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転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



ロシア語を学んだ日々のことは忘れ難いし、
ロシア文学もロシア演劇も、
私は昔から大好きだったし、今でも大切に思っている。
偉大な演奏家たちの輩出したモスクワの街を、
いつかの日か訪れたいと、ずっと願ってきた。

ロシアの香水「石の花」、
なかなか売っていなくて、渋谷の東急文化会館にかつてあった、
香水専門店で、サンプルとして置いてあったものを見せて貰った。
「石の花」はロシア語で「カーメンヌィ・ツヴェトーク」、
もとになったロシアの民話を、佐藤恭子先生のクラスで、読んだ。
教材で使った、美しい、ロシアの絵本。今も持っている。

本当に、私はロシアの文化が、好きだった。
私なりに、愛していたのだ。
だのに、どうしてこうなるんだ(涙)。

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このところ、ジャパン・アーツの中藤泰雄会長の著書
音楽を仕事にして――日本の聴衆に、この感動を伝えたい
(ぴあ株式会社、2008年)を読んでいる。

80年代には、ソ連の芸術家を招聘することが、
どれほど特殊で困難な仕事であったかが、今になるとよくわかり、
私は当時、無知ゆえに恩恵にだけ与っていたのだと今更だが痛感した。
ジャパン・アーツはチェコのスメタナ・カルテットの招聘に始まり、
当初、共産圏のアーティストを日本に数多く紹介していたのだが、
83年の大韓航空機撃墜事件以降、日本国内でソ連に対する反感が高まり、
折しも『ソヴィエト芸術祭』開催を予定していたジャパン・アーツに対し、
「人殺しの国ソ連の芸術祭など、手がけるべきではない!」
という強い反発が、各種の抗議団体から寄せられたそうだ。

政治団体の連日の抗議、会社前での街宣車によるデモ、
事務所での押し問答や電話攻勢、テロ予告まがいの脅し、
など、当時のソ連への反発は凄まじかったということだ。また、
「不祥事を起こしたソ連の音楽祭を開催することを新聞等で詫びろ」
と要求されたり、会社に上がり込み机を蹴散らして暴れる人達がいたり、
その他、中藤会長の自宅への嫌がらせも数多くあったとのことだ。
それでも実現したソヴィエト芸術祭の各会場では、
警察にアーティストの警護を依頼し、入場の際には手荷物チェックをし、
突入しようとする抗議隊をやむなく逮捕して貰ったりもしたそうだ。

ジャパン・アーツは一歩も譲らなかった。
芸術祭開催を詫びることも一切しなかった。
「大韓航空機の事故の犠牲となった人達を悼む気持ちは、皆同じだ、
しかしソ連の芸術家たちには何の罪もない。
国同志の争いや民族間の反目が存在しても、互いの文化は尊重したい。
政治によって文化交流が妨げられることは、あってはならない」
という当時の中藤氏の主張に、今の私は全面的に同感だ。
あの国は嫌いだ、あの国のものは全部認めない、
などという硬直した思想は、文化交流や向上の芽をつみ取るだけで、
なんの益もないものだと思う。

まさにその83年の初秋、私は、レニングラード・ボリショイ・ドラマ劇場の、
初来日公演を観て
、そこで自分にとって革命的な経験をした。
ジャパン・アーツではなく、中央放送エージェンシーの招聘だったが、
同時期の中藤氏のご苦労を知った今になってみると、
あの公演もまた、よくぞ実現したものだと思う。
大韓航空機の事件が9月1日、東京公演初日が9月16日だったのだ。
どれほど多くの方々のご尽力があったことだろうか。

櫻井郁子氏『わが愛のロシア演劇』によると、
あのときの国立劇場は空席が目立っていたそうだが、
もしあの当時、「憎むべきソ連の芝居なんか観るものか!」と考え、
抗議活動としてあの舞台を無視した人達がいたとしたら、
私は今、その人達を心からお気の毒だと思う。
一面的な価値判断から自由になれなかったために、
あれほど偉大な宝をみすみす逃したのだから。

