転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



さきほど、NHKでチェルカスキー最後の来日公演を観た。
95年4月9日、東京サントリーホールでの収録
(ちなみに私が最後に彼の演奏会を聴いたのは89年8月だった)。

放映された曲目はルビンシテイン『ヘ調の旋律』、
リスト『ポロネーズ第2番』、シューマン『幻想曲』、
チェルカスキー自作の『プレリュード・ファスティック』、
サンサーンス(ゴドフスキ編曲)『白鳥』。

チェルカスキーは、母親の導くままにピアノに触れた幼い日から、
やがて演奏家となり八十歳を越える最後まで、ピアノを相手に、
心からなる対話を続け、このうえなく幸福な関係を築いて、逝った、
ということが、しみじみとした手応えを持って伝わって来た。

そこにあったであろう、想像を絶するほどの過酷な訓練や、
修練や研鑽の日々などを、彼はすべて軽やかに飛び越えて、
ひたすらに優美で心楽しい時間を、聴衆と共有するのみだった。

実に見事な、美しい演奏会だった。

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昨日のトカレフについて(続き)。

曲目は、前半が
バッハ / ブゾーニ『前奏曲とフーガ ニ長調』
バッハ / ラフマニノフ『無伴奏パルティータ第3番』より
 『プレリュード』『ガヴォット』『ジーグ』
シューベルト / リスト『春への憧れ』『水車屋と小川』
 『魔王』『万霊節の連祷』

後半が
ショパン『別れの曲』『黒鍵』『革命』
リスト『ラ・カンパネラ』
ワーグナー / パフチンスキー『ワルキューレの騎行』
チャイコフスキー / プレトニョフ『くるみ割り人形』

アンコールが二曲で
バッハ / シロティ『前奏曲』
プロコフィエフ『トッカータ』

昨日も書いたように、最初からとにかく音数の多い曲ばかりで
対位法を限りなく複雑化した曲を自分の手で解きほぐすことに、
トカレフは萌えていたのかもしれなかった(^^ゞ。

また、他楽器やオケ・声楽由来の曲の編曲版が中心で、
多数の音を使い分けながら同時に響かせることで、
トカレフはピアノ一台でどこまで多彩な音色を作り出せるかを
これらの曲目を通じて追求していたようだった。
確かに、ワーグナーやチャイコフスキーでは
ピアノがひとつの小オーケストラであることが実感できたし、
そのコントロールを実現しているトカレフの感性と技巧は、
並々ならぬものがあることもわかった。

だが、それではなぜ後半の最初はショパンだったのだろうか。
美しいけれども実に一般的なこの曲目はファンサービスだろうか?
トカレフは、昨日の他の曲目に較べると、ショパンに対しては、
それほどの執着は持っていないような雰囲気が感じられた。
ご本人の内心は勿論わからないわけだが、
聴いてみた印象としてはそうだった。
そのかわり、トカレフのショパンには、即物的な良さはあって、
メカニカルな面での処理の仕方が私には爽快だった。
まるで、登場したばかりの頃のブーニンのように。

若い人らしく、トカレフはとてもリズム感が良いとも思った。
ペダルを多様しながらも音と音が混ざり合うような響きは作らず、
切って落とすような歯切れの良さを発揮するあたりなどは、
ちょっとポゴレリチの演奏を連想してしまったりもした
(特に『魔王』のイントロの左手など(^◇^;))。

これだけ弾けて、しかもリズム感がこのように冴えているのだから、
逆に音数の少なめの曲を今度は聴かせて貰いたいと思った。
前の来日ではモーツァルトを取り上げていたようだったので、
そういった曲とか、あるいはスカルラッティとかハイドンとか
(そうそう、期待した『鉄腕アトム』はアンコールでも出なかった)。

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全体に非常に音数の多い演奏会だった。
単位時間あたりの打鍵回数というか使用鍵盤数では
記録的な多さなのでは(?)。

ピアノで作り出せる音色の無限の可能性を
探るような演奏会だと思った。
編曲もの中心の選曲にもその方向の意図があったのだろう。

大変に壮快なテクニックで、
若いからこその演奏内容だったと思う。

詳細はまたのちほど。

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午前中に大学病院、午後から老人保健施設、
というダブルヘッダーの一日だった。
雨模様で、あまり日差しが強くなかったので助かった(^_^;)。

