転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



とうとう、8月31日になった。
夏休みが、ついに、終わる・・・・!!
うううう、嬉しい。

公立学校を中心に、前期後期の二期制を取る学校が増えたので、
近所の市立中学など、とっくに学校が始まっているのだが、
娘の通っているA女子中は、以前通りの三学期制のままで、
夏期休業は7月19日に始まり、本日8月31日までとなっていた。
だが、それもついに終わりだ。明日は二学期の始業礼拝だ。

今年の夏は、娘の塾通いがなくて気分的にはラクだったが、
そのぶん娘は自由時間が多く、朝寝坊したり家でごろごろしたり、
かなり、非生産的な過ごし方をしていた。
まあ、そういう休息の時間も必要であると私は思うので、
娘本人に格別な非があったとは考えていないのだが、
私にとって、それなりに負担感のある毎日だったことも本当だ。

やはり主婦にとっては、朝決まった時間に家族が起床し、
一定の時間に朝食が終わり、それぞれ出勤・登校して行く、
というメリハリがないと、つらい、と改めて思った。
そのうえ、今年は連日、異常に暑かったことも負担だった。
車に乗らない私はどこへ行くにも徒歩だから、
気温35度を超えると、買い物に出るだけで日射病になりそうだった。

しかし、それももう、終わりだ。
明日から娘は学校に行くようになり、
季節は一足飛びにとは行かなくても確実に秋に向かうだろう。
やっと、やっと、待ちわびた「普通の毎日」が戻って来るのだ。
嬉しい(滂沱)。

Trackback ( 0 )




小倉千加子『宙飛ぶ教室』の単行本は、私にとって、
かなり、読みにくい本だった、ということを昨日書いたが、
一方で、私の生活実感に照らし合わせて、「全く、仰る通り!」
とヒザを打ってしまうような記述がたくさんあったことも本当だ。

特に、氏が幼稚園や保育園で実際に接して来られた情景をもとに、
子育てに関して記述なさっている箇所には、ほぼ全面的に賛成だ。
例によって、なぜ保育園のお仕事に関わられることになったのか、
経緯は、ほとんど説明されないままで文章が展開されているので、
細かい事情は不問にするか、読者のほうで調べるかしかないのだが、
それでも、氏の書かれている育児の風景とその解釈に関しては、
私は随所でかなり説得されたのだ。

氏の友人の編集者が、お酒を飲みながら、
「自分にもし子どもがいたら、寝るのは0時を過ぎるだろうが、
そのために保育園で眠いなら、朝から寝かせておいてくれたらいい。
みんなと一緒にする遊びができなくても、字も絵も習わなくても、
親の私がいいと言うのだから、それでいい。子どもは勝手に育ちます」
という主旨のことを言われたのに対して、小倉氏は、
「子どもは勝手になど絶対に育ちません。教育をしたり、躾をしたりする保育者がいるから育つのです」
「子どもが寝たい時に寝て起きたい時に起きて、それでは学校に行くとじっと椅子になど座ってられませんよ」
「(仮に親のほうの仕事が犠牲になるとしても)自分の生活に子どもを合わせるのではなく、子どもの生活に自分を合わせるんです」
と極めてまっとうな(!)反論をしていらっしゃるのだ。

何よりも、
「個性というのは、そんなものはないという圧力に抗して出てくるからこそ個性なのであって、最初から尊重されるようなものではない」
というところに、私は全面的に同意する。
躾さえ控えてそっと守られなければ損なわれてしまうとか、
キヲツケ!礼!を強要される生活をした程度で
簡単に壊れてしまったりするようなものは、
単なる「気まま」とか「ワガママ」レベルのものではないか。
仮にも個性と呼べるのは、そんなヤワなものではなくて、
頭ごなしに否定されようが、カタにハメられようが、矯正されようが、
その都度「違う!」と頭をもたげて来るほどに強固なものだと思う。
言葉は悪いがある程度の「管理教育」があって初めて、
そこにおさまりきらないものとしての「個性」が認識されるのだ。
「個性を伸ばす教育」は、その段階を経たあとから始めればいい、
と私は思っている。

