転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



下にも書いた通り、私はこの日曜月曜で東京に行って来た。
今月は團菊祭にも行ったので、一ヶ月で二度の遠征をしてしまった。
勿論、「お家元」あらしちゃんが踊るから行ったのだが、
前回よくわかったように、東京に行けば静養できる、
という面も、自分にとって大変大きな恩恵だった。

日曜日は朝8時前の新幹線で広島を発ったが、ここから既に、
福山の手前で寝入って品川まで起きなかったという爆睡の新記録で、
主観的には瞬間移動さながらの速さで東京に着いた(爆)。
有楽町経由で東池袋まで行き、午後1時から、あうるすぽっとで、
スタジオライフの『アンナ・カレーニナ』を観て(感想は多分のちほど)、
築地まで戻って本願寺に参って、夕方、例の定宿であるホテルに入った。
この日は、デーゲームでカープが実にナサケない負け方をしたので、
腹が立つからフテ寝してやる!(爆)的な気分になり、
夜は7時半からベッドに入り、携帯の電源を切って、寝てやった。
私はスバラしく寝付きのよい人間なのですぐに爆睡し、
午前0時半に、隣の部屋に人が入ったらしい物音で一度目覚めたが、
またそのままこんこんと寝て、今朝は6時半に起床した。
さすがに11時間寝たらスッキリして、
緒方も許してやろう(殴)という気になった。

ということで今朝は、藤間流の紫紅会公演を観に、歌舞伎座に行った。
曇りがちで暑くなく、しかし空模様は崩れておらず、丁度よい天気だった。
私は3階自由席の切符だったので、10時開場より早く9時半頃に
歌舞伎座の前に行ったら、既に並んでいる人達がいた。
それで見過ごせないと思い、私も並んだのだが、結果として、
10時半の開演時にはそれほどひどい混雑にはならなかった。
前売りが完売していたので、最後部の端ねらいで行こうと思っていたが、
開場と同時に三階に駆け上がってみたら、席は選び放題だったのだ(^_^;。
国立劇場の「日本舞踊協会公演」などの場合は、
結構、三階自由席の争奪戦は熱いのだが、
さすがに歌舞伎座は広いし、藤間流の紫紅会だけの公演となると、
座るだけなら、焦らなくても場所はあちこちにあった。
一階や桟敷の指定席でさえ、開演時には空席が目立った。

しかし勿論、早く入ったことは私にとっては無駄ではなかった。
御蔭で、普段の歌舞伎公演なら「三階A」である前方中央の
通路沿いに陣取ることができたのだから。
三階最前列中央も可能だったが、座って観え具合を確認してから、
敢えて少し下がった場所を選び直した。
昼の部は、10時半に主催の藤間蘭黄『長唄 七福神』の素踊りで幕を開け、
最後に家元の『長唄 連獅子』が終わるまでの5時間超、
ずっと藤間流の舞踊を十演目以上見続けるという内容なので、
私のように最初から最後までいる人間ばかりとは限らず、
特に、出演者の身内や友人知人らしい人達は、
社交もあり、しばらくロビーで喋っていたりして、
関係のある舞台が始まるまでは、なかなか座席に来ないようだった。
予定演目のうち、『清元 四君子』だけなぜか上演されなかったが、
あとはほぼ予定通り、若干早めくらいに全演目滞りなく終了した。

さすがに、昨夜たっぷりと寝たので、きょうは日舞だけ見続けても
私の集中力は途切れることがなかった。
やはり、いつも歌舞伎や音楽会の途中で眠くなるのは、
そこに来る前の段階で自分が疲れているからなのだ、と思い知った。
心身ともに疲弊した状態で観る・聴くしかないなんて、
常日頃、私はどれほど勿体ないことをしているのだろう。
眠気も催さないほどの凄い公演というのもあるが、
そういうものでさえ、きょうのように潤いのある心身で受け止めたら、
更に深い手応えを得られるのではないか、と思ったりもした。