じーちゃんは点滴して貰って寝ていた。
ここ数日でMRIやCTや胃内視鏡などの検査があり、
右肺に何かアヤしい陰影が見つかったと言っていた。
画像だけでは診断は下せないらしかったが、
病歴から言ってこれはやはり肺転移だと思うしかないのか。
どういう対処をこれからされる予定なのかわからないが、
もう手術は出来ないだろうし、すべきでもないと思う。

胃内視鏡では潰瘍のあることがわかったそうだ。
このところ胃がつかえるとか気色悪い等と言っていたのは、
それが原因だったようだ。
「じゃが、内視鏡やってから、ものの通りが良くなったで。
カメラつっこんだけ、ゴミが取れたんかの」
と、じーちゃんは相変わらずユーモラスだった。

「ケツが痛い」のは当初に較べればかなりラクになってきた、
ということだが、放射線治療のために車椅子で運ばれたり、
治療台の硬いベッドに寝かされたりするのが、
ケツに響いて痛い、と舅はぶつぶつ怒っていた(^◇^;)。

それより何より、じーちゃんは点滴が大嫌いで、
「看護師が、水分とりゃ、点滴せんでええと言うたから、
わしゃ、ポカリスエット買うて来て毎日飲んどるのに、
いっこうにやめん。いつまでする気じゃと、先生に言うちゃろ」
と文句を言った。

そればかりでなく、舅は点滴を短時間で入れ終えるために、
看護師さんが行ってしまってから、自分で勝手に装置を調節して、
どんどん落ちるようにセットしなおしたのだと言っていた。
果たして、私が来て小一時間もしないうちに、
じーちゃんの点滴は終わった
(心臓に負担かけるから、んなことしないほうが・・・(^◇^;))。

ナースコールしようとする私を制して、じーちゃんは、
「ちょっと待て。ワシが勝手にいじったんがバレるといけん」
と言って、ツマミをまわして、もとの位置に戻した。
こーゆーことを画策しているときのじーちゃんは、
実に生き生きしている。困ったもんだ。

だが、んなことしても、開始時間は袋に書き入れてあるんだし、
度重なれば、なぜこんなに早く終わるのかと怪しまれるのは必至、
と私は思うが(^_^;)。

さて、午後からは五日市まで出かけた。
施設が高台にあって困りものだが、
きょうはフンパツして駅からタクシーで行ってやった。
このくらいのゼータクは、この際、許されて然るべきだ(?)。
にしても、私の実家のあるあたりとあまり変わらないような光景だと
ここに来ると、その田舎ぶりに、何か懐かしいものを感じる(^_^;)。

ばーちゃんは、きょうも元気だった。
私の顔を見ると、目がなくなるくらいニコーっと笑って、
「ま~、あなた、誰さんじゃったかいね。名前どういうちゃった?」
と言った。
『なんだか、とってもよく知っている人のようが気がするが、誰?』
と言われていた訳だ。
「よしこですよ~」
と言ったら、
「よしこちゃん?道理で、『よ』がええと思った」
と、一体どういう道理かわからない道理で、ひとり納得していた。

ばーちゃんは、三年くらい前から私の名前なんかテキトーだ。
ハシモトさん、とか、センセイ、とか好きに呼んでくれている。
でも私はそれでもいいと思っている。
だって確かに私のことを呼んでくれているのは間違いないのだから。

そういえば、以前、自宅にいた頃、主人が姑に、
「わしの名前は?」
と訊ねたら、それはさすがの姑も覚えていて、
「まさ*き」
とズバリ答えたものだった。

あのとき既に、姑は私の名前が全然わかっていなかった。
主人「じゃあ、ワシのヨメさんの名前は」
姑「・・・・・・・・・・・(^◇^;)」
主人「ヒント。頭に『よ』がつく」
姑「まさよ?」

それじゃ、尻に『よ』がついてるってば・・・・。

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1.スーパーピアノレッスン
NHKスーパーピアノレッスンが来月から新シリーズになり、
次のテーマはショパンで、講師はジャン・マルク・ルイザダ
私はこれのモーツァルト編のテキストを買ったにもかかわらず、
結局今まで一度も観て(聴いて)いない。
フィリップ・アントルモンにも私なりに思い出があったのに~。
やはりこの日常は、あまりにも落ち着かないものだということか。
ルイザダ先生の講義は拝聴できますように。


