転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



・昨日ツイッターで西川貴教が、日本各地の空港の愛称が素晴らしい、
ということを書いていた。
『出雲縁結び空港』『対馬やまねこ空港』『高知龍馬空港』
『米子鬼太郎空港』『徳島阿波おどり空港』、
そして西川氏の指摘にもあった通り、『コウノトリ但馬空港』に至っては、
地名より『コウノトリ』が前に出て来ているという大胆さだ(^_^;。
調べてみたら、全部の地方空港に愛称が決まっているというわけではなく、
例えば福島空港、南紀白浜空港は、愛称の候補は数年前から出ているが、
まだ決定には至っていないようだ。
前者は『ウルトラマン空港』、後者は『南紀白浜パンダ空港』が候補だそうだ(^_^;。
それと、これも西川氏が書かれていたことと重複するが、
未だに『高松うどん空港』が無かったとは、意外じゃありませんか。

・昨日のアクセス解析を見ていたら、検索語のしまいのほうに、
『転妻よじこ』というのがランクインしていた。
へえ、そんなHNのヒトがいるのか……!?と心惹かれ、
Google先生の検索窓に『転妻よじこ』と入れて検索してみたら、
ヒットしたのは、私のブログ記事ばかりだった。そうだよな(^^ゞ。

・昨夕、実家の母(83歳)が電話してきて、右の耳が変になったと言った。
先日来、ドードーと低い音が断続的に聞こえていて、
家の裏の大川が増水しているのだと思い込んでいたが、雨など降っていないし、
これはおかしいと耳鼻科に行ったら、右の耳の聴力が結構落ちていたそうだ。
だからその異音は、なんらかの理由による耳鳴りだろうと診断されたらしい。
内耳のリンパ液が漏れている?とも考えられ、経過観察となり、とりあえずは
三日分の薬(プレドニン・アデホスコーワ・胃薬)を出されたということだ。
「急には、なおらんと。しゃあない、あほデス飲んで、様子みるワ」
……言うと思ったぜ。 ┐(-。ー;)┌

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・昨日は夕方に突然、例の癒着部分に腹痛が起きた。
なんだか右ウエストのあたりが痛いかな?という感じが最初にあって、
「右の腎臓結石が動いたか?」という感触だったのだが、
じきに痛みが下腹部から左腹部に移って来て、腸炎のほうだとわかった。
癒着部分からの痛みは、毎回このような感じで始まる。
ブスコパンを服用したのが良かったのか、夜にはだいたいラクになった。
きょうもまだお腹を壊した感じは残っているが、寝込むようなことはない。
先週は、主人の県外出張のために、朝4時過ぎから起きた日があったのと、
連日寒くて下半身が冷えていたのとが、体に多少響いたかとは思うが、
その程度しか原因となることは思いつかず、
相変わらず、この腹痛は起こるとなったら急激だ、という印象だった(汗)。
天気予報が、また強い寒気団が明日からやって来ると言っていて、憂鬱だ。
ただ有り難いことに、私の腹痛はこれまでのところ過敏性腸症候群のようで、
腸閉塞の方向では無いようなので、その点だけは助かっている。

・通訳案内士の研修講座が地元で行われることになっていて、
関心は持っていたのだが、締め切りが今日で、……いやそれ以前に、
私は未だに県庁へ通訳案内士登録に行っていないので(爆)、今回は駄目だ。
こういう講座も行われているということを覚えておいて、
次の機会には受講できればいいなと思っている(汗)。
  「通訳案内士 専門性研修」開催のご案内(JTB)
  2月10日(金) 10:00~18:00@広島銀行西条支店 2階会議室
  テーマ 『産業観光・近代化遺産』
  ・「酒造りと日本酒の魅力を外国人に伝えるコツ」
  ・「日本酒の分類、利き酒と利き水」
  ・「西条酒蔵めぐり」(実地研修)
  ・「広島をはじめとする中国地方における国際観光の要点」
今回は日本酒が特にテーマになっているようだから、
自身も日本酒好きのガイドさんだったら、かなり楽しいのでないかい(^_^;?
登録言語は何であっても良いとあるので、講演はそれなら日本語ということか。
しかしそれにしても、今のようにいきなり「持病のシャクが」起こるような有様では、
私は、こういう対外的な仕事やご奉仕など、到底、務まらないのではないか。
仮にボランティアであっても、約束した日に腹痛で来られないのでは話にならない。
体調管理がもう少し巧くできないものか(汗)。

・昨日、学校で模試があって、帰宅した娘が、
「モールス信号でカンニングができるか?という話を、友達が、しとった(^_^;」
と言った。お友達の言うところでは、
以前、どこかの学校で、生徒同士がテスト中に、
シャーペンの音でモールス信号を送り合い、カンニングしていたのを、
たまたま試験監督の先生もモールス信号がわかる人だったので、気がついて、
『直ちに止めなさい』とやはりモールス信号を出して、彼らに注意をした、
……とかなんとか、伝説レベルの話があるのだそうだ。
しかし英語のリスニングの最中にヤられたら、やかましくて私なら殺意を覚えるな。
「ま、あんたはそんなことせんでも、腹を叩けばええんよ」
と主人(自称『伝説の腹鼓師』)が、娘(一子相伝の伝承者)に言った。
 転夫「腹を二つ叩けば、答えは2番。みっつ叩けば答えは3番」
 転娘「マークシートなら、完璧やね」
 転夫「みーちゃんの腹なら、造作も無いことじゃ」
 転娘「パパパン、パパン!と、うっかりよけいに叩いたりしてね」
 転夫「『つい、興が乗って……(^^ゞ』」
………もういいから普通に勉強してってば(--#)。

