転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



・自家幹細胞採取の取り組み自体、遅すぎたと思うのだが、
更に、実態がこういうこと↓でイイんですかね本当に。
原発作業員の幹細胞採取開始へ 被曝時移植に備え、全国80の医療施設が協力(産経新聞)
『原発作業員が大量被曝した場合に備え、移植医療に携わる医師らが進めてきた作業員の自家幹細胞採取の準備が29日、完了した。近く東電関連企業の作業員2人から採取を始める予定で、虎の門病院(東京都港区)血液内科の谷口修一部長は「原発で働く人から希望があれば応えたい」としている。』『薬剤費は企業からの寄付で賄い、細胞採取費など約20万円が自己負担となる。』
20万円自己負担・希望者のみ、という設定は、私には俄には信じられない。
薬剤費・細胞採取費ともに全額会社負担、作業従事者全員が対象でないとおかしいのでは。
どう考えても、今は普段と同じ作業内容だとは到底言えないだろうに。
電力会社というのは、私などの想像が全く及ばないような企業倫理があるのか??

・明日は母の誕生日なので、きょうは娘と二人で実家に行った。
ケーキと和菓子と、猫の写真集と、パソコン操作のためのガイド本を進呈した。
関東各都市の放射線量が次々と表示されるテレビ画面を見つつ、父が、
「それでも、原発でないと実現できないメリットが確かにあったし、
現実に我々は長年、その恩恵を受けてきた筈だと、わしは思う」
と言ったのには、なかなか感銘を受けた。
日本国民の大半が、今度の原発事故でほとほと懲りたのは間違いないし、
これを機に、原発に頼らないエネルギー供給とは何かという問題について、
国をあげて、本格的な議論や研究を開始すべきだと私は思っているのだが、
だからこそ、『だって怖いから・とにかくもう原発じゃなかったら何でもいいから』
と感情や勢いで押し切ることは、やはり戒めなくてはならないと思った。
仮に原発が無くなっても、今までとは違う理由で人が死ぬ世の中になっては困る。
この問題については今後、時間のかかる試行錯誤を覚悟すべきだろう。

・昨日は、『ヨウ素131の半減期が8日とは聞いていたが、
東電株価の半減期が9日とは聞いてなかった』というツイートにウケた。
投資家なら、まさに今が「買い」だろう(苦笑)。
電力会社なのだから、とりあえず当分は無くならないことがわかっているし、
このあと売り抜けるチャンスが、割合近いうちにきっと来るに違いない。
まぁ、私など全然お呼びではない話ですが。

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子供の頃に私は、近い将来に第三次世界大戦が起こって、
自分たちはほぼ確実に、どこかの段階で核に焼かれて死ぬのだろうと思っていた。
誇張ではなく、私たちが昭和40~50年代に学校で受けた平和教育は、
そういうイメージを抱かせるに十分なものだった。
「平和学習」の時間になるたびに、ほぼ必ず見せられた原爆の映画は、
米軍が公開した映像がもとになっていて、
原爆投下から数日後の広島の被爆者の姿、
火傷の状態やケロイドの無惨さなどがはっきりと記録されており、
また、被爆者の見た地獄や、その後の原爆症の救いの無さなどが、
幾多の証言を交えて克明に描かれていた。

そもそもあの頃は、まだ児童生徒は大半が被爆二世で、
親も祖父母も誰もが大抵、被爆体験があり、被爆者手帳を持っていたので、
壮年期の大人たちが原爆検診に行くのは普通のことだった。
だから我々子供達にとっても、原爆は決して、済んだ話ではなかった。
今、目の前に核兵器はなくても、外国にあることはよくわかっていたから、
今度は自分たちの番が来るのではないか、という恐怖は日々感じていたのだ。

当時はまた、米ソの冷戦状態が急速に緊迫化していた時期でもあり、
前の戦争が昭和20年に終わって、数十年経ったことだし、
そろそろ次があるのだろう、という気分になることが、結構あった。
現に、私が小学校の高学年になるまでベトナム戦争は終わらず、
何年にもわたって世界各地で地上核実験が絶え間なく繰り返され、
日本の空にも放射性物質のフォールアウトが降り注いでいた
(例の、「雨の日は、ちゃんと傘ささないとハゲるよ」の頃だ)。
さらにアメリカの人工衛星打ち上げ失敗なども相まって、
プルトニウム降下量が現在の1000倍だった時代もあったようだ(参考:気象研の資料など)。
あの放射性降下物による被曝量は、年に数百マイクロシーベルトだったという記述を
以前見たことがあるので、仮にこれを200としても、
毎日0.56マイクロシーベルトは余計に被爆する時代だったようだ
(現実には外に24時間、裸でいたわけではないので、被曝量はもっと小さかっただろうとは思う。
しかし水道水や海産物の汚染等の問題は、どの程度注目されていたのかいなかったのか)。