ただ、
「自分の子どもが理想の子どもではなかったということに耐えられないと子どもは育てられないと思う。子どもが理想を裏切り始めるのは、とても早い時期からである」
という箇所は、これまたその通りであると思うのだが、
「我慢強い人しか親になってはいけないし、結婚もしてはいけない」
という小倉氏の主張には、私は半分しか同意しない。

私は、若い頃、我慢強くもなければ、子供好きでもなかった。
夫や舅姑に「尽くす」生活なんて考えただけでゾっとしたし、
列車やレストランで騒ぐ乳幼児なんか寒気がするほど嫌いだった。
十代の終わりに一人暮らしを初めて以来、
私の生活の中心は長い間、自分自身であったので、
私は人並み外れて協調性のない人間であり、
人のペースに自分のほうが合わせることなど、考えられなかった。

だが、ひょんなことから(爆)結婚して、それが変わったのだ。
勿論、完全に別人になったとは到底言えないので、
世の中の立派な奥様方やお母様方に較べたら、
今も、まだまだ忍耐力の足りない部類だとは思うが、
現在の私は、二十代の頃だったら「絶対いや」と思った生活を
自ら選択して、している。
やってみないとわからないことは、多いのだ。
最初から「私は我慢強くないので親にならない。結婚しない」
と自分で決めてしまうとしたら、選択肢をひとつ減らすことになり、
それは結構、勿体ないのではと私は思っている。

自分に関して言えば、「子どもは、自分の理想の通りではない」、
のは間違いなくその通りだと言えるが、だからと言って、
育児が、落胆と怒りと失望と忍耐と苦痛に満ちたものだったか、
というと、それはまた全然違った。
若い頃の私の頭で考えた以上の苦労があったのは本当だが、
同時に、全く想像すらできなかったほどの大きな幸福が、
私にとっての育児には、多々あったし、
今後も、もしかしたらあるのではないか、と思っている。

Trackback ( 0 )




小倉千加子 著『宙飛ぶ教室』をネットで購入した。
『一冊の本』連載時に、たかこ(和央ようか)さんについて
小倉氏がかなりの熱意を持って書いて下さっていて、
その部分だけは先に、友人某氏の尽力により読ませて頂いたのだが、
全編を通して読むのは、単行本になった今回が初めてだった。

読んでみて、とても疑問に思ったのだが、この一連の文章は、
一体、どのような読者を想定して書かれたものなのだろうか。
少なくとも、私のように、氏の著作についての知識が乏しい者は、
その対象から除外されているように感じられた。

話が唐突で、前提に関する説明が一切なく
(最初の章からして、氏が大阪出身で、その後、名古屋や東京に、
どのようないきさつで住んでいらしたかを知らない者には、
ほぼ完全に意味不明だと思うが、違うだろうか?)、
情報はわざと伏せられていていずれ判明する手法なのかと、
続けて読んでみたが、結局、最後まで不明なままで行ってしまった、
という箇所が、いくつもあった。
また、ひとつの章の中で、話題があちこちへと自在に飛んで、
こういうばらばらな話のオチが最後につくのかと思って読んだら、
決着は、また突然新しいところに行って終わった、
みたいなのも、一度ならず、あった。

小倉氏にとっての、『当然わかっていること。言うまでもないこと』
の部分を共有していない者には、非常に読みにくい本だと思った。
氏は、私のように『わからない。予備知識が少ない』者に対して、
わかるように言葉を尽くすことは、不必要と思われているようだ。
これは、もしかしたら、小倉氏の昔からの読者とか、
常日頃身近に接していらっしゃる範囲内の友人知人に宛てて、
ごく私的な感覚で書かれた文章なのではないだろうか。
そうだとすれば、前提に関する解説などクドいだけなので、
言いたいことを言いたい順番に書かれたように見える構成も、
それなりに意味があるのだろうと思った。