・こんなの↓やっていたのですね。
第1回『ガラスの仮面』国民的名シーン投票!(『ガラスの仮面』公式サイト)
いや~、どういう場面か全部説明できるぞ。
これを使ってIdentificationの試験をやってくれたら、満点だ私は(殴)。
(学生のとき、英語講読の試験であったのだ、Identificationという問題が。
半期分を費やして授業で読んできた小説から、テストでは台詞が抜き書きされていて、
誰の、どういう場面での言葉だったかを、英文で説明するというものだった。
しかもなぜか、答案は鉛筆書き禁止で、ボールペンか万年筆指定だった。
教材がガラかめだったら、私は楽勝だったのにな(英語力の問題は除く)。)

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気温は低いが、天気の良い日曜日だ。
風邪がほぼなおった主人は朝からどこかへ出かけ、
娘も模試があって、いつもより遅めながら、やはり学校へ行った。
お蔭で、休日なのに、私は平日みたいな雰囲気だ。
皆のいないうちにと思って、掃除をして洗濯して干して、
それから、ピアノの練習をした。
妙にバッハが巧く弾けて(自分比)、嬉しいには違いないが変な気分だった。
シューベルトの変奏部分は、手を痛めないようにゆっくりやってみた。

***************

昨夜は眠りが浅かったのか、夢を見た。
夢の中での私は、概ね現在くらいの年齢であるようだった。
今のマンションの、ピアノが置いてある納戸部屋で着替えをしていたら、
何か、さわさわと腰に触れて来るものがあって、
なぜか私はそれが人の手であることがわかって、
さっと自分の左手を出して、その触れて来るものを握ってみたら、
やはり、誰かの片手だった。
手だけだから、この世のものではないのだけれど、
温かくて、いやな感じは全然しなかった。
その『手』も、私の左手を心地よい感じで握りかえしてきた。

私はそのまま、その『手』を持って、皆のいる居間に行った。
居間は、私の実家の、40年くらい前の様子と同じで、
そこに集まっている人達も、昔の親戚みたいな女性たちだった。
私が『手』を皆に見せて、誰の手だろうかと訊ねたら、
皆が寄ってきて、少しも不思議がったり気味悪がったりすることはなく、
○○さんかしら、でもちょっと指が細いわね、指輪しているわ、
等々と賑やかに意見を言った。

私の感触では、遠い昔、母と手を繋いだときの感じに似ていると思ったが、
明るい電灯の下でよく見ると、その手はしっとりとして肌にもハリがあり、
とても若い女性の手であることがわかった。
私の母にも若い日はあったはずだが(笑)、直感的に、
これは若いときの母の手とは違うものだな、と夢の中の私は思っていた。
『手』は手首から先くらいしか見えなくて、腕がどこまであるのかはわからず、
手首より上は、何かベージュ色のようなふわふわの衣類に包まれていた。
シフォンみたいな軽い生地で、それも長袖程度の長さだった。

そこに主人が帰ってきて、いつもよくやるように、
「ただいま」を言ったあと自分の部屋に入ってネクタイを外し始めたので、
私も一緒に行って、『手』を見せて、これは何だと思う?と訊ねた。
夢の中の主人は、これまた慌てず騒がず、その『手』を見るなり
「あんた、この前、日記に原爆の映画のこと書いたでしょ。
だからこの人、来たんだよ」
と笑顔で言った。私は、なるほど、そうか!と心から納得していた。
この『手』は、原爆の日までここで生活していた人の手だったのだ。
だから今もここにいるのだな、と私は理解した。
そして、だったら私はこれから、この『手』の人を大切にしなくてはな、
と夢の中で思っていた。

***************

物語として見るとオカルトっぽい夢なのだが、私は例によって、
これらのモチーフがどこから来たかは、だいたいわかっている。
『手』だけを見て誰であるかを当てる、という設定になったのは、
主人と娘が観ていたバラエティ番組で、レスラーの佐々木健介が、
カーテンのむこうから手だけ出している何人かの人達の前を順に移動し、
その手を握ってみて、どれが妻の北斗晶の手であるかを言い当てる、
というゲームをやっていたからだ。

実家の居間が出てきたのは、寝る前に「あの家を片付けるのはエラいことやな」
と私が考えていたからだろうと思われ、またその風景が40年前のものだったのは、
主人が夜、『トリプルファイター』の録画を見ていたからだった。
私が『トリプルファイター』を実際に見ていたのが、だいたい40年前で、
その頃テレビは、実家の居間にあったのだ。