2.ムジカ・ノーヴァ8月号
ポゴレリチの記事があるというのを某氏から教えて頂き、
早速、ムジカ・ノーヴァ8月号を買った。
なるほど、ポゴレリチが再婚した、と書いてあった。
私のように口の軽い女でさえまだサイトに書いていないことを
堂々と雑誌のほうが掲載していたのでびっくりした。
ちなみに訊きますが、それって、どのお相手のことですか(爆)。

その他、ムジカ・ノーヴァの記事でびっくりしたのは。
・横山幸雄氏が、お痩せになったようだった。
・和田れいな氏が、ふくよかになられていたようだった。
・何よりも、ラン・ラン、その服・そのポーズは?一体何があった!?

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昼前から頭痛でしんどかったのだが、
「じーの日」と勝手に決めて、出かけた(^^ゞ。
頭痛の正体は我ながら不明だ。
歯の矯正が理由かもしれないし、更年期のせいかもしれないし、
あるいは暑さあたり、疲労とか。いや××がひくという夏風邪?

外はあまりにも暑かった。暑すぎ。
まじ倒れそう、と思った。
だが行く先が病院なので、安心だった。
熱中症で卒倒しても、現場が大学病院前なら、
最も迅速な蘇生措置が取られるだろう(ほんとか)。

舅は、ベッドでウトウトしていた。
モルヒネのせいなのか、ほかの理由なのかわからなかった。
話しかければ良い笑顔で、きちんと受け答えも出来、
なにも変なことはなかったのだが、
何もしないとすぐ寝てしまうような感じだった。
にも関わらず、ケツの痛みは完全には取れていないという。

私はこうして、ちょっと頭が痛くても不快で叶わないのに、
それを思ったら、舅は、どんなに辛い思いをしていることか。
ケツのことなど忘れられるくらいに楽にしてあげて欲しい。
今夜からモルヒネを増量してみると主治医に言われたそうで、
それでもっと痛みが軽減されるといいのだけれど。

舅「暇なときに、家へ行って、ばーちゃんの着物を見んさい」
私「はあ・・・(^_^;)」
舅「形見分けいうても、要はあんたしかおらんわけやが、
 今のうちにゆっくり見て、必要なもんは取っときんさい。
 あんたが使わんと思うようなもんは、親戚のオナゴでも、
 あんたの友達でも、誰でもええわい、見て貰うて、
 要る言う人がありゃ、持ってってもらいんさい」
私「わかりました。ありがとうございます」
舅「家に何が何枚あったか、ワシはようは知らんが、
 ばーちゃんの着とったもんが、なんぼか、あるやろ」

私は着物の趣味がないので、猫にコンバンワの最たるもので、
姑には申し訳ないが、それらを活用することは難しいだろう。
仰せの通り、思いつく限りの親類に声をかけて、
それぞれ、引き取って貰うことになるだろうな。
それに、ばーちゃんの和服って、確か、
新舞踊の男踊りで着ていた物凄いものが多かった筈。
あと、扇子とか番傘とかの小道具などなど。

実家から骨董みたいなビョウブを押しつけられ、
更に婚家から男ものの舞台衣装など貰っていたら、
転勤族の官舎はどういう光景になることだろうか、ったく。

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『お嬢ちゃんは、夏期講習がんばってますか?』
とメールでお優しく訊いて下さった方が数名いらっしゃいました。
ありがとうございます~~~<(_ _)>。

先輩母の書かれた合格体験記のたぐいには、よく、
『息子は、学校よりずっと塾が好きでした』
『初めて塾に行った日から、人が違ったように勉強し始めました』
などというのが出て来るので、私も、ちょっと期待しないでもなく、
初日、彼女が帰って来たとき、私は勢い込んで尋ねてみた。

私「授業、どうだった?」
娘「どうもない」
私「(--#)」

そんなこったろうと思ったよ。
うちの娘は、やっぱり超マイペースで、
塾から、なんの影響も受けていないようだ。

さて、二日目、国語の最後の問題が難しくて、
解答を読んでもよく理解できなかった、
と娘が言うので、私は、
それなら先生に質問に行きなさい、と言った。

娘「えーーー。恥ずかしーーーよーーー」
私「誰でも最初はドキドキするよ。でも思い切って訊いてみたら。
 わからないところを放っておいても、なんのタシにもならんだろ」
娘「えーーーでもーーーーー」
私「よし。ちゃんと質問できたら、ケーキ買ってあげる!」
娘「やる!!!!!