今にして思えば、私たちはそうやって、
プルトニウムとセシウムが、それなりに空から落ちて来る中で何年も育ったのだが、
幸運だったのか人間は案外強いものなのか知らないが、一応目立った健康障害もなく成長した。
広島も長崎も、被爆二世の健康問題は現在まで全く証明されたことがないし、
全国的にも、昭和30年代生まれの子供の多くが少年期に甲状腺癌を発病した、という話は無い。
そういえば、今考えるとゲンナリしてしまう話なのだが、
私達は冬に「雪を何個食べることができるか」をよく競争したりした。
雪の降り始めに口を開けて待っていて、空から降って来る雪粒を次々に食べる遊びだ。
平和学習をしていながら、一方で科学的な認識にはかなり穴があって(大汗)、
親から「ハゲるよ」と言われた雨と違い、雪はきれいに見えていたようだ。
どういう危ない遊びをしていたんだろうか(大汗)。

そして私が高校生だった昭和50年代半ばには、テンフィート運動
(アメリカ国立公文書館所蔵の原爆記録カラー映画フィルムを、
10フィートを1単位として、一般からのカンパにより日本に買い戻すという市民運動)
が実を結び、私たちは更にパワーアップした原爆記録映画を学校で見ることになった。
上映中、友人が体育館で吐いて倒れたのは、コレだ(大汗)。
なんしろカラーだったから、火傷は真っ赤だし、焼死体は黒いしで(逃)。

そのようなわけで、私は大学に入って広島を離れてからしばらく経つまでは、
夜、よく原爆や核戦争の夢を見た。
もうじき爆弾が炸裂する、という設定もあれば、
映画で見たのとそっくりな地獄絵の中を自分がさまよう夢もあり、
シェルターには到底辿り着けず、もう死ぬ!と絶望して、
目覚めたときは、いつも動悸が激しく、落ち着くのに時間がかかった。
最近の用語で言うならPTSDに近かったのではあるまいか。

大学の友人に聞いたら、原爆映画などあまり見たことがない、という返答で、
どうやらこういうことに熱心だったのは広島と長崎だけ?
いや、ひょっとしたら私の行った学校だけ?と、とても驚いたものだった。
だが、つい先日ふとしたことから主人が、
「わし、小学校の頃、死の灰が降る夢、ようみたよ。
布団の上に起き上がって、夜中に恐怖で大泣きしたこともあったもん」
と言ったので、少なくとも私一人の体験ではなかったというウラは、取れた(汗)。

一方、娘は小学校の途中で、転勤のため今治から広島に移って来たのだが、
私が受けたような平和教育は、ほとんど経験しなかったようだ。
語り部の方々のお話を聞く・原爆資料館に行く・被爆体験記を読む、
などは学校の授業の中であったが、10フィート映画など知らないということだ。
従って娘は、核爆弾で焼かれて死ぬ夢を何年にも渡って繰り返し見た、
などという経験も持っていない。彼女の眠りは一貫して深く安らかだ(苦笑)。
また娘は、資料館をかなり本気で怖がっていた。
私などの感覚からすれば、あれは数ある原爆資料のごく序章的な部分に過ぎず、
最大公約数的なところだけを展示したものだと思っていたのだが。
娘と私は年齢差というか学年差がほぼ30年あるわけだが、この間に、
広島の平和教育は、いつかどこかで、穏健なものへと変化していたのだろうか。

さて、今になってこんなことを書いたのには、理由がある。
連日の原発事故の報道に端を発して私は、原子力というのが我々にとって、
いかに手強いものであるかを、久しぶりにひしひしと感じるようになり、
「この感覚は、遠い昔に、覚えがある」と思い当たったからだ。
そう、「核の恐怖」なるものを長らく忘れていたのだ、我ながら愚かしいことに。

夜眠ったら、何事も起こらず当たり前に朝が来て、家もちゃんとあり、
どこも燃えていないし、放射能で死ぬことになった人もいない。
こういう日常が、実は大変に幸運なものなのだということを、
なんと私は、小学生の頃のほうがよく知っていたのだ。
こんなかたちで、再び核の問題を突きつけられることになるとは予想していなかった。
本当は予想できた筈だったのだが、後回しにすることを自分に許していた。
私が(多分、「私達」が)、無責任にぬるま湯につかっていた間に、
考えなければならない問題は、実はどんどん山積みになっていたということに
私は、地震と原発事故をきっかけとして、ようやく思い至ったのだ。