19歳だった私は、中藤氏のような高い次元の見地など全く持たず、
ただただ浮世離れした女子大生だったために、
幸か不幸か、ソ連に対して、ほとんど政治面での知識が無かった。
だから、真っ新な状態で、ソビエト演劇に出会うことが出来た。
世間が、それまで以上にソ連への反感と警戒を強めていた時代に、
私はそれと知らず、ただ興味のおもむくままに、
ソビエト演劇に耽溺し、ロシア語を学び、ソ連研究の講義を覗き、
ソ連大使館広報部から『今日のソ連邦』を取り寄せて読んでいたのだ。
そのような私に、何かを横合いから教え込む人が全く居なかったのは
本当に幸福なことだった。独り暮らしで良かった。

私は昔から「教養とお金はあればあるほど良い」という考えだが、
あのときばかりは、自分の無教養の御陰で助かったと思っている。
何かを知ったために一方向に凝り固まるくらいなら、
知らずに柔軟な嗅覚だけで行動できた私は、よほど幸せだったのだ、
ということを、四半世紀を過ぎた今になって、思っている。

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『カラマーゾフの兄弟』二度目の通読およびDVD鑑賞を終えて、
この作品に対する私の印象は、また少し変わった。
もともと感じてはいたが、感覚の表層にまで上って来なかった部分を
より強く認識するようになった、と言ったほうが良いかもしれない。
次男イワン・カラマーゾフの物語が、初回よりずっと強烈だったのだ。

映画が、長男ドミートリーを主体に描いたものらしいことは、
ネットの解説にも出ていたし、内容的にもそうなっていたと思う。
また、出演者名でドミートリー役のミハイル・ウリヤーノフが
一番上に書いてあることからも、彼が主役であることがわかる。
ドミートリーとグルーシェンカの恋愛が、物語を動かす軸であり、
彼が最も能動的な登場人物であることは、原作でも明らかで、
そこを切り口とすることは、ひとつの自然な手法だと思う。

だが、原作の二度目の通読と、DVD鑑賞とをほぼ並行してやってみて、
私の心に最も生々しい印象を残したのは、
次男イワンの心の奥底にあった、救われなさだった。
一見理知的で無表情なイワンの、病んだ魂が、
直接的な影響を与えたのは下男のスメルジャコフだったが、
それだけでなく、ドミートリーにまで無言のうちに深い陰を落とし、
彼を父殺しの事件に巻き込んだのだ、と私には思われた。
ドミートリーの精神は、決してイワンの支配下にあったわけではないが、
イワンの創り出した地獄の、巻き添えになったのだ。

映画のイワン役キリール・ラザロフがまた、あまりにも名演だ。
裁判での証言の場面など、限りなく原作に迫る、
場合によっては原作を超えたかもしれない求心力だった。
ずっと不可解で冷たいイワンを演じ続けながら、
実は、カラマーゾフ家の悲劇が表面化するところまで、
この物語を根底で牽引して来たのは、ほかならぬイワンだった、
ということが、この人の演技には、大変に鮮烈なかたちで
発揮されていたと思う。

……と思ったのが、この土曜日のことで、それから改めて、
NHKカルチャーアワー『新訳『カラマーゾフの兄弟』を読む』の
『はじめに「著者より」』のところに目を通してみたら、
なんと、亀山先生ご自身の文章に、
「私はここで改めて宣言します。
『カラマーゾフの兄弟』はイワン・カラマーゾフが主人公だ、と」
という箇所があり、私は期せずしてここで、
「答合わせ」をしてしまったような気分になった。
私は二度の通読とDVD鑑賞により、ようやく、
訳者の亀山先生のお考えに一歩近づけたようだった。

『カラマーゾフの兄弟』は、私の読解力では一度や二度では掴みきれない、
何重構造にもなった奥深い作品であることが、改めてよくわかった。
多分、このあと、三度目に突入することになると思う。
今度は、もっとイワンが見えるか、それとも他の何かが見えるのか、
予想もつかないが、それだけに、とても楽しみだ。

