めながら通ったものだ。
 今、高架工事もほぼ終わって、武蔵境駅も様変わり。西武多摩川線も同じように高架になって、線路や駅舎は立派になったが、車両は何だか古めかしいまま。「春」にちなんだラッピング車両が走っていたのが興味深かった。
 この線。多摩川河原で採取した川砂利を運搬する目的で、1910(明治43)年8月に設立された多摩鉄道によって開業した路線。また戦中は中島飛行機の工場への引き込み線があり、沿線工場への貨物輸送にも利用された。
 1917(大正6)年には、境(現・武蔵境) - 北多磨(現・白糸台)間、1919年に北多磨 - 常久(現・競艇場前)間、1922年に常久 - 是政間が開業した。
 1927(昭和2)年に(旧)西武鉄道に合併され、同社の多摩川線となった。1950年に電化され、1967(昭和42)年に貨物輸送を廃止した。
 その後、アメリカンスクール、多磨霊園、多摩川競艇場のアクセス路線として活用されてきた。近年には沿線の宅地化が進み、また東京外国語大学、警察大学校、警視庁警察学校が多磨駅に近い関東村跡地に建設されたことから、輸送需要が増えつつある。
多摩川線は路線名の変遷が激しい。旧西武鉄道に吸収されとき、路線名は多摩線と呼ばれる。その後、路線名は是政線と名称変更され、後に更に武蔵境線と変更、そして現在の多摩川線に変更されて今に至っている。
 ワンマン運転を実施していて、運転士がドアスイッチを操作してドアの開閉を行うので、駅到着後ドアが開くまで少し間があたったのには、ちょっとびっくり(あれ、開かないのかな、と一瞬思ってしまう)。途中の駅は、新小金井、白糸台、多磨(「多摩」ではない)、競艇場前、是政との単線折り返し運転。他の西武線とはつながっていない。
 また、駅名も変わっている。例えば、「競艇場前」駅は、多摩鉄道時代には「常久」駅として開業。「白糸台」は、当初は多摩鉄道の北多磨駅として開業。駅名は当時の所在地名の北多摩郡多磨村に因んでいた。その後、「白糸台」駅に改称。なお、ちなみに現「多磨」駅はかつては「多磨墓地」駅だった。
 2005(平成17)年)、「競艇場前」駅は、 エレベーター設置のため1番ホーム(旧 武蔵境方面ホーム)を廃止。この日より、1面1線化となった。写真は、そのホームと線路跡。
 ところで、文中にある「関東村」の跡地。東京外語大学と道路一つ離れた場所にフェンスで囲まれて、その一部がほんの少しだけ残っている(残してある)。こんもりとした林が続くが、その敷地内に入ることは出来ない。また、南側には、広大な「武蔵の森公園」があって、その向こうには、調布飛行場がある。
 この土地の歴史。1965年のオリンピック開催のために、当時代々木にあった米軍施設と住宅(通称ワシントンハイツ)は選手村として使用されることになった(現在の代々木公園とその周辺)。このため、米軍関連施設は、府中基地周辺と調布飛行場周辺に移転されることになった。「関東村」は、調布飛行場近辺地域に移転してきた米軍施設や住宅を総称して付けられた名称。現在残っている廃屋は、いずれも敷地内の奥に位置しているため、その詳細を把握することはできないとのこと。痕跡マニアとしては垂涎の場所である。
 また、調布飛行場は、かつては旧帝国陸軍の帝都防空部隊基地であった。敗戦後、米軍に接収され、昭和47年(1972年)に返還された後、民間航空会社の飛行基地として使用されている(現在は、セスナ機などが飛び立つ。新島行きの飛行機もここから出ている)。
 けっこう見所の多い沿線ですね。
調布飛行場
東京外語大学
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145 旧隅田公園駅

