転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



私が集中的にヒルビリー・バップスを聴いていたのが、
正確にはいつ頃だったのか、もうよく思い出せないのだが、
真夏に、仕事の終わったあとアパートの部屋で、
エアコンをかけて『TEAT IT UP』を聴いていた記憶があるので、
多分、熱中し始めたのは87年の夏頃だったのではないかと思う。
気に入った最初から、こんなロカビリーの決定版みたいな歌を
毎日聴いてしまった私は、その後、彼らを超えるバンドに出会えず、
今にして思えば、ツイていたのか、いなかったのか、不明だ(苦笑)。

ヒルビリー・バップス "ビシバシ純情"(YouTube)

今、ネットで調べたところ、ヒルビリー・バップスの結成は83年で、
当初、インディーズのバンドとしてライブハウスで活動していたようだ。
最初から彼らのレパートリーはロカビリーのカヴァーで、
メジャーデビューは86年4月だった。

86年と87年にはそれぞれ深夜枠でのテレビ出演も
レギュラーでやっていたのだが、私は当時は全く知らなかった
(テレビ嫌いがアダになったか、
それとも広島ではそもそもやっていなかったのか・・?)。
87年11月に出た2ndアルバム『HILLBILLY THE KID~DOWN THE LINE』は
情報不足で発売に気づくのが遅く、88年になってから買った。

このアルバムに収録されている『真夜中をつっぱしれ』は、
結果的に宮城宗典の歌った最後のシングルになってしまうのだが、
私はこの曲を初めて聴いたとき、
「やられた~!」
と思ったものだった。
何にヤられたと言って、その歌詞の内容と、宮城の魅力とが、
あまりにもピッタリとシンクロしてしまったところが、凄かった。

この曲は、愛する女性が車で来てくれるのを待つ男の歌だ。
真夜中を駆け抜け、やって来るのは「キミ」だ。
救急車と派手なカーチェイスを繰り広げ、
白バイの目をかすめて危ない橋を渡り、
鮮やかなハンドルさばきで向かって来るのが「キミ」だ。
一方「ボク」は、自分の部屋で、ただ待っていることしかできない。
ひとりじゃ不安定、寒すぎて眠れない。
ムーンライトを浴びて疾走する「キミ」を思い浮かべながら、
あったかい、でっかい、ブランケットで、
早く早く「キミ」を抱きしめたい、
・・・と、「ボク」は、「キミ」をひたすら待っているのだ。
Drivin' Drivin'
Comin' home, My baby

ヒルビリーザキッド 第1話・主題歌『真夜中をつっぱしれ』(YouTube)
(『ヒルビリー・ザ・キッド』は宮城宗典ほかヒルビリー・バップスの
メンバーが主演した87~88年の深夜ドラマ。
劇中でも多くの歌を宮城らが歌い、かつ、様々な形態で演奏していて、
今となっては非常に貴重な記録である)

少なくとも、88年初頭の私の感性では、
これは男女の役割が逆だ、と思った。
ひとりでは何もできない女のところに、
男のほうが車を駆って颯爽とやって来る、
というのが定番のイメージではないか。深夜ならば、なおのこと。
だのに、この曲では、それが反対になっている!

男前なのは、「キミ」のほう。
一方「ボク」は、「キミ」に三日会えなかっただけで不安で、
早くも不眠症になってしまったというのだ。
こんなものを、あの宮城宗典の歌で聴かされた日には!!
どうもこうも、ハマり過ぎて危険ではないか!!
なんというルール違反をやってくれるのだ!!
と私はこの曲と彼の声のあまりの魅力にクラクラ来た。

宮城宗典が死んだのは、私が初めてこの曲を聴いた直後だった。
88年3月29日、初の全国ツアーの、初日公演の翌日、
彼はビルの12階から飛び降りた。
遺書は、なかった。

(続)

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ヒルビリー・バップスの名を知ったのは、
昨日書いた通り私にとっては清志郎絡みだった。
彼がヒルビリーのために書いた『BAKANCE』という曲を、
私はまず87年3月の清志郎本人のソロライブで聴き、
清志郎がこんなにカタ入れする若い子達というのは、
どんなバンドなんだろうかと非常に興味を持ったのだった。

