転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



昨日は夕方、両親を一旦、自宅につれて帰った。
今回は家で二泊して、5月1日の夕方、某ホームに戻る予定になっている。

帰るなり、父は次にホームに行くときに持って行く荷物を作り始め、
夏物肌着、夏物パジャマ、それに夏物ポロシャツにズボン、
本、ブックエンド、ペットがわり(笑)の猫の置物、などなど、
かなり前向きな内容になっていて、感心させられた。
「ワシも、もう長うないけぇ」
という前フリで何を言い始めるのかと思ったら、
「土蔵に仕舞っとった、ええズボンをはこう思う」。
はけよ、早く(笑)!
上等のなんとかや大切なあれこれを、家の奥深くに仕舞い込んだまま、
出してみることもしないのなら、持っていないのと何も変わらんぞ。
「あれがある。いつか使おう」と噛みしめるシアワセも否定はしないが、
その状態で死んだ(爆)のでは、棺桶に入れて一緒に焼くのが関の山だ。
およそこの世の享楽はあの世に持って行けないのだから、
味わい尽くしてこそではないか(笑)。

母のほうは、とにかく脚が痛いのが毎日の苦情で、
痛いからと動かさないでいると、ますます筋肉が弱って、
毎回の動かし始めの筋肉痛が強くなり、
気持ちよく歩けないのが嫌で、尚更歩かなくなる、よけいに弱る、
……という悪循環だ。
通っている整形外科でレントゲンは何度も撮ったし、注射をして頂いたり、
鎮痛剤・湿布・塗り薬・安定剤など各種処方して頂いたり等、
日常の通院で試せる検査や処置は、ここ何年も続けている。
痛い箇所は脚のあちこちに移動するが、トータルでは良くなってもいない。
おそらく、経年劣化を治療するのは無理、ということなのだろう(汗)。
それなら、最初に椎間板ヘルニアで寝込んだときの病院にかかって、
神経ブロック注射などを再度検討して貰っては、と私は幾度か提案したが、
「遠い病院に行くのは大ごとやし、通われへんし」
と母は乗り気でない。

座っているときと横になっているときは、どこも痛くないのだそうだが、
痛みさえ感じないでいられれば、もう立てなくても車椅子でも良い、
とまでは、本人は諦めていないわけで、飽くまでも、
「痛いのがなおって、思い通りに動けるようになりたい」
と今も希望している。
ならば、やはり億劫でもリハビリだけは続けるしかないだろう。
運動は嫌いだからしないが、脚の痛みは良くなって欲しい、
という都合の良い希望は、若い人でも叶わんぞ(^_^;。

***************

両親に関する、4月末日時点での懸案事項は、
・母、新しい整形外科受診(←遠くなく、かつ違うクリニックが良いとのこと)
・母、ホームで使用する車椅子・歩行器のレンタル手続
・父、足の巻き爪の処置のため皮膚科受診
・父、原爆検診をこれまでの主治医からホームの提携病院に変更する手続
・父、糖尿病の、被爆者健康管理手当申請
・父、自家用車処分、運転免許証返納、JAF退会の手続
・両親宅の新聞を止める連絡
・両親宅の郵便物・宅配便の転送届け(→私の家?ホーム宛?要検討)
・回覧板を今後は両親宅に回さないで貰うよう、隣近所に再度確認
・両親宅の冷蔵庫確認、食料品処分、ゴミ出し

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私の念願(爆)であった「両親の入浴」が、本日午後実現した。
某・介護付有料老人ホームで、先に父が、次に母が、
勧められるままフロア内の浴室に入り、
介助の担当の方に体を洗って貰って、無事に入浴ができた。
ホームの皆様、本当にありがとうございました~~!!!

ふたりとも、久しぶりに(爆)風呂に入った快い疲れもあって
午後に私が面会に行ったときには、いつもより更にのんびりしていた。
母の不満は専ら自分の脚が痛いことだけで、
ホームでの生活そのものは、家事も何もしなくてよく、
外から人が来ることもなく、穏やかで心和み、極楽だそうだ。
父のほうは、もともと出て来たものを食べるだけの生活だったので、
今となっては、自分の家でないことも別に気にしていない様子で、
ここに来る前にかなり抵抗したのが、嘘のようだった(^_^;。
「自宅以外に、ここにも家を持った」という理解でいるそうだ。
階下の売店まで父はひとりで買い物にも行っているとのことで、
大いに結構な話だった。

明日は一旦、自宅に帰ることになっているのだが、
なんと、「少しずつ慣れる」どころか2人とも、
もう今後はホーム主体の生活で良いとのことだった。
さいですか(^_^;。
なので、今回は自宅で2泊して、ヘルパーさんに手伝って頂きながら
食品などの始末をし、夏物の着替えその他の欲しいものを揃えて、
再度、5月1日にホームに戻ることになった。
そのあとは期限は設けず、帰りたくなったり用ができたりしたときに、
適宜、外出あるいは外泊のかたちで自宅に戻ることにしたいそうだ。
私には勿論、異存なかった。
2人の適応能力に感心するとともに、やはり夫婦で来たので、
施設生活にもあまり違和感がないのかなと思ったりもした。

