転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



ルドルフ・ヌレエフを描いた映画『The White Crow』を
昨日、出勤前に観てきた。
なにしろ上映館がうちの会社のほとんど目の前だったのだ(^_^;。
この条件でなければ観ることは出来なかったかもしれない。

私はヌレエフの舞台を実際には観ていない。
当時の何人かのアーティストやダンサー達と同様、
彼もまた、90年代初頭にAIDSの合併症で亡くなったので、
思いがけず早い別れとなってしまい、実演に接することは叶わなかった。
88年にはヌレエフは広島に来たのだが、知っていながら観に行かなかった。
いずれまた機会があると思い込んでいたのだ。
残された時間はもうあまり長くなかったのに。

この映画では、ダンサー・ヌレエフが芸術上の自由を求めて
ソ連から西側へ亡命するまでの軌跡や葛藤が、ひとつの物語になっている。
亡命を決意することになる1961年のパリ公演を軸に、
少年時代と、ワガノワ・キーロフバレエ学校での学生時代とが
交互に映像として現れる構成になっているため、
時系列はややわかりにくかったが、過去の経験のどの部分が、
非凡なダンサーとしてのヌレエフを造型したか、
暗示的に描くことには成功していたと思う。

観る側として不満だったのは、ダンス場面が意外に少なかったことで、
もっと「ニジンスキーの再来」たるヌレエフのダンスを
強烈に印象づける場面構成をして貰いたかった。
舞台で拍手喝采を受けるシーンがあるにはあるのだが、
それは彼がスターになった逸話のひとつに過ぎず、
私としては、もっと次々と彼の踊りを味わう手応えが欲しいと思った。
なんのために現役プリンシパルであるオレグ・イヴェンコを使ったのか!
映画としては一貫して説明は極めて少なく、
幼い頃の逸話や、美術館でヌレエフが絵に見入るシーン等から、
背景にあるものを観る者が自由に感じ取れば良い、
という演出になっていたとは思うのだが、
他のことと違いダンスだけは、ヌレエフを天才たらしめる最重要の要素なので、
過程として、学生時代からソリストとしてスターになり、
ソ連を代表するダンサーへと駆け上っていくところを
もっとはっきりと観たかった。

道楽者の私としては、彼の亡命の手引きをすることになった
Clara Saintというチリ人女性に、大変心を惹かれた。
クララ・サンはヌレエフがパリに来てから紹介されて知り合い、
すぐに近しい友人同士にはなったが、
恋愛関係には発展しなかった(と後に実在の本人が語っている)。
クララ・サン本人はパフォーマーではなかったが、
ヌレエフの天才を見抜き、彼の舞台に心底惚れ込んだことで、
彼を救うために亡命の直接的な手助けを行うことになった。
彼女は、ヌレエフだけでなく、イヴ・サンローランや
アンディ・ウォーホールとも親しい交流があった。
権力と経済力と時間、それに鋭い審美眼を持っており、
偉大な芸術家達の人生を左右するような位置に立っている、
……これこそまさに、道楽者の「神」(爆)!!

映画全体の中で、私にとって最も印象的だったのは、
ヌレエフが亡命を決行した一部始終が、
少年時代に初めてバレエを習った日の情景と交錯するところだ。
「お母さんはお帰り下さい。ひとりで出来るようにならなくては」
とバレエ教師に促され、母は背を向けて去って行き、
ルディークは稽古場に残され、民俗舞踊を踊ったあと、
教師の前に立ち、バレエのドゥミ・プリエから習い始める。
足は、最初に1番ポジション、次に5番ポジション。
すべてのバレエのパは、ここから始まるのだ。
西側亡命したヌレエフもまた、故国の母親から離れることを選び、
ソ連での栄光を捨て、西側での人生を始めることになった。
まさに、第一歩から。『ひとりで出来るようにならなくては』。

しかし、ヌレエフの孤独が心に染みる、ということは私にはあまり、無かった。
少なくとも映画で描かれたヌレエフは、己の芸術的欲求に極めて忠実で
亡命もまた芸術家としての彼には必然と感じられたので、
場面として描かれている以上の悲劇性などは、私は感じなかった。
過去を断ち切るにはひととおりの決意があったこととは思うし、
当時の状況を思えば、政治的亡命は命がけであったが、
結局、彼は望んだものを手に入れたのだという納得感のほうが、
観る者としての私には、大きかった。

亡命以後のヌレエフがどれほど偉大なダンサーとして
世界を舞台に活躍したかは、この映画では直接には描かれていない。

Trackback ( 0 )




