転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



オーダーしたカップボードが入った。
鏡面仕上げなので照明その他が映り込み、
なかなか写真が撮りにくいが(^_^;……。
かねてからの、前面をほぼ覆いたいという私の希望が叶った。
新築のような嬉しさであるっ(^^)。

来月初めにLDK全体の壁紙を張り替えるので、
まだ、床の養生もそのままだし、食器等も元通りにはしていない。
クロスが完成するまでは工事中状態が続くことになる。

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キッチンのカップボード部の取り替え工事、2日目終了。
(左側:施工前 右側:本日終了時)
 

大工さんにして戴く箇所はきょうで終わり。
もとの食器棚や収納棚などがすべて撤去され、袖壁の位置も変わり、
ほぼ端から端まで、まるまる空いた状態になって、下地が完成した。
明日は家具屋さんが、新しいカップボードを据え付けて下さる予定だ。
入居して約15年、いろいろと不自由を忍んだがついに、
私なりに、見栄え+使い勝手を考えた、オーダーメイドの食器棚がやって来る。

……しかし、家に工事が入っているというのは、これでなかなか疲れるものだ。
私自身は何をしている訳でもなく、ただ待機しているに過ぎないのだが、
大工さんの出入りに気を付けたり、おやつやお茶を用意したりと、
気持ちのほうは作業場に集中していないといけないし、
人の気配や話し声、作業音も身近で一日じゅう続いているので、
こちらにある程度の若さや体力がないと、結構しんどいものだと実感した。
数日程度のことだから良いが、大がかりなリフォームで数ヶ月単位となると、
皆さんどうやってしのいでいらっしゃるのかしら(^_^;。
去年の仏間工事のときも、そういえば似たようなことを感じたのに、
1年経ってこうして全く同じことを書いているというのが、
我ながら、喉元過ぎれば熱さを忘れる的な……(汗)。

死ぬまでに、というか老年になりきらないうちに、
一定の年月をかけて、玄関と、娘の部屋の6畳洋間と、洗面室と、風呂、
プラス、壊れたら困るのでレンジ台や流し台などキッチンの諸々、
これらを順番にリフォームしたいと、漠然と思っているのだが、
あまり先送りしていると、老いてしまってシンドくなりそうだな(^_^;。
年に一箇所ずつやって、5年はかかるか。予算の問題もあるしな(汗)・

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本年の一大イベントである「カップボード取り替え」の
工事がきょうから3日間の予定で始まった。
入居以来、およそ15年役に立ってくれたカップボードと
本日をもってお別れ。ありがとうね(^_^)ノ

(左側:工事開始時 右側:初日終了時)
   

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ワクチンパスポート導入で「何もできなくなる」 打てない人へワクハラ、どう対処する?(AERA)
『健康上の理由などで新型コロナウイルスのワクチンを打ちたくても打てない。そんな人たちが、差別や偏見にさらされる。そうした事態を避けるには──。AERA2021年9月27日号の記事を紹介する。』

ここで問題にしているのは、思想信条上の理由で「打たない」人ではない。
私の以下の話も、「自分の考えで、打たないことを積極的に選択している」人
については直接関係がない。
そうではなく、記事のタイトル下にもある通り、
「健康上の理由などでワクチンを打ちたくても打てない」人が、どうしたら良いか。
「打ちたくても」ということは、
「打てるものであれば打ちたいのだが」と思っている、……のですよね??

では、そのような人は実際にどのくらい居るのだろうか。
まず言えることは、当事者でない人が漠然と思っているほどには、
「打ちたくても打てない」人は、多分、実際には多くない。
自分で自分の状態を「打ちたくても打てない」と見なしている人の場合も、
私の感触では、「体質上・持病の関係上、打てない、と思い込んでいる」人
が、実は結構、含まれているのではないかという気がする。
この記事中の女性も、薬物アレルギーゆえに打てないと語っているが、
果たしてその「薬物」は、今回のワクチンに関係のある薬物なのだろうか?
例えば花粉症かつ金属アレルギーでも、蕎麦は食べられる、みたいなもので、
問題は、各々についてアレルギーがあるかないかだ。
自分が「打てない」ことは、どういう検査や診断によって確定したのか?