しかし夢の最後での、主人の謎解きには感心した(^_^;。
先日、原爆資料館の蝋人形のことを書くに当たって、
意識的に、原爆記録映画のことを、久しぶりに細かく思い出そうとしたわけだが、
その映像の中には、爆風で『手』だけになった人が映っていたと思う。
あれがどこで撮影されたものか、正確なことはわからないが、
私が現在、広島の市街地に住んでいることを考えれば、
このマンションの位置でも、そういうことはあったかもしれないし、
いずれにしても、ここから遠くない場所で、似たようなことは起こっていただろう。
我が家から近い、娘の学校でも、当時たくさんの若い女性たちが命を落としている。
その人(達)が、誰でもいいから今ここにいる人間に向かって、
何かを語りかけようとしているというのは、大いにあり得ることだと思った。
自分が誰なのかわかって貰えず、家族に伝えて貰うことも出来ないまま
息を引き取った人たちが、この近くでも、本当にたくさんいただろうから……。

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朝から、地元グリーンコンサートラインズの会員先行予約で、
ベルリン交響楽団(2012年7月6日@ALSOKホール)のチケットを取った。
最近はずっとネット予約が多かったので、電話が繋がらない!→リダイヤル、
という感覚を、ちょっと久しぶりに思い出した(^_^;。

昔、ドイツがまだ東西に分かれていた頃に、東ドイツのほうに、
『ベルリン交響楽団』というオケがあったが、今回来日するのはそれではない。
東ドイツの『ベルリン交響楽団(Berliner Sinfonie-Orchester)』は、
数年前に、『ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団
(Das Konzerthausorchester Berlin)』と改名しており、
現在、日本で『ベルリン交響楽団』の名で呼ばれているオーケストラというのは、
旧西ドイツの、比較的新しいオケである『ベルリン交響楽団(Berliner Symphoniker)』
のほうで、今回来日するのもこっちだ。
……改名の経緯よりも、なんでこんなややこしい訳名になるんだよ(^_^;。
『ベルリン・シンフォニカー』でも私は良いと思うのだが、カタカナでは軽くて駄目か?

恥を承知で正直に言うが、私はクラシック・ファンと名乗るには情けないことに、
交響曲もオペラも実はよく知らなくて、積極的に聴きたくなることも少ない。
私にとって、身近に感じられるのは、何をおいてもピアノなのだ。
しかし、時々例外はあって、今回ベルリン交響楽団を聴きたいと思ったのも、
曲目に特別な思い入れがあったことと、ソリストに興味を持ったのが理由だ。

今回の演奏予定曲目は、
 メンデルスゾーン:交響曲第4番イ長調『イタリア』
 メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲ホ短調
 ベートーヴェン:交響曲第6番ヘ長調『田園』
となっていて、指揮はリオール・シャンバダール、
ヴァイオリンはイリヤ・カーラー、ということだ。
メン・コンと田園は、私にとってはどちらも、中学の音楽の授業のときに、
先生のご趣味もあって、生徒全員がスコアを購入させられ、
それを見ながら何度も何度も聴くという学習をさせられた曲だ。
当初はスコア・リーディングなど初めてで、負担に思ったが、
ああしたやり方で親しんだ曲というのは、その後になって振り返ってみると、
やはり、自分の中での根付きが半端ではないものになっていた。
その二曲が今回、同日に並べられているのを見ては、
さすがに逃せないという気分になったのだ。

もうひとつ、ソリストがイリヤ・カーラーだというのも、私の関心を引いた。
前に何かで名前を知って、聴く機会がないものかと思いながら年月が経っていたので、
どんなおじーさんかという気分になっていたが、私よりひとつ年上なだけだった(爆)。
コンクール歴は申し分ないのに、日本では未だに、さほど有名ではないように思う。
今回の演奏会のチラシを見ると、カーラーについての箇所には、
『(パガニーニのカプリースのCDは)ハイフェッツを彷彿とさせる』と評されたとあり、
また彼の使用楽器は、1735年製のグァルネリ『ゼンハウザー』だとも書かれていて、
どちらも、私にとってはなかなかポイントが高かった。
ヤッシャ・ハイフェッツのメン・コンなんて、実家には今でもレコードが残っている。
私が物心ついたときには既にあったレコードのひとつだ。
そのハイフェッツはストラディバリウスの『ドルフィン』を愛用していたが
(これは今では諏訪内晶子の使用楽器になっている)、今回のはグァルネリだ。
先入観もあるとは思うが、私は昔から、華やかなストラドよりも、
グァルネリの暗くてシブいところが、なんだか気に掛かって仕方がないのだ。
ハイフェッツの再来が、グァルネリでメン・コンを弾くなんて、
私にはクラクラ来るような設定だと思った。
……で、買った(^_^;。

私がオケのチケットを先行予約で買うなんて、雪が降りそうな事態なので、
何卒、このまま変更無く演奏会が行われますようにと願ってやまない。
違う曲だったり、違うソリストだったり、違う使用楽器だったりしたら、
私、本当に怒りますよっ。
ちなみに火急の事情の場合、違うオケと違う指揮者は、許す(逃)。