それはともかくとして、きょう入浴後に父が裸足になっているのを
改めてとくと観察してみたら、両足ともにかなり巻き爪になっていて、
しかも、手入れを怠っているうちに爪そのものがいびつに肥厚しており、
足の指先の皮膚の角質化も、相当ひどいらしいことがわかった。
本人は痛くも痒くもなんともないと言うのだが、
高齢で糖尿病もあるので、感覚が鈍くなっていることは大いに考えられる。
これは近々、父を皮膚科に連れて行かなくてはと思った(汗)。

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昨日から両親が某・介護付有料老人ホームに入った。
外泊等は今後も自由なので、特にホーム生活の初期である現在は、
まだ自宅で過ごす日数のほうが多くても良いと認めて頂いており、
今回は一応、4泊5日だけのショートステイの予定だ。
これでホームの生活を覚え、必要なものを改めて準備して、
来月また、今度はもっと長めに滞在する予定になっている。

今回の入居に先立ち、23日(月)に実家に銀行2社を呼んで金策をし(爆)
同時進行でヤマトの『らくらく家財宅急便』に来て貰って
両親が持って行くと言った肘掛け椅子とチェストの発送作業をした。
そして、昨日25日(水)当日は、昼前に、某タクシー会社のバネットで
実家から両親の身の回りの荷物や、母の歩行器をホームに運んだ。
ホームでは、入居等の荷物の多い日は台車が借りられるうえ、
職員さんも手を貸して下さり、とてもスムーズに搬入できた。
それから実家に一旦戻り、留守中の新聞の配達を止める電話をし、
午後から改めて両親をタクシーに乗せ、ホームに連れて行った。
日頃身なりに構わない父が、先日私が贈ったポロシャツを着込み、
自分の古びたリュックに、本や菓子パン(笑)、ひげ剃り、
携帯電話と充電器、原爆手帳、等々を詰めて準備していたので、
そのヤル気のある様子に大変感心した。

ホームとは予め打ち合わせしてあったので、着いてしばらくすると、
担当の相談員さんやフロア・マネジャーさん、薬剤師さん、看護師さん、
ヘルパーさんほか様々な方々が両親の部屋に集まって下さり、
自己紹介、予定確認、諸注意、生活面での希望事項の聞き取り、
等々のオリエンテーションがあった。
それぞれの部署の方々が、御自身の担当のお仕事に関して、
両親それぞれのデータを取り、実際に接して情報をまとめて下さって、
そばで見ていて私は、若い人達のチームワークの力を感じた。
皆さん明るい良い方で、ゆっくりと大きめの声でお話をして下さり、
両親も安心したようだった。
90歳近い年齢にしては、2人とも普通に話ができるし、
父は杖、母は歩行器が要るものの、自分で思い通りに動けるということで、
職員さんたちは「しっかりされている」と異口同音に褒めて下さった(^_^;。

昨日は2人の夕食が済んだあたりで私は帰ってきたのだが、
今朝、母から早速メールが来て、
「おはようございます。大変お世話になりました。
おかげさまで朝を迎え、今、爺ちゃんとくつろいでいるところです」
と書いてあり、ひとまず安心することができた。
実際に過ごしてみると、「あったら便利」と思うものがいろいろあり、
次に来るときまでに用意をしたいとのことだった。
今回は5日間なので、来月は10日間、6月は20日間、と日数を増やして行き、
暑さが厳しくなる頃には、ほぼホームで過ごせるようになれれば、
と私は願っている。
自宅ほど完全なプライバシーが得られないところは欠点かもしれないが、
それは24時間、誰かが手を貸してくれるという安心にも繋がっており、
両親がその良さを評価してくれるようであれば、有り難いと思う。
客観的には、複数の「若い、よその人」と会うことは
良い刺激になり、元気の源にもなるのではと私は感じている。

……ということで、「両親の居場所」問題がひとつ前進したので、
きょうは、「墓の引越」に関して業者さんと連絡を取った。
来月上旬に、現地まで業者さんと行くことになった。
暑くなると登山がしんどいうえ、ヘビや蜂やヤブ蚊が出て危険なので
季節的には来月がぎりぎりだと思う(^_^;。
こっちも、そろそろ思い切って目処を付けたい。
将来的に両親の入るところが必要、というのも勿論あるし、
そうでなくても、草木の生い茂る山の上で無縁墓が多数ごろごろ、
という状態は想像するだけで気味が悪く、私が我慢ならないのだ。

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“鉄人”衣笠祥雄氏が大腸がん死去、19日まで仕事(日刊スポーツ)
『元広島の衣笠祥雄氏が23日に死去したことが分かった。』『死因は上行結腸がん(大腸がん)。71歳だった。』『2215試合連続出場の記録を持ち「鉄人」として親しまれた。87年にはプロ野球界2人目となる国民栄誉賞も受賞した。76年盗塁王、84年打点王、MVP。通算2677試合、2543安打、504本塁打、1448打点、打率2割7分。96年野球殿堂入りした。』

昼過ぎ、会社で仕事中に、私はお客様から
「衣笠が亡くなったそうですよ」
と教えて頂き、あまりに突然で、驚いてオフィスで同僚に伝え、
皆でスマホのニュースをチェックしたが、誰も俄には信じられなかった。
そういえば先週だったか、
「解説の衣笠の声がひどい状態で、何か病気でないかと心配」
という意味のtweetを見かけた記憶はあったが、
このように急なことになろうとは思ってもいなかった。
別の記事では、ここ数年、体調の優れないことがあったと、
書いてあったので、以前から治療中ではあったようだ。

