転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



【追悼の声】漫画家 鳥山明さん死去 68歳 「DRAGON BALL」など
(NHK 2024年3月9日 8時48分)

私は目が悪いせいもあって、テレビを観ないしゲームもしないので、
アニメの『ドラゴンボール』もファミコンの『ドラゴンクエスト』も
皆が熱中するのを尻目に、直接の接点を持たずに過ごしたのだが、
それでも、鳥山明が大きな存在であることは、以前から認識していた。
『Dr.スランプ』一本あるだけで漫画家として名を成したと言えるのに、
更に『ドラゴンボール』の連載とアニメと映画と、
『ドラクエ』シリーズのキャラデザインがあった。
私はこれらヒット作をどれも、世代的にはリアルタイムで知っている。

また、後に、私が会社で同僚となった若いアメリカ人やカナダ人は、
皆、Son Gokuが大好きだった。
少年時代に胸躍らせながらGokuの冒険に熱中し、
かめはめ波を練習して、大人になった人たちだった。
彼らの話を小耳に挟むだけで、鳥山明が国際的な存在であることがわかり、
彼が偉大な漫画家であることを、私は十分に理解していた。
……つもりだった。

しかし私は甘かったのであった。
今回の鳥山明の訃報に際して、何に驚いたと言って、
世界じゅうから寄せられ続ける哀悼のコメントの、量と熱さであった。
BBCがBreaking news(速報)として流したのに最初に感心したのだが、
SNSには瞬く間に、英国米国のみならず、メキシコやブラジル、台湾、韓国、
スペイン、フランス、フィリピン、タイ等々から次々とコメントが寄せられ、
様々な世代の、Toriyamaファンの言葉で埋め尽くされた。
更に、各国駐日大使や、G7を始め各国大使館が軒並み正式に弔意を表し、
中華人民共和国外交部も会見し哀悼の意を捧げると述べた。

国葬レベルだろう、これは。(汗)

私は日本にいて、マンガもアニメも当たり前にいくらでも身近にあったために
単なる娯楽として軽く考え過ぎていたのだと、遅蒔きながら反省した。
私が思っていた以上に、日本のサブカルは、
世界じゅうで幅広い年代から注目され、絶大な支持を得ていたのであり、
mangaをそのような存在たらしめたのが、他ならぬ鳥山明であったのだ。
Akira Toriyamaほど、愉快にワクワクと、世界をひとつにした日本人は居なかった。

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ダ・ヴィンチが惹かれ、マキャベリが認めた「最も美しい英雄・チェーザレ」の真実(現代ビジネス)
『あのレオナルド・ダ・ヴィンチが惹かれ、マキァヴェッリが理想とした伝説の英雄、チェーザレ・ボルジア。そんなルネサンス史上最も美しい英雄、チェーザレ・ボルジアを描いた作品『チェーザレ 破壊の創造者』は累計100万部を超える大ヒットになっている。歴史の闇に埋もれた英雄の真実を調べるため、資料の収集、翻訳、分析をしながら作画し、16年連載を続けてきたこの作品がついに最終回を迎えるにあって、作者であり漫画家の惣領冬実さんにインタビュー。その長年にわたった創作の秘話などを語ってくれた。』

『チェーザレ 破壊の創造者』は私も全巻持っていて、
大変楽しみにして読んでいた漫画だった。
衣装の模様どころか燭台のディテールや馬の蹄鉄までも、
時代考証等の根拠なくば描かれないほどの劇画だったので、
「このペースだと、作者存命中にチェーザレが死なない(汗)」
と不安に思っていたのだが、このほど、話はその遙か手前、
チェーザレの父親が教皇になるところで終わることになった。
つまり物語は、チェーザレの少年時代後期から青年時代の入り口まで。

読者としては正直なところ、彼が随所で匂わせていた野望や、
妹ルクレツィアとの魂の結びつきとも言える関係等々、
伏線の回収が十分なされたとは言えない箇所が多々残ったと感じるが、
それらが、できるなら番外編的な短編でこれから描かれると嬉しい。
サンチャ・ダラゴーナも、最終巻の終盤に印象的に登場しただけで、
その後のことは何も触れられなかったのが残念だ。

