転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



テレビで、このところ石ノ森章太郎のシリーズを
連続して放映しているらしくて、主人が喜んで観ている。

私が小学生の頃、仮面ライダーの「へ~んしん!」が流行っていて、
ライダー1号と2号が混在して出演していた時代だったと思うのだが、
あのあと私は、V3は一応観たが、アマゾンで挫折した記憶がある。
だいたい、ショッカーの基地が南米にある、という設定からして
私には、当時でさえかなりシュールだと思えたのだが、
アマゾンになると、もう、なんというか原始人みたいなキャラで、
ヒーローとして異質過ぎて、私はついて行けなかったのだ。

ライダーのバイクの師匠でありトレーナーでもあった「おやっさん」は、
要は、うちの舅と同じ「モータースのオヤジ」だった筈なのだが、
ライダーのワザの開発に一緒に取り組んでいて、
とてもじゃないが素人ではなかった。
それどころか、おやっさんが練習台にもなり、
ライダーが繰り出すワザをマトモに食らったりもしていて、
なのに、それでケガしたとか爆発したとかいう話は聞いたことがなく、
その強さ、アナタこそ実はショッカーのばけもんなんじゃないですか、
と、つい、大どんでん返しを期待してしまったこともあった。

だいたい、ショッカーはあまりにもユニークな組織だった。
南米という本部の立地も、他にない斬新な着眼点ではあったが、
地球征服を企む等と大きく出たわりには、
毎週、空き地で小学生をひとりふたり誘拐する程度で、
ひどく地道で気の長い作戦には感心させられたものだった。

で、今夜は、『仮面ライダー』は済んで、『ロボット刑事』も終わって、
『ゴレンジャー』をやっていた。
主人は布団に寝そべって、けたけた笑いながら観ていたので、
私も、何の気ナシに覗いてみたのだが、途端に、噴いた。
なぜなら、そこには、頭部が機関車で、人間の手足の生えた、
機関車仮面なる悪人がいたからだ。
こいつは、幼稚園で習う「汽車ぽっぽ」よろしく両手を動かし、
「しゅしゅぽっぽ!しゅしゅぽっぽ!」
と言いながら走るのだった。
高速道路も走っていたが、勿論、後ろから自動車に追いつかれていた。
陸橋を駆け上るところなど、明らかにシンドそうだった。
とてもじゃないが悪者とは思えませんでした。
アワレをもよおしたぞ(涙)。

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先日、主人が、大昔に取得した某資格の証明書が必要になって、
さてそれをどこにしまったかと、家捜ししたことがあったのだが、
私はこの一件で、「そういえば私の教員免許状はどこ?」
と二十年ぶりに思い出した。

恥ずかしいことに、私は実は、教員免許を持っているのだ。
高校二級・中学一級の、英語の普通免許状。
教育学部でなくても、大学で教職課程を履修すれば誰でも取れた。
履修したと言ってもアナタ、私の成績は、
教育原理も教育史も道徳教育研究も全部「C」でしたがな。
教科教育についても、英語が本当にできるのかどうか、
実際に教える能力があるかないか、などは全く問われなかった。
「英語史」も「言語学概論」も「C」だったのに(泣)
(じゃあ何が「A」だったかって、それはもう、
佐藤恭子先生の「ソビエト演劇」と「ロシア語」に決まっている)。

あれから20年。
私は教員免許状を、一度も取り出したことがないまま、今日に至った。
もはや、どこにしまったかも完全の忘却の彼方。
まさか捨ててはおるまいと思うのだが、
実家のどこかにあるとしても、実家というのが、あのオバケ屋敷。
今更、探す勇気がない。
さらに恐ろしいことに大学の卒業証書まで在処不明だ。

教員免許の更新の話題が最近、よく聞かれるようになったが、
私みたいなのは、とっくに免許そのものが失効しているのだろうか?
取得したのは多分、1987年3月で、発行は東京都教育委員会、
免許状の表記は旧姓のままになっている。
取得以後、一度もなんの手続きもしていないのだから当然だ。
男子校に応募して、可愛い男の子たちを道楽で教えよう、
と若い頃はヨコシマなことを夢見ていたのだが、
あれはいよいよ、見果てぬ夢のまま終わるということか。