ただ、現状で最も良いことは、とにもかくにも、
話の発端が、私の繰り返し見た悪夢とは違い「全面核戦争」ではないということだ。
このたびの日本の原発事故の状況は、まだまだ予断を許さないものであるとしても、
今、世界の大半が日本を支援してくれている。
地球規模の問題として、世界各国が日本に注目し、ともに考えてくれている。
そしてこれを契機として、日本に暮らす私たちは勿論のこと、
世界中の人たちが、エネルギー問題と真摯に向き合うことを始めるのではないだろうか。
これは、幼かった私が怖がっていた未来像より、ずっと幸福な状態だ。
そのことに感謝するとともに、今後について考えるため、私は敢えて、
昔の眠れなかった日々を今一度、思い出して、肝に銘じたいと思っている。

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この4月から、NHKラジオ『まいにちフランス語』『まいにち中国語』、
それに白水社『ふらんす La France』を年間定期購読することにした。
今までは「続かないかもしれないし」などと消極的になっていたが、
こういうご時世だし、またいつでもできるなどというのは
私にとって幻影かもしれないから、もう思い切ることに決めたのだ。

何より今は、自然にまかせていると心は限りなく「自粛」状態になってしまうが、
行動だけは、意識的に「浪費」方向へ引っ張って行かねばと思っている。
語学どころじゃない、雑誌どころじゃない状態の方々が少なくないのだから、
やろうと思えばやれる境遇の者は、そのぶんまで引き受けて維持して行かないと
もとの方々が戻って来られる場所さえ危うくなってしまう。
私などが毎日、存分にうつむいたりオロオロしたりしている場合ではない。
経済の『メルトダウン』だけは、庶民ひとりひとりの頑張りで歯止めをかけなくては。

ということで、現実的な私の年間計画としては、
今年度のはじめは例の小学校英語指導者資格の件があるので、
少なくとも7月くらいまでは英語中心でやって、
あとは意識的に、力点をフランス語に少し移したいと思っている。
仏検などがあると、瞬間最大風速みたいに仏語力が(自分比で)上がるのだが、
そういうのはメッキみたいなもので、いとも容易く剥がれ落ちてしまうので、
今年度後半は、面倒でもひとつずつ文法の穴を埋めて行きたい。

と、御大層なことを書いているが、要は私にやれているのは
なんら崇高な社会参加ではなく、煎じ詰めればただの道楽レベルだな(汗)。

今年度前期のラジオ『まいにちフランス語』は、初級編が既に始まっており、
國枝孝弘先生とパトリス・ルロワ氏による新作番組だ。
おふたりとも若々しくテンポの良い語り口で、明るい雰囲気を感じている。
木曜からの応用編は再放送だが、私のお気に入りだった杉山利恵子先生の
「文法&表現力を磨こう」という講座で、これまたとても有り難い。
更に、フランス語はテレビ講座のほうに、この4月から、
以前ラジオで名調子(笑)を聞かせて下さっていた清岡智比古先生がご出演だ。
私はテレビを見る習慣が全くないので、続けられるかどうか自信がないが、
先生のお話は聞きたいし、できるだけ観ようと思っている。

『まいにち中国語』は完璧に「仕切り直し」の再挑戦だ。
発音も見直したいし、文法的なことも非常にあやふやなまま、
昨年度後期の半年間があっという間に終わってしまったので、
今週から完全な初心者として出直しているのだ。
果たして昨日から、早速、一部の有気音・無気音の聞き分けに苦戦している。
良いのだ、前も書いたが、私が再度出直したって、
全然誰も困らないのがラジオ講座の最大の長所だ。

ときに、TOEICをやっている最中にふと、「これの仏語版はないのかなぁ」
と思ったことが以前あったのだが、そういうものが本当に存在したと
『ふらんす』4月号を読んでいて、知った。
フランス国民教育省認定TCFと呼ばれるマークシート式の仏語試験があって、
日本でも全国8箇所で、年3回ほど行われているのだそうだ。
広島会場がないのと、受験料が10000円ほどと高めなので、
いくら消費を心がけるとはいえ、今すぐ受けようとは考えていないけれど。
実際のところ、TOEICなどは最後まで判断力を保ったままでやりきれるだけでも、
既に一定以上の英語力がある証拠だと思うので、
あのような大量の語学問題の仏語版となると、きっと私は、
途中で頭が真っ白になり、机に顔を伏せて寝るしかなくなるだろう。