2009-11-06 21:59:40 | 鉄道遺跡
 11月3日。東京地方は、前日の寒い雨空からうって変わって雲一つない快晴。この日は、以前から晴れの特異日として有名ですが、こんなに晴れるとは。明治天皇の威光が今も残っているのか、なんて古い人なら思うでしょうか。
 余談ですが、成人の日とか体育の日なんかは、連休にするために毎年変更しますが、新嘗祭・紀元節などと並んで、変更が許されない日の一つがこの日。
 ちょっと肌寒さは残っていましたが、散歩がてらの写真撮影。といっても、携帯写真ですが。隅田公園から業平橋辺り。スカイ・ツリー見物を兼ねてちょっと散策しました。
 この写真は、東武伊勢崎線にあった「旧隅田公園駅」の駅舎。前に、北十間川をはさんで撮った写真を掲載しましたが、これはよく旧駅舎のようすが分かる写真です。窓の格好やら壁面の模様など。
 この周りをぐるぐる回ってみましたが、もうこの窓くらいにしか、駅の痕跡はなさそうです。右上の高架にホームがありました。今でも少し高架橋からふくらんでいる部分が残っています。前日の雨に洗われた、隅田公園の緑の木々がまぶしく光っていました。
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140 東京都港湾局貨物線晴海埠頭

2009-09-29 21:46:23 | 鉄道遺跡
 春海橋からしばらく西に向かうと大きな道路にぶつかります。銀座から勝鬨橋を渡って、有明方面に進む幹線道路。晴海大橋の西側は晴海埠頭。ここまで、東京都港湾局晴海線という貨物線が来ていました。(もう一つの支線は、豊洲埠頭まで。豊洲埠頭では石炭や鉄鋼製品などを積み込んでいたとのこと。)
 何気なく橋のたもとから眼の下の倉庫の敷地内を見ていると、線路の跡がありました。アスファルトで上を覆われていますが間違いなく線路。ずっと奥の方まで続いているようです。
 それが、この写真。ちょっと遠方からでわかりにくいのですが、肉眼だとはっきり確認できます。二手に分かれ、またその先が分かれているのまでうっすらと残っています。
 越中島貨物駅から伸びていたこの貨物線。北には小名木川・新小岩・金町と続いていました。東京都港湾局の所有。開通は、1953(昭和28)年。1989(平成元)年に、廃止されました。
 沿線一帯は、再開発が急速に進んで、鉄橋とここ以外はもう直接の痕跡はなくなってしまったようですが・・・。
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139 春海橋鉄橋

2009-09-28 19:41:45 | 鉄道遺跡
 以前取り上げた、JRの越中島貨物線。その行き止まりになった所から西に向かって進む、東京都港湾局が運営していた晴海埠頭までの貨物線の跡をたどってみました。
 というか、豊洲地域、かつての石川島播磨工業の広大な敷地を中心に、大規模な再開発が進み、高層マンションやショッピング・モールが出来ています。その「アーバンドックららぽーと豊洲」に出かけたついでに、ちょっと探索してみたわけです。
 この「・・・ドック」という名称に、かつての巨大な造船工場の面影を宿しているのでしょう、たしかに、南に広がる海・運河の景色は、他の街中のショッピングモールとは違い、印象がとてもいい感じです。
 船着き場の岸壁と大型のクレーンも、かつてのドックのイメージを想像させようとの工夫があるのでしょう、勿論、いつしかそんなことも忘れ去られていくでしょうが。
 今回の目的の場所は、そこから運河沿いの遊歩道を少し歩き、「春海橋」。そこには、かつての貨物線の鉄橋がそのまま残っています。橋の東側には線路が通っていたという姿は、みじんもうかがえません。
 また、橋の西側は、大きなセメント工場の敷地になって、今は、大きな工事中。囲いがあって中は見えません。両側を切断され、この鉄橋だけが運河の中に残っています。線路もそのままに、雑草に埋もれています。
 この鉄橋について、歴史などのきちんとした説明板のないのが残念です。立ち止まって見る人もなく、散歩やジョギングの人が横目に見ながらひっきりなしに通り過ぎていきます。いつしか撤去する予定なのかも知れません。(もう少し東にある運河に架かっていた鉄橋は、跡形なく撤去されてしまいました。)
 写真は、春海橋からアーバンドック豊洲を望んだもの。大きなクレーンと跳ね橋が中央奥に見えます。
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138 城東電気軌道(東荒川~今井橋)東荒川跡