カープが最も明るく活気に満ちていた時代、
出来たばかりだった応援歌『それ行けカープ』を
小学生だった私たちが大声で歌ったあの日々に、
いつも、フルスイングで打って駆け抜けていた衣笠。
華も野性味もあった、カープ屈指の名選手だった。
我々の世代の広島人は、塾や学校をサボりたくなる日も
「衣笠は休まん」と考え直して家を出たり、
もう仕事なんか行きたくないと思う朝も、
「衣笠がきょうも頑張りよるけ」と顔を上げ、
自分を奮い立たせて出かけたものだった。

『私に野球を与えてくれた神様に感謝いたします』
という87年の衣笠の引退の挨拶も印象的だった。
その後90年代の初め、私は彼の講演を聞く機会があったが、
間近で見た衣笠祥雄は、まさに太陽のごとく強い光を放つ人だった。
あのときの輝きのまま、燃え尽きる直前まで現場にあり続け、
病を得てもなお衣笠は、文字通り「鉄人」であったのだと思う。

ああ。一時代が終わってしまった、
これじゃもう、野球を観る元気も出ないよ、
……ときょうは午後からずっと思っていたのだが、
なんと今夜は、若い中村祐太が頑張ってくれた。
先日来のアドゥワ誠の、中継ぎとしての健闘も素晴らしかったし、
やはり、将来のある若鯉たちの活躍を目の当たりにするとき、
地元ファンとして最も嬉しく、手応えを感じることができると思った。

広島中村祐太、完投逃し悔し涙も衣笠氏へ勝利届けた(日刊スポーツ)
『<DeNA2-7広島>◇24日◇横浜』『広島中村祐太投手(22)が、今季2勝目を挙げた。』『力強い直球を中心に、強力なDeNA打線を封じ込めた。2回には3四死球で1死満塁のピンチを招いたが、三振と一飛で無失点に切り抜けた。』『9回もマウンドに上がったものの、1死満塁で降板。初の完投勝利を逃し、ベンチに戻ると悔し涙をタオルでぬぐった。5回までは無安打の投球だったが「(無安打は)意識していなかった。四球が多かったし、連打も打たれた。逆転される雰囲気をつくってしまった。内容は反省点です」と淡々と話した。』『快勝で再び首位に立ち、23日に死去していた元広島の衣笠祥雄氏に、勝利を届けた。「(衣笠氏への)そういう思いもあって、自分としては結果を出さないといけないと思っていました」と話した。』

ヒーローインタビューで「涙もありましたけど」と振られると、
中村は悔しい表情のまま「泣いてません」と短く答えた。
バッテリーを組んだアツ(會澤)のハイタッチも無視したそうで、
Twitterでは、非礼であるとの非難の書き込みもあったが、
あれほど良い内容だったのに、終わって彼の頭にあるのは
完投できなかった悔しさだけで、
アスリートとしてなかなかに頼もしいと私は思った。
衣笠が見ていたら笑顔で、例の朗らかな調子でいっぱい褒めてくれるよ!
だからもう泣くんじゃないぞ、のん太っ!

今夜の試合では、当然あると思っていた半旗も喪章もなかったが、
それは衣笠のほうのご遺族の希望とのことだった。
選手として、どんなことがあっても試合に出るという
強い姿勢を崩さなかった衣笠の姿と、
解説者として、常に明るく、実にテンポ良く話していた、
衣笠のちょっと高めの良い声を、改めて、思った。

*****************

帰宅した主人と喋っていて、元祖カープ少年である彼の話から、
いろいろと興味深い事実を確認することができた。

衣笠が「鉄人」になったのは、「背番号28から」だけではない。
彼の、偉大な連続試合出場記録2215は1970年に始まることになるのだが、
背番号28は1974年までなので、そのときは彼はまだ「鉄人」ではなかった。
1975(昭和50)年のカープ初優勝の年、彼の背番号は「3」になったが、
以後もスターではあっても、彼の連続試合出場記録そのものは道半ばで、
誰もそれが世界記録を塗り替えるものになると思っていたわけではなかった。
米メジャーリーグのルー・ゲーリックの持つ「2130連続試合出場」を
超えることが現実的になってきたのは、1980年代になってからだが、
そのルー・ゲーリックの異名が「Iron Horse」であったことから
徐々に、ゲーリックの「Iron(鉄)」と衣笠の以前の背番号「28」とを合わせ
「鉄人(28号)」の愛称が衣笠祥雄を現すものとして定着するようになった。
つまり、先人「Iron Horse」の名があればこそ、
衣笠は背番号「3」の時代を十分に経たのち、初めて「鉄人」になったのだ。
そこに触れた報道が皆無に近かったことは、大変残念であった(ころもん談)。

衣笠は、そんなに三振していない(爆)。
私の中の衣笠は、人間扇風機のごとく毎回がフルスイングで、
かっ飛ばせばホームランだが、そうでなければ景気よく三振、
というイメージだったのだが、記録を見ると案外、三振していなかった(爆)。
通算では、一応、プロ野球史上歴代10位の通算三振数という位置には居るが、
年間の三振数は多い年でも89が最高で、年間100三振の清原みたいなことは
衣笠は実は、やっていなかった。
更に、私が思っていたほど要所要所でホームランを打ったわけでもなかった。
「むしろ毎度怖かったんは、ゲッツーよ(^_^;」
と、ころもんは述懐していた。
それは正しくて、NPBの統計を見ると、通算併殺打記録では、
衣笠は野村克也につぐ歴代2位であった(汗)。