ああ、うちの娘は本当に小学校五年生だろうか(T.T)。
すっかりケーキに釣られた娘は、今朝、

娘「楽しんで頑張ってくるね!!」

とオリンピック選手のような台詞で出かけていった。
ふふ。まあケーキがネタでもいいや、質問できるようになれば。
と私が苦笑していると、間もなく、娘からメールが入った。

今、スクールバスが行ってしまった。
 私は乗車カードを振ったのに、停まってくれなかった


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正月以来初めて、私の実家に行った。
舅姑とは近しいのだが、私は実家とはえらく疎遠だ(^^ゞ。
こんなことではいけない、と思い直して、
今回はちょっと親孝行でもするか、と考えて娘と出かけた。
なんのことはない、昼食を食べさせて貰っただけだった(殴)。

母はそこで、自分らが死んだら相続はアンタひとりだから、
相続税もどうかするとひとりで支払わせることになりそうだ、
などと言いだした。
もっとも、税金がかかって来るくらいのものが残るかどうか、
というのは完全に不明だ。
田舎だから、都会に較べれば断然、宅地が広いのは確かだけれど。

こんな物凄い田舎のダダっ広い土地を名義上だけ相続しても、
私の日常生活は全く変わることなどないのに、
相続税だの、固定資産税だのと、税金ばっかり増えるのでは、
純然たる「迷惑」ではないかと私は内心、オモシロくなかった。

母「全然、財産と言えるほどのもんはないから、大丈夫とは思うけど」
私「ふぅん」(関心なし)
母「カネメのもん以外は、業者さんに言って全部引き取って貰って」
私「カネメのもん、なんてあるの?」
母「そうやね。私がお嫁に来るとき母から貰った、屏風
私「ビョウブ!」(絶句)
母「私もここへ来て以来、一度も出したことないねんけど」
私「悪いけど私、屏風は、要らんわ」
母「そやろね。私も使ぅたことないし」
私「なんでも鑑定団に出していい?」

母はそれから、最後に現金がどれくらい残るかどうかも不明だ、
と言った。

母「一応、老後の蓄えみたいなもんが、私たちかて、あるやん。
 それ全部使い切ったところで死んだらええけど、
 そう巧いこと計ったようにいかへんしね」
私「簡保がいくつか一度に満期になった程度でも一時所得になるから、
 額によっては税金かかって来るかもね?私詳しくないけど」

これを聞いて母は、俄に別のことを思い出した。

母「かんぽ、って言うたらね。わたし、昔、郵便局員に騙されてん」
私「サギにあったの?」
母「お金取られた訳やないから、サギとは言わへんやろけど、
 少ない掛け金で倍になります、みたいなこと言われて騙されて、
 やたらとかんぽに入ってしもて、途中から掛け金が増えて大変で、
 自転車操業みたな思いして、最後まで掛けたことあってん。
 しかもそれが平成13年にいっぺんに満期になってね。
 あんたの言う、一時所得よ。税金、来たよ」
私「ふーーーん。ま、税金は予定外としても、お金は戻ったんだから、
 不幸中の幸いだったね」
母「まあね。だからサギとか横領とかではなかってんけどね。
 でも最初の説明とちごて、最後まで掛けるのはえらい大変やったよ。
 そいで、あとでわかってんけど、その郵便局員は、
 同じような説明で、たくさんの人を簡保に加入させとったんと。
 内容が違うとか、掛け金が多すぎるとか苦情が相次いだらしくて、
 郵便局から調査の人が来て、こういうことありませんでしたか、
 って聞かれたから、確かにあった、って答えたら、
 私、供述書、書かされたよ」
私「調書とられたんだな。『わたし、騙されました』って」
母「そやねん。ほんで、それから二年ほどして、
 『御陰様で犯人は逮捕され、無事、解決しました』って、
 郵便局の調査員みたいな人が、梨を持って、うち訪ねて来てん」

梨かい!!