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本日11時、地元放送局のRCC中国放送本社ビル1Fで行われた、
大植英次チャリティコンサートを聴いてきた。
このたびの震災被災者支援という目的で行われた演奏会であり、
入場無料で、玄関ロビーに広島お得意の「たる募金」だけが設けられていた。

10時40分頃にロビーに入っていくと、演奏会そのものはまだ始まっていなかったが、
コート姿のまま大植氏がピアノに向かっておられ、
モーツァルトやベートーヴェンのソナタの一部や、
ビートルズナンバー、ガーシュイン(?)などを次々と演奏なさっていた。
私は大植氏のピアノは初めて聴いたが、大変に求心力のある演奏で、
まさに「気分はひとりオーケストラ」状態の響きだった。
大植氏は、特に小さい子たちには、遠慮なく前に来るようにと促し、
騒いでもいい・動いてもいい、どうかきょうは無礼講だと思って、
クラシック音楽は本来、楽しく聴くものなのだから、
等々と弾きながら笑顔で話しかけられた。
それで、最前列には小学生の子供達が喜んで移り、てんでに陣取った。

定刻になって、大植氏が改めて紹介され、「広島に帰って参りました!」。
演奏会は、チェロ・ヴァイオリン・ヴィオラ・ピアノそれぞれにソリストを招き、
大植氏はピアノ連弾曲の演奏と、弦楽器のピアノ伴奏を一手に引き受けられていた。
曲目は、シューベルトの『幻想曲』、フォーレ『夢のあとに』、
バッハ無伴奏チェロ組曲4番のサラバンド、マスネー『タイスの瞑想曲』、
ショパン『ワルツ作品64-2』、ブラームス『ハンガリー舞曲第5番』、
モーツァルト『アヴェ・ヴェルム・コルプス』、シューベルト『アルペジオーネ』、
(ここには私の記憶だけを頼りに書いているので、正確ではないかもしれない。
経費は一切を募金にという趣旨で、プログラム冊子など何も作成されなかったので)、
そして『涙そうそう』、会場の全員で歌った『七つの子』、『ふるさと』。

大植氏は、自分が広島生まれということも理由のひとつだが、
今回はさらに、どうしてもこの演奏会を広島から発信したい気持ちがあった、
ということを話された。
大植氏は、「原発」や「原爆」という語彙は一切、使われなかったが、
『今、東北で起こっている・日本中が心配している事柄を、
誰よりも理解でき支援できるのが広島の私達である筈だ』
という意味のことを言われた。
1945年8月のあの日から、「75年は草木も生えぬ」と言われた広島なのに、
人々は数日後にはもう新聞を発行し市電を走らせていた。
誰も彼も広島を離れず、あっという間に復興を実現させた。
広島の者は、高熱火災で人も街も焼き払われ、放射能で土地を『汚染』されても、
ここから離れず、不吉な言葉になど屈しなかった。
『ヒロシマのmiracle』という表現は米国の政界なら知らない者はないそうだ。
彼らの常識や科学では予想だにしなかったことを、被爆者たちは成し遂げた。
「奇跡は起きます!」「広島の応援は、重みが違います!」
と大植氏は力強く仰った。
私たち広島の人間は、決して「絶望」でうなだれたりはしないのだ。
広島の私たちならばこそ、このようなとき何を信じれば良いのかを知っている。

****************

(という、イイ話のあとに、オマケ)
・大植氏とRCC社長の会話から、大植氏が広島人として浦島状態だと発覚した件。
大植氏「太田川の花火大会は、今でもあるんですか?」
社長「いえ、太田川は、もうありません」
大植氏「ええっっっ、太田川は、もう、ない!??」
社長「いや、川は、あります(^_^;)。花火大会が、ないのです。
 今、花火は宇品でやってます」
大植氏「宇品。え~と、空港のあったとこですか?」
社長「港のあるところです(^_^;)」
(客席の皆が異口同音に『それ(空港があったとこ)は観音』。)

・大植氏が、日本人としても浦島状態だと発覚した件。
ヴァイオリンとヴィオラの二重奏で『涙そうそう』をやるというとき、
聴衆は「おお~」と反応したのに、ただひとり大植氏はこの曲をご存じなかった。
というより、『な・だ・そう・そう』が何語かも定かではないご様子だった。
大植氏「(不思議そうに)なんの歌ですか?皆さんはご存知なんですか」
(場内一同、大きくうなずく)
大植氏「わかりました。大植英次には初演でございます(^◇^;)」

・終演後は、写真撮影もOKだった。
子供達が喜んで大植氏との写真を家族に撮って貰っていた。
最初から最後まで、食い入るように聴いていた子たちは、
戦後の三世か、もしかしたら四世くらいの年代だった。
彼らはきょうのひとときから、きっと、初めての、大きな何かを受けとったはずだ。