ともあれ、そういうわけで今夜8時半頃に広島に帰り着いたのだが、
この東京一泊二日は私にとって、大いに静養になった。
やはりコレは、やめられん(笑)、と思ったことだった。

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藤間流の紫紅会公演の昼の部を観てきた。
六世家元の藤間勘右衞門、つまり、あらしちゃん(松緑)が
長男の三代目尾上左近と、『連獅子』を踊るというので、行ったのだ。

前シテの狂言師右近・左近の完成度には目覚ましいものがあった。
私はおよそどのような分野でも、「美」に関する限り、
『一点一画もゆるがせにしない』といった趣のものが好きで、
歌舞伎の松緑に惚れたのも、そういう面が大変大きいのだが、
きょう、息子の左近の踊りを見ていて、
彼の筋の良さ・正しさに改めて心打たれ、畏れ入った。
さすが、当代松緑の息子、初代辰之助の孫!
その健気で一徹な少年が、父の松緑、いや家元・藤間勘右衞門と
真正面から向き合って踊るのだから、それはもう、
空気の端々まで、シンシンと張り詰め澄み渡るような緊張感だった。

後シテは有名な白頭と赤頭の親仔獅子だが、
花道に藤間勘右衞門の親獅子が出て来たとき、私は、思いがけず
国立劇場にある六代目菊五郎の鏡獅子の像が重なって見え、
理屈を超えて感動してしまい、次の瞬間、我に返って、
いや、これはファンとしてのイタい妄想かっ、と反省しつつも、
今まで誰の連獅子を見ても、否、鏡獅子を見てさえ、
このような連想は私はしたことがなかったと思い、
六代目菊五郎―二代目松緑―初代辰之助―四代目松緑と、
芸の上で受け継がれた有形無形のものが、
やはりあるのではなかろうかと、心から嬉しく思った。
あらしちゃんが以前、「僕の武器は、舞踊」と言っていたが、
その通り、いや、それ以上の舞台姿だった。

息子の左近のほうは、真摯に懸命に父について行った、
文字通り「親仔獅子」としての踊りではあったと思うが、
もはや子役や少年としてではなく、ひとりの踊り手として、
左近が舞台に存在していたこともまた、間違いなかった。
その舞台姿には、清々しいまでの研鑽のあとがあり、
豪快な毛振りだけでなく、瞬間的な足の引き方・体の返し方に至るまで、
親獅子との間に寸部の呼吸の乱れも見せまいと
全身を研ぎ澄ませて務めた、仔獅子の踊りだったと思った。

父子2人で真正面から組み合って踊るのは、最も近しい者同士の舞台ではあるが、
役者人生として見ると、実はそれほど機会の多いものではないと思う。
成長期の多感な時期に、左近が父親と連獅子を踊ることができたのは、
本当に幸せなことだっただろうと思う。
父の勘右衞門にとっても格別に深い感慨のある一幕であったに違いない。
そして私は、53歳の今まで歌舞伎を観てきて本当に良かったと思った。
その御蔭で、二代目松緑や初代辰之助の遺したものを、きょう、
このようなかたちで、自分の記憶に焼き付けることができたのだ。
世襲の面白さ、それを見守る観客としての感慨を、
また新たに味わった一日だった。



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特殊な血液で200万人の赤ちゃんを救ったスーパーヒーロー、引退へ(Discovery)
『特別な血により、新生児にとって命取りとなる「Rh式血液型不適合妊娠」から240万人以上の赤ちゃんの命を救ったオーストラリアの男性が、今月の献血を最後に引退することとなった。』『男の名はジェームズ・ハリソン(James Harrison、写真)。オーストラリア赤十字血液サービスによれば、現在81歳の彼はこれまですでに60年間に渡り1100回以上も血を寄付し、240万人以上の赤ちゃんの命を救った。』