***************

ついでに、自分のピアノに関する記録をしておこう。
いつもの、ハノン・ツェルニー30番・バッハの小プレリュードと併せて、
シューベルト『即興曲』変ロ長調 作品142-3を結局通してやることになり、
今、主題を終わって変奏に入ったところだが、
第一変奏で既に右手がツりそうだ(爆)。
ピアノの技術に必要な筋肉を、十分につけないまま大人になっているので
ソナチネ程度ならバレにくいが、こういう大きな曲をやろうとすると、
てきめんに筋肉痛や神経痛が出て、無理していることを思い知らされる。
鍛えることと同時に、腕や手を痛めない脱力を学ぶのが、引き続きの課題だ。
それと、この曲をやっていると、自分のペダリングの垢抜けなさがよくわかって悲しい。
ここっ!と思うタイミングのところは随所にあるのだが、足が鈍くて巧く入らない。
草履を履いて弾こうかしらん。

シューベルト/即興曲集 第3番 変ロ長調 ,D935,Op.142/演奏:今井顕(YouTube)

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昨日の番組『ケンミンショー』を主人と娘が観ていて、
聞こえてきた音声によると、「広島県内に15もスキー場がある」という件で、
他県出身の出演者の方々が驚かれる場面があったように思うのだが、
私の記憶は正しいだろうか。

前も書いたように、私は初めて東京で下宿生活をしたときに、
大家さんや学校の友人たちから、よく、
『広島から来たのだから、東京の冬は寒くて大変でしょ』
と言われたのだが、当時は、その意味が全くわかっていなかった。
私の実家のある寒村では、12月にもなれば膝ほどの積雪が幾度かあり、
学校といえばストーブ完備、冬の体育は雪合戦などというのも結構あった。
それに較べたら、ちょっと積雪があっただけで全国ニュースになる東京など、
私には完全な許容範囲で、逆に、良い気候ではないかと思っていたのだ。

後になって、広島でも市街地ならば、いわゆる瀬戸内的な気候で、
雪など積もったりしないということを知った。
世の中の人のイメージにある「広島」は、当然のことだが、
広島駅や平和公園などのある、市街地限定だったのだ。
しかし「広島県」の単位で見れば、北部は中国山地だから、
「ぽかぽかと温かい太陽を浴びてミカンができる」ような地域とは別世界だ。
私の実家のあるあたりは、一応はぎりぎり広島市なのだが、
広島市が政令指定都市になるときに、合併につぐ合併を重ねて組み入れた、
もともとは○○郡○○村と表記していた地域だ。
気候的には、今も昔も「広島県北部」に近いものがある。
それでいて、中国山地の真っ直中といえる地域には一歩も二歩も及ばず、
メートル単位の積雪までは無いという、中途半端な場所でもあるのだ。

実家のあたりから、更に北に向かって1時間くらい車を走らせると、
スキー場がたくさんある地域に行ける。
こんな「どよん」な私でさえも、若い頃には、
職場仲間と週末のスキーに行ったものだった。
昨夜のテレビ番組であれだけ驚いて貰っていたところを見ると、
県内でこんなに手軽にスキー場が選べるというのは、
レジャーの点では、恵まれた環境だったと思うべきかもしれない。
私は、大抵どこの県でも、山のある方角に行けば、
スキー場があるものだろうと誤解していた(殴)。

しかし広島に関して言うと、例えば芸北あたりの雪は水分が多くて、
私が後に行くようになった志賀高原や荘川高原と較べても、滑りにくかった。
好みもあるとは思うが、私のようなボーゲン一筋の、永遠の初心者には、
芸北のしっとりした雪は、扱いにくいものだった。
北海道のニセコのパウダースノーが賞賛されるところからしても、
中国山地のスキー場は、雪質の点では劣っていると言わざるを得ないと思う。

ところで、私は結婚してからは、スキーに行ったことがない。
なぜなら主人が、
「スキーは、田舎者が、やります」
と、日本語のおかしいガイジンさんが第三文型を訳したみたいなことを言って、
スキーを拒否したからだ。
煎じ詰めれば、彼は生まれてこのかた一度もスキーをしたことがないのだった。
そして彼のロジックによれば、それは彼が都会育ちであるから、であった。
間違っている、と指摘したいのはヤマヤマだったのだが、
私本人が正真正銘、田舎の出であり、格好の見本なので、
私が言うのでは著しく説得力に欠けた。
お蔭で、娘も全くスキー場に行ったことがないまま、今日に至ってしまった。

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かなり以前の話になってしまったが、1月11日の昼に、
頼山陽 史跡資料館の第110回展示
女筆~頼山陽をめぐる女性たち~』を観てきた。

頼家の女性たち(山陽の祖母・母・妹・叔母)、
山陽の妻(最初の妻の淳と、二度目の妻・梨影)、
そして山陽周辺の女流画家たち(平田玉蘊・江馬細香・上田琴風)、
……と、大まかに分けて三部から成る、合計32点の展示だった。
これまで頼山陽関係の展示は気をつけて見に来るようにはしていたが、
今回は私にとって、実物を見るのは初めてというものもいくつもあり、
その存在さえ全く初めて知った作品もあった。