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大植英次チャリティコンサート日程詳細
大植氏本人によるピアノ演奏のほか、音大生によるバイオリンなどの楽器との協演。
各会場で演奏曲目は全て違う内容のものを演奏するとのことです。
入場無料・被災地支援のための義援金を募ります。

主催/ 大植英次
後援/ エイジ・クラブ、大植英次後援会
お問い合わせTEL/ 大植孝子 090-7505-7808

3月26日(土)
 午前10時 ホテルグランヴィア広島
 午後1時 広島市佐伯区民文化センターホール
 午後5時 岩国市民会館
3月27日(日)
 午前11時 ANAクラウンプラザホテル
 午後2時 広島県立美術館
 午後5時半 オリエンタルホテル広島 (会場は3F)
3月28日(月)
 午前11時 RCC中国放送本社ロビー
 午後2時 リーガロイヤルホテル広島
 午後5時 エリザベト音楽大学
3月29日(火)
 午前11時 日本基督教団広島流川教会

(28日午後5時のエリザベト音大については本日チラシを貰って来ました。
会場は大学内3Fザビエル・ホール16:30開場、プログラムは、
エリザベト音楽大学マドリガルシンガーズ
 JSバッハ:カンタータ147番「主よ、人の望みの喜びよ」
 WAモーツァルト:アヴェ・ヴェルム・コルプス
エリザベト音楽大学クラリネットクワイヤ
 樽屋雅徳「絵のない絵本」他2曲
ハノーファー、大阪からのプレイヤーによる演奏)

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小学校を丸ごと受け入れ=廃校などを活用―広島県教委
(時事通信)2011年3月25日(金)14時58分配信
『広島県教育委員会は25日、東日本大震災で被災して児童の通学が困難になった小学校について、教職員も含めて学校ごと受け入れると発表した。人事交流のある宮城県教委に連絡した。』『受け入れは、4月からおおむね1年間で、広島県江田島市の「国立江田島青少年交流の家」に宿泊してもらい、近くの廃小学校を活用して授業を行う。受け入れ可能数は、児童150人(1学年25人)、教職員10人の計160人程度。』『教科書や学用品などは広島県教委で準備するが、広く寄付も募る。また、生活費については、「家庭の負担が基本だと思うが、個々の状況を踏まえてできるだけ負担がかからないようにしたい」(教委)としている。』『教委は、安芸高田市でも同様の方法で小学校ごとの受け入れを検討している。』

母校の同窓会広島支部のほうでも、これが実現するなら支援したい、
という動きが既に出ているので、私も知ってはいたのだが、
しかし記事中には児童の保護者や家族のことが全然出ていないのが気になる。
人数的に、児童と先生方だけしか、受け入れることができないという話なのだろうか。
先生方についても、被災児童と立場は異なるにしても、
この文面からは単身赴任を勧めるというふうに読める。
それは、これほどの規模の被災の場合、仕方のないこととせねばならないのだろうか。

江田島青年の家は私も何度か行ったことがあり、
環境も悪くはないし(田舎ではあるが・汗)、宿泊棟や食堂や売店があり、
浴室や医務室なども、一定期間の集団生活に耐える設備はある。
被災地での現在の生活よりも、遙かに安心して過ごして戴けるだろうとは思う。
同じ学校で学んでいた皆がばらばらになることなく、
学校単位で移れるということも、それ自体は悪くないだろう。

しかし児童と先生だけの集団生活を想定しているとしたら、やはり酷ではないか。
たとえ一時的な避難のためとはいえ、馴染んだ土地を離れることは
大人にとってさえも決断の要ることなのに、
全然知らない遠い場所に、年端もいかない子供たちを、
特に地震でショックを受けたばかりの子たちを、
家族から放して送り出すことなど、私が保護者なら容易には同意できない。
もはや学童疎開という感覚が通る時代ではないと思う。
最終的に、死ぬか生きるかという選択にまでなれば、
子供だけでも!と思うのは当然だが、今はそういう話をしているのでもないだろう。

小学校まるごと集団疎開支援プロジェクト(広島県教育委員会・PDF)
を見ても、『受入可能数:160人程度(各学年1学級規模[児童150名、教職員10名])』
とあるだけで、児童の家族のことには全く触れていない。
どういう想定になっているのだろうか。私はそれが一番気になっている。
国立江田島青少年交流の家施設の概要のページを見ると、
『宿泊室-洋室(240人)・和室(160人)、講師宿泊棟、ボランティア棟』
などとあり、児童150名しか宿泊できないわけではないようだが、
家族単位での受け入れが可能な構造には、なっていないように思われる。
被災児童や関係者の心情に対して、もっと配慮のあるかたちにできないものだろうか。
近くに家族も入れる県営・市営・町営住宅などがあれば、まだしもだが、
島の中には無さそうな感じがするし、対岸にもまとまったものがあるのかどうか?