それで、知人が偶然所持していた彼らの1stCD『TEAR IT UP』を
カセットに入れて貰って、聴いた。
その時点で私は、メンバーの名前もろくに知らず、
もちろん顔など見たことがなかった。
ただヒルビリー・バップスというバンド名だけを頼りに、
辿り着き手に入れたCD(の録音・爆)だった。

一曲目が『激的バーニング・ラブ』、
プレスリーにBurning Loveって曲がなかったっけ?と思いつつ、
聴き始めたら、このCDがなんともノリが良くて、
どこか懐かしい感じさえして、これってなんだっけ?と
ウキウキした気分が止まらないまま、一気に聴いてしまった。

 ヒルビリー・バップス:激的バーニング・ラブ(YouTube)
 (ドラマ『ヒルビリー・ザ・キッド』より)

清志郎の提供した『バカンス』も勿論あったし、
仲井戸麗市のソロ・アルバムにある『ティーン・エイジャー』も
ヒルビリー風にカヴァーされたものが収録されていた。

 ヒルビリー・バップス:ティーン・エイジャー(YouTube)
 仲井戸麗市:ティーン・エイジャー(YouTube)  

また、三曲目の『SUMMER TIME・サマー体育』は、
RCサクセションのCD『PLEASE』に入っている『体操しようよ』を
彷彿とさせるような可愛らしささえあって、
私が彼らを気に入るのは、RCに通じるものがあるからなのかと、
最初は漠然と思っていた。

それから幾度かCDを聴いて、私はハタと気づいたのだ。
この、エイトビートではない、つっかかるようなリズム、
これはロカビリーではないかっ、と(バンド名で気づけよ、遅っっ!)。
こんな若い子が新しい感覚でロカビリーをやるなんて、
しかも、これほどまでの完成度で楽しく聴かせるなんてと、
私はここから俄然、面白くなった
(かなり後になって、ボーカルの宮城宗典は私と同学年だと知った。
87年には22歳かそこらだった。自分もだ(爆)。
だのに『こんな若い子が』って、一体。
私は当時、どうも自分と清志郎が同世代だと勘違いしていたらしい。
単に、ヒルビリー・バップスを知る以前に、
清志郎のファンになっていた、というだけだったのに)。

(続)

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なかなか腰を据えて宮城宗典のことを書く機会がないのだが、
先日、ここで前振りだけしたように、YouTubeには実に貴重な
在りし日の彼の映像がUPされていて、私は今になってこのように
歌い、動き、笑う彼の姿が見られるなんてと、ここ数日、
見たかったものに、ついに巡り会った感激を味わっている。

そしてネットで検索してみたら、今でもずっと、
宮城宗典を忘れないどころか、彼の大ファンで、
彼がいた当時のヒルビリー・バップスを、
最高のロカビリー・バンドのひとつとして、
変わらずに愛しておられる方々が少なくない、
ということが、とてもよくわかった。嬉しかった。

きょうYouTubeで見つけたお宝は、
ヒルビリー・バップス:BAKANCE(YouTube)
だった。
この映像にはタイトルしか出ないけれども、
これは忌野清志郎が彼らのために書いた曲だ。
私がこの曲を初めて聴いたのは清志郎バージョンで、
87年当時のソロ・ライブのときだったと思う。
もっとも、清志郎のはずっとアップテンポだったような気がするが。

そう思って、清志郎のライブ・アルバムを検索したら、
これが入っているライブCDはHAPPY HEADSだとわかったのだが、
収録は中野サンプラザとなっていて、
私はどうも渋谷公会堂で聴いたように記憶していたので、
ちょっと混乱を来してしまった。サンプラザだったっけ???