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緒方監督、投手陣乱調で逆転負け「自分の采配ミス」(日刊スポーツ)
<中日11-7広島>◇20日◇ナゴヤドーム
『広島は7回に相手のミスに付け込み、打者9人の猛攻で逆転するも、その裏に登板した2番手中田が中日打線につかまり逆転負け。先発の野村が立ち上がりから失点を重ね、悪い流れになっていた。』

前も書いた通り、私自身は、
「さすがに三連覇などとナメたことを言っては…(^_^;」
と思っている程度の広島市民ではあるのだが、
それでさえ、昨日の試合の結末には怒髪天を突かれた。
7回表で一挙5得点!という展開になったのに、よもや緒方が自分で、
これを負け試合として捨てに行く采配をするとは、本当に呆れた(--#)。

『投手陣の乱調で連勝が5で止まった広島緒方孝市監督(49)の談話は以下の通り。
 -投手陣が20安打11失点
 緒方監督 投手じゃない。自分の采配ミス。
 -先発野村は立ち上がりから失点を重ねた
 緒方監督 それよりも試合の流れ。あそこで野手陣がひっくり返してくれたんだから、勝たないといけない。自分のあれ(采配)が悪かった。
 -勝ちパターンの投手が連投続きで起用に制限があった面も
 緒方監督 それは関係ない。自分が決めてやっている。今日は自分自身、反省するところがたくさんある。』

緒方があとになって理解したように、ああいう展開になったら
石にかじりついても取りにいかないといけなかった。
シーズン全体を見渡せば、無理を重ねて勝ち続けようとしてもいずれ破綻するから、
先々のために、深追いをしない・スパっと負ける選択をすることはあるだろう。
しかし一方で、負荷をかけてでも取るべき試合というのもまた、確実にある。
スポーツと関係のない私程度の仕事だって、特に営業の面では、
「…おっ」と咄嗟に感じる、潮目の変わる瞬間が時折ある。
そうなったら作戦全面変更してでも、取れるだけ取りに行く姿勢に転じる。
勝負師なら、尚更そういうポイントを活かさなくてはならないものではないのか。

先発のノムスケがそもそも情けなく、エース云々という内容でなかった訳だが、
序盤からの失点のために、そのままショボい試合をしただけだったら、
昨日のはまだしも「ただの1敗」「半年間にはこんな日もあるさ」で処理できた。
しかし、7回表に、予想だにしていなかった目覚ましい逆転劇があった以上、
そこから俄然、試合そのものの意味が変わったのだ。
なぜ緒方は、それに合わせた対処をしなかったのか。
ああいうビッグイニングは、どうかすると、
シーズン全体に影響するくらいの意味があるのだ。
「思えば、あの日あのときから、だったな……」
と省みて思う試合というのは、ほぼ必ず「逆転劇」だ。
それだからこそ、そういうときに判断を誤ると、
もはや「ただの1敗」では済まなくなる。
これまた勝負師なら、当然、知っていることではなかったのか。

更に、それにもまして、昨夜私が大変不愉快、かつ問題だと感じたのは、
れんれん(中田)が明らかに苦戦し始めたとき、
ベンチからも内野からも、誰ひとり、出て行かなかったことだった。
あそこで皆が集まり、せめて2アウトのところで投手に一息入れさせていたら、
たとえ交替ができない内部事情があったとしても、
ひとつ、空気が変わった筈だったと思う。
そうでなくてもカープの野手陣は、投手らのヘタレのために
それこそ「心折れる」思いをしてきているのだ。昨年からずっと、幾度も。
監督ならばこそ、そこは最大限、くんでやらないといけないし、
野手陣に「またか」と思わせるような展開は、全力で防がなければならなかった。

私は地元民として、弱くてもカープだからという理由で応援して来たし、
弱いカープが弱いがゆえに負けたのなら、「はいはい(^_^;」で済む。
だが昨夜は、昨年日本シリーズ進出を逃したときの100倍くらい頭に来た。
昨年からずっと、投手陣の力不足を補い続けてきた野手陣の努力と成果を、
監督自らがぞんざいに扱い、台無しにするところを目の当たりにしたからだ。
「逆転のカープ」と言われる所以は、先発が失点しても野手が辛抱強く待ち、
機会が来たとき逃さず得点して、チームを勝利に導くからだ。
そのパターンになったらもう、何をおいても損なってはいけない。
どんなド素人にもわかる勝機を監督が自分でつぶしておいて、
あとから百万遍反省しても遅いわ(--#)。
頭の壊れた指揮官なんか二軍降格、いや登録抹消でいい(--#)。
おそらく、むこう10年くらいは、私の「思い出し怒り」のネタになるだろう。

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実家両親が、某有料老人ホームに入ることになった話は、既に書いた。
それについては様々な準備が要るわけだが、一番大切なのは、
ミもフタもないことだが「先立つもの」の用意である(汗)。
勿論、両親だって刹那的にただ90年近くも生きてきたわけではない。
彼らなりに「老後の蓄え」は、なにがしか作ってはあった。