ただ、ひとつ良いと思ったのは、これが県教委同士での話になっているという点だ。
「自主避難」の言葉のもとで、皆が各自の判断で行動していたら、
誰がどこに行ったか行っていないのか、行政のほうで把握できなくなってしまうからだ。

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・なんでもいいから普通の生活をしなくては、と私は毎日ジタバタした気分だ。
地震このかた本当のところ全然そんな気になれない。私は明らかに狼狽えている。
ツイッターを見ていれば、日々、良い情報も悪い情報も雪崩のようにUPされ、
画面を読むことしかできない私のような者には、ひとつひとつの判断がつきかねる。
しかし私がネットのお守りをして、悪い推測や悲しい体験談を集めて泣いていたって、
実態は何一つ改善しない。周囲や世の中に対する害悪になるのがせいぜいだ。
それなら、パソコン画面の前で狼狽えたり安堵したりを繰り返していないで、
3月11日以前までしていたことを、私は、続けなくてはならないだろう。
そう思って、私は自分のジタバタを認めつつ、このところ意識的に外に出かけている。

・午後から、市内某所にて、某先生御指導によるピアノおさらい会を聴いた。
これが、そのへんの教室の「発表会」とは段違いの別世界であることは、
プログラム2番目の小学6年生の演奏曲が、ショパン『華麗なる大円舞曲』作品18、
というのを見ただけで、どんな素人の聴き手にも一目瞭然だろう。
ここで演奏するのは、たとえ小学生であっても、
将来、お金を取って人に演奏を聞かせる立場になる予定の生徒さんばかりだ。
きょうの演奏でも、顔つきが幼くとも既に明確な自己主張のある弾き手が何人もいた。
そして恐ろしいのは、このレベルの生徒さんだけが集まると、その中でも、
更に光る子がいて、それが私程度の聴き手にも伝わる、ということだった。
しかしその才能もまた発展途上だ。来年はどうなっているかわからない。
子供達には無限の可能性があると同時に、幾度かの危険な時期もこれからあるはずだ。
ともあれ、天分のある若い子たちが、ひたすらに自分の音楽に打ち込み、
凌ぎを削る姿を、とくと見せて・聴かせて貰った数時間だった。

・その「おさらい会」に行くとき、家の近くの某駐車場でカップルを見かけた。
若い女性が人目も憚らず泣きじゃくっており、男性がその肩を抱いていた。
何があったのか知る由もないが、いろいろ大変そうだった。
それで思い出したのだが、私は、ちょっと前にも新幹線の某駅のホームで、
まるでテレビドラマのワンシーンのように、旅立つ女性と、見送りの男性とが、
無言で見つめ合っているところに通りかかったことがあった。
というか、単に「見つめ合っている」というより、二人はかなり険悪な雰囲気だった。
相手の出方によっては、もう、きょう、これきりで終わりかもしれない、
という緊迫した空気が、絡み合う視線の中にあった(気がした)。
どちらも背の高い、都会的な、大人の男女だった。
その二人が、互いに向き合い、無言のまま、
いつまでも射るような目で睨み合っていた(ようだった。よく見えなかったけど)。
彼らの周囲だけ、一切の物音が消え、時間が凍り付いているかのようだった。
それで私は考えた。この私が二人の間に割って入り、
「ぷはははっ!あらやだっ、ワタシ笑っちゃった。にらめっこ、おばちゃんの負け!」
と言ったなら、雰囲気が、ほぐれなかっただろうか。少なくとも二人は、
『このKYなクソ婆を叩き出す』
という一点で、瞬間的にでも気持ちをひとつにすることが出来たのではなかっただろうか。
仮定法過去完了。

・オマケ:きょう拾った秀逸なツイート。
『半減期75日のウ素800が検出されたらしいとTLで見掛けた。』

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大植英次:東日本大震災被災地支援チャリティーコンサート(広島市)

平成23年(2011年)3月26日(土)
13時~14時30分(開場12時30分)
佐伯区民文化センターホール
(佐伯区五日市中央6丁目1-10)

拙サイトBBSで、あさがお様からご案内を戴きました、
チャリティコンサートが、明日、行われます。
広島市佐伯区出身、指揮者の大植英次氏を中心とした公演で、内容は、
(1) 大植英次氏とドイツ・ハノーファー音楽大学生によるピアノ演奏
(2) 東京芸術大学、大阪音楽大学生によるチェロやバイオリン演奏
などが予定されているということです。