実家母が白内障手術を終えて3年と数ヶ月、
右目の視力には満足しているそうだが、
左目が見えづらくなり、近くのものでもぼんやりする、
どうでもいっぺん、診て貰わなならん、
と母が訴えるので、手術をして貰った眼科に久しぶりに行った。

……と書けば1文で終わりの話だが、母に受診させるためには、
ホームにその旨を事前に申し出、介護タクシーを手配し、
念のため眼科にも予め電話をして受診予定を伝え、
診察券を探し、……と、まず準備だけでも手数が要った。
それから、この眼科はいつも待ち時間が1時間半とか2時間とかなので、
本日は私が朝から、大雨の中、タクシーで某ホームに出向き、
まずホーム詰め所に普段から預けてある保険証その他と診察券を受け取り、
再びタクシーで眼科に行き、私だけで受付を済ませて、
母本人は、昼ご飯が済んでから12時半頃に介護タクシーで来る、
という段取りにした。

激混みの待合室で待つこと1時間半、車椅子でやって来た母は、開口一番、
「ほんまに出る直前になってから、やれ昼の薬を飲めじゃのなんじゃのと」
と文句を言った。
毎食後に薬を飲むのはいつものことで、
きょうに限って急に要求された話ではなかったのだが、
母は自分が気ぜわしいので、それを煩わしく感じたらしかった。
「飲んだら空いた袋を回収するて、職員さんがウルサいねん。
ほんなもん、どうでもええと思うんやけど」
と母はまだ文句を言っていた。
服薬に間違いがあったらいけないのだから、
飲み終わった薬の袋を回収して確認するのも、当然のことなのだが、
母の中では、自分のそのときの気分の通りにならないことは、
すべて施設のほうの対応が柔軟でない、ということになっている(^_^;。
しかも、結局、
「ややこしぃて、もう、昼食後の薬を飲んだかどうかようわからん」
と母は言った。
「出るときになって、薬がどうじゃこうじゃと急かしてからに」

それから母は私を改めて見て、
「ほいで、私は、今日はなんでここへ来たんやったっけ」
と言った。
左目が見えにくいから受診したい、と言い出したのは母のほうだったのに。
御蔭で私は、今月4日しかない休日の1日をこうやって費やしているのに、
別に来んでも良かったんかいorz

母が呼ばれて視力検査に行っている間に母のハンドバッグを見たら、
母の姓名および「6月27日昼」と印字された薬一包が入っていて、
果たして母は、昼の薬を飲み損なっていたことがわかった。
私はそれに付箋を貼り
「6月27日 昼に飲み忘れて、バッグに入れたままにしていました。
眼科に来てから気づきました」
と書いて、保険証等と一緒にしてポーチに入れた。
これはホームに戻ると、また詰め所で預かられることになっているので、
仮に私が口頭で報告する機会が得られなかったとしても、
職員さんが薬袋とこのメモを発見して下さったら、伝わるだろう、
と思ったのだ。

視力検査から戻って来た母にもそれを見せて、
「薬、ここにあったからね。後で飲もうと思うて持って出たんやね」
と言ったら、
「ああ良かった。あった、あった。安心した!」
ととても喜んでいた(^_^;。なんのこっちゃ。

診察のほうは、左目の加齢黄斑変性が進行しているとのことで、
残念ながら老化が主な原因であり、積極的な治療方法はない、
と言われた。
サプリの中に、いくらか効果が認められているものもあるので、
現状維持と右目の発症を予防するために、試してみても良い、
とも言われ、一応、サンプルを戴いて帰ることになった。
サプリなので後日、私が代理で来ても出して下さるとのことだった。
経過観察のため、本人の次回受診は1年後、となった。

それからまた介護タクシーさんをお願いして、母と私とで乗り、
ホームまで戻った。
母は待ち時間のほぼ全部が終わってから来たので、
本人の外出時間そのものは1時間ほどで済み、午後1時過ぎに帰着した。
居住フロアに行くと、幸い、詰め所にスタッフのチーフさんがいらしたので、
受診の報告をしがてら、昼の薬を見せたら、
「だったら、今まだお昼だから、飲みましょう!」
とのことで、その場でコップのお水を用意して下さり、
詰め所の前で母は薬を飲んだ。