とすると、小倉氏が、たかこさんについて書かれた箇所を、
連載当時、私が曲がりなりにも読むことが出来たのは、
私が、小倉氏の文章では説明されていない多くの事柄を、
たかこさんに関して、既に予備知識として知っていたからなのだ。
もし私がこれほどシツコい和央ファンでなかったら、
あのとき書かれたことの意味は、自分なりに理解することすら、
ほとんど無理だったのではないか、という気がした。
その証拠に、・・・というのもおかしいかもしれないが、
私は小倉氏が、わたる(湖月わたる)くんの何を、
そのように否定なさっているのか、
この単行本を読んだ範囲では、全然理解できなかった(^_^;。

この件は、機会があれば、また、いずれ。

Trackback ( 0 )




今回の倉敷行きは、新幹線のぞみ利用で岡山乗り換え、
山陽線快速で倉敷へ、というルートで行った。
特急指定券に1000円プラスした『ぐるりんパス』を買えば、
これでJRの乗り換えのほか、バス乗車券や各施設入場券が付いて、
また駅前のホテルでの食事も割引になるなど、特典が多く、
一日であちこちまわろうという今回の企画にはピッタリだった。

最初は倉敷チボリ公園に行って、ここでいろいろな遊具で遊んだ。
といっても遊んだのは娘で、主人と私は一緒にまわっただけだ。
主人は途中、園内で見つけた手打ち蕎麦の店に入って、
ひとりでビールと枝豆とざる蕎麦を賞味したりもした。
娘にはフリーパスを買ってやったので、
気に入ったアトラクションには繰り返し並び直して乗った。
年齢的にも体格的にも、ひとりで乗れないアトラクションは無く、
娘にとっては存分に楽しめたようだった。

そのあと、ぐるりんパスを利用して駅前のホテルで昼食を取り、
今度は三人で歩いて美観地区に向かった。
大原美術館には新婚時代に来たことがあったのだが、
私は申し訳ないことにほとんど忘れていた。
今、中学生になった娘に、主人がいろいろと絵のことを
解説して教えてやっているのを見て、感無量だった。
娘はミレーの『グレヴィユの断崖』と、
セガンティーニの『アルプスの真昼』がとても気に入り
帰りにミュージアム・ショップで印刷の複製を買っていた。

それから桃太郎からくり博物館のイベントお化け屋敷を見て、
いがらしゆみこ美術館にも足を伸ばした。
合間には喫茶店でチョコレートパフェも食べた(^_^;。
「いっぱい見れて、凄い楽しかったね~♪」
と娘が上機嫌で、来た甲斐があったと主人も喜んでいた。

暑い中、たくさん歩いて足が痛くなり、ヘトヘトになって帰宅して、
主人が性懲りもなく、言った。
「来年は、北陸かね」

いやもう、どこへなりと。

Trackback ( 0 )


倉敷  


「もう夏休みも終わりだし、今週は天気も崩れるらしいから、
今のうち、みーこ(娘)を、どっか、連れてってやらにゃなるまい」
と昨日の夜、突然、主人が言って、
きょうは平日なのに頑張って休みを取った。

どっか、って、・・・あのぅ、先々週、東北に行った、あれは?
と、怠惰な人間である私は正直、驚いたが、
主人は、家庭を大切にする立派な父親なのだった。
私は自分の両親とどこかに旅行したなどという思い出が全くないので
こういうことに関してひどく感覚が鈍いのだが、
主人は小さい頃、自家用車であちこち、よく連れていって貰ったそうで
娘が家族旅行を喜ぶ間は、三人でできるだけ出かけよう、
というのが、この人の基本的な発想なのだった。