母親がRhマイナス、赤ん坊がRhプラスである組み合わせを、
「Rh式血液型不適合妊娠」といい、「ABO式血液型不適合」より問題が多い。
出産前に両者の血液が母親の体内で混じり合うと、
母親の体に「抗D抗体」ができ、胎盤を伝わって赤ん坊の赤血球を攻撃し、
胎児の貧血や深刻な生後黄疸、等々の溶血性疾患を引き起こす可能性があるからだ。

これを防ぐには、定められた時期に母親に
血液製剤「抗D人免疫グロブリン」を投与をするのが効果的なのだが、
この注射は、特殊なタイプのヒトの血液からしかつくることができない。
そうした、選ばれし血液の持ち主のひとりであったのが、
今回紹介されているジェームズ・ハリソン氏81歳だ。
彼は、60年に渡り多大な貢献を続け、このたび、ついに、
オーストラリアの献血可能年齢制限に達したため、
5月11日を最後に、献血から「引退」することになった。

この話には、私も全く無関係とは言えない。
私自身もかつて、このような方の提供して下さる血液があった御蔭で、
出産の不安が取り除かれた人間だからだ。
私は妊婦検診の段階で初めて、自分がRhマイナスであるのを知ったのだが、
主人の血液型がRhプラスA型であったことから、
母児間Rh因子不適合の見られる可能性が極めて高いことが予想された。

それで、まず妊娠20週と31週のときに、
間接クームス試験という血液検査を受けた。
幸い、初回妊娠であったことと、輸血等を受けた経験もなかったこととで、
私の体には抗D抗体は認められなかったが、それでも万が一を考えて、
以後、検診から出産までずっと、総合病院の産婦人科でお世話になった。
新生児の交換輸血等が必要になって総合病院に救急搬送されるくらいなら、
初めから地元で一番大きな病院の患者になっておきたい、と考えたからだった。

生まれた娘は即座に血液検査をされ、予想通りRhプラスのA型だったのだが、
溶血性疾患の問題は、有り難いことに全く起こらず、
出産の翌日に私は抗D人免疫グロブリンの注射を受けた。
95年当時は、私のように抗D抗体陰性の妊産婦にとってはこの注射は、
二度目以降の妊娠出産のための、予防の意味合いのほうが大きかったようだが、
現在は、妊娠28週頃と産後の、二度の投与が推奨されているとのことで、
初回の妊娠出産から、更に安全になったと言えるだろう。

(↓左は「血液型記録カード(患者携帯用)」、右は妊婦検診時の私の「血液型検査表」)

  

この抗D人免疫グロブリン製剤のもととなる血漿を持つ人は、
世界的に見ても、人数的にかなり限られている。
彼らの提供してくれる貴重な血液があればこそ、
Rh式血液不適合妊娠で生まれる赤ん坊が重度の黄疸で亡くなる悲劇も
高い確率で避けられる世の中になったのだ。

長年、献血に協力し続けて来たハリソン氏は、1999年、
オーストラリア勲章メダル・オブ・ザ・オーダー・オブ・オーストラリアを
受賞しているとのことだが、このたびの引退に際して、
できることならノーベル賞級の勲章が授与されても良いのではないかと私は思う。
特殊な血液と、それを提供できる健康に恵まれたことは、
多分に運に左右される面もあるが、それでもこれほどに長い年月にわたり、
献血を継続するのは、本人の強い意思がなければできないことだ。
60年間、一貫して偉大な貢献を続けたハリソン氏に、
私も、心からの敬意を表し、篤く御礼を申し上げたいと思う。

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旦那さんの弁天小僧菊之助。
一世一代とは銘打っていないけれども、今回の弁天は、
菊五郎の年齢を考えると、最後か、それに近いかもしれない、
と思って、心して観た。
役者としての菊五郎は、まだ「老齢」という感じまではしないが、
弁天は少年だから、どんな年齢になってもできる訳ではない。
特にこのたびは「立腹」まで出しているので、菊五郎の若い頃を思えば、
屋根の上の立ち回りは、やはり緩慢な感じはした。
しかし、その他の場面は本当に素晴らしかった。
硬軟自由自在、まさに兼ネル役者・菊五郎の面目躍如!
私は菊五郎の台詞、特に日本語の発音を破格に愛していて、
あれほど美しい言語音はほかにないと思うほど惚れ込んでいるのだが、
弁天でそれを味わい尽くせたことは、ファンとして幸せだった。