(清志郎ソロではなく)RCサクセション:BAKANCE(YouTube)

と、それはともかく、宮城宗典だ。
私は彼以降、これほどロカビリーを体現したシンガーに、
まだ一度も巡り会ったことがない。
なぜ、彼が自殺したのか、理由は今も定かでないようなのだが、
私は彼に限っては、「若くして死んで伝説になったのが良かった」
とは毛頭、思わない。
もっと、ずっと聴いていたかった、と痛切に思っている。

(続)

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朝、佐伯区の舅宅を片付けて、姑を西区のT園に送りとどけ、
安佐南区の広陵学園へ急いで出かけた。
魚住恵・りえ姉妹の『おはなしとピアノによるコンサート』
を聴く予定があったからだ。
あいにくの雨にも関わらず、会場はほとんど満席だった。

りえさんの声は普段でも明晰で美しいが、
それが朗読になると、更にトーンが多彩になって、
宮沢賢治、芥川龍之介、それにアンコールの金子 みすゞ、
と、それぞれの世界を全く別の色合いで表現していたのが、
とても興味深かった。
前回もそうだったのだろうと思うが、
きょうのほうがそれをいっそう、鮮やかに感じた。
ないものねだりだが、こうなると『センセイの鞄』も
もう一度聴きたいと思ったりした。

りえさんの才気煥発なトークに、恵さんが独特のテンポで
時にお姉さんらしくツッコんだりなさっていたのが可笑しかった。
とりわけ、名曲エピソードの話題のときに、
フランツ・リストは、ハンサムで浮き名を流していて、
たくさんの女性と愛を語らってたんですよね、
等々と、りえさんが振ったら、恵さんが当惑気味に、
「見たわけじゃないので・・・」
と返されたのには、会場、オオウケだった。

しかしこれも何か象徴的というか、
りえさんは言葉を聴かせるプロとして、想像力を駆使し、
ときにご自身の創造的な感性を交えて朗読をされる一方、
恵さんのほうは、ピアノ音楽の研究者としての視点があり、
作曲家や作品に一定の距離をおいておられるということかな、
と思ったりした(違ったらすみません・逃)。

その恵さんのピアノ、今回の曲はどれも、
日常的に耳にするようないわゆる名曲揃いだったが、
上質なテクニックを持つ高度な弾き手にあたると、
こういう曲が、「名曲」たる所以の魅力を、
最大限に発揮するものだなと、きょうは、改めて思った。
帰り際、大混雑する会場出口で、
「ドビュッシーがこんなに新鮮だなんて!
こんなふうに聴いたことがなかった!」
と熱心に感想を語っていらした女性客もあった。

ときに、先日の拙日記でこのコンサートの予告を書いたら、
それで興味を持って下さった方がいらして、
その某嬢とメールで連絡を取り合い、
会場でうまく落ち合うことができた。
某嬢の御陰で、終演後にもとても楽しい時間を持つことができた。
ありがとうございました!

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9月の清志郎の野音、
《ふぁんくらぶっ》で取れず、
ぴあ先行でハズれ、
一般発売の今朝、あっというまに《予定枚数終了》。

オワタ~~(泣)!

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昨日から舅宅に来ている。
舅宅は今から三十年前に開発の始まった住宅地で、
舅姑はかなり早い時期の入居者だったようだ。
それまで南区の国道沿いの小さな土地で商売をしていた舅は
《こがいに狭い家じゃあ、玄関から棺桶が出ん》
というのが不満で、この新興住宅地の建て売りを買った。
主人が大学生の頃のことだ。

舅姑はそれから晩年にさしかかるまで元気だったから
昼間はもとの南区の家で仕事をし
夜には佐伯区に戻ってゆっくりする、
という毎日を二十年近く過ごした。
じーちゃんの葬儀の日、私は霊柩車の中で、
《良かった、玄関から出発できましたやん》
と棺桶に向かって言ったものだ(爆)。

今こうして姑と向き合って過ごしていると
ここは本当に静かで良いところだなあと思う。
自家用車を持たない我々夫婦には
正直なところ不自由な場所ではあるが
およそ騒音というものがなく
まさに住宅地という落ち着いた雰囲気なのが良い。
飼い犬の声や、近隣の家の生活音、
宅配のトラックの気配などがときどき聞こえるくらいだ。