私自身、薬物アレルギーがあるから、この話は他人事ではないのだ。
私は抗生剤セファクロル(製品名ケフラール)をのむと、
服用後30分で咳や発疹などの急性のアレルギー症状が出るので
30歳の頃から禁忌となっており、更に、エリスロシンやクラリスなど
マクロライド系も私は副作用が多く、抗生剤に関しては難しい体質である。
また、整形外科で出た筋肉痛の内服薬と、市販のアリナミンについては、
服用すると急激に脈拍が上がって汗が出て来る経験もしており、
ビタミンB1誘導体がマズいのか何か、きちんとした追求はできていないのだが、
過去、こうした具合に薬で若干ヤバいことになった覚えがいろいろあるので、
今回のコロナワクチンも、もしかすると厄介なことになるかなと
最初はそれなりに及び腰であった。

しかし、何のことはない、結果として全く問題なく打てた。
薬の件は問診票で申告したが、2回とも接種後15分待機で普通に終わった。
実は、「薬物アレルギー」で打てない、と接種前からわかっているのは、
mRNAワクチンに使用されているポリエチレングリコールで
アナフィラキシーショックの既往がある人だけなのだ。
これはそうそうある話ではなく、
これまで日本では10例前後しか確認されていない。
ポリエチレングリコールは大腸内視鏡検査時の腸管洗浄剤がよく知られているが、
日常的なものでは、化粧水や歯磨き等にも使われている。

私のように、その他の薬物・食物ならば、アレルギーがあっても打てるし、
その他の薬物・食物に、アナフィラキシーの既往があってさえも、
当日、接種後30分待機を守れば打てる。
私は医師からそのように説明を受けた。
甲殻類アレルギー、蕎麦アレルギー、ピリン系薬剤アナフィラキシー、
等々経験があっても、皆、接種可能だ。
たまたま、最初に出会った医師が用心深すぎたり不勉強だったりすると、
「怖いのなら、やめておきますか」となるケースもあるかもしれないが、
実は打てる場合がかなり多いので、
「打てるものであれば打ちたいのだが」と思っているのなら、
別の医療機関で相談するとか、集団接種会場で申し出てみれば良い。

また、ポリエチレングリコールでアナフィラキシーの既往があっても、
系統の異なるアストラゼネカのワクチンならば打てる。
日本はファイザー、モデルナ、アストラゼネカ、と
3種類2系統のワクチンを認可し運用しているので、
実際には、ほぼすべての人が、打とうと思えば打てる筈なのだ。
即座に打てないのは急性疾患等で治療中の人たちくらいだが、
そういう場合も、その疾患等が改善した段階で接種できるようになる。

微妙なのは、アレルギー体質で、アナフィラキシーの経験もあり、
それゆえに、「万が一、何かあったら」という恐怖心が克服できていない、
というケースだろう。
統計上も理論的にも打てることはわかっているし、
接種時に、恐怖やストレスから血管迷走神経反射が出ても対処可能だし、
万が一の、アナフィラキシーショックへの対応も、準備がなされていれば、
それで命を落とすこともまず考えられないのだが、
それでも、過去の経験がトラウマとなって決心ができない人もあるだろう。
こういう場合は、頭で理解していてもメンタルがついて来ない訳で、
心情的には大いに同情の余地があり、医療側の丁寧な対応が必要であると思う。

今回の新型コロナワクチン接種は、強制ではないとはいえ、
国が法的根拠を持って定めている「努力義務」ではある。
打っても打たなくてもどちらも同じなので好きなようにして良い、
のではなく、接種対象者となった人は誰しも、原則として、
接種する方向で努力しましょう、と方針が打ち出されている。
「打ちましょう!」という流れで世の中が動いているのは、
きちんと背景のあることなのだ。

今回のワクチン接種の「努力義務」とは何ですか。(厚労省)

打たなかったからと言って、警察が来るとか罰金を科されるとかではないし、
そもそも、自分から予約しなければ打てないようになっているのだから、
最終的な決定権自体は、飽くまで各自にある訳だが、
少なくとも『めんどくさい』『気が進まない』程度のことでこれを怠るなら、
将来的に何らかの社会的不利益を被るのも、致し方ないのではないか。
COVID-19は世界的な問題であり、衛生パスは国際的にも実施の流れになっている。
公衆衛生を軽視して権利だけ主張する訳にはいかないと、私は思っている。