まずは、父名義の某A銀行の普通預金口座から
ホーム関連の費用が引き落とされるように手続を完了したのだが、
これは父のメインバンクとはいえ、もし老人ホーム暮らしが
今後長期に渡って継続するとなれば、やがて底を突くことは明らかだった。
これ以外に、両親はこれまで、各自の「老後の蓄え」や年金や「へそくり」を、
それぞれいくつかの取引銀行に分散して預けてあったので、
今後はそれらを適宜、メインの引落口座のほうに
移しながら使っていけばよい、と父も母も異口同音に言った。
しごく、まっとうな話だった。

それで、一体どこにどれだけ預金しているのか把握する必要がある、
という話になり、先日来、各種金融関係の担当の方に、
次々と両親宅に来て戴き、確認作業をすることになった。
ゆうちょ銀行、JAバンク、地元のA銀行、B銀行、C信用金庫、
それと、これは自宅には来て戴けないが都市銀行であるD銀行。
各所に、しこたま預金してあったのなら良かったのだが、
リスク分散と、外回りの担当者との「つきあい」のために、
両親はただ、チマチマと複数の銀行に口座を作っていただけだったことが
今回、判明した(--#)。

父の年金の口座はA銀行で、母のはB銀行と、違う金融機関になっていて、
それらは一応まとまった預金内容になってはいたが、
その他、何年も前に挫折した十万円少々の積立口座がそのままだったり、
2円しか入っていない謎の普通預金口座がまだ生きていたりもした。
預金だったと思っていたのに生命保険になっているものもあった。
要するに、取引口座の数の割には、ひどく煩雑なだけだった(--#)。
また、ド田舎ゆえにATMなどというこじゃれたものは徒歩圏内に無く、
銀行の用事はすべて、地域担当の方とのやりとりで家で済ませていたため、
両親はキャッシュカードを作っていないか
持っていても使ったことがなく、どこに仕舞ったか完全に不明だったり、
カード本体が運良く残っていても、暗証番号など忘却の彼方だったりした。

取引銀行のうちの二行は、暗証番号が確かであれば、
通帳を使ってATMでの取引が可能だとわかったが、
ほかのところはATMの場合、キャッシュカードしか通用せず、
通帳だけでは受け付けられないようになっていた。
窓口では本人確認されるので、本人なら「通帳」と「印鑑」で取引できるが、
代理人だと「通帳」「印鑑」「キャッシュカード」が必要で、
その3点を持参したうえで、暗証番号が合っていないと駄目だという。
代理人には、とにかくキャッシュカードが大切なのだ!

キャッシュカードの紛失届と再発行願を出すには、
本人確認と本人直筆の書類が必要で、
暗証番号の再設定もまた、本人が手数をかけなければ実現せず、
とてもじゃないが書類一往復で済むような話ではなかった。
しかも今回の両親の場合、銀行ひとつの話ではないし、
使えるようにしたいキャッシュカードだって1枚ではない(汗)。
両親のヤル気と根気が続く限り、一件ずつ再発行の手続を取るしかないか。

また、キャッシュカードをそもそも作ったことのなかった口座に関しては、
90歳近くにもなって新規にキャッシュカードを作ることは
防犯のため銀行は認めていない、というのも今回私は初めて知った。
少なくとも、両親がカードを作っていなかったB銀行については、そうだった。
「キャッシュカードは、飽くまでも、御本人様にご使用戴くのが前提で、
代理の方のためのものではありませんので…」
とB銀行の担当者は言った。

それではと母が、家に回ってきて下さっていたB銀行の担当者に、
「だったらもう、この機会に口座を解約の手続をします。
そうしたら、預けてあった現金を全部、家に持って来て下さい」
と言うと、しかと理由は説明されないまま、
「それはちょっと、……できないんですよ」
という返事だった。
できるも何も、もともと誰の金やねん!と母は憤然となったが、
解約手続となると、これまでのように自宅訪問でどうこうはできず、
預金者本人が直接店頭に来て手続するのが望ましいようだ。
数万程度の出入金ならともかく、口座解約となるとえてして桁が大きいから、
銀行員の身の安全のため、そういうものは持ち歩かないのを
一律に決まりにしているのだろう。…というのは私の想像だが。

「もし、通帳と印鑑を持って老人ホームに入所したら、自宅同様に、
ホームまで出金や入金の手続に来てやって下さいますか」
と私はゆうちょ銀行が来たときに尋ねてみたのだが、これまた、
「御自宅のようには、施設に現金を持って伺うことは、
極力、しないことになってまして」
と、たいそう歯切れの悪い答えしか返ってこなかった。
集団生活なので盗難等のトラブルも心配であるし、
ロビー等で話をするのか、という場所の問題もあり難しいという。
C信用金庫もB銀行も同様の答えだった。
他行もおそらく同じだろう。

銀行の防犯と自衛のため、あれもだめ、これもだめ、代理人お断り。
だったら、老人ホームに入所して、体も不自由となった場合、
最悪、自分の意志で口座から現金を出すことは、できなくなるのだな?
家族、つまり私が、有効なキャッシュカードを預かって
ATMを使っての引き出し等を代行するのが一番簡単なのだが、
上記の理由で両親のキャッシュカードはもう駄目であるか(爆)、
あるいはもともとつくっていないため今更新規に発行して貰えない。
さしあたって何とかなりそうなのは、通帳のみでATM取引のできる二行だけか。
あとは、キャッシュカード再発行をやり遂げられた口座があれば、それも。

その他の金融機関には手の施しようがないから、
このままでは将来的に、両親の手元のお金がなくなったら、
私がかわりに支払う以外に、何も出来ることがないようだった。
いや、こうなったら早いうちにタクシーで両親を町まで連れ出し、
金融機関をまわって預金を現金化しておくべきなのか(汗)。
アンヨの覚束ない、おトイレも危うい90歳夫婦を(大汗)。どんな虐待や。
しかしそうでもしなければ、苦労も工夫もして貯めてきたお金なのに、
人生の最後に、養老のために使いたいと願っても、
それらが銀行の中にある限り、両親は手も足も出せないことになる。
なんと理不尽な仕組みになっているのだろう!

