先日来、ふと思い出して、萩原葉子の『輪廻の暦』を読み返していた。
事実そのままとは限らず、自伝的「小説」である、という観点で読んでも、
著者の思春期から壮年期に至る日々は並大抵ではなく、
苦難の連続であったことが伺われるのだが、
私を惹きつけてやまないのは、そうしたことどもがあってもなお、
中年になってから社交ダンスを始め、幾度か教室を変えながらも稽古を続け、
六十代で初めて自由な時間を得、自分主体の生活を確立した、
……という、彼女の人生後半から終盤にかけての物語だ。
『出発に年齢はない』という彼女のモットーそのものである。
葉子(小説の中での名前は「内藤 嫩(ふたば)」)が、ダンスを選んだのは、
昔、母親が踊っていたのを覚えていたから、というのがあるようだが、
直接の動機は、腹部手術を受けたあと体の具合があまりにも悪いので、
踊って体を動かし元気になりたい、と考えたことであった。
開始当時は四十代であったが、1回目のレッスンでは尋常でなく疲れ、
異常に発汗し、帰宅してから寝込み、風邪をひいて発熱もして、
二度目のレッスンに行けるようになるまで2週間もかかった。しかし、
「初めての人は、だいたい、どこか故障するの」
と先生に言われ、教室に通うことを義務と思って稽古を重ねるうちに、
やがて週に二度は通えるようになり、疲労感が取れるのも早くなり、
ついには風邪もひかなくなった。
日頃は口の悪い母親からも、
「どうしたの!スタイルが良く健康そうになったじゃないの!」
と指摘が入ったほどだった。
事実としても、萩原葉子は62歳で母上の介護を終え、
本格的に解放されるのだが、そのあたりから、
「ひたすら自分のためにのみ時間を使って生きている」
というライフスタイルを確立し、
「やっと青春が来た」
と実感することになった。
たゆまず稽古を続けたダンスはますます上達し、七十代でアクロバットを試み、
「息もできないほどの運動量のレッスン」を楽しんだ。
高齢になっても体重管理にはストイックで、飲み屋などでは知らない人から、
「ダンサーですか」と言われるほどの姿勢や体型になった。
ダンスで一人六役を務めたいという発想から、演劇にも興味を持ち始め、
その他、オブジェや絵画などの制作、楽器演奏、乗馬にも打ち込んだ。
萩原葉子は最終的に、84歳で病没するのだが、
80代になってもモダンダンスに熱中していたそうだ。
いや~~、自分の時間を持てない老年女(=私)の、星ではありませんか。
私が強調したいのは、年寄りになってもダンスで痩せられる、という話ではない。
いや、それが目標でも全然いいのだが(笑)、話はそこに留まらず、
まさに御本人の言われる通り、「何歳になっても何でも始められる」ということと
「修練の方向が誤っていなければ、開始が遅くとも相当なレベルに到達できる」
ということ、の二点だ。
いくつになっても、トシだから今更無理、などということはないし、
何事であれ、本人比での上達は大いに望めるのだ。
趣味によっては、月謝以外にひととおりの資金力が必要な分野もあるが、
葉子だって暇と金がありあまって道楽に身をやつした(笑)のではない。
文筆で暮らして行くことが、なんとか叶うようになってからでも、
離婚した身で、狭い部屋で息子と母と妹を養いつつ頑張って来た。
その中でダンスを始め、地道に自分の生活を作り上げていったのだ。
……ということで、還暦目前の私はそれでは、何を始めましょう(^_^;。
こういう本を読んで励まされたならば、
やはり、六十代から何かを始める、七十になってからでも開始できる、
と考えて、先行きに希望と生き甲斐を見出すべきであろう。
前々から書いている通り、語学は私の生涯の楽しみであろうと思うが、
そのほかに、何か全く新しいこと、が、もしあるならば。
それでふと思いついたのが、日舞である!
いつぞや、あらしちゃん(松緑)が言っていたのだ、
高齢化社会において、健康法としての日舞というものを大いに奨励したい、
……みたいなことを。
近い将来、私は藤間流に入門し、以後十年、いやもっとかかるか、
自分なりにだが本気で稽古に勤しみつつ、積み立てに励み(爆)
最後に御家元・藤間翫右衛門(=あらしちゃん)のお宅で、名取免状試験に臨む。
萩原葉子が七十代で、ダンス教師の肩につかまって空中倒立していたことを思えば、
私が家元から名取の免状を受ける夢をみたって、許されないことはなかろう。
冥土の土産に、四代目松緑の前で踊るのである。
どうだこれ。老後の徒花として最高ではないかね(殴蹴)。
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