部屋に戻ると母は、
「ああ、安心した。薬も無事、見つかったし。きょうは良かったね」
と上機嫌だった。目のことは割とどうでも良くなったらしかった(^_^;。
留守番していた父だけが、
「あんた、ちーたぁ、休みんさい」
と私に言った。まったくじゃ(^_^;。
ちなみに父は、昼寝ばかりしていると足腰が弱るので、
ドアからベッドまで、本人曰く『片道20歩』を毎日何セットか、
意識的に歩くようにしているそうだ。
足が萎えたらいけんけぇ、と父の自覚そのものは間違っていなかった。

90歳夫婦は、つまり、本日も変わりなかったorz

Trackback ( 0 )




KISS、「最後」の来日ツアー『END OF THE ROAD WORLD』12月開催(CINRA.NET)
『KISSのワールドツアー『END OF THE ROAD WORLD TOUR』の日本公演が12月8日から開催される。』『KISSは現在同ツアーのヨーロッパ公演を実施中。日本では6月17日に特設サイトがオープンし、カウントダウンが表示されていた。KISSはツアーの発表に際し、「このツアーは、すでに我々のショウを観てくれているファンにとっては究極の祭典であり、まだ観たことがない者にとっては最後のチャンスとなる。KISSアーミー達、我々はこのファイナル・ツアーを過去最大規模のスケールで行い、別れを告げる。そして最後はKISS登場の時と同様に去る事としよう」とコメントを寄せている。』『日本公演は12月8日に宮城・ゼビオアリーナ仙台、12月11日に東京・水道橋の東京ドーム、12月14日に宮城・盛岡タカヤアリーナ、12月17日に大阪・京セラドーム大阪、12月19日に愛知・名古屋のドルフィンズアリーナで行なう。チケットの販売情報などは来日公演の特設サイトで確認しよう。』

私が14歳で見初めた彼ら、
よもや40年後にそのファイナルに立ち会うことになろうとはな。
行こうではないか。大阪か名古屋が狙い目だな。
さきほど、FC専用特設サイトに行って抽選申し込みを済ませてきた。
後顧の憂いがないように、この際、Meet&Greetも突っ込んでやる!!

「最後」とカギ括弧のついているところが、若干、気になるんだけどもよ(爆)。

  いよいよKISSのファイナルツアーがある!と、
  と去年某SNSで私が書いたとき、友人某氏が言ったものだ。
  『ビリージョエルの引退コンサート、二回参戦しました』
  『10 年くらい前、TOTO 解散コンサート参戦したけど
  来年(=2019年2月)の武道館のチケット買いました』

Trackback ( 0 )




相変わらず忙しいので、カープの全試合を観ている訳ではないのだが、
交流戦に入ってからのカープは、私の予想通り駄目駄目で、
交流戦成績としては立派に最下位を独走している。
『有事に備えて貯金しておくに限る』
と書いた通りになったな。

しかし同時に、カープには、今、面白いこともいろいろ起こっている。
まず、打線がシんでいるせいもあり、投手たちが連日、奮闘している。
大瀬良の力投は勿論、床田の善戦ぶりも毎回素晴らしいし、
山口、遠藤、島内らの若い投手らの台頭も目覚ましい。
個人的には、菊池(保)の、2アウト満塁ツースリーまで行って無失点、
みたいな『土俵際の魔術師』ぶりも私は気に入っている(笑)。
去年の打線に今年の投手力があれば、鬼に金棒だったのだが、
そう巧くいかないところがプロ野球の面白いところだ。
きょうのアドゥワもまた、感心するほど素晴らしかった。
小園のエラーで失点こそしたが、投球内容は文句なしだった。

その高卒ルーキーのドラ1遊撃手・小園海斗なのだが、
過去635試合連続フルイニング出場してきた田中広輔が、
長引く成績不振ゆえに、20日のロッテ戦でついにベンチスタートとなり、
変わって1番・ショートとして大抜擢されたのが、彼だった。
初打席が初安打と、勝負強さをアピールするデビューになったが、
その後、昨日今日は失点に絡む大きなエラーを連発してしまった。
小園がショートだったのが、連敗の原因だったことは間違いない(爆)。

広島が連敗 ミスに泣く…ドラ1小園の痛恨トンネルから3失点(デイリースポーツ)