やはり、金融機関にお金を預けるのは若くて健康なときだけにするべきだ。
自分で管理せず、お金を他人(=銀行)に預けるということは、
いくばくかの安全を得るかわりに、自由を失うことでもあるのだ。
ある程度の年齢まで長生きすることがあったら、
せいぜい普通預金口座ひとつ残すくらいにして、
あとは自分名義の預金をすべて自分の手で解約し、
現ナマにして、瓶に入れて隠し持っておくべきである、
……という私の考えは、正しいことがわかった(爆)。

結論、箪笥預金に勝るものなし(殴)!

*************

父は、あのような年齢になってもまだ、以前からの仕事の関係で
某団体の会員なので、その会費やら諸経費を、本日私が振り込みに行った。
もう仕事もなにも現実にはできていないに等しいが、
未だに存命であり、会員資格を有しているので、
年会費やら諸経費やら負担金やらで、合計が10万ちょっとになり、
結構高いじゃないかと思いつつ、それならせめて振込手数料をケチろうと、
相手先の金融機関の最寄り支店に出向き、そこのATMで、
父から預かってきた現金を送る作業をしようとした、……ら(汗)、
ATMからの振り込みでは10万円を超える現金は送金できなかった。

ここは例の、ATMで代理人が通帳だけで作業できるという希有な銀行で、
念のためということで父本人の通帳を預かってきていたので、
それを使って口座間振替も試みてみたが、なんとこれもATMに拒否された。
窓口で尋ねたら、75歳以上の人の口座からの10万円以上の送金は、
毎月の振り込みである等の実績が確認されない限り、
機械が拒否するように設定されている、とのことだった。
では、私が電信振込の書類を書けば窓口で送金できるのか、と尋ねたら、
送金する人の本人確認が必要だ、と言われ、
それは父名義の送金である以上、私の運転免許証では駄目だった。
私が父の実の娘であることを戸籍謄本などで証明できたとしても、
手続は認められず、父の運転免許証等を私が持参する必要があるのだった。

娘が父親の口座から、預金を勝手に引き出すならともかくも、
父名義での送金を代行する、つまり金を払うと言っているのに、
随分と念入りに疑われるのだった。
「振り込め詐欺」などが横行して、銀行も懸命に自衛しているのだと思うが、
それでいて、私がもし、父の免許証をこっそり盗んで来ていれば、
この手続は問題なく完了できたのだ。なんじゃそりゃ(--#)。

仕方が無いので私は自分名義の口座を持っている別の金融機関に行って、
そこのATMから自分のキャッシュカードを使って送金をした。
送金するときに振り込み人を口座名義人でなく、父の名前にするだけだった。
ほかの銀行に来たのは私の都合だったので、振込手数料は私が払ったが、
振込金額そのものを立て替える気はなかったので(爆)、そのあと、
振り込み用に父から預かっていた現金を私の口座に入れ直して補填した。
それにしても、窓口で私が自分の運転免許証を示した上で、
父名義の電信振込書類を書いて、持参した現金で送金するのと、
ATMでキャッシュカードを使い、私の口座から父名義で送金するのとでは、
一体、どれだけの違いあったのだろう?
むしろ前者のほうが、手を下した人間を確認できているだけマシだったのでは?

とにかく金融機関は不便・不自由きわまりない。
毎度思うことだが、
「リスクは全部私が負います。決して、貴・銀行を訴えたりしません」
と一筆書いて私の運転免許証も出して血判を押してもいいから(爆)、
この煩雑きわまる本人確認と各種手続を簡略化してくれんものかね(^_^;。
世の中のフトドキ者とウッカリ者のために、銀行の手続は年々煩雑になり、
御蔭で、私の貴重な休日が、きょうもかなり空費されてしまった(--#)。
フクオカさまぁ~」の時代が、つくづく懐かしいぜ(T_T)。

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今月は、ただ一度の二連休だった11日と12日を東京旅行に費やしたので、
ほかに休日として自由になったのは、今までのところ4月5日(木)のみだった。
残りは、日曜日も含めてすべて仕事と両親の用事で消費された。
このあと、まだ19日(木)と26日(木)が空白で残っており、
なんとしてもこの二度の休日だけは死守しなければと、今、思っている(汗)。

再来週の25日(水)も会社の仕事は入れていないのだが、
この日から両親が、例の介護つき有料老人ホームに
初めて四泊五日で滞在してみることになっており、
そうなると当日は、移動と荷物の片付けで一日使うことになると思われる。
更に、その翌日の26日(木)も、本当なら私が顔を出して、
「その後どう?」
「何か要るものがあれば買って来るけど?」
等と、愚痴を聞きがてら様子を見てやるべきなのは百も承知しているのだが、
そんなことをしたら、いよいよ私の貴重な休日がなくなるので、
私は26日については、自費でヘルパーさんを1時間程度お願いし、
ホームを訪問して両親の用事をしてやって下さるようにと
既に昨日、ケアマネージャーさんを通じて手配をお願いした。
母が心から信頼しているヘルパーさんがお二人いらっしゃるし、
自家用車を持っていない私より、ヘルパーさん方のほうが
実際ずっとフットワークも良く、介護に関しても有能だ。