まず、頼家の女性たちの書を見ながら、頼家にとって和歌というものが、
とても大切なたしなみであったことを感じた。
私には、頼山陽と言えば漢詩、という印象が刷り込まれていたのだが、
山陽自身も様々な場で和歌を詠んで書き残しているし、
祖父の惟清・父の春水・叔父の杏坪らの作品もいくつもあり、
祖母なか・母の静子もいずれ劣らぬ和歌の名手であったことが伺われた。
また、妹の三穂、杏坪の妻・玲瓏(ゆら)らの手になる歌が残っていたことは
今となってはかなり貴重な史料なのではないだろうか。

貴重と言えば、山陽の最初の妻・淳が、息子の聿庵に宛てて書いた手紙は、
かなり最近になって発見されたものだそうで、
歴史の表舞台に登場することのない、こうした女性の残したものが、
ひっそりと今日まで伝えられてきたことの不思議さや有り難さを感じた。
淳は山陽とは離縁になったため、自分の手で聿庵を育てることは出来なかったが、
交流は途切れず、成人した聿庵は淳のもとを幾度も訪れていたようだ。

山陽が京都に出てから出会った梨影は、後に彼の再婚相手となるが、
彼女の読み書きは山陽が教えたものだったということだ。
残されている彼女の筆跡はふくよかで生命力があり、
資質に恵まれ、努力を怠らなかった女性であったことが感じられた。
梨影は聿庵に山陽の最期の闘病の様子を書き綴っており、
山陽と梨影の間に生まれた息子たちも末尾には名を連署し、
ともに暮らしたことのない聿庵を「兄様」と呼んでいたことが印象的だった。

平田玉蘊は頼山陽の恋人だった女性で、画家として自立した存在だったが、
このほど展示されていた彼女のいくつかの書状の宛先は、
例えば女流画家の上田琴風や、菅茶山の妻の宣らで、
皆、頼山陽につながりのある人々であり、
当時の著名人同志の交流が伺え、興味深いものだった。

江馬細香は、玉蘊と別れたあとの山陽の人生に登場した女性で、
彼女もまた書画で名をなし、女性としてだけでなく、
学問的にも芸術的にも山陽を魅了した存在だった。
ただ今回の展示では、細香の作品は『重陽の図』一点のみで、
あとは、山陽と梁川星巌との合装で細香の漢詩がひとつ出ていただけだったので
(私の記憶に間違いがなければ)、私としては少々残念だった。
細香の漢詩には、山陽の指導を受けたものがかなりあった筈で、
叶うことなら、そうした二人の交流の跡を、もう少し見たかった。

それにしても、いつも思うことだが、こうした展示を見ると、
私が活字の中だけで知っていた頼山陽とその周辺の人々が、
本当に生きて活動していたことを感じることができ、やはり興奮させられた。
何より、現在とは比較にならないほど、物質面で限られた生活をしながら、
人の寿命も短い中で、彼らがこれだけ精力的に書に打ち込み、
創作活動を行ったことは、今の脆弱な私などからすれば超人的なことに思われた。
こうした貴重な史料が保管され、現在に伝えられていることに感謝するとともに、
これからも、彼らの呼吸を感じられるような場には
できるだけ機会を逃さず、足を運びたいものだと思った。

ときに、去年は門玲子・著『江馬細香―化政期の女流詩人』を読んだので、
今年は是非、池田明子・著『頼山陽と平田玉蘊―江戸後期自由人の肖像』を
読み通したいと思うとともに、可能ならば彼女の足跡を辿って、
尾道に出かけてみたいと考えたりしている。

平田玉蘊(尾道市立美術館『尾道の表現者たち』)

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「原爆資料館の人形が、撤去されるとかリニューアルされるとか、
なんか聞いた気がする。理由は、あんまりにも怖くて評判が悪いから」
と、先日、娘が言っていたのだが、本当だろうか?
ちょっと検索してみたが裏が取れず、真偽のほどは全く不明なのだが、
私自身は、最近では資料館自体が随分と明るくなったと思っていたので、
よもやこういう話が(噂にせよ)出ているとは、考えてもいなかった。
90年代の前半に現在のかたちになる前の、
資料館と記念館に分かれていた頃の資料館には、もっと重い空気が漂っていた。
あれに較べたら、今は穏やかな、博物館的なものになったと感じていたのだが、
あの人形は、今の子たちにとっては、そこまで怖いのか……。

私は、たまたま通った学校が悪かった?のかもしれないが(汗)、
授業で原爆記録映画を幾度も幾度も見せられていたせいで、
原爆資料館のほうは、初めて行った小学校5年生の頃から、
「原爆を学ぶ人のためのオリエンテーション」というイメージで捕らえていた。
原爆記録の上澄み部分というか、とりあえず正視に耐える部分だけが、
あの資料館に集められているのだと、私には思われたのだ。
なぜなら、私達は小学校高学年頃から平和教育の時間に映像学習をするようになり、
高校に入った頃にはカラーの原爆記録映画になっていて、そうしたものの中では、
顔のパーツが口以外は全く判然としなくなった人達が、
真っ黒に焼けた皮膚の間に赤身が見える状態で、
ゆらゆらと立っていたりする動画が、普通にあったからだ。