ときに、DVDには日野康一氏の短い解説がついていて、その中に、
『(名優達の白熱の演技により観客は)ロシア文学特有の、
ねちっこい体質のとりこになる』という表現があった。
確かに私の道楽の中に「アッサリ」という要素はないように思う。
クドさ、シツコさが、私のツボにハマったということか……。

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何かの拍子に興味を持つと、少なくとも一定期間、
かなり執拗に追求するのが、私のいつもの傾向なのだが、
今は、それの対象が『カラマーゾフの兄弟』だ。
先日一度読み終えたのだが、なんとも未消化の部分が多くて、
決着がわかったところで最初からもう一度読んでみようと、
週末から、二度目の通読に突入している。

さすがに、どの登場人物についても前提がわかっているので、
今度は、初登場のときから行動や言葉の裏まで想像できて、大変に面白い。
作者が小出しにしている様々な情報や、意味のある小さな描写を、
初読のときに、見逃さずに把握し記憶しておくくらいの読解力があれば、
結末を追う楽しさと併せて、作品の細部までを楽しむことが出来ただろうが、
残念ながら、私は実にあちこち、取りこぼしをしながら読んでいたようで、
今回、ようやく、話の奥深さが少しだけ感じ取れるところまで来た。
三度目を読むともっといろいろわかるのではないだろうか。

なんとも折良く、年末には宝塚歌劇雪組『カラマーゾフの兄弟』もあり、
道楽の神様が「カラマーゾフを追求する好機だ」と仰せになっているようだ。
それで私は、amazonでDVD『カラマーゾフの兄弟』も買った。
三枚組で、高かったが、8月後半以降、私的な心配事が多くて弱ったので、
この際、これくらいのゼータクは許されても良かろうと、思い切った。

DVDになっているのは、1968年ソ連制作の映画なのだが、
なんと、映画でもやはり主人公はドミートリーだった。
少なくとも表層的なストーリー展開においては、
感情面でも行動面でも、最も動きのある人物がドミートリーなので、
彼を中心に描くのが、観客に対して、一番親切な手法だということなのだろう。

ただ、私は全く、特定の登場人物に対する思い入れはしていない。
ドミートリーが印象に残る存在だということは再三、書いたが、
彼に感情移入して愛しくてたまらない、という読み方はしていない。
むしろ、どの登場人物もそれぞれ際だっていることが面白いし、
誰が誰に対して、どの時点で、どういう思いを抱いていたか、
それによってどう行動したか、それはどこへ・誰へ波及したか、
という、幾重にも丹念に織られた多層構造の世界が、私にとっては、
ほかでは出会ったことのないものとして魅力があるのだ。

ひとつだけ、自分をホめたいと思ったのは、
私が原作を一度読んで思い描いていた人物像が、
DVDのキャストのイメージと、ほとんどズレがなかったことだ。
ドストエフスキーの筆力、亀山先生の訳の的確さあってのことだが、
それを読み取ることに失敗していなかったらしいことがわかって、
我ながらとても嬉しかった。

DVDは長いので、まだ一枚目しか観ていない。これからが楽しみだ。
小説と違い、出来事が簡潔に、時間軸に沿って並べられていて、
しかも映像の御陰で、愛称で呼ばれていても誰のことかわかるので
(「アレクセイ」と「リョーシカ」が同じ人だなんて、
字面だけでは到底信じられません・爆)
とてもわかりやすくて、面白い。
と同時に、描かれていないエピソードも、原作を読んで知っているので、
映像を見ながら、いろいろと背後の事柄に思いを馳せることも出来て、
読んだあとで観るという順序は、私にとっては良かったと思っている。

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この「ロシア演劇の話」というカテゴリーを設けたのは、
そもそも、私が83年に初めて観たソビエト演劇の、
「レニングラード・ボリショイ・ドラマ劇場」の話を
どうしても一度は書き留めておきたいと考えたからだった。

ロシア演劇の話2で書いたことなのだが、最初の出会いは、
大学1年のとき偶然に選択した、「ソビエト演劇」の授業だった。
担当なさった佐藤恭子先生の講義が物凄く面白くて、
私はこの分野の虜になり、翌年からは第二外国語をロシア語に変え、
専攻の言語学とは直接関係のない科目だったにも関わらず、
佐藤先生には在学中4年間のうち3年間もお世話になった。