両親の介護については私は、適宜、意図的にサボることにしている。
私がキレたら誰も両親の面倒をみられる人間は居ないのだから、
私はときどき、わざと自分を甘やかし、力を養う必要があるのだ。
また、両親のために実家に泊まり込むことも、私は極力しないと決めている。
主人を犠牲にしたら、私のほうの家庭が崩壊すると思うからだ。
万一、こうやって私が手を抜いている最中に両親に何かあったとしても、
ゴメンナサイと思ったあとは、そういう定めだったのだと割り切るつもりだ。
もう90歳夫婦だし、あれこれ望んでもキリがないではないか(^_^;。
舅姑を介護したときは、そのように考えるには結構な罪悪感があったが、
自分の実の両親については、幸いにきょうだいなどが居ないので、
文句を言って来る人も皆無であり、私が良ければAll OKだ。

今回の老人ホーム四泊五日がなんとかなったら、
今後は徐々に滞在期間を延ばして貰いたい。
実家は加速度的に清潔でなくなっており、だのに両親には自覚がないので、
2人のどちらか・或いは両方が、何らかの感染症で倒れるのも
もはや時間の問題ではないか、と私は日々、戦々恐々としている。
「ちとは着替えたら」
「いつ風呂に入った?」
「そろそろ髪を切りに行ったら」
等と私が促しても、面倒なのか、
「まだいい」
「今度にする」
等と受け流しているだけで、ふたりとも全く言うことをきかない(汗)。
風呂の準備はするし後片付けもするから、入るだけでいいから、
とも言ってみたが、
「寝る前に入る。明るいうちに風呂入ったら風邪をひく」
との謎理由に固執し、私の居る昼の時間帯に入浴させるのは困難だ。
それに、彼らはそもそもが「くえない」老人たちなので、
仮に私が彼らの「寝る前の入浴」実現のために夜まで居残っても、
どうせまた、なんのかのと言を左右にして結局は入浴しないに決まっている。
暴力的に服をはがして浴槽に押し込むようなことは、さすがにできないし。
洗髪とヘアカットについても、タクシーで私がつれて行ってあげるから、
と言ったのだが、「またにする」とのことで、ラチが開かず。
「家に来てくれる散髪の訪問サービスもあるよ?」
と提案したが、これまた「まあそこまでせんでも」で終わり(汗)。
『そこまで』って何だよ、行くとこまで行っとるから言うとんじゃ(--#)。

私が期待しているのは、ホームに入って環境が変わり、
職員さんからの働きかけ等もあるようになれば、
両親も多少は「見栄」や「遠慮」もあって身仕舞いをするようになるのでは、
ということだが、本人たちが頑として拒否することについては、
ホームにお世話になったところで、職員さんの方々にだって
できることには限度があるというのも、私は重々承知している。
しかしともあれ、ホームでなら倒れても人目も人手もあるし、
ホームから搬送して貰う病院だって提携先が決まっているだけ、現状より良い。
夜に私が駆けつけて救急車を手配し、半徹の労働をさせられた昨年のことを思えば、
とりあえずホームに入っていて貰うほうが、環境としては恵まれている。

今にして思うと、認知症で介護度5だった姑のほうが、
この二人とは比較にならないほど、清潔な生活をしていた。
全介助であったため、清拭や更衣に関してヘルパーさんや私に決定権があり、
発熱の有無や血圧の状態を見ながら、入浴の頻度もこちらで調節できたからだ。
特に名前のつくような病気もせずに90歳近くになり、
なお自己主張を通して生活していると、実家の両親のようになるのか、
と私は最近、かなり、ゼツボー的な気分だ(^_^;。

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12日の夜は、サントリーホールで、
マリア・ジョアン・ピリスのリサイタルを聴いた。
日程的にはかなり厳しかったのだが、
引退前の最後の来日公演ということで、やはり逃したくないと思った。

オール・ベートーヴェンで、本プロが
ピアノ・ソナタ第8番 ハ短調 Op.13 『悲愴』
ピアノ・ソナタ第17番 ニ短調 Op.31-2 『テンペスト』
ピアノ・ソナタ第32番 ハ短調 Op.111
アンコールもベートーヴェンで、
『6つのバガテル』 Op.126 より 第5曲 クアジ・アレグレット

私はピリスをきめ細かく追い続けてきたわけではなく、
これまでずっと、実に気ままな聴き手だっただけだが、
私の断片的なイメージの中で彼女は、常に一本筋の通った「強い」弾き手で、
しかもいつもどこか微かに冷徹な感じがあった。
しかし今回、いよいよ引退を目前にした彼女の音楽には、
かつてない、「暖かな柔らかさ」があったと思った。
少なくとも私にとっては、そのように感じられた。