そこに、孫の眞秀くんが丁稚で出ていて、
私は、例えば今のあらしちゃん(松緑)が小さい頃に務めたのを
観たこともある世代なものだから、
菊五郎が、弁天で、とうとう孫と共演している…!
と感慨にふけってしまった。
初お目見えのときより格段に余裕が出て来たマホロン、
声の張りも素晴らしく、舞台姿も骨太な感じで、頼もしいことだった。

殺陣は山崎咲十郎。
菊五郎劇団で私がずっと注目している役者さんのひとりなのだが、
咲十郎は演じ手としてだけでなく、
舞台構成をするセンスに卓越したものがあり、素晴らしい。
最後に按摩さんの役で登場したときは、
逃さずオペラグラスで観察させて貰った(^^)。

ちなみに、旦那さんの弁天で私が忘れられないのは、
平成4年の「黙阿弥没後百年記念」のときの通し上演だ。
当時、私は独身だったのもあって通い倒し、
最後はお金がなくなった(爆)ので幕見でも観倒したものだった。
はや26年前のことだ。旦那さんは四十代の終わり。
あのときは、男→女→男と入れ替わり、咽喉を酷使したためか、
後半では旦那さんの声が枯れていてハラハラしたものだったが、
今回の浜松屋~勢揃い~屋根に至る上演では、全く問題なく、
舞台の隅々まで、艶やかな声が響き渡って、聴き惚れた。
観ながら、昔の古い歌舞伎座の、
幕見から舞台を見下ろしたときの角度まで、瞼の裏にまざまざと蘇った。

*************

あらしちゃん(松緑)の『菊畑』。
奴さん姿で「ねい、ねい」言うとなれば、
当代松緑の右に出る者はありません(笑)。
それだけでも大変なご馳走なのに、
芝居としてのあらしちゃんの位取りがまた良くて、
こういうアンサンブルが一段と巧くなったのだなと感じ入った。
時蔵はここでも大活躍で、今回、出ずっぱり(^_^;。
團蔵さんは年々、渋さと重みが増してきて、これまた味わい深かった。

最後はカズくん(菊之助)の『喜撰』だったのだが、もう感無量。
カズくんは着々と、音羽屋御曹司としての道を歩み、
次代の菊五郎となるべく課題をひとつひとつ、こなし続けている。
しかもその成果が目を見張るばかり。
柔らかくユーモラスでありながら、ぽっと花開いたような明るさがあり、
春爛漫の喜撰法師そのものの存在感だった。

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通し狂言『雷神不動北山櫻』、海老蔵の五役。
私としては安倍清行が一番好きだった(笑)。
最近の海老蔵に関しては私は、
ひょうひょうとしていて、かつ品が良くチャーミング、
という面に心惹かれる。
以前観た河内山など最高だった。
今回の五役の中でも、美しいのだがとてつもない年寄りで、
かつ、不思議な力を持っている安倍清行が、
最も私の好きな海老蔵の魅力が出ていたと思う。

菊之助の雲の絶間姫は大変美しかったが、
色香で鳴神上人を惑わすところよりも、
自分の帯びてきた使命に忠実、という面のほうが強く感じられ、
声など、妙なる調べのようでかなり良かったけれども、
色っぽさはもうひとつだったかもしれない。

後半は時蔵の『女伊達』。
凜々しく可憐、という意味では今の時蔵は無敵だと思った。
まさに立女形の風格!