『ロドリーゴが教皇になってから枢機卿としてローマに入るまでの約1年間、チェーザレはスポレートという場所で過ごしていて、伝記には「彼はスポレートで青春を謳歌したであろう」とだけ記されています。これは資料が残っていないということなのですが、激動の時代にのまれていくチェーザレが最後に自由を謳歌した時間だったはず。そんな彼の人間らしい姿を、いつか私なりの視点で描きたいですね。』

という作者・惣領冬実氏の言葉がインタビュー中にあるので、
また機会を得て、この物語のその後が発表されることを願っている。
ちなみに、父親が教皇に選出された場面から開始されるチェーザレ伝が、
塩野七生『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』である。
チェーザレ・ボルジアの人生が本当の意味で花開いて行くのは、ここからだ。

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Twitterで人気の『ちいかわの森』が広島PARCOに来たので、見に行った。
キャラが可愛いのと、カープとのコラボグッズがあるというので、
これは要チェック!!と思ったのだが、かなりの人出だったorz
『ちいかわ』の人気は予想以上であった。侮っていた(汗)。

コロナ感染拡大防止のため、チケットで入場時間を指定されており、
一定以上の混雑にならないように計画されていたのだが、
入場する前から列が出来ているし、物販もすぐに入れず、
3密というほどではないにせよ、2フロア下の階段まで人が並んでいるしで、
ワクチンが終わっていなかったら、軽く躊躇したかもしれないと思った。

   

展示の内部は、様々なイラストやトリックアート、ゲームなどがあり、
ちいかわちゃんが常日頃とりくんでいる「草むしり」もあった。
私も挑戦し、それなりにたくさん抜いたので
ちいかわちゃんたちに「みんなの あこがれ!」と褒められた(笑)。
リアル草むしりなら多分もっと得意ですよ、田舎のオバさんだから。
私が受けたら「草むしり検定」何級かね(^_^;。

カープグッズはTシャツとタオルとステッカーを買い、
広島限定ガチャもやった。
コロナ禍で引き籠もり生活を始めて以来1年7か月、
初めてちょっと外向きに楽しんだ数時間であった(笑)。

「ちいかわ」はなぜ読者を狂わせるのか(ねとらぼ)

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ルドルフ・ヌレエフを描いた映画『The White Crow』を
昨日、出勤前に観てきた。
なにしろ上映館がうちの会社のほとんど目の前だったのだ(^_^;。
この条件でなければ観ることは出来なかったかもしれない。

私はヌレエフの舞台を実際には観ていない。
当時の何人かのアーティストやダンサー達と同様、
彼もまた、90年代初頭にAIDSの合併症で亡くなったので、
思いがけず早い別れとなってしまい、実演に接することは叶わなかった。
88年にはヌレエフは広島に来たのだが、知っていながら観に行かなかった。
いずれまた機会があると思い込んでいたのだ。
残された時間はもうあまり長くなかったのに。

この映画では、ダンサー・ヌレエフが芸術上の自由を求めて
ソ連から西側へ亡命するまでの軌跡や葛藤が、ひとつの物語になっている。
亡命を決意することになる1961年のパリ公演を軸に、
少年時代と、ワガノワ・キーロフバレエ学校での学生時代とが
交互に映像として現れる構成になっているため、
時系列はややわかりにくかったが、過去の経験のどの部分が、
非凡なダンサーとしてのヌレエフを造型したか、
暗示的に描くことには成功していたと思う。

観る側として不満だったのは、ダンス場面が意外に少なかったことで、
もっと「ニジンスキーの再来」たるヌレエフのダンスを
強烈に印象づける場面構成をして貰いたかった。
舞台で拍手喝采を受けるシーンがあるにはあるのだが、
それは彼がスターになった逸話のひとつに過ぎず、
私としては、もっと次々と彼の踊りを味わう手応えが欲しいと思った。
なんのために現役プリンシパルであるオレグ・イヴェンコを使ったのか!
映画としては一貫して説明は極めて少なく、
幼い頃の逸話や、美術館でヌレエフが絵に見入るシーン等から、
背景にあるものを観る者が自由に感じ取れば良い、
という演出になっていたとは思うのだが、
他のことと違いダンスだけは、ヌレエフを天才たらしめる最重要の要素なので、
過程として、学生時代からソリストとしてスターになり、
ソ連を代表するダンサーへと駆け上っていくところを
もっとはっきりと観たかった。