あの当時は、終戦から三十年少々の時期で、
ちょうど、米軍のかつての機密扱い映像が一般に公開され始め、
教育映画としても、私達の目に触れるようになってきた頃だった。
原爆症になった人達が、どのような状態になり、どのような治療を受けたかも、
それらの映像では一部、記録されていた。
患者の顔から眼球が落ちた場面では、既に高校生だった私達の間からも
さすがに小さな悲鳴があがった。
「人間って、ほんま、炭素結合っちゅう感じよね……」
と、仕方ないからあとで友人と即物的なことを言い合って、
気持ちのバランスを取ったものだった。

ああした映画で観たものに較べたら、資料館の人形は、
ちゃんと目鼻があって、皮膚の色も肌色らしいところがかなり残っているし、
着衣も一応、服だとわかるし、顔つきだって「人間」だ。
あの様子なら、「衣食足りて礼節を知る」次元から、
まだ、さほど大きくは逸脱していないだろう、という感じがするくらいだ。
あの人形の展示に関する限り、戦争という状況下なのだから、
大なり小なりこういうことは起こるだろう、と私は想像できるし、
他地域の普段の空襲の時にも、あのくらいの光景は十分あっただろうと思う。
焼夷弾にやられた人達だって、全身を焼かれたという点では同じなのだから。

しかし世の中はだんだん変わってきたようだ。
広島にある原爆資料館は18歳未満立入禁止にすべきだと思いませんか?
(Yahoo!知恵袋)
という意見があって、投稿時点では必ずしも賛同者は多くはないにしても、
資料館の展示物は、子供が見るには惨いものが多すぎる、
と考える大人が出てきているのだという印象を私は受けた。また、
広島の原爆資料館について、感想をお教えください』(OK Wave)
を見ても、この投稿者が案内したブラジル人学生たちの一部は、
「人形や実際の被爆者の体験談に対して、怖がらせようとしている、
あまりにもオーバーであるという悪意を感じた」
という意見を持っているし、投稿者自身も資料館や原爆体験談には「意図」を感じ、
「人形にしたって、疑ってしまうような創作物であったと思いました」
と書いている。

私自身、当然のことながら被爆者ではなく(父親が被爆者だから二世ではあるが)、
原爆が本当はどのようなものであったかを、体験として知っているわけではないから、
当事者しか発言してはいけない、と言われれば、黙っているしかないだろう。
しかし、私たちが見た米軍の原爆記録映像が捏造でない限りは、
投下から何日か経ったあとでも、広島市内の状況は凄まじかったことがわかるし、
広島が「地獄絵」であったという被爆証言は、誇張ではないだろうと感じる。
また、資料館は、原爆被害を、現実以上に怖く見せるために演出したものではないし、
それどころか、広島も長崎もそうだが、予備知識のない人が見ても大丈夫なように、
展示には、よく配慮がなされていると、私は実際に行ってみて思った。
原発事故のときも感じたが、世の中の感覚はかなり原爆からは遠くなっているか、
或いは、他県の人は最初からほとんど原爆に関する情報を受け取っていないために、
被害内容についても、せいぜいテレビドキュメンタリー程度のことしか、
想像できなくなっているのではないか、というのが、今の私の率直な印象だ。

私が子供の頃の、学校での平和教育が最善であったとは毛頭、思わないが、
しかし最初にああいうものを見せられると、
精神的に徹底的に打ちのめされたことにより、
未熟な年齢なりにだが、行くところまで行って肝が据わった(汗)、
というような効果は、あったように思う。
それが良かったのかどうかと問われると、自分でもよくはわからないのだが、
少なくとも、無駄であったとか、知らないほうが幸せであったなどとは思わない。

見学者や学習者を震え上がらせることが、平和教育の目的ではないので、
人形が怖すぎて、ほかの全部が吹っ飛んでしまうという感想が大半なのであれば、
やはり展示内容としては、考え直さなくてはならないだろう。
「悲惨な記録こそ、目を開けてちゃんと見るべきだ」
などとも、私は全く言うつもりはない。
大切なのは、「グロい」ものを見て興奮することではなく、
「自分で考える」力を養うことだと思う。
だがそうやって怖いものを見せないように工夫した結果、
「熱線と放射能により約14万人が死亡しました。核戦争を繰り返してなりません」
などと綺麗な表現で処理されてしまうのも、違うよなあという気がする。
そうした言葉からは、誰の体温も感じられないし、誰の声も聞こえて来ないからだ。
それは、東京その他への空襲被害についても同様に感じていることなのだけれども。

