転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



長年構想のあった、ピアノのイーヴォ・ポゴレリチに関するサイトを、
このところあちこちいじくってどうにかかたちにし、密かにアップしたので、
きょうはネットのお友達ふたりに、とりあえず開設のお知らせをした。
ネット世界にいる(であろう)ポゴファン仲間を開拓したい気持ちはあるが、
非常に趣味的につくったサイトなので、今後も地味に、ヲタとして(^_^;、
自分本位に楽しみ続けたい気持ちも強く、今は少々複雑だ。
でもやっぱり、ポゴレリチのことを語れるお仲間が、
少しでも見つかったら嬉しいだろうな。

友人の某ピアニスト嬢は、ピアノを聴くことで「癒されたい」と言っていた。
その気持ちはわからなくもないのだが、私は今のところ、
ピアノを聴くことで「心底、揺さぶられたい」という欲求のほうが強い。
ポゴレリチがほかの誰とも違うのは、私を掻き立てる人だからだ。
私はピアノを聴くことで、ゆったりと目を閉じて和みたい訳ではない。
それよりも、目覚めを誘われ、啓発され、体に響くほどの手応えを得たい。

では、アファナシェフではどうなんだ、
・・・とそのほうの趣味のある人には言われそうだ。
正直なところ、かつてアファナシェフを聴いたとき、
ポゴレリチに似ていると思った。
いや、アファナシェフ・ファンに言わせるならきっと、ポゴレリチのほうが、
勝手にアファナシェフの亜流をやっているだけだ、
ということになるかもしれない。
が、ここからが説明不可能な、「感性」のレベルの話で、
アファナシェフでは私は、酔えない。彼の緻密な音楽は、私には重圧となる。
その重圧感は、ポゴレリチのそれと、非常によく似ているにもかかわらず、
アファナシェフだと、私はどこかに絶えずしんどさを感じ、
ポゴレリチならば、無条件にのめり込める。本当に不思議だと思う。

「どっちも同じ。疲れる」
と言う人のほうが、世の中には多いかもしれないのだがな。

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いくらなんでも全く挨拶ナシという訳にはいかない、
やっぱり年賀状は最低限、なんとかせねば、
と小心者の私が悶々となったので、見かねた主人が、
『筆王』を使って(^^ゞ、即席で私の年賀状を作ってくれた。
やれ、ありがたや。
これからは主人に足を向けては寝られません(寝ていたのか今まで)。
その即席年賀状の余白に、御無沙汰のお詫びと近況を書き入れ、
本当に最低限の年賀状だけ、きょう、どうにか準備出来た。
・・・って、もう、明日31日だよ、おい。

宙組の通称「組本」、『ザ・タカラヅカ宙組3』が
きょう、Hankyu Booksから届いた。
前の組本2が2000年の秋に出ていて、
ちょうど和央ようかがトップに就任した年だったが、
あれから三年、和央のトップ時代のうちに、
また一冊、こうして組本が出ようとは、思ってもみなかった。
組本の表紙に、一度もなることなく卒業するトップさんだっているのに、
和央は随分と恵まれたトップさんだというか、案外と任期が長いというか(爆)。

写真はどれも、とても綺麗。
ほかでは見られない企画ものもあるし、組子のひとりひとりの言葉も読めるし、
こういう本が出ること自体はとても嬉しい。
が、表紙をめくって、読み始めた最初の感想は。

「字が。字が、こまい(=小さい。←広島弁)」

老眼を実感した年の瀬だった。
本当に1ページにぎっしりの情報量。
正月休みに、ゆっくりと読むことにしよう。

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セレスタミンが効いたのか、久しぶりに昨夜は咳き込まずに眠れた。
しかしまだ咳は完全には取れていない。本当にひどい風邪をひいたものだ。
年齢とともに、風邪ひとつでもなおりが悪くなって来たような気がする。

風邪を引いたのと、舅姑の病気のことで気持ち的に落ち着かないのとで、
どうにも、年賀状の準備をする気がせず、
手つかずのまま、今年も残すところあと二日となってしまった
友人Sが先日、「忙しすぎる。私、今年、もう、年賀状、ないかもしれない」
と苦笑していたのだが、右に同じ。
最近会っていない、年賀状だけで繋がっていた懐かしい人たちとの間が、
こういうことでだんだん疎遠になってしまうのだよな、と思う。

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今朝の姑は、ちょっと凄かった。
きっかけは、朝食後に薬を飲むのに抵抗して主人に叱られたことくらいしか、
思い当たるフシがないのだが、とにかく姑は突如、言動が攻撃的になった。
主人にも私にも
「あんたらは人を殺した」
「おとうちゃん(舅)が、うちを殺したんじゃ」
「あんたらは息子を殺したんじゃ。恐ろしい。生きとる者を殺すんじゃから」
と、支離滅裂かつ不穏なことを言い出した。