入場料の設定はなく、会場で入場者への募金協力を呼びかけるかたちだそうです。
大植氏の同趣旨の演奏会が、ほかにも連続的に企画されています。
大植さん、復興支援のタクト(中国新聞)
『広島市佐伯区出身で2009年に中国文化賞を受賞したハノーファー北ドイツ放送フィル名誉指揮者の大植英次さん(54)=ドイツ・ハノーバー市=が26~28日、東日本大震災の被災地を支援するチャリティーコンサートを広島市と岩国市のホール、ホテルなど計9カ所で開く。』『26日午後1時から地元の佐伯区民文化センターで開催するほか、他の会場は最終調整中で近く発表する。』『いずれも入場無料。来場者に募金を呼び掛け、日本赤十字社広島県支部などを通じて被災地に届ける。』



天満敦子ヴァイオリン・リサイタル

以前にもこちらで掲載させて頂きました天満敦子ヴァイオリン・リサイタルですが
先日の東北地方太平洋沖地震の発生を受け、実行委員会で検討なさった結果、
企画当初の「アフガニスタンの女性教育支援」のための寄付に加えて
地震関連の復興支援のためにも寄付をすると決定されました。

ヴァイオリン:天満敦子
ピアノ:吉武雅子
2011年5月14日(土)広島 アステールプラザ 中ホール
開場13:30 開演14:00
全席自由 一般4000円 中学生以下3000円

なお、前回ご案内しましたチケット申し込み先のうち、
チラシ掲載のメールアドレスが誤っていたとの連絡が、実行委員会よりありました。
こちらにもチラシから転記しておりましたので、
お詫びしますとともに、下記のように訂正させて頂きます。
ご迷惑をおかけして、大変申し訳ございませんでした。
temma.atsuko20110514@gmail.com

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宙組バウホール公演『記者と皇帝』11時公演を観てきた。
ほっくん(北翔海莉)が主演であるうえ、
ソルーナ(磯野千尋)さんが重要な役でご出演だったので、
私にとっては一回で二度美味しい布陣だった。

現在の宝塚で私の思い描く『スター男役』として最も典型的なのは、
多分、星組トップのれおん(柚希礼音)くんなのだが、
一方で、今の私を切なくさせる要素を一番持っている男役は、
きっと、この北翔海莉だと思う。
私にとって、彼女の何が、ほかの男役と違うのか
我ながら定かでないところもあるのだが、
とにかく、ほっくんの何かが心の琴線に触れて来るのを、
私は、彼女の舞台を観るといつも感じるのだ。

ほっくんに初めて注目したのは、2002年月組『ガイズ&ドールズ』のときだから、
考えてみるともう、十年近く前のことになる。
あれから、彼女のバウ主演はずっと気をつけて観るようにしており、
2003年月組バウホール『恋天狗』、
2005年月組バウホール『BourbonStreet Blues』
2006年月組バウホール『想夫恋』、
の三本は生で観劇をしたのだが、
2007年宙組バウホール公演『THE SECOND LIFE』だけは見逃してしまった
(ほかに月組宙組の大劇場公演・東宝公演では観る機会が幾度かあった)。

というわけで、今回は私にとって実に久しぶりに、
ほっくんを堪能できる機会だったのだが、
どう言ったら良いのか、何か発散しきれないものが残った公演だった。
ほっくんは、歌も芝居も踊りも言うことがなく、スタイルも良いと思ったし、
男役の型もあるし、顔立ちも整っていて、表情豊かでコメディセンスもあり、
悪くない、どころか相当高い水準の舞台だったと思うのだ。
が、……何か、とても重要なところで「惜しい!」と思えてならなかった。

恐らく、それはビジュアルの問題だという気がした。
以前から、その傾向はあったとは思うのだが、今回特にそれを強く感じた。
メイクか髪型かがもう少し違っていれば、全体として格段に良くなっていた筈なのに!
という点が、あまりにも、かつてなく、残念に思われたのだ。
ほっくんの雰囲気は、例えば宝塚大劇場で3000人をウットリさせるものとしては、
路線が僅かにだが大事なところで違っているのではないか、と私は思った。
脇役だったらさほど気にしないところだが、ほっくんは紛れもない、主役をやる人だ。
下級生の頃からそのように育ってきたのだし、今もそれは続いている筈だ。
雰囲気づくりとか、ムードの出し方というような、高度で荒唐無稽な話ではない。
もっと基本的で表面的な、……つまり「顔の仕上げ方」(汗)の問題ではないかと。