で、選んだ行き先が、倉敷だった。
コースは、倉敷チボリ公園で遊んだあと美観地区を歩き、
大原美術館で絵を見て、あとは市内を適当に、・・・というもので、
勿論、娘は大喜びだった。
日帰りなので支度も要らないし、広島~倉敷は一時間半くらいだから、
ほどほどに近くて、適当に楽な小旅行となった。
天気がもうひとつ、という予報だったが、
その空模様の御陰で、なんとなく曇りがちで、
かんかん照りの暑さでなかったことも良かった。

Trackback ( 0 )


祟り  


きょうは、朝からダルかった。
朝食が終わった途端、私はまたヨコになりたい気分に襲われた。
娘も、珍しくきょうは、何をするにも気怠いと言い、
これまた朝食後から布団に逆戻りし、昼まで二度寝していた。

ふたりとも、別にどこがどう具合悪いわけでもないのだが、
どうもかったるくて、一日中、困った。

昨日の豊志賀のタタリだろう、ということになった(逃)。

Trackback ( 0 )




昨日は、娘と一緒に映画『怪談』を観に行った。
音羽屋さんの御曹司・五代目尾上菊之助の主演だったからだ。

普段はほとんど舞台でしか観ていなかったのだが、
こうしてスクリーンで見ると、菊之助の容貌は独特だと思った。
柔らかで不思議な三白眼のような眼、
ほんのりと笑顔を見せるときの微妙な口許、
あの色気は、今時の美形男だったら出せる筈のない種類のものだ。
それが、この映画の、異様な空間に絶妙に似合っていたと思う。

菊之助は実に美しかった。
女たちが次々と彼に惚れるのも当然だった。
普通の女だったら、あんな男には会ったことがないはずだ。
その自分の禍々しいほどの魅力を、新吉(菊之助)本人は知らない。
自分なりには努めて優しく、誠実なつもりでいるのだが、
それが女性たちを不幸にしてしまっていることに、
これまた新吉本人は全く気づいていない。
このうえもなく、美貌で罪作りな男だった。

よく訓練された声は舞台役者のもので、
さすが菊五郎の息子!と私は嬉しかった。
その他、姿勢を変えるときの着物の裾の扱い方、
わざとらしさの全くない粋な襟の乱し方、
それに、最後の、因縁の鎌に操られての超人的な大立ち回り、
……等々も、歌舞伎の家に生まれ育った菊之助ならではで、
昨日今日練習した役者には絶対にできないものだと思われた。

全体としては、新吉に関係するどの女性も魅力的だったが、
中でもやはり、豊志賀(黒木瞳)の怖いこと怖いこと。
彼女が死ぬときに、幽霊になって(あの段階では生き霊か?)
新吉の前に出て来るのだが、あの佇まいは凄かった。
一目見ただけで、「これはタダゴトでない」とわかったくらいだった。
その後、湯かんをされているときの彼女の目にもゾっとさせられた。

お久もお累も、もともとは健気な若い娘だったのに、
新吉に惚れたがゆえに不幸な末路を辿ることになった。
お園だけは、非常に抑えた求愛だったので目立たなかったが、
それだけに、かえって、新吉に対する根深い愛情を感じさせた。
彼女に直接の害が及ばなかったのは救いだったし、
彼女だからこそ、最後に累ヶ淵で、
豊志賀と新吉の姿を見ることが出来たのかも知れない。
唯一、悪党のお賤だけが、新吉に惚れないのだが、
これは彼女が既に、純粋に人を愛するような、
清らかな魂を持たなくなった女だからだろうか。

そうした女たちの真ん中に立つ新吉を演じるのに、
菊之助の持ち味はぴったりだったと見終わって思った。
一種独特の存在感、無防備な色気、
素晴らしく良く通る声、なんの無理もなく身に備わった美しい所作、
あの丑ちゃんが、こんな立派な役者に成長したなんて(感涙)。