一方で団地全体として見れば明らかに高齢化が進んでいて
どこの家にもおじいちゃんおばあちゃんがいる。
数十年前、若夫婦と小学生中学生の子供たちが
たくさん賑やかに越してきてからは
学校が建てられ公園が賑わった時期がしばらくあった筈だが
今は、静かな午後に杖を持ってゆっくり歩く人たちの姿が
あちこちに見えるようになった。
朝夕は複数の施設のデイサービスやデイケアのバスが
何台も住宅の間の道を通っている。
団地にも壮年期や老年期があるんだなあという印象だ。

もっとも、私は昔から祖父母に育てられた子だったので
この隠居っぽい団地には、どうも親しみが感じられる。
街のテンポがゆっくりしていて
とげとげしさがなくて
でも案外元気で(爆)なかなかいいんじゃないかと思う。

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HILLBILLY BOPS - 真夜中をつっぱしれ(YouTube)

今から佐伯区に行かなくてはならないので、
この話は、またのちほど!

いや~、こんなものが、今になって観られるとは!
ありがとう、YouTube!!

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バイリンガル、話す言語により性格変えている可能性=米研究
『[ニューヨーク 24日 ロイター] 2つの文化に順応し2つの言語を話す人たちは、話す言葉によって無意識に性格も変えているという研究結果を、米国の研究者が明らかにした。』『同研究は、ニューヨーク市立大学バルーク校とウィスコンシン大学ミルウォーキー校のチームが、バイリンガルのヒスパニック系女性グループを対象に実施。結果を専門誌「ジャーナル・オブ・コンシューマー・リサーチ」で発表した。』『それによると、被験者の女性たちは英語を話すときよりもスペイン語で話すときに、自分がより積極的に自己主張すると答えた。また、この変化はバイリンガルでも1つの文化のみに適応する人たちよりも、バイリンガルで2つの文化に順応する人々の間でより顕著だったという。』

私は勿論、バイリンガルなどではないから、
彼らの本当の実感は想像するのみだが、
少なくとも日本語・英語に関して言うなら、
日本で好まれる態度と、アメリカで好まれる態度は違うし、
ものの言い方、話の順序についても、必要とされる要素が、
日米でははっきりと異なると、学生の頃から感じている。

物凄く卑近な例で言えば、料理の手順を説明するのに日本語なら
「肉は厚く切ると火が通らないので気をつける」
みたいな言い方になんの問題もないが、英語でこれは駄目だ。
「肉は薄く切りなさい。内部まで火を通すために」
とズバリ言わないと、英語にならない。

日本語を英語に置き換えただけでは、たとえ語法的に正しくても、
アメリカ人に通じないことがよくあると私は思っている。
私は日本人としては、相手の意を汲むように、言い過ぎないようにと
むしろマイルドな表現を探しながら会話をすることが多いが、
英語で何かせねばならない状況に陥ったときは、
可能な限り明示的に具体的に、短い文で結論を言うようにしている
(長い文は私の能力では言えない、という問題もあるが・爆)。

相手の意見に賛成できない点があるときには、
「私には異なる考えがあります」と最初にハッキリ言うことが大事で、
「あなたの言われるのは尤もなのですが」
「お気持ちはよくわかるのですが」
等々の前置きや譲歩は、英語では話を複雑にするだけだ。
ズケズケ言うくらいで、アメリカではちょうどだと私は思っている。

・・・と、私が20年前に言ったとき、当時知っていたアメリカ人は、
「話す言語によって・相手の国によって態度が変わるだって?
そんなことあるわけがない。アンタがそうしているなら、
それはアンタがダブル・スタンダード。アンタは信用されない」
と言いおった。容易に忘れんぞ(--#)。

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昨日、労組の話を書いていて思い出したのだが、
私が婦人部の活動で最も困惑したのが、
『生理休暇を取りましょう』
と職場の女性たちに働きかけなければならなかったことだった。

労働基準法にも明記されている権利なので、
取るのは全く問題がないのだが、
なにしろ個人の体調には差が大きいものだから、
この制度がある御陰で本当に救われている人から、
年に一度たりとも思い出さない人まで結構いて、
トータルとしては、この特別休暇はあまり省みられていなかった。