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13日(日)昼夜と14日(月)の夜を観てきた。

13日は朝6時19分ののぞみで広島を発ち、
車中でうまく爆睡したつもりだったのだが、
昼の部も夜の部も寝落ちしてしまった。

昼は、話の筋を知っている『毛抜』になると
安堵感からうっかりと寝てしまい、
夜は、旦那さんの『弁天』を力入れて観た反動から、
松緑の『菊畑』の途中で寝入ってしまった。
目が覚めたら、あらしちゃん(松緑)の御主(おしゅう)が
話の初めとは全然違う人になっていた(爆)。

夜の部については、最初から、
13日(日)は3階席で全体像をチェックして、
14日(月)の1階二等席で細部まで観る、という予定だったので、
日曜の段階では、「明日もある」という、
気の緩みが結構あったと反省している(汗)。

14日(月)は、敢えて昼の予定を全く入れず、
目覚ましをかけずにホテルで寝たいだけ寝た。
その意味では今回、私は東京へ静養に行ったと思っている。
広島に居ると、いつ何をしていても必ず用事が追いかけてきて、
私はどうやっても休めない状況なので、
東京に行くことにより、それらがすべて断ち切られ、解放された。

どれほど緊急の用事があろうと、
東京にいる限り、私は現場に急行できない、
帰れないのだから、何もできない、
何もできないのだから、何もしなくていい!!
素晴らしい解放感だった。
携帯も電源を落として、寝まくった。
自然に目覚めたのが昼前で、午後から起き出し、
築地本願寺に参って、帰りにカフェでランチをし、
また部屋に戻って、夜の部まで再度、昼寝をした。

というわけで、14日(月)の夜の部には、
観客としての私は滅多にないベストコンディションで臨めた。
勿論、『菊畑』も今度こそ寝ないで満喫させて貰った。

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今朝は霊園の業者さんと待ち合わせて、朝8時半から、
山の上にある実家の墓に行って来た。
山道を行かねばならないので運動靴を履いて、
ヤブ蚊対策に長ズボンとウインドブレーカーを着て臨んだが、
山道は猪に掘り返され、あちこちに変テコな階段みたいな段差が出来ており、
そこに落ち葉が積もっていて足がスベって歩きにくく、遭難しそうだった(^_^;。
途中から、山道にあった太めの木の枝を杖にして登ったら多少ラクだった。

「田舎の墓」というと、田んぼの間とか山肌などに、
たくさんの墓が並んでいる光景を連想されるかもしれないが、
うちの田舎はそうなっていない。
深い山林に分け入っていくと、その途中に、
墓が数基から十数基並んだ墓地が忽然と姿を現す、という感じだ。
周囲はどこまでも山で、木々が生い茂り、道なき道があるばかりだ。

私はもともとは、こういう山林で遊んで育った。
だから、このあたりの山がどうなっているか、全く知らない訳ではなかった。
けもの道程度だが「山頂方面へ行くにはここを通る」的な決まったルートがあり、
木々の間には分かれ道もあって、うちの墓へ行くには右の道なのだが、
「確か、左の道を行くと、先の方にK家の墓があった筈…」
と、登りながら唐突に、遠い昔の記憶が蘇って来たりした。
家のご近所であるKさん宅とは、例の「農家の回覧板」でお付き合いがあるので、
Kさんは、今もあそこに墓を維持されているのだろうか、
と確かめたい衝動にかられたが、
直接の縁もない者が用の無い墓など覗きに行くとロクなことはあるまい、
と思い直して、家の墓へ急いだ。

数十年ぶりに目にした墓地は、私の記憶より狭い感じがしたが、
業者さんが私の祖父母の墓を指して、
「こういう山の中で見ると、そうも思われないでしょうが、
この、一番新しい墓石は、相当、サイズが大きいですよ(^_^;」
と仰った。そ、そうなのか(^_^;。
確かに、墓に正対して立って見ると、
祖父母の墓は、私の通い慣れた舅姑の墓とは、サイズ感が違った。
うぅむ、さすが田舎。なかなか手強そうな。