道楽者の私としては、彼の亡命の手引きをすることになった
Clara Saintというチリ人女性に、大変心を惹かれた。
クララ・サンはヌレエフがパリに来てから紹介されて知り合い、
すぐに近しい友人同士にはなったが、
恋愛関係には発展しなかった(と後に実在の本人が語っている)。
クララ・サン本人はパフォーマーではなかったが、
ヌレエフの天才を見抜き、彼の舞台に心底惚れ込んだことで、
彼を救うために亡命の直接的な手助けを行うことになった。
彼女は、ヌレエフだけでなく、イヴ・サンローランや
アンディ・ウォーホールとも親しい交流があった。
権力と経済力と時間、それに鋭い審美眼を持っており、
偉大な芸術家達の人生を左右するような位置に立っている、
……これこそまさに、道楽者の「神」(爆)!!

映画全体の中で、私にとって最も印象的だったのは、
ヌレエフが亡命を決行した一部始終が、
少年時代に初めてバレエを習った日の情景と交錯するところだ。
「お母さんはお帰り下さい。ひとりで出来るようにならなくては」
とバレエ教師に促され、母は背を向けて去って行き、
ルディークは稽古場に残され、民俗舞踊を踊ったあと、
教師の前に立ち、バレエのドゥミ・プリエから習い始める。
足は、最初に1番ポジション、次に5番ポジション。
すべてのバレエのパは、ここから始まるのだ。
西側亡命したヌレエフもまた、故国の母親から離れることを選び、
ソ連での栄光を捨て、西側での人生を始めることになった。
まさに、第一歩から。『ひとりで出来るようにならなくては』。

しかし、ヌレエフの孤独が心に染みる、ということは私にはあまり、無かった。
少なくとも映画で描かれたヌレエフは、己の芸術的欲求に極めて忠実で
亡命もまた芸術家としての彼には必然と感じられたので、
場面として描かれている以上の悲劇性などは、私は感じなかった。
過去を断ち切るにはひととおりの決意があったこととは思うし、
当時の状況を思えば、政治的亡命は命がけであったが、
結局、彼は望んだものを手に入れたのだという納得感のほうが、
観る者としての私には、大きかった。

亡命以後のヌレエフがどれほど偉大なダンサーとして
世界を舞台に活躍したかは、この映画では直接には描かれていない。

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なんとしても再度、映画館で観たい、と願い続けていた、
『ボヘミアン・ラプソディ』を、昼に八丁座で観て来た。
11月9日の公開以来、この映画の人気は衰えることがなく、
全国的に12月28日から上映館が増やされたのだが、
広島市内でもついに、勤務先から至近距離にある八丁座に来たので、
こんな目の前でやっているものを逃すテはない、と思い、
25日の夕方、八丁堀を通ったついでにチケットを買っておいた。
そのときは、私の道楽の鉄則「迷ったら、行け」に基づき(笑)、
とにかく席を購入してしまえば、忙しくなっても何があっても、
観に行く予定のほうが優先される!=必ず観られる!
……等々と考えていただけだったが、
きょう行ってみたら、167席の「八丁座 壱」がなんと満席だった。
つくづく、チケットを買っておいたのは英断だった。



二度目とあって、前回より細かいところを更に楽しむことができた。
この映画は、わかる人にはわかる細かい仕掛けが随所に仕込んであるので、
熱心なファンにはコタエられない内容なのだが、
それらはQUEENに思い入れのない人には一切、関係がないところでもあり、
ファンと批評家の間で作品への評価が異なるのは、無理もないことだと思う。
例えば、フレディの家にマレーネ・ディートリッヒの写真があるのは、
QUEENⅡのジャケットの元ネタになったものだからだし、
フレディ宅の壁の正面に日本の着物が飾られている様子からは、
この時期QUEENが既に、日本公演を終え彼の地でも成功していることが示され、
フレディが和服を着て歌った逸話をも、連想させられるようになっている。
またこれは、Twitterで某氏の指摘を読んでほとほと感心したことなのだが、
ジム・ハットンから贈られた指輪が、ライヴエイドの場面のフレディの指にある、
ということも、台詞では一言も触れられないのだが、
映像を注意深く観ているとわかるようになっている
(実在のフレディも、1985年7月13日のライヴエイドの映像を観ると
右手薬指に指輪をしている。しかし恋人ジムが彼に結婚指輪を贈ったのは、
事実としては86年になってから。このレベルの脚色もまた映画の随所にある)。