特に32番のソナタは、一歩一歩、神の御座へ向かって登って行く演奏だった。
もともと私がベートーヴェンを破格に愛している理由は、
彼の、「神様は、居るんだ!」という素朴な信仰に心打たれるからなのだが、
ピリスの32番もまさにそういう音楽だった。
決して平坦ではなかったこれまでの人生も、すべて神を知るためにあり、
神の国に迎え入れられるために進む日々こそが、喜びであったのだ、と……。
長いトリルで弾き手の魂は天空高く登り、
聴き手も一瞬、彼女とともに同じ世界を垣間見ることを許され、
見下ろすと、そこにはピリスの描き出した宇宙があった。

アンコールがベートーヴェンの作品126というのも秀逸だった。
ベートーヴェン最晩年の、おそらく最後のピアノ曲で、
彼の信仰の行き着いたところにあった一曲だ。
もしかするとこのとき、彼の心は既に神の国にあったのかもしれない。
ピリスは最後にそれを、何らの衒いもなく気負いも無く、
このうえなく清らかに弾いてリサイタルを閉じた。
ピリスのたどり着いた境地もまた、ここにあった、ということだろう。

ピアニストは、どのようにしてその演奏活動に幕を下ろすべきか、
そして最後に、何を弾いて自分の聴衆に別れを告げるのか、
マリア・ジョアン・ピリスの最後の来日公演は、
そうした問いへの、ひとつの明確な答えとなったと思う。

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12日歌舞伎座、昼の部のメインは菊五郎主演の『裏表先代萩』。
こうして見ると、四月大歌舞伎は、
夜が仁左衛門の悪役二役、昼は菊五郎の悪役二役。
いずれも、時代物の大悪党と、世話物の小悪党の対比なのだが、
仁左衛門がどこまでも昏く陰影深く、艶やかに演じる一方、
菊五郎はどこか愛嬌があって明るく、しかしドスが利いたら怖いぞ、
という硬軟自在の悪者で、そこはやはり音羽屋の持ち味ならでは。

時蔵の乳母政岡は初役だったが、立女形として素晴らしかった。
片外しは合うだろうなとは思っていたが、期待を遙かに上まわった。
時蔵の鋭角的な美貌や声が、政岡の強さによく似合い、
同時に根底には細やかな情が豊かにあることがわかり、大変良かった。
小さい亀三郎が鶴千代君で、お人形さんのようにおっとりと可愛らしく、
しかし高貴なところがよく出ていて、声が通るところは父上譲りか。

菊五郎の仁木弾正の引っ込みのところは圧巻だった。
ほとんど音もない、限られた動きだけの花道引っ込みを
あれほど余裕を持って見せることができるのは、音羽屋の芸あればこそ。
しかし蝋燭の使い方は、成田屋のとは違ったように思うが、
……ここは音羽屋の型というものなのだろうか。
そのうち時間があれば調べてみたい。

松緑が弥十郎で、弁舌爽やかな二枚目、こちらは掛け値無しに素敵(笑)!
小助(菊五郎)との対決は、胸のすく見事さ!
昔から私は、あらしちゃんの声質が好きではあったが、
台詞自体がここまで向上して来ると、今後は本当に楽しみだ。
あらしちゃんは、地道に努力して成果を出す人なのだなと感じ入った。
……亨さん(初代・辰之助)の息子は、あっぱれ、立派になったよと感無量。

それにしても、実は以前から思っているのだが、物語としての仁木弾正、
大上段に構えて登場→威厳を見せつけて花道を去って行ったにしては、
よく見ると鶴千代君暗殺はしくじっているし、
ねずみになったときには床下で男之助に踏まれているし、
年寄りの外記左衛門をしとめるのに手こずるしで、
実に失点が多く、腰砕けなところがあって憎めない。
妖術まで使えるという設定なのに、それでいいのかという(笑)。
大の字で死んで高く抱え上げられての退場は、
(自称)大悪党に相応しく、大変格好良いのだけど(笑)。

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12日は歌舞伎座昼の部、まずは『西郷と勝』。
真山青果の「これでもか!」な台詞劇に真っ向から挑む松緑。

最近は、松緑の舞台を見るたびに、
彼の精進のあとがはっきりと感じられて、私は嬉しくてならない。
今回の西郷隆盛もまた、松緑の研鑽ぶりが手に取るようにわかった。
真山青果の台詞は、細部まで作り込まれていて、凝っているのだが、
役者が、滑舌から解釈、聞かせ方に至るまで首尾一貫したものを持たないと、
観客は、その台詞の量と内容に圧倒されるだけで、ついて行くことができない。
私はこれまで、結構、ほかの真山作品では寝オチしたことがあった(殴)。
しかし、今回、私は松緑の西郷の言葉を聞いていて、
そのひとつひとつが心に食い込み、説得された。
「戦争ほど残酷なものはない」という西郷の台詞など、
明治維新という舞台上の設定のみならず、
昨今の日本の状況を省みても、改めて胸に響く、
……と自然に思わせる重さ・熱さがあった。
全く、観る前には予想だにしていなかったことだった。
踊りが武器の松緑に、真山青果はどうだろうかと危ぶんでいたのだが、
真っ向勝負を挑んで最後まで音を上げず、新たな境地を得たのだなと感じ入った。
あらしちゃん、台詞のみの役で歌舞伎座主演……!!
松緑ファンにとっては歴史的な舞台であった。

(写真は、この作品にちなんで販売されていた「西郷と勝」弁当(笑)。
細工物以外の食べ物を撮影することは、本来の私の趣味ではないので、
写真は包装だけしか残していないが、四月限定品ということで。
劇場に入る前に木挽町広場の売店で買った。実に食べ応えがあった。)

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