しかし、そもそも『守備の華』であるショートが、
高卒の子に、いきなり華麗に務まっちゃうワケあるか、
というのもまた、大前提ではあろうよ(^_^;。
エラーのひとつやふたつやみっつやよっつ(爆)、
昨日今日の新人にはいちいち失望するにも値しない話だ。
同じ高卒内野手だった、伝説の高橋慶彦を見習いたまえ。
「打球がショートに飛んだら目ぇつぶりよった」
と、ころもんが今でも述懐しているくらい腕前はアレで、
しょっちゅうエラーしたものだが、メンタルが超人だった。
また、これは投手の話だが、
数々の記録を残し昭和最後の沢村賞を受賞した大野豊だって、
初登板のときには防御率135.00を記録してしまい、
友人やコーチから「死ぬなよ」と言われた逸話があるのだ。
……普通の神経だったら自殺モンだったということですね(爆)。

小園も他の若い子たちも皆そうだが、反省は大いにした上で、
ある面ではノーテンキに自分を奮い立たせて欲しいものだ。
乱暴なことを言えば、たかが新人のやらかしで数試合落とした程度で、
すぐに何がどうなるわけでもないのだ。
高校野球の決勝戦、俺のせいで最後の最後に優勝を逃した……、
とでも言うならともかく、今はプロ野球のリーグ戦のまだ前半、
しかもカープは、小園昇格以前から既に交流戦最下位なのだ。
何を悩むことがあるものか、最強やないか(爆)。

勝っているときも負けているときも、出ている選手がとにかく若い、
というのがカープの大きな魅力だ。
若ければ経験が少ないぶん、ハデな失敗をする可能性もあるが、
どれだけクヨクヨせずに次の機会に臨めるか、の部分だって才能だ。
「負けるたびに動揺していたら、次の準備がもっと難しくなる」
「現実を受け入れる訓練をしなければならない」
「痛みを感じれば感じるほど、強くなれる」
……これらは私が言ったのではないし、緒方が言ったのでもない(爆)。
瀋陽音楽学院の朱雅芬教授が、ピアニストのラン・ラン(朗朗)に、
彼が幼いとき言って聞かせた言葉だ。
どんな世界の人だって、気落ちしたり激昂したりする日がある。
プロならば尚更のこと、みんな同じだ。


ちなみに、観る側としての経験値から言うと、
誰某がやらかしたせいで~!という類いの、単純な試合は、
その場では多少は残念でも、実に簡単に忘れることができる。
ころもんは、2015年6月2日の日ハム戦で深く静かに怒り狂って以来、
しばらくテレビ中継すら一切観ようとしなかった時期があったし、
私は私で、今もなお、2018年4月20日の中日戦を許し難く思っているのだが、
いずれも腹立ちの原因は、選手個々の失敗とは無関係だった(^_^;。

Trackback ( 0 )




きょうは、滅多にない素晴らしい日だった。
なぜならば、本日と明日と、2連休を獲得したからだ。
それで午後、溜まりに溜まった疲れを解消するため、
まずは2時間ほど昼寝をした。
気温24度の昼下がり、誰も来ず電話も鳴らず、極楽であった(T_T)。

それから、心身ともに昨今ないほど満ち足りたところで、
おもむろに、ずっと気になっていた御中元の発送手配と
身内の某件に関する御祝い状を仕上げた。
手書きの書状をしたためる(大袈裟?)のには、
私の場合、最低でも30分くらいは、それひとつに集中することが必要だ。
加えて、できれば前後10分ずつくらいはゆとりが欲しい。
あともうちょっとのところで出勤時間が迫ってきたり、
要件の真ん中を書いている最中に電話が鳴って中断されたりすると、
後日、続きから書こうにも、文章も字も流れが途切れてしまっているから、
ろくなものにならないのだ。

ちなみに先週の水曜日は、午後だけ休みが取れたので、
3か月ぶりに舅姑の墓へ行き、掃除をしてお花を取り替え、
更に舅宅に行って庭掃除をしてから、
町内会費を払いに班長さんのお宅に伺うことができた。
班長さん宅では、超かわいい柴犬ちゃんにも会えてこれまた幸運だった。
舅が亡くなってからも、町内会費だけは半年ごとに払っていて、
その時々の班長さんのお宅に伺っているのだが、
どの方も皆、舅の名前を言うととても優しく接して下さり、
「皆様おかわりありませんか」
と温かい笑顔で気遣って下さるので、
舅がこの界隈で、とても愛されていたことが今も感じられ、
私まで嬉しく有り難い気持ちになる。
じーちゃんは良いヒトだったし、またお仲間にも恵まれたのだねぇ(T_T)。

ということで、墓と庭の掃除、それに町内会費は、先月から気に掛かっていたので、
それらが一度に片付き、あれから実にスッキリと心が軽くなった。

思いのままに用事を着々と処理することができるとき、
私はその手応えに満たされ、懸案から心が解放され幸せな気分になる。
前回、長い時間を自由に過ごしたのは、腰痛で動けなかった2日間だったので(爆)、
きょうは久々に、家での時間の使い方を自分の思いつきで決めることのできた、
実に、素晴らしい日だった(T_T)。