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仲井戸麗市が盗難被害「ギターは命、早く返して」(Oricon)
RCサクセションのギタリストであるチャボ(仲井戸麗市)の、
長年の愛用のギターが、なんと盗難にあってしまったそうだ!
『26日(水)から27日(木)未明にかけて、横浜市港北区の駐車場で音楽機材9点及び機材車が盗難の被害に遭っていたことがこのほど明らかになった。』『盗難ギターはボディが黒く塗られている「ギブソン チェットアトキンス」と黒の「フェンダー テレキャスターカスタム」の2本で、共に約20年、約30年程度使い続けたもの。盗難車両はトヨタ「ハイエースSUPER GL」。』

私がここで呼びかけて即座に何かになるとは期待できないけれど、
それでもどんなところにきっかけがあるかわからないと思うので、
資料となるURLを貼っておきます。
探しているのは、これです(仲井戸麗市・公式サイトより)。

ピアノのように、持ち運びが大変困難な大型の楽器と違い、
ヴァイオリンやギターなどは、ケースに入れるだけで、
常に演奏者が愛器を携えてツアーに行けるのが良い点だなあ、
と私は以前から思っていたが、こういう事件があると、
運搬を伴うことのリスクも大きなものだったのだと今更だがわかった。
そういえばQUEENのブライアン・メイも、あのハンドメイドのギターに
大変高額な保険をかけていると、以前、記事で読んだことがあった。
しかしこういうものは、イザとなると金額の問題などではないのだ。
一日も早く、チャボの手に楽器たちが戻ってきますように!

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この4月から「特定健診・保健指導」(メタボ健診)が始まるらしいが、
基準値に関して専門家の間でさえも異論があるというのに、
こんなことに積極的に予算と手間暇をかけようなんて、
何か優先順位を間違えているように思われてならない。
医師は今、絶対的に人数が少なく、医療の現場は慢性的な人手不足、
医療従事者は過労死しそうなほどの過重労働を強いられている筈では?
このうえ健診の仕事を増やすのですか?

また、現状では医療費が年々増大し、
予算がないために後期高齢者医療まで導入を決めたわけだが、
メタボを筆頭に「検診」には簡単に膨大な予算が下りるとは、これ如何に。
検診で相手にするのは、自覚としては健康な、社会生活を営む人々だ。
コトによったら、全くどこにも異常のない人に対して
採血やレントゲン被曝で心身の苦痛を与え、
肥満だ高血圧だ高脂血症だと劣等感や恐怖感を植え付ける。
健康診断の恩恵に与り、悪性疾患が発見され、
御陰で寿命が延びたと自覚できる人は、全体のごくごく一部だろう。
つまり大半の健康人は無用に体を傷つけられただけだ。壮大な無駄だ。

先日来ニュースでしょっちゅう話題になっているように、
激しい苦痛のある患者さんを、救急車でたらいまわしにして死亡させている、
という現状が一方にはあるのだ。
それなのに、そういうケースへの対応は二の次で、
毎日元気で会社に行っている人間をよってたかって検査でつつきまわして、
基準値オーバーだ・将来早死にする、とオドして金を取るなんて、
厚生労働省のインボーではないのだろうか。
善意だとしても、「なにヒマなことやってんだ!」と私は憤りを禁じ得ない。


人一倍、太ったアタシが言っても、一片の説得力もないわけですが(逃)。

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28日深夜のNEWS23に清志郎が出演するという情報が
先週くらいからネットで流れていて、
しかしいっこうに番組表には載らないし、
また関西では放映時間が東京TBSと違うために
清志郎のコーナーは無いらしい、ということが途中で判明し、
それなら広島ではどうなのだろうかと私は半信半疑のまま、
昨夜、この番組を最初から最後まで録画してみた。

そうしたら、あった

番組の最後、『金曜深夜便』のところで、
どこかの庭園みたいな場所で筑紫哲也が清志郎と話す様子を
収録したものが放映されたのだ。偉いぞ、RCC中国放送!