2009-09-15 20:43:13 | 鉄道遺跡
 都心からの首都高・小松川線が荒川を越える。荒川の左岸には外環状線が頭上高く通っている。その二つの路線をジョイントして、首都高の機能をより高めさせようとの計画が進んでいます。
 その接続地点が、かつての城東電車(都電)の終点だった東荒川停車場付近。地元住民への説明会も開催されて、いよいよ本格的な用地買収などの計画が進んでいくことに。
 この城東電車。1917(大正6)錦糸町~小松川間で開業。その後、支線として水神森~大島(のち洲崎まで開通)が完成。本線は今井までの予定が、荒川放水路の架橋がネックになって工事が進展せず、1925(大正14)年に荒川の東側部分として東荒川~今井が完成。1926(大正15)年になって小松川~西荒川(現在の首都高下の駐車場付近)が完成。荒川はバスが代行するという中途半端な路線になってしまいました。
 その後、経営基盤の弱さから、「東京乗合自動車」に吸収、その会社も「東京地下鉄道」(後の帝都営団地下鉄、現在の東京メトロ)に吸収されるなど幾多の経営会社の変遷があって、1942(昭和17)年、戦争が激しさを増す中で、東京市電気局に吸収されることになります。
 錦糸町~小松川は、25系統の一部に組み込まれ、東荒川~今井橋間は、26系統になりました。この26系統は、1952(昭和27)年5月に他の都電に先駆けるように廃止され、その日から上野~今井間のトロリーバスが運行を始めます。
 廃止された線路は主に宅地化され、ほとんど痕跡がなくなっていきます。一部水路を渡る際の鉄橋などは残っていましたが、それもなくなります。さらに首都高速道路の工事によって、終点の東荒川付近は大きく変貌していきました。ただ、終点付近にあった神社だけは、ほぼ当時のままの位置に残っています。
 写真は、その神社(上に見えるのが、首都高・小松川線の橋桁)。この辺りに、終点と車庫があったと思われます。
 知人の家が、この神社の東側、高速道路に沿った細い道の北側にあります。以前は、もう少し南側にあった(おそらく都電線路跡に建っていたか)のですが、首都高・小松川線の建設のために、今の場所に立ち退いたそうです。
 そして、今回も、新たな関係道路建設のために立ち退かざるをええない・・・。こうして、かつての街並みも大きく変化していくのでしょうか。
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137 京成電車白髭線跡を歩く(その2)

2009-09-08 19:57:04 | 鉄道遺跡
 廃線・痕跡を探る(探り出す)のは、昔の地図をよく目を凝らしてみること、これがその第一歩のようです。
 最近の趣味は、googleから提供されて閲覧できる航空写真(昭和22年と昭和38年)、そして、現代版と重ね合わせながらその変化を探り出すこと。
 実に新たな発見があります。驚きもあります、懐かしさもあります。昔の我が家、小さいときに住んでいた家が何とそのまま残っています、昭和22年当時の。
 周りの様子ももちろん、そのままに。水戸街道も四つ木橋もまだ未完成、曳舟川もそのままの流れに。家の周囲には、水路が縦横に、今の葛飾区役所がないころのまだ池や田んぼだらけも・・・。
 もっと目を南に転じると、東京大空襲の惨劇がまだまだはっきりと残っていて、ぽつんぽつんと家があるだけの、曳舟・押上、また、被害に遭わなかった地域がそのままに、線路も残っています。
 白髭線。戦前とっくに廃止された線路の跡も、断続的に更地や家の並びで浮かび上がってきます。現在と重ねるとその変化の歴史がくっきりとうかがわれます。
 こうした廃線や痕跡に興味を持ち、その記録を着実に残し、私達の前に見せてくれる著作家に、心から敬意を表します。まだまだ奥の深い航空写真。東京の西の方にも目を向けて見たいとも。そうそう、明治の地図も閲覧できます。これも実に興味深い地図です。
 写真は、白髭線の終点「白髭駅」跡のようす。墨堤通りから見たもの。中央の道が駅入り口の道。奥の車が停まっている辺りが駅入り口。中央奥の高い建物が駅の場所に当たります。これも昭和22年の航空写真と重ね合わせて確認できます。
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133 京成電車・白髭線の跡を歩く 