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舅はモルヒネで少し楽になって来たと言っていた。
二階の売店まで行けたそうだ。良かった。

ケアマネさんに電話で現状を報告し、
舅の希望する、姑の特養入所先について尋ねてみたら、
すぐに施設に連絡を取って下さり、
姑の入所順位は「次」というところまで来ていることがわかった。

「次」というのは、「こんど空きが出たとき」という意味だから、
それは来月である可能性もあるし、数年後になる可能性もあり、
今の段階では、いつとは全く決められない。
が、取り敢えず現時点でのベストの順位なのだから、
舅もきっと、この結果には満足してくれるだろう。

また、今お世話になっている五日市の老人保健施設には、
療養型病院も併設されているので、入院に切り替えることもでき、
特養に空きが出るまでそちらでつないで貰う、ということも、
可能だとケアマネさんからは改めて言われた。

ケ「おじいちゃん、やっと入所させてもいいとお思いになったんですね」
私「とうとう、入所させてもいいと思うように、なっちゃった、っていうか…」

ふたりで、ちょっとしんみりしてしまった。
ケアマネさんもこれから舅を見舞って下さるそうだ。
舅がこれで、少しは肩の荷が降りたと、
楽な気持ちになってくれると良いのだけれど。

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きょうは主人の誕生日だった。
私より三歳年上の筈だが、本人はきょうで32歳になったと言い張っている。
私はえらく若い男をたぶらかして結婚したらしい。
そういえばもうちょっと元気だった頃の姑が、ある晩、主人に、
『あんた、いくつ?はぁ五十は過ぎた?』
などとかなり失礼なことを尋ねていたことがあったな(^^ゞ。
二年くらい前の話だけど。

ちなみにそのとき、ばーちゃん自身は自称58歳だった。そして、
『じゃあ、おとーちゃん(舅)は、いくつ?』
とヘルパーさんが尋ねたら、ばーちゃんは大真面目に
『72歳』とかなんとかマトモなことを答えていて、
それを聞いて、またヘルパーさんが、
『まあ。結構、歳の離れたご夫婦だったのね』
と話を合わせてくれたら、ばーちゃんは、これまた、
『ほうよ。だから新婚旅行のときは、話が合わんで困ったよ』
と、非常に、辻褄のあった返答をしていたものだった。

実際には、ばーちゃんは、じーちゃんより4歳年上だ。
金の草鞋を履いて探せという姉さん女房だったんである(^_^;)。
ふたりの馴れ初めはお見合いで、若かりし姑は当時、
自分のほうが年上だからというので遠慮していたのだが、
舅のほうがいっぺんに気に入って、押して押して結婚したのだ、
という話だった。

・・・あり(^_^;)?
この、『じーちゃんが惚れた』説は、誰から聞いたんだっけな?
もしかして、ばーちゃんが自分で言っていたんだったりして。
んだったら、マユツバかもしんない(爆)。
だけど、姑は元気なころ、実に愛嬌があってサッパリしていて、
とても親しみやすい暖かい人だったし、
舅ならば、年上女性をものともせず猛攻で結婚にこぎ着けた、
というのも、なんだか、似合っているような気がするな(^o^)。

舅が、食道癌と診断されたのは、ちょうど三年前の今頃だった。
私は鳳凰伝大劇場和央の会お茶会を数日後に控えていて(殴)、
今治の家で、遠征のための荷造りをしていたところだった。
夏休みになっていた娘と、近所のファミレスに行こうと言っていて、
そこへ電話が鳴ったので出たら、舅だった。

「大変なことになった。ワシは、食道癌じゃ言われた」

舅は、これの半月ほど前、お腹を壊した姑に付き添って、
家の近くの総合病院に行ったとき、姑を担当した医師から、
「アンタのほうが死にそうな顔をしとる。検査を受けなさい」
と言われて、その数日後、胃内視鏡検査を受けたのだった。
そこで食道癌を発見された。
無症状だったが、筋層に届きリンパ節転移も伴う、
二期の終わり頃の食道癌だった。

私はこの電話のあと一週間くらい、食欲が全く無くなった。
夜、布団に入っても、頭がカーっとなって容易に眠れず、
自分がまったく正気でないのが我ながら感じられて、
家で血圧をはかったら常時150/100くらいあった。
いかん、こんなことでは、先に私が参ってしまう、
とはわかっていたが、この混乱状態はしばらくどうしようもなかった。
でも和央ようかのお茶会には行こうとしていたものだ(殴)
(↑結局、行かなかったけど(^_^;))。

三年後に、こういうことになっていようとは、
あの頃は、全然、想像もしていなかった。
あのときは、ショックだったけれど、
これから手術してなおすのだ!という前向きで戦闘的な気分が、
我々を支えていたのだと、今にして思う。

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