いつかお礼を申し上げたい、と思っていた。
佐藤先生は電話がかかってくるのが嫌いだ、と仰っていたから、
そのうち、お手紙か葉書などのかたちでご挨拶してみよう、
私のことなど、もう覚えていらっしゃらない可能性が高いけれど、
・・・などと、懐かしく思ったりしていた。

その佐藤先生が、既にお亡くなりになっていたことが、今夜、わかった。
母校の大学に勤務している元・同期生にメールを出し、
佐藤先生の現住所や御近況を知る方法はないだろうかと尋ねたら、
そのレスがさきほど来て、それに、
『大変悲しいことですが、佐藤恭子先生は数年前に、
突然、お亡くなりになりました』
と、あったのだ。
学期途中の、本当に予期せぬご逝去だったとのことだった。

今でも持っている、『ソビエト演劇』を受講したときの、
講義のノートを、改めて開いてみた。
1983年5月13日、ちょうど今から25年前のこの時期のページを見ると、
テーマは「ソ連の民族演劇」となっていた。

「民族演劇―形式的には民族色ゆたかであるべき、
 イデオロギー的にはソビエト社会主義路線を守るべき
 →創作の自由がせばめられる クレムリン色が強い」
 →統制の中で実ったもの」
「例1:グルジア共和国
  ・グルジア劇団(グルジア人によるグルジア語の芝居)
  ・ロシア劇団(ロシア人によるロシア語の芝居)
   ―民族の独立を建前としながらも、ロシア文化を輸出
  ・アルメニア劇団(アルメニア人のため)」

グルジアは、ソ連の一部ではあっても、ロシアとは異なり、
民族性を反映した『グルジア風写実主義』を持っている、
と佐藤先生は仰った。
それはつまり、現実を誇張した、すべてにおいて大袈裟なものである、と。

「そして、なぜか、詐欺師を主人公とする芝居が多いのよ!」
と仰って、楽しそうに笑われた先生のお顔や、
その素敵なまろやかなお声を、
今も私は、ありありと思い出すことが、できる。

この世でお礼を申し上げることが、ついぞ出来ませんでしたが、
先生から教わったことは、今でも私の中に、大切な財産として、
たくさん蓄積されています。
先生がいらっしゃらなければ、メイエルホリドを知ることもなく、
ロシア演劇を観る機会も得られなかったのではないかと思います。
本当に、心から、お礼を申し上げます。
ありがとうございました。

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ホルストメールの物語は、恐るべき多重構造の巨大な世界だ。
観客は思い思いの角度から、そこに感情移入をし、自分を投影し、
自分を代弁してくれる主張を聞くことができる。

例えば、馬を初めとする多くの動物が、人間のそば近くにあって、
常に人間の友となり、同時に人間の犠牲にもなっている、
という点から観るだけでも、この物語は感動的だ。
また、人間を客観的に眺めるためにここでは馬の視点が使われている、
と観るならば、人間固有の支配欲や所有欲への批判を読み取ることもできる。
あるいは、貴族階級から見た農奴の生き様を描いたもの、というふうに、
歴史的な視点を固定して見ることも可能であるし、
それとともに、そこから発展して、これはいつの時代にも通じる、
身分差別や人種・民族差別に光を当てたもの、と考えても良い。
私が漠然と思ったように、信仰の物語として神の視線を感じる、
という見方もあるだろう。

舞台の表現方法としては、一般的な意味での芝居という要素は無論のこと、
パントマイムがあり、ダンスがあり群舞があり、ジプシー音楽があり、
コーラスがありソロがあり、歌詞のある歌もない歌もある。
それらすべてが、境界も感じられないほど見事に融合している。
中でも、言葉にならない、楽譜に書き表すこともできない、
ホルストメールとしてのレーベジェフの叫びは圧巻だ。
それは、多分、誰が聞いても馬のいななきとして聞こえるだろうが、
同時に、文字にできないその音の中にある魂の声が、
劇場の隅々にまで響き渡り、見る者の心を揺さぶるのだ。