きょうは下見というか、手始めにデータを取る作業だけだったので、
業者さんが往復の道筋を確認し、墓地にある墓石すべての寸法を測り、
墓石に刻まれている名前や没年月日、故人の年齢などを書き取られた。
後日、移設の作業計画を立てて見積もりを出して下さることになっている。
こちらの希望としては、祖父母の墓だけは、そのまま霊園に移設して、
その他の先祖の墓は文字の読み取れるものは記録を取り、霊標にしてまとめ、
その横に更に新しく一基、私の両親の墓をいずれ建てたい、と考えている。
しかし勿論、見積もり金額による(爆)。

昭和8年に亡くなっている曾祖父までは土葬で、
遺体は土の中に座った姿勢で埋葬されたと、祖母から聞いているのだが、
そういう墓の下には、今となっては何も残っていないと思われるので、
石の下の土をひとつまみずつ取って、新しい土地に埋めると業者さんは言われた。
墓石については、加工のない自然の石を使った部分については、
お祓いしたあと、墓地にそのまま残しておくということで良さそうだった。
人の手の入った竿石はある程度、山から降ろすことになると思うが、
それもまた予算次第で、主立ったもの以外は墓地に片寄せて置いて行く、
ということになるかもしれない。
ただ、あの石の群れの中には、戦後のいつ頃だかに死んだ犬のヒロスケと、
数十年前まで家に居た猫のブチ子とチー子の墓が混じっている筈なのだが(爆)、
今となってはそれらは、江戸時代の名前のない墓石たちとの区別がつかなかった。
動物なので、人間の墓からは離して埋めたと思われるのだが、さて……。
どっちも埋めた張本人である父が、今やここまで来られないので、困ったことだ。

「これからちょっと残って、更に細かい計測をして、周辺の状況も調べますので」
と業者さんが私に先に降りるように促されたので、それに従ったのだが、
下りは登るときよりはラクだとはいえ、うっかりすると谷に転げ落ちそうで怖いし
勿論周囲には誰も居ず、
「私が遭難したら、……帰りに業者さんが発見してくれるか…」
などと考えながら、そろりそろりと下山した。
勾配の急なところは、恥も外聞もなくお尻をついて「すべり台」状態で降りた。

途中の分かれ道でまた、
「あ、そうそう、こっち行ったらKさん家のお墓…」
と思い出し、休憩を兼ねて立ち止まり、その方向を少し覗いたりしているうち、
昔、夏にお線香のあがっていたK家の墓地の光景まで思い出したが、
いや、こういうのに誘われてよその墓へ行ったりしたら絶対ダメ!
と思い直して、それからは後ろは見ないようにして、また山を下った。
眼下に、神社の敷地のヘリが見えて来たときには、
良かった、人間界に帰って来られた……、とさすがに安堵した(大袈裟)。

この先、もしめでたく成約となったら、どなたか神主さんに頼んで
その方と業者さんと一緒に、私も再度、墓まで登山し、
……神職さんは白衣・差袴という姿で登山可能なのか?と心配ではあるが……、
墓の前で祝詞をあげて戴いてから、移設作業の開始となるはずだ。
御霊抜き、御霊入れ、等々にも神主さんに来て戴かなくてはなるまい。
下の霊園に移ってからの式典には、うちの両親も参列できるかもしれない。
どの程度の規模の作業が可能か、すべては、見積もり次第だ。
まさに、地獄の沙汰も金次第(汗)。

**************

8時半などという早い時間に実家の村まで行かなくてはならなかったので、
私は今朝、マンションにタクシーを呼び、高速を使って行った。
墓の一件が終わったあと、両親宅まで下りて来て、
郵便受けの中を改めていたら、牛乳の宅配業者さんから、
『このところ牛乳が取り込まれていませんが、いかが致しましょう』
とメモが入っていて、両親が牛乳を取っていたことを私は初めて知り、
慌てて電話して事情を話し、止めて貰った。
ほかに、宅配便の不在連絡票が入っていたが、
それは私が3月頃、「母の日」のために手配した品物だとわかったので、
宅配会社に電話をかけて、発送元の私の家に転送して貰う手続を取った。

きょうはその他、私が両親宅に居る予定で前から約束してあったので、
母の福祉用具レンタル業者さんが、車椅子の引き取りに来られたり、
ケアマネさんが書類のハンコを受取に寄られたり、
更に、ずっとお世話になっている造園業者さんが、
「松の芽取り」の作業に来られたりして、
それに対応していたら、今度は予期せずダスキンさんが来られて、
両親がモップと換気扇フィルターを毎回頼んでいたことを初めて知り、
これまた訳を話して今月でやめる手続をした。
そのあとは、偶然だが郵便局が書き留めを持ってやってきた。
実家滞在1時間未満の間に、千客万来!