更に、更に、信じがたいほど凄いのは、明日も休日だ、ということだ。
こんな幸せが、あっていいのか(T_T)(T_T)。

Trackback ( 0 )




初日翌日の昨日、博多座で菊五郎劇団中心の大歌舞伎を観てきた。
音羽屋の旦那さん(菊五郎)は『野晒伍助』一本で、絶品!
こういう役を、ここまで粋に大らかに演じられるのは、
菊五郎の芸歴があってこそなのかもしれないと思った。
実年齢が合っていれば良いという訳には到底行かない、
歌舞伎の難しいところでもあり面白いところでもあった。

それより驚いたのが、突然の左團次休演だった。
前日の初日の夜の部の途中から、体調不良のため出演できなくなったそうで、
情報弱者の私は(汗)そんなことはつゆ知らず、
博多座に行ってから貼り紙を見て仰天した。



代役が、昼はあらしちゃん(松緑)、夜は彦兄(彦三郎)。
どんなアクシデントでも、それによって新たな配役が見られる妙味はあり、
ここは左團次のためにも両者、頑張ってくれよと念じつつ、開幕を待った。
結果として、あらしちゃん(松緑)は昼の一本目から悪役で大活躍、
昼夜出ずっぱりの公演となった。
仁三郎役で菊五郎の伍助と並んだとき、あらしちゃんの大きさを強く感じ、
立派になった……(T_T)、と感動を禁じ得なかった。
声も深さがあって惚れ惚れ。

『土蜘』は菊之助の凄さに言葉もなかった。
登場時の、深い闇をまとって姿を現すような妖気と静けさ、
そして、この世のものと思われぬほどの声の迫力!
菊之助の投げた蜘蛛の糸は、虚空に舞い上がったあと、
ふわりとスローモーションのように弧を描いて、
細やかに広がりながら降って来るのだが、
その軌跡まで美しく、まさに異界の気、ただただ圧巻だった。
彦兄が代役で平井保昌を務めたが、これまた美声が響き渡り、
若々しく張り詰めた舞台が、良い意味での緊張感に繋がっていたと思う。

最後の『権三と助十』は、打って変わって楽しい一幕。
喜劇の巧い人は本当に芝居が上手、というのが私のひとつの認識なのだが、
芝翫と松緑は笑いの相性もなかなか良いようで、
初日開け二日目にして既に素晴らしいテンポだった。
松緑と亀蔵の兄弟ぶりのほうも、阿吽の呼吸で文句なく愉快!
團蔵はときどき台詞が怪しく(爆)
言葉そのものは出ないが、意味合いを台詞にして繋いでいる、
という感じのところが何カ所かあった。
猿回しの福之助は愛嬌があり、なかなかの熱演で印象に残った。
彦三郎の勘太郎は、あの超一級の美声と相まって最高の舞台映えで、
彦兄の声は現代歌舞伎界の宝!!
ほかの人の演る勘太郎など、私はもう、考えられない(^_^;!!

というわけで、慌ただしかったが博多座昼夜観劇を果たして来た。
私は本当に菊五郎劇団が好きで、この座組でまたやって貰いたい、
と心から思ったが、なかなか私自身の時間の都合がつかず、
こんなに近所でやっている博多座公演ですら、残念ながら、
おそらくはもう今月はこれ1回しか機会が得られないだろう。
舞台は一期一会で、なんとも勿体ないことだが、
今回一日だけでも行けたことを、今は、感謝せねばならないと思っている。

   

Trackback ( 0 )




先月後半は私が腰痛で動けなかったので、
きょうは久しぶりに、某ホームに両親の顔を見に行った。
それの前に、午前中は神社のご奉仕をして、
昼食後、地元スーパーで榊を買って墓参りもして、
それからホームに回ったので、午後2時半頃になっており、
着いたら母がちょうどお風呂が終わって着替えをしたところだった。
家に居た頃はろくに入浴もしなかった二人だが、
ホームに来てからはピカピカのお肌になった。本当に良かった(T_T)。

父はベッドに腰掛けてテレビで早慶戦を観ており、
私が持参したケーキを食べるかと尋ねたら、
「わしは、甘いもんは、食べんほうがええということに、なっとる。
このところ、糖尿の治療の注射をすることになったんよ」
と言った。
自覚としてはどこも痛くもなんともなく、快適な毎日だそうで(^_^;
父は特には悩んでいない様子だった。