以下、自分のための記録と、もうひとつ、
ご覧になれなかった方のお役に立てればという気持ちもあり、
簡単ですが概略をレポします
(曲はすべて武道館ライブからで、ほとんどサビなどのサワリ程度)。

**************************

話は、まず、スタジオの筑紫哲也氏による、
「がんクラブの先輩であり、また完全復活でも先を越された」
という清志郎の紹介から開始。
2月の武道館の映像が流れ、ステージでの清志郎の姿と、
「心配かけたぜベイベー」
「感謝します、どうもありがとう、愛してまーす!」

♪『激しい雨』(武道館ライブ)

変わって、対談場面となり、和風庭園の一角のベンチに、
筑紫哲也と並んで座っている普段着の清志郎。
清志郎は髪を立てているがノーメークで、
赤いタートルのセーター、グレーのジャケット。

1年7ヶ月ぶりに完全復活して、どうだったか、と訊かれ
「最初は緊張したけど、だんだん楽になって行った」
ホントはガンなんてウソだったのでは、と笑われて、
「そんな気がしないでもない」

ここで武道館の映像になり、「完全復活しちゃったからね~」。
♪『キモちE』(武道館ライブ)
♪『スローバラード』(同上)

復活ライブでファンを驚かせたものとして、
ライブ冒頭で流れた、清志郎の闘病中の写真の数々が紹介される。
抗癌剤のために完全に頭髪が抜け落ちたときの、痩せた清志郎、
少し髪が生えてきたときの清志郎、だんだん元気そうになる清志郎。

「抗癌剤を2クールやって、こんなにツルツルになる人は初めてだと
いろんな人に、看護婦さんとかに言われて、
そうか俺は凄いんだ・何だか知らないけど、と思った。
髪がだんだん生えてくるところを、パラパラ写真みたいにしたら
面白いと思って、ずっと撮っていた」
「ガンだと言われて、ガーーン!と来た。力が抜けた。
でも宣告されてしまうと、自暴自棄になったり泣きわめいたりしても
なんの治療にもならない、受け入れるしかなかった」

♪『雨あがりの夜空に』(武道館ライブ)

「闘病中は、とりあえず何もしないでボーっとするのがいい、
と言われたので、温泉入ったり、テレビ観たり。
途中から、自分が本当に病気なのかどうか、わからなくなっちゃって。
休んで、何もしないのも楽しくなって、このままでもいいかな、
もう復活も何もしない人生もなかなかいいかも、と思ったりした」

また何か表現したい気持ちが募ってきて復活したのか?という問いに、

「医者に、こりゃもうなおってるから、そろそろ運動とか仕事も
やったほうがいい、と言われてしまって。そう言われると逆に嬉しくて」

ここで、これまで清志郎は幾度も『NEWS23』に出ている、という話題になり
1992年、1999年(パンク『君が代』問題)、2000年、
2004年(選挙イメージソング)、2005年(デビュー35周年)
の録画が紹介される。
続いて、京都公演で前説に立つ筑紫哲也の映像、
『ニュースキャスターに前説やらしてるバンドは俺たちだけだ』、
という清志郎の言葉を筑紫氏が紹介し、大歓声の会場。

「ロックンロールについて。あまり考えなかった。考えなくなったのかも。
どうしようとかではなく、そのときのベストを尽くそう、と思っている。
自分の音楽、15歳くらいで始めた頃から、全然変わってないです。
これからも、それで行くと思いますよ」

清志郎はそう言って、筑紫氏に「また(前説)お願いしますよ」
と笑った。

♪『JUMP』(武道館ライブ)

「執事」を伴った登場シーンから映像が流れ、
マントを脱いでの歌い出しからワンコーラス、
「高く、ジャンプするよー!」のところで映像ストップ、
「また来週」の文字が出て終了。

**************************

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五ヶ月ぶりくらいで、実家に行った。
娘はしょっちゅう顔を出しているが、
私が行くのは11月の秋祭り以来のことだった。