それと同時に、ひとつ、私の受けた平和教育が立派だったと思うのは、
米軍や、(日本のものも含めての)特定の集団・階層などへの
「負」の感情を、全く育てなかったという点だった。
私(達)は、原爆記録映像を見て、悪夢にうなされるほどのトラウマになったが、
一方で、「私達の親がこんなめにあったのは、誰某の責任だ」というような、
一方向に思考を誘導されることは、全くなかった。
むしろ、このような惨劇を繰り返さないためには、
「人に対する悪感情」で結論を出せばいいというものではない、ということを学んだ。
「敵」や「仇」を設定し、憎悪を燃やすことが原動力になっているようでは、
いくら当初の目標が崇高なものであったとしても、結局、行き着く先は争いごとだろう。
原爆資料館にしても、例えば米軍や連合国軍への恨みなどは、全く表現していないし、
戦争の経過や原爆投下に至る経緯についても、「解釈」めいたものは提示していない。
ただ原爆投下という出来事があり、その被害が甚大であったことを伝えているのみだ。
「平和教育」という以上、この態度は大切で、意義のあるものだと思うし、
その意味においては、当時の授業も間違ってはいなかったと、私は感謝している。

……ともあれ、それで結局、あの人形さんたちは、今後どうなるのだろう(^_^;。

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ときどき会うカナダ人男性が、先日、髪をとても短くしていた。
一年で一番寒い時期に、よりによってうんと短く刈ったとは。
トロントだかどこだかの出身だと聞いていたが、
広島の冬など寒くもなんともないってか(^_^;。
……と思ったら逆で、とても寒いから毛糸の帽子を被りたいと思い、
できるだけ短く髪を切ったのだ、と彼は言った。
外出時に帽子を被るには、ある程度、短い髪にしておくのが得策で、
そうでなければ帽子を脱いだ途端、髪がボワボワと乱れて困るのだそうだ。

その愛用の帽子のことを、彼は「トゥーク」と発音した。
聞いたことのない単語だった。
訊けば、これはフランス語起源のカナダの慣用表現というべきもので、
アメリカ人やイギリス人に「トゥーク」と言っても通じにくいだろう、
とのことだった。
形状としては、頭部をすっぽりと覆う、冬用のキャップ型のニット帽で、
頭頂部にポンポンのついているものが代表的なトゥークのスタイルだそうだ。
どう綴るのか、と訊ねたら、彼はトゥークの綴りを知らなかった。
toqueかtouqueだと思うんだけど、書く機会がなくて……、とのことだった。

帰宅して、ジーニアス英和辞典で引いたら、見出し語「tuque」で出ていた。
「トークtoqueも可。(カナダ)冬用の毛糸の帽子」、
英語の発音としては「/tu:k/ トゥーク」も「/tju:k/ テューク」もあった。
クラウン仏和辞典で引くと、「toque」(トク)で「(女性名詞)縁なし帽」。
ちなみにフランス語で「touque」(トゥク)は「(女性名詞)ブリキかん」。
私は今後、知ったかぶりなフランス語会話をしようとして、
「私は、お気に入りのブリキかんを被るために、髪を切りました」
などと胸を張って言ったりしないようにしなければな(^_^;。

ネットでtuqueを検索をしてみたらば、
Tuque(言語アーカイヴ)というのがヒットした。
『A tuque (カナダフランス語: tuque、時々また綴られる toque または touque 英語)編まれるある 帽子、最初に今しかしウールの頻繁にの 化学繊維冬の暖かさを提供するように、それは設計されている。』『Tuquesは冷たい雰囲気で不可欠、様々な形態で世界的に身に着けられている。 それらは映画の陳腐なdockworkersそして船員のための共通のかぶり物およびテレビになった。』
……出たな、機械翻訳(笑)。

ま、つまるところトゥークというのは、
例えばこんな感じのヤツってことで、FA?
Ivo Pogorelić – a rebel with a cause.(Chopin 1810/2010))


それにしても、この『言語アーカイヴ』は凄いな。
「トップ10の記事」の上からふたつが、
近親相姦
くすぐりの苦悶
って、みんな一体、このページに何を求めているんだよ(^_^;。

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・広島の市街地では、この冬、まだまとまった積雪は見ていないのだが、
それでもきょうは、かなり強く冷え込んでいるのを感じる。
前々から天気予報で、今週は寒くなると言っていたのが当たったようだ。
さて明日以降、週間予報の通りに雪になるだろうか。

・娘の通うA高校の中学部の入試が、明日行われるので、
中学部も高校部も、本日の授業は半日で、午後は会場準備、
明後日の合格発表が終わるまでの二日間、在校生は休日になった。
きょう、娘は帰ってくるなり布団に入って昼寝した(殴)。
明日も寝坊する予定であると言っている(蹴)。
入試の補助や案内係などで登校する在校生もいるというのに、
うちの娘は相変わらず、働いていない(--#)。

・娘の話を聞いていて感心するのは、彼女たちはお互いの志望大学について、
特に隠すこともなく話題にしているという点だ。
地元での進学を希望する友達も勿論何人もいるが、
娘のお弁当仲間や同好の士(笑)たちのうち、
東京方面に進学を希望している人たちも、既に何人か判明していて、
もし本当にそれが叶ったら、あっちでも同窓会ができるね状態だとのことだ。
私が高校のときは、どこを受けるかなんてヒタ隠しにしていたものだったが、
娘たちは別に何も気にしていないように見える(^_^;。
まあ、娘の高校の某先生の仰った「目指さにゃ、受からんのんで」は至言で、
受かりそうかどうかに関係なく、とにかく志望するのは、良いことだな(^_^;。