くどいようだが、全体としては及第点どころか、素晴らしい出来映えだったと思うのだ。
声が良いし、歌など余裕で歌えてしまうし、芝居の呼吸も見事だった。
脚本の不備がほっくんの力量で救われている箇所も多かったと思ったくらいだ。
今回特に努力が要った箇所は、強いて言えばタップダンスか?とは思うが(笑)
それだって体のキレも良いし、背丈もあるし、何も注文などなかった。
昔から、ほっくんに注目して来た者としては、「萌え」ポイントもたくさんあった。
だからこそ、あのビジュアルのちぐはぐな印象は、どうにも惜しいと思ったのだ。
素材として「あかん」というタイプ(逃)なら、諦めようもあろうが、
ほっくん本人には、とりたてて難はないと思えるだけに、よけいに残念だった。

一方、私のもうひとつのお目当てであった「皇帝」役のソル(磯野)さんは、
期待以上に見事だった。
主役コンビのふたり以外では唯一、ポスターにも登場する役で、
劇中での意味合いもとても味わい深いものだった。
今のソルさんに、こういう役が回ってきたことを、ファンとしてとても嬉しく思った。
ソルさんは、チェンバレン役の風莉じんを従えて主役の両脇を固めていて、
このふたりのそれぞれの充実ぶりも、観ていてとてもとても豪華だと感じた。
終盤の、力のある歌のソロも、存在感とともにさすがはソルさん!だった。

そう考えると、北翔・磯野・風莉と言った鉄壁の実力派たちに演らせるには、
今回のは若干、脚本のほうが軽すぎたかもしれない、という気もした。
もっと重い手応えのある話であっても、この面々なら十分に応えただろうと思う。
しかし、時期的に今は私のほうが、重い話を観たい気分ではなかったから、
こういう明るく後味の良い演目を楽しむことが出来たこと自体は、
決して、悪くなかった、とも思った。

終演時のほっくんの挨拶が、今回の震災に言及したものになっていて、
こんなときだから尚更、心を込めて演じたい・出来る限り幸せな気分を届けたい、
という彼女たちの思いが、私にもひしひしと伝わってきた。
一見するとたかが娯楽かもしれないが、実は平時とは言えないときのほうが、
彼女たち舞台人の果たす役割は、いつも以上に切実な意味があると思うし、
今も、そしてこのあとも、彼女たちでなければ務まらない仕事が、
まだまだ続くことだろうと、きょうのような日だからこそ、強く思った。

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・今朝7時半からNHKラジオ『まいにちフランス語』を聞いていたら、
突然番組が中断し、「地震速報」が入った。
福島で、震度5強だった。
「地震はどこも大変だけど、特に今、福島は勘弁してあげて!」
というツイートがTLに並んでいた。
本当に早くおさまって欲しいと心から思う。
大地が揺れるのは、人の心の平安を文字通り根底から揺さぶることだ。

・巨人・滝鼻卓雄オーナーは『3月29日開幕案』を強行する考えであり、
更に交流戦を休止するとほのめかしパ・リーグを牽制、等々と報道されている。
カープにとっては、地震このかたチームの調子がとても変だし怪我人も多いので
いっそ5月くらいから始めるのが彼らのためではないかと、地元としては思うが、
いや、しかし待ったところで、別に勝てるようになるわけではないんだけどね(殴)。
と、冗談はともあれ、この状況で開幕は出来ないだろうよ、
と私も感じるのだが、しかし実際に試合数がこなせないとなると、
来年、つぶれる球団も複数出て来るのではと、それも心配だ。
観戦者にとっては娯楽であっても、球団や選手は職業としてやっているのであり、
彼らの生活そのものがかかっているのだから、
試合をするなと言われれば、極端な話、収入の道を断たれることになる。
まあ巨人の場合はそれだけでなく、あの東京ドームを維持せねばならないし、
なおかつ優勝もせねばならないので(!)、広島なんかにわかりゃせん、
と言われれば、勿論その通りなんですが(逃)。

・この時期に来日を決行し、ツアーを全うしたシンディ・ローパーは、
まことに本物のエンターテイナーだったなと心から敬服している。
今夜の湯川れい子氏のツイートによると、大阪公演を終えたシンディから、
「こんな時に日本に来ることが出来て、私の人生の中でも名誉なことでした。ありがとう」
というメールが彼女宛に来たのだそうだ。なんと見事な。
シンディ姐さん、貴女は今、日本の女神様だよ!

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日本の真の色が光るように 外国メディアも混乱しまくった大惨事のその先で
(ニュースな英語2011年3月22日(火)19:00)

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