ちなみに娘がビビったのは、スプラッタな場面だけだった。
あとは幽霊が出るたびに縮み上がって、
お化け屋敷を見物するように楽しんでいた。

見終わってからは、
「面白かったねー!」
と喜んでいたが、登場人物について語り始めると、
「『とり殺すからそう思え』って師匠が死ぬとき書いたのに、
 新吉がお久と一緒になろうなんて考えたから、そもそも悪い。
 『愛の逃避行』なんかするから、どんどん悪いことが起こるんだよ。
 優柔不断過ぎる!新吉、ナニもかもオマエが悪い!!!!」
と、娘の新吉批判はとどまるところを知らなかった。

娘は、とりあえず頭の中がまだ小学生なので、
菊之助の色気に捕まる段階には達していないようだった。
PG-12指定も、結局、全くなんともなかったようだった(爆)。

Trackback ( 0 )




昨日のポゴレリチの話のつづき。

インタビュアーからチャリティ公演などの慈善活動について
尋ねられたポゴレリチは、自分の生育歴にその源があると語っている。

「私達の家はとても深い宗教の伝統があります。私の父はキリストの弟子で、母は東正の信徒で、だから私達の観念の中で、慈善を好むのはとても重要な美徳です。」

ポゴレリチの父親はクロアチア人だから恐らくカトリック教徒、
母親のほうはセルビア人なのでセルビア正教徒だった、
ということだろうと思われる。
宗派は違っても、ご両親ともに敬虔な信者でいらしたのだろう。

「私の若い時私がとても幸運なことを知っています――私は良い先生に出会うことができて、私の日の組は重視することができて、私も助けられて、そのため私は更に返報するべきです。私の演奏の中から返報して、その他の方式でまだ返報することができなければなりません。」

ポゴレリチは、教師との出会いや自分の受けた教育が
素晴らしいものであり、自分は幸運だったと述べている。
そうやって自分が育てられ今日があることに感謝し、
自分にできる「演奏」という行為をもって
自分の受けた恩に報い、世に貢献したい、ということのようだ。

「私は永遠に私が1981年にメキシコの震災の所運営のコンサートなことを忘れることはできません。たくさんの子供はそのため両親を失って、私のコンサートは良い金を募って彼らのためにおもちゃと楽器を買うことができて、彼らの教育と慰めに。4分の1つの世紀の過去、私は台湾が障害を聞くためにと障害の児童の開催した慈善のコンサート後で、いくつか子供は舞台の上で私にまで(へ)泰迪熊とおもちゃの犬を持ちました――それでは一瞬の間、私はまるで当時のメキシコの子供を見て、今贈り物を私に返します。これは私をたいへん感動させます。これは私は舞台の上から所が最大の楽しみを得ることができるのです。」

81年のメキシコ震災被害者のためのチャリティ公演や、
その後の(25年ほど前?)台湾の障害児教育のための演奏会など、
自分の演奏とその収益が他人のために役立ったかもしれないと
思うことのできた経験は、彼にとって幸福なものだったようだ。
『いくつか子供は舞台の上で私にまで泰迪熊とおもちゃの犬を持ちました』
というのが、個人的には愉快な感じがして心惹かれる(^_^;。

「私の家庭は共産党が権力を握る前にとても富んで、だからお金は私にとってまったくめったにない事ではありません。私は金銭に対して少しも夢中になりなくて、米国とヨーロッパの消費する主義誘惑あるいは影響をも受けることはありえません。」

ユーゴで共産党体制が完成する以前、
ポゴレリチ家はかなり裕福であったようだ。
幼い頃から本格的に英語を学び、単なる教養としてピアノを習った、
というユーゴ時代のイーヴォ少年の境遇からも、
それは想像することができる気がする。

ただ、だからと言って、ポゴレリチが無欲で金銭に無頓着である、
とは、ファンとしての私には思われない。
彼の儲け方は、それなりにしたたかであると感じるからだ。
不完全な翻訳からは真意は読み取れないが、ここで彼が言いたいのは、
『自分はいくらでも稼ぐことができるが、
富むことがどういうことか、幼い頃から知っているので、
自分を見失うことはない。私は金の使い方を知っている』
みたいなことではないのかな、と想像するのだが・・・・。