2009-08-28 23:35:40 | 鉄道遺跡
 さっそく歩いてみました、白髭線の跡をたどって(「鉄道廃線跡を歩くⅨ」P89~92)。
 現在の京成押上線の八広寄りの踏切(前に掲載した場所)からスタートして、曳舟川通りを渡り、「長浦駅」跡付近。そこから、ごみごみした住宅街の中、行ったり来たりしながら路地裏を歩いて、水戸街道に出ました。
 そこから、道路の向かい側の駐車場に。正面の民家から少し南側に曲線を描いて住宅が並んでいます。たしかに線路跡地という土地の形状に合わせて並んでいるようです。
 この辺りから、東武線を跨ぐためにちょっと用地が広くなって勾配になって(土手状)玉の井駅となりますが、場所は、特定できませんでした。
 東武線・東向島駅(旧玉の井駅)の北西の高架線脇の路地に、橋台の基礎部分の鉄筋が残っている、とありましたが、残念ながら確認できず。
 ここから一直線に線路は続いていたようです。大正通り(商店街)の道の少し南側の路地を進むと、「長寿庭園」。狭い道路と住宅が線路の幅のまま西に向かって行きます。このあたりは、確認できます。
 大正通りの南側に沿って建てられている「白髭橋病院」。その南側に沿って細長い敷地があり、そこに(南側の明治通りのすぐ北側)終点の白髭駅があった、という。たしかに工場・住宅が直線に並んで建てられているのがわかります。
 また、旧白髭駅のすぐ西側を通る墨堤通りからの駅への入り口の路地と、駅に隣接されていた公設市場(現在は、個人商店が建ち並ぶ一画、線路があった当時からの八百屋さんも健在)も確認できました。
 写真は、終点・白髭駅手前の線路跡。左側のガチャポンの工場と細い通路が線路跡。
 改めて昭和22年の航空写真(goo)を見ると、一面、焼け野原の中に線路跡が点々と浮かび上がっていることに気づきました。
 解説書を頼りの歩いての探索でしたが、気になっていたことが晴れたような、何となくすっきりした気分になりました。
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110 汽笛一声新橋を・・・

2009-07-07 21:11:39 | 鉄道遺跡
 それにしても、新橋は大きく変貌していました。以前、新橋には縁があるのは、メーデーの時くらい。かれこれ、30年以上昔の話。あの頃は、会場の代々木公園から延々メーデー行進。青山通りをひたすら歩いたものです。
 解散は、新橋の土橋(高速道路の下あたり)。歩いて、声を上げて、おしゃべりをして・・・。天下の幹線道路上を歩いたわけですね。そして、その近辺で打ち上げをしたり、上野まで出てご苦労さん会。けっこうたくさんの参加者で、行進も昼前から夕方近くまで続いていたような気がしました。「リクルート」なんて会社もずっと後に出来た感じ。そのころは、ダンスホールがあったような気が(それは、もっと昔なのかな)。都庁もまだ有楽町にあった時分。日劇もあった・・。朝日の本社も・・・。
 新橋駅の西側は飲み屋街があった。(今でもそうでしょうが)たしか、「機関車」もあって、ちょうどいい待ち合わせ場所。これは、今でも変わらないはず。当時の東側は、銀座からの道が続いているのに、高速道路辺りからどうも寂れた感じがしてくる印象だった。都営浅草線の乗り場も何だかビルの中を右に左に行った所にあって、ゴミゴミしている割には、飲み屋街も印象が薄かった。
 ところが、この間、もう何十年ぶりに行って驚きました。実にしゃれた街並みになっている!ぶらつく暇もなく、高速道路下の屋台の店に直行、もとは、運河の跡だった場所に店が何軒か軒を構えている。周りは、ずいぶんとしゃれたビル街になっていた。勿論、ダンスホールも、キャバレーもない!
 「ゆりかもめ」を降りて、JRの新橋駅に向かう、その途中にあったモニュメントが、この写真。機関車の車輪と鉄道唱歌が刻まれた記念碑がありました。(最近つくられたもののようで、西側にあるどでかい「本物の蒸気機関車」に比べれば、今ひとつ、というかかなりインパクトに欠ける感じ。あまり気にしている人もいなくて、通り過ぎるだけ・・・。残念!)
 さて、もっと南に行けば、汐留にかけての再開発の地域。すてきな場所もあるのだろうが、俺たちは、やはり屋台でくだを巻くのがお似合いでした。
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108 旧都電27系統(三ノ輪橋-赤羽)そして、都電荒川線