・友人宅で出てきた半世紀前の興信所調査報告書のことを
私が話題にしたら、うちの母いわく、
「ここらへんでも、ときどき、聞きに来る人あるよ」
私は最初、未だにそんなことをするのは実家近辺が現代の秘境だからだ、
と思ったが、よく考えてみたら、実家のある村の村人同士は、
お互いに、当人どころか先々々代くらいのことなら、
直接によくよく知っているのだから、問い聞きなど必要なかった。
『○○』と名字を言ったら、『□□屋の娘か~』と屋号でかえってきて、
やれ先代の奥さんは△△屋から嫁に来ていて、
その親と□□屋の先々代は従妹同士だから、どうのこうの、
と辿れば村じゅうがどっかで親戚だったりする。
うちの村の人が調べられるというのは、つまり、
相手がよその市町村の人だということだと思われた。
・・・・・そう考えると、縁もゆかりもなかった神戸から
こんな村に嫁入ってきたうちの母は、なかなか勇気あったな(汗)。

・テレビがついていて、NHKの『ちりとてちん』が始まったとき、
母が、すかさずチャンネルを変えたので、私は何の気なしに、
「あれ?観ないの?」
と尋ねた。実家では朝の連続テレビ小説を好んで観るという印象が、
なんとなく、あったからだ。すると母は、
「これは、キライやねん」
と言った。え~?巷ではとても人気のあるドラマではなかったっけ?
「話の中身よりもやね。朝から下品な大阪弁で、やかましい喧嘩ばかり。
それが我慢ならんねん。世間の人は、関西弁って、
大声で言い負かすのに似合いの言葉やとでも思うとるんと違う?
関西弁の良さは、そんなもんと違う。あんな関西弁は聞きとない」
私は朝からやかましいテレビが鳴っていること自体が許せないが、
母は、大阪弁の喧嘩を朝イチで聞くことに耐えられなかったらしい。
そんなに喧嘩しているドラマだったのか???
まあ八十のおばーさんの言うことなんで、すびばせん。

・実家で高校の頃まで私が使っていた部屋に、娘と一緒に行ってみた。
「おー、ここに入るの、久しぶりぃ」
と娘が言った。
滅多に行かない部屋があるなど、どんな大邸宅かと思われそうだが、
なにしろ、うちは築100年ほどのオバケ屋敷なので。
その開かずの間みたいな部屋に入った娘は、
壁のポスターが85年当時の忌野清志郎であることに気付き、
さらに本棚に『忌野旅日記』『十年ゴム消し』『月刊カドカワ』
など、清志郎関連のものばかりが並んでいるのを見て驚いていた。
私は20年以上前に貼ったセロテープがまだちゃんとくっついている、
という事実のほうに感じ入ってしまった。私の執念が宿っているのか。

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詳しく書くとご迷惑になりそうなことなので、
詳細や背景は大いに省略させて頂くことにするが、
私の友人の家で、先日、だいたい半世紀前の、
興信所による調査報告書が発見されたそうだ。
それは、「友人父」の結婚の際に、「友人父」の家のほうで、
お嫁さんとなる「友人母」の身辺を調査させたものだった。

「友人母」の実家の出身地、両親(つまり「友人祖父母」)の経歴、
「友人母」の姉の嫁ぎ先のこと、一家の近所づきあいの様子、
「友人母」本人の学業成績および人となり、等々に関してだったが、
友人の話では、その調査書は驚くほど正確な内容だったとのことだ。
少なくとも、友人本人が親御さんから聞き及んでいた昔話と、
それらの調査結果は、全く矛盾しないものだったそうで、
かつ、単なる噂話のレベルでないデータ的な裏付けのある項目もあり、
一体どうやって調べたものかと友人はただただ驚いていた。

うぅむ、興信所も世間も、侮り難し、恐るべし。


個人情報の保護ということが徹底してきているので、
今だと、詳細な調査をするのは昔ほど容易ではあるまいと思うが、
地域によっては、やはり、「結婚の問い聞き」みたいな風習が、
未だに行われているところも、もしかしたらあるかもしれない。

私自身は、舅姑から結婚を反対されなかったところを見ると、
調べられたりはしなかったようだが(爆)
娘の将来のことを考えると、万が一、ということもあるから、
「おかーさんが、あっちゃこっちゃ、遊び歩いて、
見境なくって、そらもう、とんでもない人でねー」
などと証言されないよう、私は今後、
ちと身を慎まねばならないと思ったことだった。