俳優レーベジェフ自身、スターリン時代に家族を奪われ、
想像を絶する貧困と迫害の中で演劇への情熱を貫いた人である、
ということを、私は遙か後年になって初めて知った。
ホルストメールとレーベジェフの出会いもまた、
ひとつの奇跡であったのだと思った。
自分が幼かった頃のことを語るホルストメールは、
恐らく、レーベジェフ自身の姿だった。
『五感を通して得た経験により、その役の心が理解できる』
というスタニスラーフスキー・システムの一端が、
レーベジェフによって見事に体現されていたのだと、今にして思う。

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昨日、実家に行って取って来たもの

・佐藤恭子先生の「ロシア演劇」講義ノート
・ロシア語Ⅱで使用したテキスト
・ビデオ『ある馬の物語』(レニングラード・ボリショイ・ドラマ劇場)
・ビデオ『真珠貝のジナイーダ』(モスクワ芸術座)

これらについて、おいおいに・・・

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実は私は90年代になってから、日本の若手劇団の演じる、
『ある馬の物語』を一度だけ観たことがあるのだが、
それがどこの劇団のもので、誰が主演者だったか
記録を残していないので追跡不可能になってしまっている。
のちにこんな日記を書くことになるとわかっていたら、
きちんとメモして大事に取っておいたのに(^^ゞ。

インターネットで探せば何かあるかと検索してみたら、
この作品は日本の劇団でも結構、これまでに上演されたことがあり
(そのために私の探していた劇団のことは結局わからないのだが)
最近では、このようなもの↓があったのだと判明した。
公爵の物語を中心に描かれたのかな?という印象で、
演出はかなり違ったのかもしれないが、観てみたかったなと思った。

劇団シアタージャパン本公演 創立7周年記念ミュージカル ホルストメール

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先日来、ロシア演劇の話題をここに書いていたら、
大学でロシア文学を専攻なさった某氏からメールを頂戴したのだが、
その方とのお話で、当時、ソ連が日本で、かなり警戒され、
場合によっては毛嫌いされていた国だった、ということを、
私は今更ながら思い出した。

私がロシア演劇を知るようになったのは83年なのだが、
これは大韓航空機撃墜事件の年だった。
ミハイル・ゴルバチョフの書記長就任が、これより後の85年だから
(ブーニン優勝の第11回ショパンコンクールの年でもある)、
ソ連がペレストロイカによって大幅に改革されて行くのはまだ先で、
八十年代前半といえば、日本人にとってソビエト連邦は、
依然として脅威以外のなにものでもなかったのだろうと思う。

メールを下さった方のお話によると、大学を決めるときに、
ロシア文学科のあるところに行きたいと言ったら、
ご家族が揃って大反対で、
『文学なら、国文でも英文でも仏文でもいくらでもあるのに、
なぜ、よりによって露文なのか、卒業しても困るだろうに』
と、ご両親とも大変な心配をなさったということだった。

そうなのだ。
実はうちの母も言ったのだ。
母のは、もっと単刀直入だった。

女がロシア語だなんて。アカだと思われて縁談に差し支える

私がレーベジェフだとかバシラシヴィリだとかに心酔して、
春休みに帰郷してもロシア語のテープばかり聞いていたので、
母は、とうとう私が赤軍派に入ったと勘違いしたらしい(爆)。

親が教養科目や第二外国語のことにまで口を出すかと、
私は呆れて相手にしなかったのだが(←親不孝者は昔から)
今回のメールで判明した通り、よそのお宅でも大なり小なり、
ロシアと聞くと親御さんはご心配になり、反対なさったということなので、
うちの母の考えたことも、あの世代の人としては、
まあ標準的なものだったのかなと今にしてわかった(^^ゞ。

その点では、19歳だった私が、ソ連やロシア語に対して、
全くなんの偏見も持っていなかったことは、自信を持って断言できる。
そういう意味では私は幸せだった。
なんら先入観を持つことなく、ただソビエト演劇の素晴らしさだけを
真っ新な状態で受け入れることが出来たのだから。