『権利なのだから皆で公使しないと、剥奪されてしまう。
切実に必要がなくても、健康を守るために積極的に取って下さい』
と本部のほうからも言われるので、私は婦人部会のたびに、
取りましょう、取りましょうと連呼していたのだが、内心では、
『年休でなんとかしたい気持ちは、私にも、あるな』と思っていた。
こういうのって、今で言う個人情報ですよね???
トップシークレットを公開しないと、権利が公使できないって
・・・・・・(泣)。

そういえば、先日会った、某高校教諭の友人Oが言っていたが、
今年度からメタボ健診が義務づけられたために、
学校の先生方も全員、腹囲を計られ記録されるのだそうで、
友人Oは、これを校長に見られるのがイヤで仕方がないとのことだった。
「人間関係もできてない、新任の校長に、なんで4月にいきなり、
私の腹囲を知られにゃならんのか!旦那でさえ知らないのに!
体重や血圧だけでも、知られて嬉しいことなんかなかったのに!」
と彼女は怒っていた。

「校長が廊下で私に会ったとき、内心で、
『この女、ハラマワリ92センチ。ぷぷ』
と思っていないなどと、どうして言える!?
成人病由来の疾病で突然死しでも、校長の責任は問わない、
と書いて血判押してやってもいい、私は個人情報を守りたい!!!」
と友人Oの勢いはとどまるところを知らなかった。

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国交省「タクシー券」禁止初日、終電に駆け込む姿も(読売新聞)
『「タクシー券の安易な使用をなくしたい」。中央省庁の「居酒屋タクシー」問題を受けた冬柴国土交通相の“鶴の一声”で23日から2か月間、タクシー券の使用禁止に踏み切った国土交通省。』『取り組み初日の夜、最寄りの地下鉄駅は終電まで人波が切れ目なく続き、客待ちをするタクシーの車列はほとんど動かなかった。』
『午前3時。庁舎はまだ30近くの部屋から明かりが漏れている。』『ある部屋では、書類整理に手間取り、終電を逃したという男性係長(41)が1人、がらんとした室内でパソコンをたたいていた。仕事を終えたらソファで仮眠し、始発電車でいったん帰宅するという。』『国交省のタクシー券利用は2006年度、霞が関の本省だけで12億円分あった。』

定時で帰れる職場を「甘い」として見下げる風潮が、
世の中の一部には、あるようなのだが、
本来的には、まともに家にも帰れないような労働条件のほうこそ、
積極的に自慢すべきものでないし、推進すべきものでもないと思う。
まして残業手当のない職場では、終業時刻以降の労働はボランティアで、
公務員である彼らも多分そうだったのではと思うのだが、
賃金が発生しない仕事を夜更けまで続けていたのは、
どのような理由・事情によるのだろうか。

単に、これまでずっと、彼らの仕事のやり方にムダが多すぎて、
昼間に終わる筈の仕事を夜まで持ち越して来たのか?
それとも、どんなに頑張ってもまともな時間に終わらないほどの、
大量の仕事を、彼らは最初から受け持たされているということか?

あるいは、誠意を持たずにやれば晩までに終えることが可能な仕事を、
皆が自発的に、見えないところにまで手を入れ質を高めようと努力し、
結果として毎夜の深夜帰宅が避けられなくなっていたのか?

いずれにせよ、公務員が考えと行動を改めたら、
タクシー業界という「民間」が打撃を受けてしまった。

**********

私が最初に勤めた職場は、とてつもなく労組の強いところだった。
私はそこの婦人部長をやっていたというのがヒトツ話なのだが(汗)
組合が人事権以外のすべてを掌握していたようなもので、
17時になったらゼロ秒ジャストで、
書類整理の途中だろうが、会議の最中だろうが、
瞬間に書記長が立ち上がって、そこから職場会議だった。
職場会議の内容は勿論、「業務を続行するのか、何時までするのか」。

あるときなど、打ち合わせで、同僚の発言中に17時になり、
管理職は一旦退席し、我々で職場会議に移り、
「17時20分まで延長、終わらないときは打ち切り」
と決定されたのち、もとの会議が再開されたことがあった。
「では、つづきを、どうぞ」
と進行係に言われて、発言中だった同僚は、
改めて立ち上がったが、しばし無言になり、
「・・・・すみません。なにを、言っていたか、忘れました」
と言ったものだった。

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