・このブログを書き始めてから結構年月が経って、記事も貯まってきたので、
もしできたら、私の各趣味について自分のこれまでの経験概略を
プロフィールとしてつけたほうが良いかなと思うようになった。
私自身が、何かの縁で初めてのブログを読ませて貰うときには、
多くの場合、書いている人のプロフィールや自己紹介欄を見て、
例えば語学なら、どの外国語を何年くらい勉強している人だろうかとか、
ピアノなら、専門的にやっている人か、全くの趣味の人か、等々を読んで、
現在の自分に直接参考になるかどうかを判断しようとしていると思う。
それなら拙ブログに関しても、一応の経歴概略のページを設けたほうが、
読んで下さる方にとっても、なんらかの判断材料になって良いかもしれない。
……と、昨日の検索語の上位に「仏検準2級二次試験」があったのを見て思った。

・主人の体調は落ち着いてきて、元気に出勤できるようになったが、
まだ若干、鼻声だし咳も残っている。
先週水曜日、熱の高かった日には悪寒がして、そのつらさに懲りたようで、
主人は最近ようやく床暖房を入れるようになった。
「温かいって、キモちいいよ~(^^)」
と、暖房した部屋で布団にくるまりながら、今夜も主人は言っている。
まるで私の台詞のようだ(^_^;。
しかし本当に、温かいというのは、それだけで限りなく幸福なことだ。

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今週はこれからとても冷えると、天気予報がさかんに言うので、
晴れているうちにと思って、昼に舅姑の墓掃除・墓参りに行った。
気温が例年より低めなのか、この頃はいつ行っても花が割と綺麗なままだ。
いっそ一ヶ月くらい放置しても、花は大丈夫なんじゃないか(殴)。
じーちゃんがあの世から指令を送って来ない限り
私の墓参りの基準は「花が見苦しくないかどうか」だけなのだ
(最近はじーちゃんが諦めたのか、私の神経が太くなったのか
あまり指令を感じることがなくなった←完全に電波系だ)。
ともあれ、特に見苦しいわけではない花を、更に綺麗なのに換えて、
最近愛用の、年末に比叡山で買ったお線香をあげて、ゆっくりお参りした。
きょうは風が強くて御灯明が消えやすく、その点だけ少し難儀した。

終わってバスに乗り、市街地まで帰ってきて、耳鼻科に行った。
私はそろそろここ数日、何か鼻炎の気配があるのだ。
先生に伺ったところ、今年は気温が低いので花粉症のスタートは遅く、
多分2月20日頃から本格化すると思われる、とのことだった。
しかし勿論、年明けから既に花粉症の始まりを自覚している人はいるし、
日によって鼻炎を強く感じることはあっても当然だ、とも言われた。
先生に診察と鼻処置をして頂き、両鼻にネプライザーをし、
症状がひどいとき使うようにとアレグラ錠とリノコートスプレーを処方され、
滞りなく耳鼻科受診は終わった。

それから本屋に寄った。
昨年秋に、ネットの書き込みで出版予定を知り、ずっと待ちわびていた、
杉山利恵子『中級をめざす人のフランス語文法』を見つけて買った。
これは『まいにちフランス語』応用編で私がとても気に入っていた、
「文法&表現力を磨こう」というシリーズを書籍化したもので、
やはりこういうものが出たということは、
私がこれぞと思った(^_^;杉山先生の講義は人気があったようだ。
このシリーズは、初級文法が終わりかけた、私のような学習者が、
不徹底だったり紛らわしく感じたりしている事柄について、
まさに痒いところに手が届くという絶妙な切り口で解説してくれるので、
放送時、私は霧が晴れるような爽快感を幾度も味わっていた。
当時のテキストは、今後の勉強に末永く使うつもりで残してあったのだが、
このたび加筆もされ付属CDもある単行本となり、本当に有り難いことだった。

あとはアレだ、NHKがこのようなCDブックとして出してくれるならば、
小野潮先生のサトシのナント留学記の初級編も、是非欲しいところだ(笑)。
私は初級でも応用でも、このテの文法をしごいてくれる講座が好きなのだ。
何しろ私は純然たる楽しみのためだけにフランス語をやっているので、
フランス語での、自己紹介も買い物も道案内も、全くする必要が無い。
むしろ、もっと理詰めで読めるようになりたいというのが私の希望だ。
そういう意味では、これまで私が聴いた中では、
初級なら小野先生、応用は杉山先生が最高だったと思っている
(ほかの講座もそれぞれ良さはあったし、恩義も感じている(^_^;。
楽しさ+わかりやすさでは、清岡先生・レナさんが抜群だと思う)。

ということで、冬ごもり用の本も手に入れたことだし、
もし明日から本当に冷え込んで雪が降るのなら、
私はおうちで、フランス語のお勉強と、娯楽の読書をして静かに過ごそう。
娘も今週はA中学入試関係で、水曜・木曜の二日間、在校生は休日になる。
本来は連休でもなんでもない1月下旬の一週間なのだが、
我が家はそういうわけで、今、短期休暇に入ろう的な気分が漂っている(^_^;。

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