もう遅いか(汗)。

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舅宅を片付けていたら、偶然、姑の昔の日記を見つけた。
私は最初、それが日記だとは考えず、誰の字かもわからず、
ただ最初の何ページかが記入されている古いノートが出てきたので、
処分して良いものかどうか迷って、目を通したのだった。
そうしたら、40年前の日記だった。

若い母親だった姑は、幼稚園児の「まーくん」が、
毎朝、幼稚園に行きたくないと言ってベソをかく、と書いていた。
幼稚園では運動をするからイヤだ、
幼稚園の給食が嫌いなチョコレートパンばかりだからイヤだ、
等々と、小さいまーくんは泣いていたらしい。

「涙を浮かべているのをみると可哀相になって、
きょうはもう休ませようかと思ったが、
よそのお子さんがみんな行っておられるのに、
この子だけ行けないなんてやっぱり駄目だと思い直して、
なだめすかして行かせた。
意気地のないことで、これからどうなるのかと心配になる」

と、姑は一人息子の将来を心から案じているようだった。
なに、心配することはなかった。人間誰しも一生5歳児ではないのだ。
今の転夫まーくんを見よ(苦笑)。

まーくんは、また、体の弱い子だった。
よく熱を出して、病気欠席も多かったようだ。
あるときなど、姑が看病していたら目の前でひきつけを起こした。
舅が必死であちこち電話をかけるが、夜中に診てくれる病院がなく、
姑は、まーくんが死んでしまうと思って半狂乱になり、
近所の医院の先生を起こして、泣きながら診察を頼み込んだそうだ。

「まーくんに何かあったら私の人生も終わってしまうと思った。
まーくんは私の命だということが、よくわかった」

幸い、普通の熱性けいれんで、発作はすぐにおさまり、
『男の子には割とよくあることで、心配ない。後遺症もない』
と医師に説明され、舅姑はやっと安心することができた。

すみません、お姑様、ごめんなさい、どうか許して下さい!
その『命』であった転夫まーくんを託して頂きながら、
今、手抜き料理を食べさせているのはワタシです(殴)。

5歳児まーくんは、甘えん坊でもあった。
ある夜、まーくんが姑のそばにきて、さかんに耳をさわるので、
「まーくんは、どうしてお母ちゃんの耳を持ちたいの?」
と姑が尋ねたら、まーくんは、
「かあちゃんが、優しいから」
と答えたそうだ。
姑が抱っこしてキスしてやると、小さいまーくんは喜んだ。
「おとうちゃんも優しいから、キスしてあげなさい」
と姑が言うと、まーくんは駆けていって、舅に抱きついた。
若い父親だった舅が、こんなもんを逃すワケがなかった。
舅のヒゲによる『じょりじょり攻撃』を受けて、
まーくんはジタバタして、ケラケラと笑ったそうだ。

「楽しい夜。三人で大騒ぎ」

姑は、ごく私的な記録として思いのままに日記を綴っていたのだろうし、
まさか40年後にヨメに読まれるなどとは、全く想定していなかった筈だ。
人様の日記を無断で読むなんて、本当はいけないことだったと思う。
すみませんでした<(_ _)>。
でも、このような記録を残してくれていた御陰で、
私の知らなかった時代の、親子三人の生活を垣間見ることが出来たし、
今、私の前にいる、機嫌の良い静かなおばあちゃんに、
転夫まーくんを夢中で育て、懸命に過ごした若い日々があった、
ということを、具体的なエピソードを通して、感じることができた。
本当に、ありがとうございました<(_ _)>。

それにつけても、姑の日記が、
ほとんど三日坊主だったことが、惜しまれる(逃)。

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二泊三日、舅宅で家族揃って過ごした。
姑は、時々ほよほよと小さい声でお話をするほかは、
あらぬ方を見て、テーブルを指先でこすってばかりいて、
話しかけても返答はほとんど望めなかった。
でも、やはりいつでも機嫌の良い『ばーちゃん』なのだった。

私が覗き込むと、必ず、にこーーーっと笑ってくれた。
世の中を見ると、どんなに若くても元気でも、
相手に笑顔を見せることが全然うまくない人が結構多いのに、
今のばーちゃんにできるいくつかの事柄の中に
こんな「笑顔」があるなんて、本当に素敵なことだなあと思った。