主人公のフレディの派手な言動の影で、ほかの登場人物たちが、
地味ながらも生き生きと、それぞれの人生を生きている、
ということにも、きょうは強い感銘を受けた。
例えば、マネジャーのジム・ビーチが一貫して良い味を出しているので、
エピソードのひとつひとつに、QUEENの外側からの視点が加わったと感じたし、
当事者であったメンバーそれぞれもまた、本当によく本人達を反映した、
巧い表現をしているので、些細な一言や、一瞬の首のかしげ方等にまで
たびたび感心させられた。
映画なのだから、すべては演出であり飽くまで虚構なのだが、
虚構だとわかったうえで、その土台にあるリアリティに惹きつけられた。

そして、フレディは本当に孤独だった、ということも胸に染みた。
表現者としての強烈な才能に比して、フレディは常に寂しい人だった。
独りである自分と向き合わないで済むように、彼は幾度も、
華やかな招待客を集めて、乱痴気騒ぎの盛大なパーティーを開き、
「フレディ・マーキュリー」を完璧に演じて「愛」を振りまいたが、
本質的に彼の心を温めてくれる人には、容易に巡り会えなかった。
彼のそばに晩年まで残ったのは、QUEENのメンバーとマネジャー、
親友メアリー、恋人ジム、両親と妹、そして彼に可愛がられた猫たち。
彼らは最後に、72,000人の喝采を浴びてライヴエイドで歌うフレディの姿を、
それぞれの場所から、真剣な眼差しで、各々の思いを込めて、見守る………。

今日、八丁座で映画が終わり、エンドロールが流れ、
最後に The show must go onのフレディの歌声がやんだとき、
満員の客席のあちこちから、自然に拍手が沸き起こった。
それは、フレディの音楽が、今もなお、こんな極東の街でも、
大勢の人達から支持されていることの証しだった。
あの世のフレディに、きょうの私たちの拍手が聞こえていただろうか。
こうなると、バルト11のほうの『胸アツ応援上映』の企画も捨てがたい。
私は滂沱と泣いて凄いことになりそうだが、この際構っていられない。
QUEENのライブを追体験するためには
DVDやテレビのサイズ感では全く駄目だ、大音響と客席が無くては。
応援上映と銘打っている回は、拍手OK!手拍子OK!発声OK!
とのことだが、スタンディングは無いのか(^_^;。
ライヴエイドの場面では、実は私は立ち上がりたい欲求を堪えている。
座ってQUEENのライヴを聴くなんて、無いよぉ(^_^;?

……ということで、きょうの八丁座の初回を見終わって出て来たら、
既に次の上映を待つ人達の長蛇の列ができていて、
15:30の回も満席の札が出ていた。
公開から日数が経ったし、11月のときよりゆったり観られるだろう、
と私は勝手に思い込んでいたのだが、事態は全然違って、
当日いきなり行って観られるような映画では、
なくなっていたのだった(汗)。
前後左右にしっかりと空間を確保した状態で、自分の世界に入って、
さめざめとハンカチ、…いや、フェイスタオルを使いながら観る、
ラストの20分間は、声は出さないまでも心の中で熱唱しながら観る、
というのを想定していたのだが……。
…それも結構、悪くないと思っていたのだが……(汗)。

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11月9日から公開されていたことは知っていたのだが、
忙しくてなかなか行けず、きょうの夕方、ようやく観て来た。
フレディを中心としたQUEENの映画が制作されることを
私が初めて知ったのは6年前だったが、最初の企画はそれ以前に始まっており、
主演者やスタッフの交替も乗り越えながら、完成に8年を費やしたとのことだ。
2018年の今、ようやくスクリーンで70年代からの彼らを追体験でき、
長年のファンとして、きょうは本当に幸せな思いをさせて貰った。

