転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



さきほど、広島に帰ってきた。
旅行中、家族揃って元気に過ごすことができ、本当に良かった。
このことは、本来、何をおいても感謝すべき、希有なことだと思っている。
雪の比叡山に参拝できたことは、特に思い出になった。
日本の仏教の源流の場に立つことができ、感慨深かった。

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帰りの新幹線は大変な混みようで、
指定席の通路のほうにまで、立っている人たちがいた。
皆、それぞれの思いの中で、大晦日の夜、新幹線に乗って、
帰るべきところへ帰ろうとしているのだと思った。

今年は、ある時期以来、私はここに、
震災や原発のことについて書くのを、意図的に一切やめたのだが、
今、「よいお年を」という言葉を聞くたびに、
どうしても、一年前の今頃のことを思わずにいられない。
去年のきょうも、きっと誰もが皆、
無事に過ぎた日々に感謝し、新たな良き年の訪れを願った。
しかし無残にも、そのささやかな祈願とは裏腹なことが突然に起こった。
年明けから数ヶ月後に、あのように大きな震災に見舞われることになろうとは
誰も予想していなかったはずだ。

戻れるなら一年前に戻りたい、
というのは、日本に暮らす私たち全員の願いではないかと思う。
しかしこんなことのあった一年も、やはり今、同じように暮れようとしている。
残った者は皆、生きていて、「時」は止まっていないのだから。

だから、私は今年もやはり、誰の上にも、
「よいお年を」
と、改めて願いたいと思う。
新しい年には、何かひとつでも、今年より良いことがありますように。
今つらいことが、来年は何かひとつでも、つらくなくなりますように。

一年経ったとき、去年の大晦日より、
このことだけは、自分なりに前進した・改善できた、
と思えることが、きっと、何かありますように。


一年間、ありがとうございました。
どうかどうか、良いお年を。

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なんでここに水戸黄門がおるのか、
と娘が臆面もなく尋ね、歴女の面目丸つぶれになった。
湊川神社にある「嗚呼忠臣楠子之墓」の墓碑を建てたのは光圀だ。

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私が「新田義貞の墓」と言い間違えて主人と娘を悶絶させた。
楠公が土の下で動いていそうだ(汗)。

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新年に向けて、境内はどこもあちこち準備中で、
楠公の墓所も、女性のかたがおひとり、清掃をしていらした。
そこへ私たちが参拝に来たものだから、
さりげなく場を離れて、お参りや写真撮影ができるように
心を配って下さったことがわかった。

本当にありがとうございました。

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歴女の娘のために、楠木正成の墓に参ろう、
と思って『楠公さん』に来た。
1997年4月から2000年3月まで神戸市中央区籠池通に住んでいたので、
当時2歳~5歳だった娘を連れて、この湊川神社にも、
幾度か来たことがあったのだが、本人は勿論覚えていなかった。



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最終日のきょうは、大阪のホテルでゆっくり起きて
昼前にチェックアウトして神戸へ。

生田神社は、私にとっては神戸転勤時代の思い出の場所で、
それというのも、当時は官舎のキタナさをなんとかしようと、
足繁く、東急ハンズに通い、インテリア小物やフックなどを物色して、
その帰りに、幼い娘をこの神社で遊ばせていたからだった。

神戸育ちの実家の母に言わせると、生田神社は、
戦争前の女学校の頃、よくお掃除の「ご奉仕」に来たことがある、
とのことだった。
勿論、若かりし母の自由意思ではなく、学校単位の活動だったそうだ。

それにしても、あの震災のとき、文字通り「ぺしゃんこ」につぶれて
屋根だけが地面に直接置かれたようなかたちになっていた生田神社が、
今はもう、何事もなかったかのような佇まいだった。

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