主人は怒ったのと呆れたのとで席を立って二階へ行ってしまい、
朝の介護のヘルパーさんが来ると、姑はその人に、
「ほんまにひどいんじゃ。怖いよ。謝りもせん」
と主人か私のことかわからないがしきりと訴えていた(^_^;。
私はとりあえず、
「ごめんなさいね。今度から気を付けます」
と姑に謝ったのだが
口先だけということがやはりバレバレなのか、許して貰えなかった。

その後、ひきつづき、年末なので
ヘアカットを頼んだ美容師さんが来てくれたのだが、
「今から髪をカットして綺麗にして貰いますよ~」
と私が言ったら姑はまだ、目を三角にしてこちらを睨み、
「それは、うちがこれから死ぬるからですか!?」とつめよった。
「いいえ、お正月が来るからですよ」と私は極力にこやかに言ったのだが、
「あんたも、一緒じゃ!」と事態は好転せず。
「誰と一緒なんですか」
「あんたは息子を殺したんじゃ!」
う~ん、我が家には娘しかいないのだけど、困ったな~。
「こんに(=この人)も、うちと同じにして貰わんと困る。化けて出ますよ」
と姑は私を指して美容師さんにも言った。
首に巻いたタオルも自分で取ってしまうので、美容師さんは困惑しつつ、
「じゃあ、綺麗になって出て下さいね~(^_^;」と話を合わせてくれた。

私は息子を殺した覚えはないが、正直なところ、
姑がいなければ、ゆっくり休めるのになぁ、とか、
姑の世話から解放されたら、もっと自由に出歩けるのになぁ、などと、
思ったことは、結構ある。
姑なりに、不満や疎外感や、見捨てられる不安を覚えていたとしても
なんの不思議もないから、
私は今朝の姑の怒り方を全く根拠のないものとは思わなかった。

ちなみに主人がそのあと、ネットの、とある占いのHPを開き、
おみくじを引いたら、
『きょうは目上の人から叱られても我慢しましょう。
理不尽な小言と思っても、素直に耳を傾け、反省しましょう』
と書かれていたそうだ(^^ゞ。

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24日にいつもの産婦人科に行ったら、
超音波で見たとき子宮内膜が一部、厚くなっているところがあったから、
という理由で、子宮体部癌の検査をされた。ちょっと痛かった(>_<)ヽ 。
先月の初診のときは、私の年齢では体癌の検査はしなくていい、
という話で、「よほどおかしかったら検査しますけど」と言われた筈なのだが、
結局こうして検査されたのは、つまりは『よほどおかしかった』ってことかい。
そうとも、患者はこうやって、医師の何気ない一言を引きずるものなのよっっ。

年末の休みに入ってしまうので、結果は1月5日になるということだったが、
やだな、この百抹の不安を引きずって年越しをするのは。
でもま、公民館の健診を受けても、子宮体癌の検査は普通しないから、
良い機会だったと前向きに考えておくか。仕方ない。
ちなみに、同時に受けた血液検査の結果は、昨日出ていて、貧血は改善していた。
ヘモグロビン値が12.0だったので正常になり、もう注射はやめていいと言われた。

一方、風邪のほうもどうもなおらないので、昨日は近所の内科にも行った。
検尿は異常なく、血圧も130/84なので特に問題なしということで、
抗生剤と解熱鎮痛剤と胃薬とステロイドの錠剤が出た。
きょうまで、売薬のアネトン咳止めを飲んでいたのだが咳が止まらないので、
観念して、このステロイドの「セレスタミン」を服用することにした。
プレドニンと同じ薬だと思うとどうも気持ちが良くないが、
年末だし、早くなおしたいから、背に腹は替えられないという心境だ。

私だけでなく、昨日は娘も眼科に行った。彼女は右目だけ近視だ。
0.1~0.9の間をうろうろしている妙な状態で、
今治の頃から眼科にかかっていて、
ミドリン、ミオピン等の点眼薬を継続して使っている。
昨日も特に変わったことはなく、また二ヶ月分の点眼薬を処方された。
娘の左目は1.2くらい見えるので、日常はなんの不自由もしていない。
右目も今は0.4くらいあるので、
この程度なら眼鏡も要らないと眼科で言われている。
それどころか、こういう左右のアンバランスな視力は、
将来的に老眼になる年齢になったら、結構、便利なものなのだそうだ。
正視の目は老眼になり近くに焦点が合わなくなるが、
近視の目は近くが見えるので、補いがついて良いのだそうで。

羨ましい。私は、実はそろそろ老眼の自覚がある(爆)。

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世の中の多くの人にとっては当然である(らしい)のに、私にはわからない、
ということのひとつに、「良席=かぶりつき」という感覚がある。
前席で見たい、という人が、どうしてあんなに多いのだろう?
前席ってそんなに良いものなのだろうか?