映画『ボヘミアン・ラプソディ』公式サイト

キャストは、いずれも大変に素晴らしかった。
メンバーそれぞれ、実によく雰囲気や特徴を捉えた演技だったし、
ライブエイドの会場の再現も圧巻だった。
このときの演奏は今でも映像で見ることができるので、
映画がいかに忠実に当時のライブを再構築して見せたか、
誰でも検証可能であると思う。

Queen - Live at LIVE AID 1985/07/13 [Best Version](YouTube)

この映画では多くの感動的な逸話が語られるが、中でも、
若い頃も、キャリアを重ねてからも、
メンバーの間にふとした行き違いや諍いが起こるたびに、
その都度、音楽の力が、彼らを再び、結びつけてくれた、
という展開に、私は最も胸を打たれた。
ブライアンがWe Will Rock Youの足踏みと手拍子を披露したとき、
ジョンがAnother One Bites the Dustの冒頭のフレーズを弾いたとき、
彼らは、それまでの苛立ちや口論を次第に忘れ、
目の前に実現されつつある音楽に夢中になった。
彼らは本当に音楽を愛していたし、QUEENは根源で常にひとつだったのだ。
そして、最後に彼らの絆が永遠のものとなったのも、やはり、
あのライブエイドの場で、奇跡のような演奏を共有したからだった。

エンドロールで、実在のフレディがAIDSのために91年に亡くなったことや、
フレディに敬意を表し、エイズと闘う財団が設立されたこと等が流されるが、
この映画の内容のすべてが、事実そのままである訳ではない。
ファンの間で有名であるにも関わらず触れられなかった出来事や、
時系列から見ると必ずしも事実通りでない箇所は、いくつもあった。
特に、ライブエイド前にQUEENが事実上の解散状態になっていた、
というところは最大の脚色で、現実にはライブエイド直前の時期、
QUEENはワールドツアーに出ており、85年5月来日公演は私も聴いている。
ただ、これと相前後してフレディはソロ活動を開始していたし、
QUEEN解散の噂は、当時幾度も囁かれており、
「ライブエイドがあったから、解散が回避できた」
という意味のことは、後にメンバーもインタビューで語っていたので、
物語として、少々の誇張はあっても許されるだろう。

また、フレディの死後に公表された事柄やメンバーの談話からすると、
ライブエイド出演時点ではまだ、フレディはAIDS感染を確認しておらず、
映画の設定のような体調不良の中で実現したステージでもなかった筈だ。
しかしこれも、時期は違うにしても、
フレディが自分の病名を知って仲間にだけ打ち明け、
その秘密が外部に対し、メンバーの間で厳重に伏せられていたのは事実で、
フレディの体調を考慮しつつ行われた演奏があったことも間違いない。
そのあたりを逸話として、ライブエイド出演の場面に集約した、
として理解することは、十分にできる。
ブライアンとロジャーがこの映画制作に直接関わっている以上、
内容的には脚色部分も含めてメンバーも承諾している訳で、
史実通りでない箇所に価値がないとは、私は全く思っていない。

ライブエイドでフレディの歌った曲はどれも、
彼の人生を思うと、実に象徴的だった。
未来の自分に何が起こるか、まだ全く知らなかった筈の時期に
彼はああした曲を書いていたのだ。
歌詞の通り、彼の歩んだ道は決して平坦でなく、彼は生涯、闘い続け、
多くの人々や出来事によって、彼は幾度も、不当に傷つけられた。
けれども一方で、音楽によって結ばれたQUEENがフレディのfamilyとなり、
その彼らを支え続けたスタッフや、生涯の友となったメアリー、
最後の恋人だったジム、皆の愛に包まれて、
フレディの孤独で過酷だった人生の中に、
輝くように幸福な時間もまた、確かにあったのだ。