2009-07-05 16:55:53 | 鉄道遺跡
 1972(昭和47)年までに、交通渋滞解消や都財政再建、経費削減のため、それまで東京23区内に多数存在していた都電の路線(35路線)は、順次廃止されていきました。しかし、「荒川線」だけは、唯一の存続路線として残りました。路線に多くの専用軌道があったこととと沿線住民・地元の存続への強い要望もあったことが存続の大きな理由です。
 荒川線の前身は、明治44年開業の「王子電気軌道株式会社」。1942(昭和17)年、東京市に統合され「市電」となり、翌年の都制施行により都電となりました。もともとは、27系統(三ノ輪橋-赤羽)、32系統(荒川車庫前-早稲田)として別々に運行していました。
 1974(昭和49)年には27系統と32系統を一本化(三ノ輪橋-早稲田)し、名称を荒川線と改めて存続することになったものです。廃止されたのは、北本通り上にあった、27系統の一部(王子駅前 - 赤羽間)だけでした。
 車道と区分されていない純粋な併用区間は、明治通り(国道122号)上を走る王子駅前 - 飛鳥山間だけ。以前は、小台 - 宮ノ前間にもありましたが、道路拡幅に伴い車道と線路が別々になり、小台 - 熊野前間の道路中央では、センターリザベーション方式で通っています。それ以外の区間は大部分が専用軌道です。
 なお、27系統終点の「赤羽」は、JRの赤羽駅前ではなく、環八通りと北本通りの「赤羽交差点」(現在の信号機名は、「赤羽」)付近で、現在の東京メトロ南北線・埼玉高速鉄道線「赤羽岩淵」駅地上付近(北側)の北本通り上にありました(現在、北本通りと赤羽駅南口に向かう、広い道路との交差点名「赤羽岩淵」のところではないので)。
 写真は、その終点付近のロータリー跡。写真の左手、交差点の手前が終点の駅でした。JRの駅からはちょっと離れた北東の位置にあります。交差点右手の角には、現在、高層マンションが建設中。北本通りは、右に大きく曲がって「新荒川大橋」を渡り、埼玉・川口方向に向かいます。正面の道路は「環八」。
 ところで、都電が盛んに運行されていた頃は、王子駅からの北本通りと明治通りとは、直接つながっていませんでした。現在は、「尾長橋トンネル」で結ばれていて、以前のような渋滞は解消されているようです。
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107 東武鉄道・旧大師前駅跡

2009-07-04 21:57:31 | 鉄道遺跡
 「大師前」駅。幻の計画線、東武西板線の第一期区間に開設された駅でした。西新井(東武伊勢崎線線)駅と上板橋(東上線)駅を結ぶ計画だったそうです。
 しかしその連絡線計画工事が進展しないうちに、第二次世界大戦中の東京への大空襲が激化したため、工事を断念し、駅の営業も休止しました。
 戦後、川崎大師などの大師様信仰の復活とともに、ここ西新井大師への参詣者が増えてきたため、再び営業を開始しました。
 駅名は、「西新井大師」の門前を表して命名されています。その後、環七が開通することになり、現在地に移転しました。もとは、現在地よりも環七をはさんで南西方向にありました。
 写真は、最初に開業した駅があったあたり。 ほとんど痕跡はなく、強いて言えば、この道路が線路跡? 昭和22年、38年の航空写真(goo)で確認してみましたが・・・。
 まだまだ空き地やこんもりした土地も残っていて、環七からわずか一本、道を入っただけで、環七の喧噪とは無縁の、住宅と商店のある路地裏でした。
〔歴史〕
1931年(昭和6年)12月20日 - 開業
1945年(昭和20年)5月20日 - 営業休止
1947年(昭和22年)5月21日 - 営業再開
1968年(昭和43年)12月1日 - 環七通り拡幅のため移転
1991年(平成3年)7月 - 大師線高架化に伴い高架化
2003年(平成15年)3月19日 - ワンマン運転に。