これは「酸っぱい葡萄」の話ではない。
私だって最前列センターを初めとする世間的良席は、
あちこちの劇場で幾度か経験している。
無条件に「いい!」と思ったのは
シンフォニーホールでポゴレリチを聴いたときで、
最前列(やや上手寄り)で聴けたお陰で、音がもろに正面から生で迫ってきて、
彼の息づかいや、ペダルを踏む靴のきしみまで聞こえて、
なるほど、こうやって弾くのか、ペダルはこう踏むのか、
と発見が物凄くたくさんあった。
速いパッセージを弾いた彼の指が上がった瞬間、
鍵盤との間で「きゅっ」と音を立てたのには
正直、息を呑んだ。
世界的ピアニストの生演奏に至近距離で接したのは、
確かに素晴らしい経験だった。

が、これは視覚的要素が固定的でさほど重要でなく、
「音」のほうに力点が置かれている、というピアノ演奏の話だからで、
芝居や舞踊等の場合には、
前に寄ればそれだけ多くの発見がある、とは私は思わない。
国立劇場の三列目センターで歌右衛門を見たとき、私は、首が疲れた。
もうちょっと後ろに下がって見ないと、彼の衣装と背景の取り合わせの妙が、
完全には視界に入って来ず、無意識に体を引いて見てしまい、疲労感が募った。
中日劇場の5列目センターで和央ようかを見たときには、私は窒息しそうだった。
俗に言う「勘違い目線」というヤツで、舞台の上の人から、自分が見られている、
ような気がして、自意識が募り、芝居なんか見られたものではなかった。

私にとっていちばん落ち着いて舞台の隅々まで見られる席は、2階か3階だ。
劇場の構造にもよるが、1階後方は
前の人の座高に遮られて見えないことが多いので、
高低差の大きい2階かそれより上の座席のほうが、
私は舞台をくまなく観察できる。
眉毛やホクロを見に行っているのではないから、
顔はオペラグラスで見れば足りる。
それより、舞台が全景としてどうなっているか、
舞台上の人がこの空間をどう把握しているか、のほうに私は興味がある。
負け惜しみではなく、私の良席は大抵安価なので、有り難いと思っている。

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風邪がなおらない。
熱はないし元気なのだが、一日中乾いた咳が出て、腹と背中が筋肉痛だ。
なのできょうはどこへも出ないことにして家でおとなしくしていた。

昼間、家にいると、かかってくる電話のほとんどは、ろくなものではなく、
セールスとかアンケートのたぐいばかり。
私は大抵、まともな応対はしないのだが、ちょっと前に、面白いのがあった。

女性「もしもし~」
 私「はい」(名乗らない)
女性「もしもし?奥様でいらっしゃいますか?」
 私「は?」
女性「奥様でいらっしゃいますか?」
 私「いえ、ちょっっっっと、違うんですけど」
 (嘘は言ってない。一応、私が家事はしているが、
  この家の世帯主は舅で、この家の「奥様」は姑だ)
女性「・・・・・・改めますね~~」ガチャ。

ほほう?
『改めますね』という台詞を、私は初めて聞いたよ。
もっとも、むこうさんにしても、
奥様かと尋ねて「ちょっと違う」と返答されたのは初めてかもしれない。
その場合の切り返し方がマニュアルになく、
仕方がないので「改め」ることになったのかしら。

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世間は楽しいクリスマス・イブなのかもしれないが、
私の日常は、そんな浮かれたものではない(ほ、ほんとか?)。
今いちばんの悩み、それは、家族の食事の支度が大変、ということだ。

舅は、食道癌の手術以来、食道が狭くなり、
すぐに食べ物が詰まるようになったので、
御飯もおかゆ一歩手前のように柔らかいものでないといけないし、
オカズは豆腐とかスープとか、あんかけ・水餃子のたぐいでないと危険だ。
にも関わらず、彼は体力をつけ体重を増やさねばならないから、
一日の摂取カロリーが、ある程度、高くなくてはいけない。

姑は、食事には介助が必要で、
なんでも一口大になっていないと、口に入れられない
(箸やスプーンは自分では旨く使えないし、食いちぎるという動作も無理)。
手元が相当おぼつかないので、汁ものは危ないし、
どんぶり等の大きな器ものもひっくり返すと大変なので、
小分けしないとこっちが安心して食事できない。
酸味のあるオカズとトマトが嫌い、という好き嫌いもある。