Love of My Lifeを英語国民でない聴衆が一斉に歌い始めて
フレディを感激させたという場面が映画に出てくるのだが、
実際に、彼らが来日したときのライブでもそうだった。
英詞を、ひとつも間違えずに、聴衆が大合唱してフレディに応えた。
レコードではコーラスとハープで飾られている曲の最後の部分を、
ライブでは、Oooh, Oooh, Yeah---と歌って締めくくるのが
いつものフレディのやり方であることも、
ファンである私たちはよく承知しており、最後までその通りに一緒に歌った。
私たちは、あのとき、フレディを喜ばせることができただろうか。
在りし日のフレディの笑顔、I still love you!と返してくれた彼の声を思い、
私は涙を堪えることができなかった。
あれは、ささやかではあったが確かに、日本の私たちが、
フレディのために出来たことだった。
そのような瞬間を持つことができて、私たちもまた大変幸福だった。
彼と同じ時間を、空間を、共有できた。
改めて、私たちは本当に幸運だったのだと思う。

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タヌキとキツネ展』が広島にも来ていたので、行った。
以前からこれがあるのはわかっていたのだが、
忙しくてなかなか出かけられず、最終日の今日になった。
私はパルコには普段、あまり用事がないのだ(汗)。
本館10階の広島クラブクアトロなら、ちょっと、知っているけど。

もみじと戯れ、もみじ饅頭を食べるタヌキツ、
の広島限定イラストが飾られていて、関連グッズもあった。
撮影許可エリアでないようだったので、
イラストは撮っていないが、ステッカーは1枚買った。
メッセージボードに貼られた言葉を読んでいたら、私同様、
『大阪にも行った』という人たちがいて、微笑ましく思った。
可愛いタヌキツを、広島でも見ることができて、良かった(^^)。



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映画『ボヘミアン・ラプソディ』(公式サイト)

ついに、11月9日の公開が決まったそうだ。
QUEENの映画『ボヘミアン・ラプソディ』。
フレディ役を誰が務めるか、かなり揉めたという記憶があるが、
最終的に主演者となったのは、ラミ・マレック。
トレイラーを観る限り、文句なしの見事な完成度だ。
ラミ・マレックというと私にとっては、
娘の好きな映画『ナイト ミュージアム』シリーズで
エジプト国王アクメンラーを演じていた人だが、
エキゾティックな容貌がフレディにはぴたりとはまっている。
ほか、ブライアン、ロジャー、ジョン、みな違和感なく素晴らしい。

ひととき、70年代のあの日々へとタイムスリップできそうだ。
予告編だけでも、フレディの伸びやかな声に乗せて懐かしい逸話が展開され、
私はこの物語が最後にどこへ行き着くか知っているだけに、もう、泣きそうだ。
劇場にはタオル必携(^_^;。
広島では上映があるのだろうか?
県外でも勿論行く。可能なら複数回、通いたいものだ。

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昨日は、大阪に行く用事があったので(それについてはのちほど)、
梅田ロフトで開催中の
タヌキとキツネ展~タヌキ山にようこそ!~
を見てきた。
タヌキとキツネ』はTwitterで人気のある可愛い漫画で、
私も去年の初めあたりにファンになり、単行本も3冊とも持っているので、
今回、うまい巡り合わせで『タヌキツ展』に行けることになり嬉しかった。

会場には、何点もの描き下ろしイラストが展示され、
YouTubeで今まで公開されたショートアニメが流れていて、
ファンには思い出のある絵が多数あった。
残念ながら大半は撮影禁止だったが、
奥まで行くと、タヌキツのイラストや人形たちと一緒に
自由に記念撮影できる場所があった。
木の穴からお尻だけ出ている二匹がとりわけ可愛かった(笑)。
この記事冒頭にUPした写真の、大きなボードには、
来場者の書いたメッセージがたくさん貼られ、
タヌキ山の仲間には大変ファンが多いことが改めて感じられた。

展覧会初日の4月21日と、連休最初の4月28日には、
お山からタヌキとキツネが下りて来たそうなのだが、
昨日は普通の日で、残念ながらタヌキツ本人たちは居なかった。