「私の母方の祖父は共産党の手の政治の後で仕事権力を剥奪されて、彼にとってこの根本は彼の死刑を判定するのです。しかしあなたは彼がそれから何をすることを知っていますか?彼は道路清掃夫になって、しかしたいへん道路清掃夫になる尊厳があります。」「彼は以前はそんなに富んで、しかし彼は同様に道路清掃夫になることができて、その上とても光栄にこの仕事をします。」

ポゴレリチは以前もインタビューの中で、
自分の祖父に言及していたことがあったが、
どうやらこの人は、共産党体制の中で何か批判されることがあって、
それまでの裕福な境遇から一転して、道路清掃夫になったようだ。
しかし彼は名誉と尊厳をもってこの仕事に従事したようで、
そのこともまた、若かったポゴレリチに大切な教訓を与えたようだ。

******************

残念ながら、ネットでは抜粋となっていて、
ここまでしか読むことができないのだが、
今まで知らなかったことが語られている、
なかなか興味深いインタビューだったと思っている。
できれば全文が掲載されている書籍のほうを手に入れたいが、
繁体字中国語の本など持っていても何かのタシになるのか、
いや何より、無事に取り寄せることができるだろうか、
というのが、当面、かなり、不安な問題だ。

Trackback ( 0 )




ネットサーフィンしていて、『歐洲鋼琴家──波哥雷里奇 訪問節録
という、ポゴレリチに関する中国語の記事を見つけた。
繁体字ということは台湾の記事だろうと思われた。

中身は、インタビューの概要のようだった。
全文はこれを収録した書籍が別に販売されているらしかった。
例によって自動翻訳の機械で読んでみたのだが。

『私は、若い有名になる利益、私の私を使うことができる評判にあるのは芸術の貢献で、わずかにこれだけですと言うことしかできません』

と、何を言うことしかできないのか完全に不明な出だしだった。
つづく段落で、アメリカなどでは芸術そのものは軽視され、
容姿やスキャンダルばかり取り沙汰されそれで芸術家が売れる、
という意味の批判をポゴレリチが展開しているので、
この箇所ではその逆のこと、つまり、
「自分の価値は、自分にできる芸術的貢献のみに、ある」
ということが言いたいのだろうと、私は脳内修正した。

このあと、ポゴレリチが自分の話の例として、
バイロン・ジャニスやヴァン・クライバーンなどの名を出すのだが、
これが中国語でなんらかの漢字を与えられているものだから、
自動翻訳にかかると、バイロン・ジャニスは「かたいニース」、
ヴァン・クライバーンは「範・クレイ本」になってしまっていた。
そういえば以前、ありましたよね、
中国語のアジアカップ公式サイトに掲載されたサッカー選手の名前が
自動翻訳のせいで大笑いになってしまった話が。

『レコード会社はまだかたいニースが範・クレイ本のすでに記録したことがあるプログラムリストを記録することを望みません』

そんな意味不明なものは私も望まないが、
前後の文脈も含めてまたまた脳内修正すると、どうやら、
「バイロン・ジャニスは優れた演奏家であったのに、
レコード会社は米国のアイドルのヴァン・クライバーンのほうを
ずっと大切に考えていたので、彼が録音した曲と同じ曲目は、
バイロン・ジャニスにはレコーディングさせないようにした」
みたいなことではないかと思われた。

そして、その次の部分には、個人的に、かなりウケた。
『チャイコフスキーはかつて彼の書簡の中で言及して、1つの米国の女性のピアニストはワイマールとリストまで(へ)何の授業に行って、米国に帰った後にリストの看板に命中して学生を教えにきて、富婆になります。』