一方、主人は数年前から肥満が顕著になり、
健診で脂肪肝と高脂血症を指摘されているので、これまた放っておけない。
カロリーは極力控え、具体的には糖尿病食に近いような献立のほうが望ましい。
それに加えて、本人は牛肉豚肉を絶対に食べないという極端な嗜好の持ち主で、
魚も、鯖は焼くが揚げるか、ぶりは照り焼きに限る(刺身は不可)、
カレイやヒラメの煮付けはホネが多くてうっとうしい、
鶏は食べるけど煮込みは駄目、これも焼くか揚げるかにして頂戴、
ついでに、ブロッコリーとカリフラワーも絶対に食べません、
……と、ええ加減にせえよ状態の注文がたくさんある。
で、もうここまで来たらどうでもいいが、
娘はピーマンはイヤだの、固い肉は嫌いだの、それなりに好き嫌いを言う。
もひとつオマケに、私は、貧血だ。

この全員が揃って食べられる献立って、何!?
っていうかこれ、手抜きは諦めて
最低限二種類の食事を用意せよってことよね(>_<)ヽ 。
普段の日は、舅も姑も家にいるから、
食事の支度はいわゆる「三度三度」という状態で、私はとっくにネタ切れだ。
麻婆豆腐と揚げ出し豆腐とフカヒレ雑炊、水餃子にワンタン、他、
各種シチューとスープの間を行ったり来たり。

しかし、なによりも困るのは、
私がもともと、家事の中で料理が最も嫌いだ、ということだ(爆)。

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夕食のテーブルについた途端、何を思ったか娘が言った。
「私ね~、このごろ、ことわざをいっぱい覚えたよ」。
ほほう?何か、今の心境にピッタリの、旨い諺でもあるかね?

娘は、胸をはって言った。
「オイシイものは、ひとりで。美味しくないものは、みんなで」
そ~れ~は~、諺とは言わないだろ~が~~、
と説教しようとした私を制して、主人が言った。
「違う。『美味いものは一人で。不味いものは皆に』だ」

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どのジャンルでも往々にしてあることだと思うのだが、
自分はある程度客観的な人間だと自負しているタイプのファンは、
贔屓の役者や演奏家に対して、必要以上に冷淡さを装うような気がする。
いや、どこからが「必要」以上かは、厳密に言うと定義しにくいのだが、
他のアーティストに対するよりも、贔屓のその人に対してだけ特別に辛辣である、
という場合が、結構あるような気が、私は、する。

例えば、宝塚系のHPを見ていると、男役Aさんの熱心なファンが、
今の公演をあまり褒めておらず、
「Aは難しいところに来ている気がする。
これまでのような輝きが感じられなかった。
今回私はAにときめくことがなかった。
若手のBちゃんCちゃんのほうが新鮮な魅力があった」
等と書いていたとする。正直な感想ならそれはそれでいいと思うのだが、
今度、Bちゃんのファンサイトに行ってみると、Bちゃんファンたちが、
「昨日の舞台、私はBちゃんなんかほとんど見ていませんでした。
それより、Aさんや相手役のaさんのほうに目が引き寄せられました」
等々と書いていたりするのだ。

思うに、これは屈折した母心みたいなものだろうか?
うちの子に、もっともっと立派になって欲しいから、奮起させたいと思い、
手近でお手本になりそうな人を引き合いに出して、我が子をわざと突き放す。
あるいは、「この満足できない私を、なんとかしてっ!あなたが悪いっ!」
と我が儘を言っている、恋人の女性、という気分だろうか?
私の愛を得たかったら、もっと努力なさい、
とまで思うかどうかはわからないが、少なくとも、
私はこれしきの舞台成果では及第点はあげません、
というパフォーマンスの匂いは、ある。

私も結構、「けなしファン」の部類らしくて、
ファンサイトで私の投稿を読んだ人から、
「あなたの辛口批評を楽しみにしています」等と、
メールを貰うことが時々ある。
「楽しみ云々」は社交辞令としても、
私の文章を形容すると「辛口批評」かい。
私の態度が尊大なのだろうな(爆)。
私の場合は、贔屓への愛と観察が並大抵のものではないので、
話が非常に細かくなり、その結果、注文もうるさくなる、
と確かに自覚している。
ただ先に例としてあげたファンサイトの人々と異なるのは、
私の場合、原則として贔屓の話しかしないことだ。
褒めてもけなしても、私は贔屓のことしか眼中にないことが多い。

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