ちなみに私は午後1時から会社でいつもの仕事があった。
正午にタクシーを予約しておいたので、
それに乗って、また高速を使って戻り、12時45分に会社に着き、
辛くも間に合ったorz。
稼ぎ分より多くをタクシー代に費やして、本日は赤字だが、
墓の件が一歩前進したので、良しとする(^_^;。


追記(8月15日):その後3ヶ月ほど霊園業者さんから連絡がなく、
別にこちらは急いではいないにしても、どうなったのかなと思っていたら、
なんと、7月初めの集中豪雨のときに、業者さんの工場も被害に遭い、
汚泥の除去作業等で、しばらくはすべての仕事が止まってしまっていた、
ということを、業者さんを紹介して下さった知人から今日聞いて、知った。
復旧作業は、ようやくメドがついたところだそうで、
近々むこうからまた連絡があるだろう、とのことだった。

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IIBC AWARD OF EXCELLENCEの表彰状が来た。
公式サイトによると、2017年度の対象者は402名だったとのことだ。

ここ2年ほどは、満点を狙うような勢いはもはや無くなっていたが、
新形式TOEICを今回初めて受験し、とりあえず950は達成できたことと、
Speakingで、満点ではないにしても最高レベルが取れたことは
とても良かったと思っている。
一方で、Writingが、上から2番目のレベルで終わったことは、
当日、達成感があっただけに、やや不本意な気分が残っている
が、
これはまた後日の課題ということにしようと思う。

どうせTOEICを受けるのであれば、表彰を狙おう、
と思って3月に駆け込み受験をした甲斐があった。
あの頃も結構忙しかった筈なのだが、よくぞ受けに行っといた(笑)!
自画自賛っ!!

『“IIBC AWARD OF EXCELLENCE”を受け取られた皆様には、
今後1年間、各種の案内をお送りさせていただきます。』
と公式サイトにあるので、何が案内されるのか楽しみ(笑)だ。

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フランス語・スペイン語については、毎朝続いている。
ロシア語は、やはり主人の出入りする時間と重なり、
継続して聴くことがなかなか難しいとわかった。

とりあえず、朝ラジオを点けることだけは、やめない(^_^;。

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昨日は、大阪に行く用事があったので(それについてはのちほど)、
梅田ロフトで開催中の
タヌキとキツネ展~タヌキ山にようこそ!~
を見てきた。
タヌキとキツネ』はTwitterで人気のある可愛い漫画で、
私も去年の初めあたりにファンになり、単行本も3冊とも持っているので、
今回、うまい巡り合わせで『タヌキツ展』に行けることになり嬉しかった。

会場には、何点もの描き下ろしイラストが展示され、
YouTubeで今まで公開されたショートアニメが流れていて、
ファンには思い出のある絵が多数あった。
残念ながら大半は撮影禁止だったが、
奥まで行くと、タヌキツのイラストや人形たちと一緒に
自由に記念撮影できる場所があった。
木の穴からお尻だけ出ている二匹がとりわけ可愛かった(笑)。
この記事冒頭にUPした写真の、大きなボードには、
来場者の書いたメッセージがたくさん貼られ、
タヌキ山の仲間には大変ファンが多いことが改めて感じられた。

展覧会初日の4月21日と、連休最初の4月28日には、
お山からタヌキとキツネが下りて来たそうなのだが、
昨日は普通の日で、残念ながらタヌキツ本人たちは居なかった。





限定どら焼きは、ひとり3個まで(笑)。


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