米国のある女性ピアニストが、ワイマールのリストのところへ
ナニを習いに行って(?)、アメリカに帰ってからは『リスト直伝だ』と
ふれまわって学生にそれを教え、大もうけして富婆になった、という。
凄く、イイ響きというか、イイ字面じゃありませんか、『富婆』って。

ポゴレリチの引用によると、リスト本人はそんなに稼いでいない、
ということで、つまるところ、この抜け目ない女性はリストの名を利用し、
自分だけ大金持ちになったらしい。
リスト本人は富爺には、なれなかったのだな。

なお、これの後半は、自動翻訳ながら、かなり興味深いことが
ポゴレリチ本人によって語られている。
彼の宗教的なルーツ、ユーゴ時代の彼の生家が裕福であったこと、
彼の祖父の生き方について、等々、
日本では活字になっていない内容が出ていて、面白かった。
これについては、のちほど、改めてご紹介したいと思います。

Trackback ( 0 )




AERA No.38を買った。
動機は、たかこ(和央ようか)さんが表紙だったから、
というヨコシマなものだったが、久々にこの雑誌を全部読んだ。

それでひとつ思ったことがあるのだが。
この中に、『公務員の夏休み 至れり尽くせり』
という若林亜紀氏の記事があって、多分、主旨は、
「民間が額に汗して真面目に低賃金で働いているときに、
公務員は、こんな馬鹿馬鹿しいことにいちいち手当を貰って、
ゼータクで世間知らず。手当なんか、カットカット!」
みたいなところではないかなと読んでいて思ったのだが、
ここに列挙されている中で、少なくとも「沖縄県の離島医療手当」は、
責めるべきものではないのでは?と私は思った。

表題にある「夏休み」とは関係ないだろ、というツッコミはさておいて、
この離島の医師に用意されている手当の内容というのが、
「基本給48万円のほかに、医療業務手当が70万円、診療所2階の住宅つき」
という、本州の一地方都市への転勤と較べれば数字的には破格のもので、
「それでも医者が集まらないのが島の悩み」と書かれている。
この設定が、さも、あり得ない非常識な特権であるかのように、
若林氏の文章からは読み取れるのだが、
これって、本当に、ほかの、筆者言うところの「トンデモ手当」と同様に、
カットすべき、非常識な「貰いすぎ」なのだろうか?
私はむしろ、もっと値上げすべき手当ではないかとさえ思うのだが。

ほとんどの医師にとって、離島でこの程度に優遇されることに較べ、
低収入でも家が狭くても、都会で勤務医をしたほうが明らかに良い、
ということが、ここではっきりしているのだ。
特定の医師が、私利私欲からツリアゲをしているのではなくて、
月に100万円以上貰い住宅までつけて貰ったとしても、
この離島に赴くために払う犠牲は埋められない、というのが、
普通の医師ほぼ全員の判断だということではないのか。
だから集まらないのだろう?

地理的条件は変えられないし、離島はそう簡単には、
都会同様の生活の便利さを備えることはできない。
医師本人の学究的な活動にしても、離島では圧倒的に不利だ。
「医療とは報酬の問題ではない、人の命を救う尊い仕事である」
等々と医師の心構えなど説いてみても、非現実的なだけだ。
しかし、島の生活において、医師は必ず必要だ。
「こんなに税金使うの馬鹿馬鹿しいし、無医村で我慢すべき」
などと言う人は、居ないだろう?
ならば、唯一できることは、ほかの場所ではあり得ないほどの
高額をもって優遇することしか、ないのではないか。
それには、つまり、月に118万円では足りない、ということだ。

以前、公立学校の教諭の待遇を上げるべきと書いたときと同様、
質の高い人材を確保したかったら、高額優遇が最も有効な方法で、
本当に必要な職種なら、そういうところにこそ税金をかけろ、
というのが私の一貫した考えた。

・・・シマッタ、娘の税金作文をコレにすれば良かった(爆)。
もう、ほかのことでお茶を濁したような文章を書かせてしまったよ(逃)。

Trackback ( 0 )



« 前ページ