姑が車椅子生活になってから、これで五年くらいにはなるのだが、
考えてみたら、やはり年々、弱っていることがわかった。
認知症も当初からあきらかにあったのだが、
それでも数年前までは面白いこともぽんぽん言ってくれた。
あの頃のテンポの良さは、今はもう全く見られない。
本当に少しずつではあるが、姑は、やはり老いているのだ。

4年前、舅宅で5人で住んでいた頃、食道癌手術後の舅は、
食道の手術跡のところが狭くなっていて、
食事中によくモノが詰まって、咳き込んだりしたものだった。
あるとき、5人揃っての夕食時、舅がやはり咳き込んで、
「お~~、え~~・・・!」
と悶絶したことがあった。
我々家族はオロオロしながらも、頭のどこかで、
『本当にオエーって言うもんなんだ・・・』
と感心していた(これは後で主人と私の間で意見の一致を見た)。

すると、そのとき。
それまで夫の苦悶に気づかないかのように食事をしていた姑が、
突然、顔を上げて言ったのだ。

おえー言われても、おえるもんは、無いわいね!

え。
いや、あの、おかーさま、そこで返事をされても。
っていうか、そんな突然にオエを下一段活用されても・・・・・・。


一連の騒ぎのあと、舅は、お茶を飲みながら、
大学病院でノドのところを広げて貰おう、と言った。
手術の跡がそのように狭窄することは有り得ることで、
それは内視鏡による処置で、外来で対応できると
前々から言われていたのだった。

舅「食べて体重増やさにゃならんのに、食うのが大変じゃ困るで」
私「咳き込むと体力使ってしまって、疲れてしまいますよね」

すると、またしても姑が言ったのだ。

まわりのもんも、食べる気、なくすよね

あの頃、姑は既にすっかり認知症だったのだが、
なかなか、どうして、愉快で、そして辛辣だった(爆)。

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舅宅の二階のトイレの窓付近に蛾が出る。
昨年から始まって、今回でトータル5匹目を目撃した。

始まりは、去年の春だったような気がするのだが、
あるとき、舅宅の掃除に行ったら、
二階のトイレの窓に、茶色い、5センチほどの蛾がいた。
もう死骸になっていたので、ナンマンダブ、と取り除いた。

その1ヵ月後くらいに、皆で泊まりに行ったとき、
やはり同じトイレの窓枠のところに、
同じように茶色い蛾がいた。
大きさも前のと同じくらいだったが、明らかに若い奴だった。
元気そうだったので、窓を開けて出してやろうと思ったのだが、
パタパタと飛び回り、しまいにこっちに向かって来たので、
困って、トイレに閉め込んだ(爆)。雪隠詰め(爆)。
幸い、一階にもトイレはあるので、
二階は開かずのトイレにしておくことが可能だった。

それから掃除にいくたびに確認していたのだが、
蛾はトイレ内の窓や壁やペーパーホルダの下などと場所を変え、
依然としてトイレで暮らしていた。
窓をあけてやっても出て行かなかった。

二ヶ月ほどして、これも遺体となって発見された。
しかも、なぜか、双子のように二匹になっていた。
最初から二匹だったのか、途中から仲間が来たのか、
増殖したのか、全く不明だった。

この二匹を処分してからは、しばらく蛾は見なかったのだが、
今回、舅宅の二階のトイレの窓のところに、
また、またしても、蛾がうずくまっていた。
やはり、二匹だった。
前の二匹が亡霊になって出てきたのかと私はビビった。

・・・・・・ということで、この話は現段階では解決を見ていない。
普段は無人で、鍵のかかった家で、
もちろん、トイレの窓も閉まっているのに、
蛾がどこから侵入するのか謎だ。
唯一考えられるのは、通気口が天井付近にあるので、
そこから入ってきているのかもしれない、ということだ。
しかし、かなり狭いので、本当に蛾が入れるものかどうか不明で、
入ったものなら出てもいけるのではと思うのだが、
いつも窓辺で折り重なるようにとまっているのも不気味だ。

とりあえず今回は通気口を塞いできた。
うちが好きならいてもいいけど、増えないでね(泣)。
ナンマンダブ、ナンマンダブ。

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