 いったい西板線は、西の方にどのように延ばす予定だったのでしょうか。環七のはずはありませんので。特に王子の辺りからは西へは・・・。
 西新井駅~大師前駅。ほんとうに短い単線の区間です。2両編成の電車が往復してしています。「大師駅」は立派な駅舎でした。
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104 両毛線「大平下」駅・ホーム線路跡

2009-07-01 22:18:23 | 鉄道遺跡
 栃木県の大平山は、ちょっとしたハイキングには手頃な山です。東武線でもJRの両毛線でも、山の麓に駅があります。JRが「大平下」、東武が「新大平下」。
 すぐ隣の栃木市は、駅も立派ですが、ここは、ほんとにひなびた雰囲気の駅。観光客も、それほどどっと降りるわけではなさそうです。東武の東側には、日立の大きな工場があります。平日は駅の乗降も多いのでしょうか。
 今日は、日曜日のせいか、しんと静まりかえっています。昼の弁当を調達したいと思いましたが、周りにはコンビニ、なし。コンビニ生活に慣れていると、こういうときはしまった! 浅草を出るときに買っておけば、とつくづく思います。
 たまたま通りすがりの人に聞いて、大きなスーパーに。歩いている途中でも、誰にもすれ違いません。所々あった店も、どうも営業はしていないような・・・。
 スーパーで驚いたのは、商品の値段。実に安い!50円台の菓子パンなどもあったりして・・・。年寄り向けなのか、小分けにした食品が目立ちました。
 やっと弁当を調達。大平山に向けて出発です。JRの線路脇を抜けて、道沿いに山の中へと入って行きます。その途中、踏切を渡りながら、JR「大平下」駅を見ると、お目当ての「廃線」が! かつての引き込み線の跡でしょうか、すっかり枕木は撤去され、無造作に(?)ポイント連結部分の線路が、線路際に置かれています。そこで、パチリ!もう今日の目的は一つ達成しました、満足!満足!
 両毛線。「小山」から「新前橋」まで近郊ローカル路線。下(毛)野-しもつけ-今の栃木県、上(毛)野-こうずけ-今の群馬県というように両毛地域と呼ばれていた、栃木県南西部から群馬県南東部に至る平野部の諸都市を結んでいます。
 もともとこの地域で盛んに生産されていた生糸や絹織物(桐生や結城など)の輸送のために建設された路線です。かつては、線路の周辺には、桑畑などが目立っていました。現在では、地元の通勤通学客の利用が中心となっています。
 東京方面へは、浅草・北千住等に直結している東武鉄道が優勢で、沿線の町や市から東京(浅草)に直通する特急をはじめ、急行電車等を多く走らせていますが、両毛線は地域内輸送が中心で、ほとんどの列車が普通列車となっています。
 ただ、前橋市内については、両毛線が他地域とアクセスするための主要な公共交通機関となっています。
 関東平野の一番北側の平野部、山沿い近くを走る路線で、沿線の主要な都市に立ち寄るように建設されたため、路線は大きく蛇行してます。
 大平下駅(おおひらしたえき)は、栃木県下都賀郡大平町富田にあります。
かつては、プラットホームは、複合式ホーム2面3線の地上駅でしたが、現在は2番線と3番線のホームを閉鎖し、プラットホームは単式ホーム1面1線です。
 写真の線路跡はその2番線、3番線のホームにつながっていた線路の一部です。
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