・・・とゆーか。
私はあまりにも不勉強だったので、ソ連がどういうものか、
自分なりの把握すら、全然、できていなかったのである(爆)。
なにしろ、聖ワシーリー寺院の写真をみて
美味しそうやな(^o^)」と思っていた程度の学生だったのだから。

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ホルストメールの生涯を通して、作者は馬の視点を借り、
人間社会を愚かさを暴露し、それを批判しているが、
同時にそこには、人間を含めた、この世に生きるものすべてに対する、
作者の深い慈しみと暖かい視線があるのを、私は強く感じた。

『まだら』の意味を知らなかった、いたいけな子馬は、
それを理解するより先に、まず過酷な現実に直面せねばならなかった。
人間たちは彼を『恥さらし』『百姓みたいだ』と罵り、
初恋の雌馬ビャゾプーリハも『あんた、まだらだもの。怖い』
と言い残して白馬の少年ミールイのところに行ってしまった。
彼に、世間並みの幸福が何一つ許されなかったのは、
彼自身がなんらかの罪を犯したからではなく、
ただ、彼が『まだら』に生まれついたためだった。

トルストイはこれを、直接的には、農奴の生き様として書いた筈だ。
トルストイの生きていた当時の現実社会において、
農奴を初めとする貧困層の生活の実態と、その改善への願いを、
おそらくこの作品の中に織り込んだものだと思われる。
しかし同時に、これは普遍的なテーマとしても読むことができるのだ。
『まだら』は、ほかの多くの言葉に言い換えることが可能だろう。

例えば、どこの国でも経てきたであろう人種差別、女性差別の問題、
或いは日本で我々が今も経験する、民族差別や差別の問題、
いずれの場にも、今もなお厳然として階層の別があり、不条理がある。
19世紀のロシア貴族だったトルストイの書いた、一頭の馬の物語の中に、
異国の異文化の中にいる我々が、今も容易に自分を投影することができる。
だからこそ、まだら馬ホルストメールの生涯が、我々の胸を打つのだと思う。

また、ホルストメールの中に信仰の物語を見いだすこともできるだろう。
生まれた翌朝、厩頭に後足を叩かれたことに始まって、
ホルストメールは生涯に渡って、人間や他の馬からの打擲を受けたが、
彼はついぞ、それらに暴力をもって刃向かうという発想を持たなかった。
彼は、公爵の与えてくれた僅か二年の輝かしい日々に感謝こそすれ、
病んだ彼を見捨てた公爵を恨んだことなどなく、最後まで愛した。
過去の栄光に奢ることがなく、逆境にあっても誰をも妬まなかった。
悲しみに心乱れることはあっても、明日を思い煩うことはしなかった。
その生涯の大半を誰からも顧みられず、何を主張することもなく、
ただ誠実に素直に生きた。
そして死後は皮や肉や骨のすべてが、あとに生きる者達の糧となり、
見知らぬ者たちの命となって受け継がれた。
ホルストメールは、一見みじめでも、堂々たる老馬だったのだ。
彼の生涯こそは、常に最も根元的なあり方で、
神の御旨にかなったものだったと言えるだろう。

これとある意味で対照的に描かれるのが、
彼の飼い主となったセルプホフスコーイ公爵の物語だ。
ホルストメールと出会ったときの公爵は、
軽騎兵将校としての高い地位と破格の年収、広大な領地を持ち、
美しくしなやかな肉体と何者をも恐れぬ気性に恵まれた、
輝くばかりの25歳だった。彼に心惹かれぬ者は無かった。
彼はまた、人を見る目も、馬を見る目もあったから、
百姓のフェオファーンを自分の御者頭に取り立てたのと同様に、
作業馬のホルストメールを買い取り、自分専用の乗用馬に仕立てた。
公爵はこの世の、ありとあらゆる幸福を持っていた。
しかし運命が狂い始め、それらを次々と失ったとき、
最後に彼は、何の役にも立たない、みじめで哀れな老人になった。
彼の持っていたはずの幸福は、実はすべてが虚飾であり、
何一つ、彼の魂を救うものでは無かったのだ。

(続)

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