あとで看護師さんが私に説明して下ったところでは、
父は以前より更に、血糖値もHbA1cも上がっているので、
先月末から、インシュリンを昼に1回打つことになったそうだ。
父はホームの魚中心の食事を嫌い、売店の菓子パンを主食にしていたので、
悪化したと言われても、私にはなんの不思議もなかった。
90歳にもなるので、糖尿があろうがなかろうが寿命だろうと私は思うし、
以前から、ホームの職員さんもそれには同意して下さっているのだが、
主治医の先生が、『あまりに血糖コントロールが悪いとなると、
今後、骨折などした場合、治療が困難になるので、
やはり医者として放置できない』と仰ったそうだ。
勿論その通りなので、家族としての私は何も言うことはなかった。
オヤツは控え、好き嫌いを言わずに食事をきちんとするようにして、
ときどき甘いものも楽しむ・外食にも行く、というくらいでどうだろうか。

母のほうは、かつてなく機嫌良くしていた。
母とてホームの食事に心から満足している訳ではなかったが、
三度三度、座っているだけで御飯が出てくる境遇は有り難い、
と語っていた。更に母は、
「家事もせんでええ、なんの心配ごともない、となると
毎日毎日が平穏無事に同じように過ぎて、何にも起こらへんから、
最近、ここでやっとるお習字の会に行くことにしてん」
と言った。
そりゃまた、なんと良い傾向なのだろうか(^^)。
前々から、各種あるサークル活動に参加してみたら良いと
こちらの職員さんからもお勧めがあったし、
私もそうしたら気分転換にもなるだろうと、思っていたのだ。

母は、ホームでお友達になった同い年の女性に誘われて、
毎週1回開催される書道の会に先週、行ってみたそうだ。
自分の道具を持っていなくても、書道の部屋に定刻までに行けば、
すずりと筆と墨汁、それに下敷きと半紙5枚が用意されており、
配られたお手本を見て、すぐ書けるようになっているそうだ。
文字の配置や、とめ・はね・はらい、など、
工夫しながら書くことで、無心に時間を過ごすことができ、
なかなか気に入ったと母は言っていた。
最初の半紙5枚を使い切ったら、有料になるが追加で半紙が貰えて、
納得行くまで書いて良いとのことだ。
終わったら、来たとき同様、手ぶらで部屋に帰るだけだ。
指導者は居なかったが、書き終わったら3枚ほど自分で選んで、
提出するようになっていたそうで、次回までに添削があるのかも?と
母は言っていた。

「でも、どっちでもええねん。子供のお習字でないねんから、
自分でええと思うように書けとったら、そいでええねん」
と母が言うので、それは大人の特権だなと私も思った。
ピアノでもそうだ、子供のお稽古では好きでない曲でも
上達のためには課題にしなくてはならないし、
悪いところは先生になおされたりするが、
大人の趣味のピアノは弾きたい曲だけ弾けば良いし、
自分が弾きたいように弾けたと満足できるなら、それでOK。
90歳の書道だって同様に、本人の楽しさが第一だ。

母はそれでも、「マイ筆」が欲しいと言った。
備え付けの筆はさすがに先が割れて、使い倒した感じのもので、
「弘法筆を選ばず言うても、私はムリ(笑)」
だそうで、半紙に四文字程度書くための中くらいの筆と、
名前用の小筆が欲しいとのことで、私が用意して届けることになった。
「家にある、古いのでええよ」
と母は言ったが、この際だから買ったって良いではないか。
熊野筆の凄いのは買えんけどもよ(^_^;。


追記(6月3日):母からメールで(!)「お習字の2回目に行ってきました」
と報告があった。母が携帯メールの使い方を思い出したのは久しぶりだ。
前回提出したものは先生の朱が入り、添削されて返却されたとのことだ。
そのうちの1枚は三重丸がついていて、『秀作』と褒められており、
「先生大サービスです。今はまだ楷書からですが、精進しようと思います」
と母は書いていた。
母が家事や仕事から解放されて、時間を忘れて好きなことに打ち込む、
というのは少なくとも主婦になって以降は、ほぼ無かったことだろう。
母に、このような穏やかな老後があったことを嬉しく思った。
良いのが書けたら、額装か軸装すればどうだろう。
……目下やたらと頭の具合が良いようなので、
これが長続きしてくれることを、切に祈る(汗)。

Trackback ( 0 )