限定どら焼きは、ひとり3個まで(笑)。


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午後から体が空いたので、舅姑の墓掃除・墓参りに行った。
前回出向いてから半月くらいは経っていただろうか?もっとか?
毎日暑いので花がすぐ駄目になってしまう(汗)。
経験上、やはり墓の花は菊がいい(=モちが良い・発色が綺麗)、
と私は思っているのだが、しかしこの気温では、
きょう供えたスプレー菊も、いつまでモってくれることか…。
墓と墓の間の狭いところに蛾の幼虫が這っていて、
その近くをイモリが小走りしており、少し奥には蜘蛛とその巣も見えたが、
お寺だし、殺生はいけないと思い、どの子にも手を出さず見守ってあげた(笑)。

そのあと、映画『海街diary』を観に行った。
映画『海街diary』(公式サイト)

私はもともと、動く絵を観ることが得意でないので、
映画も大好きとは言い難いが、それでもテレビよりは楽に観られる。
それで、題材に興味があるときや、贔屓の役者さんが出ているときなど、
年に数回程度だが、実際に映画館に出向くようにはしている。
この『海街diary』は原作の漫画をコミックスが出るたびに買っていて、
映画化の話を聞いたときから関心を持っており、
なんとか観られないかとずっと機会をうかがっていたので、
きょう、うまい具合に時間を確保することができて本当に良かった。

原作が気に入っている場合、映画を観てガッカリすることが結構あるが、
今回のは、なかなか味わいがあった。
原作自体、起承転結が見えるような劇的な物語ではなく、
複音楽みたいに、いくつものストーリーが同時に展開し、
同じモチーフを分け合ったり、各自がそれぞれに進んだりして、
淡々としていながら複雑な進行になっているのだが、
映画にもその趣が良いかたちで出ていたと思う。

実写となると四人姉妹が揃いも揃って美人過ぎる(^_^;のがアレだったが、
ひとりひとりの持ち味は原作から外れてはいなかったと思った。
中でも私がいちばん気に入ったのが三女のチカ(夏帆)で、
実にとりとめのないキャラなのだが、情緒が安定していて、
根底にまっすぐな感性を持っているという、
チカの良いところがとてもうまく表現されていたと感じた。
チカは、姉たちのように何かを決定したりリードしたりはしないが、
人の心の動きをよく感じ取り、自分の時間も大切に生きている。
何ひとつ気負っていないのに、いつも周囲を救っているのが彼女だった。

父親の葬儀の場から出発した四人姉妹の関係が、
物語の最後に行き着いたところは、海猫食堂のおばちゃんの葬儀で、
考えてみれば途中の一波乱も、姉妹の祖母の法事の場であったし、
そうした節目節目に、ブラックフォーマルに袖を通すたびに、
前よりほんの少しずつ変化・成長していた、四人姉妹なのだった(笑)。
鎌倉の風景、特にそのときどきの海の表情が面白かったし、
古い家での季節感や、姉妹の暮らしぶりも手に取るようにわかった。
何かというと仏壇に手を合わせるシーンがあったことも興味深かった。
決して宗教的な意味合いとしてではなく、素朴な生活実感として…。
全編通して、大きく揺さぶられるような感動とは違うのだが、
静かに感じ入ったという意味で、結構、響く作品だった。


ときに、クレジットを見ていたら、音楽担当が菅野よう子氏であった。
菅野よう子といえば、私にとってはなんと言っても、
『UNDER:COVER』の『THUNDERBIRD』by西川貴教(笑)。
こんなところで再会しようとは(笑)。

T.M.Revolution THUNDERBIRD Live(YouTube)(菅野よう子ピアノソロ)


追記:完全に余談なのだが、広瀬すずは母音の無声化が不完全だ(汗)。
例えば、『奥さんがいる人を…』の台詞の『おクさん』部分。
舌足らず的な愛らしさを醸し出しているとも思うので、
一概に悪いとは言わないが、私は特にこういうことが気になるほうで、
観ながら、ごくごく軽くだが幾度かひっかかった。
設定として四女すずは、純粋な鎌倉育ちではなく、
父親に連れられて仙台にいたり秋田に移ったりしているので、
複数の方言のアクセントが入り交じった言葉を話してもおかしくはないが、
しかしあの発音は、そういう種類の演出ではあるまい。

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