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母はきょうも電話してきた。
しかし、きょうは声が明るかった。
「明日、何時に行くん?あんた迎えに来てくれるん?」
と母は唐突に訊いてきた(^_^;。
先週の眼科受診の話の続きだろうと見当を付けて、私は返事をした。

私「明日じゃない、来週だ、10月4日!」
母「来週?」
私「そう、こないだの眼科に行くのは、来週だ(笑)」
母「ほうか。なんであたしゃ、明日やと思うたんやろ(笑)」
私「さあね、同じ、月曜日だからじゃないかね(^_^;」
母「ほうやったんか。あたしゃまた、明日何時に出るんかと」
私「大丈夫、行くのは一週間先や。迎えに行くから心配せんでええよ」
母「ほいで、どこへ行くん?」
私「眼科やん、このあいだのつづき」
母「眼科?なんでそないなとこへ行くん?」
私「いや、おかーさんが、『目が見えんようになった』て電話してきたから、
 このまえ眼科に行って、白内障じゃないけどちょっと左目に、
 白うなっとぅとこが見つかって、それは治療できるからと」
母「治療できるて!?」
私「そうそう、その治療を、来週、10月4日に受けに行くねん」
母「そうやったん!」

やはり、『目が見えなくなった』のはさほど深刻ではないようだな(^_^;。
少なくとも『私の生活の介助をしてくれる人をつけなならん』ということは
とりあえず、なさそうだな(^_^;。

母「ほいで、明日、何時に行くん」
私「いや、だから明日じゃないって(^_^;。来週。朝9時過ぎな」
母「来週か(笑)!!良かった、これ、自分ひとりで出かけとったら、
 一体どこへ行ってしもとったことやら。誘拐されたりして」
私「大丈夫や。そんな危ないことはせんでええ、迎えに行くから心配要らん」
母「私なんか誘拐しても、三文のトクにもならんことやけど、ほんでも、
 ひとりで出かけとったら一体どこへ行ってしもとったやら」

母は機嫌良く、同じ話をリピートしていたが、とりあえずきょうは、
私が以前書いて渡した「電話のかけかた」の紙を見て、自分でかけたそうで、
目も一応見えているし、紙に書いてあることも理解でき、
その通りに携帯電話の操作もできたということで、めでたかった(笑)。

私「電話を切ったらすぐ『外出は来週。明日では無い』と紙に書いておくんやで?」
母「ふふふふ、わかった、そうするわ(笑)」

と、きょうは母は御機嫌で通話を終えた(^_^;。

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今年は、転舅じーちゃんの十七回忌と、
転姑ばーちゃんの十三回忌に当たっていたので、
いつものお寺さんにお願いをして、
本日午後、本堂に伺い、回忌法要をして戴いた。
奇しくもきょうは、転舅じーちゃんの命日でもあった。

親戚とは日頃からあまり行き来がないし、コロナ禍でもあるので、
主人と私の二人だけが参列した。
お彼岸でもあったので、御墓参りも二人でした。
一人息子に手厚く追善して貰い、じーちゃん・ばーちゃんともに
喜んでいるだろうと思った。

よく晴れて、暑すぎるほどでもなく、良い日だった。
お寺の若院さんにも、久々にお目にかかり、娘のことなどもお尋ね下さり、
「もうこんなに年月が経ったのですね。いろいろなことを思い出します」
と仰って頂いた。
ちょうど十年後に、また二十三回忌&二十七回忌の年が巡って来ることになるが、
それまでの間に、転姑ばーちゃんの十七回忌と、
転舅じーちゃんの二十三回忌を、……忘れないようにしなければ(殴)。

********************

今週は、私は日曜からここまで1日たりとも休みがなかったが、
明日と明後日は、私的2連休の予定だ。ありがたい(T_T)。
月末にかけて、いよいよカップボード取り替えの工事があるので、
明日からの2日間でキッチンを片付けよう。
転勤生活が終わって以来、引越も全くしなくなり、
根こそぎ整頓して綺麗にする、みたいなこともなくなったので、
カップボードをすべて解体するこの機会に、中身も全部出して整理すれば、
きっと随分とスッキリするだろうと思い、楽しみだ。

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母からの電話が夏の間じゅう、ほとんど途絶えていて、
ついに電話のかけかたどころか、その存在すら忘れたか、
と心配しつつもホっと(殴)していたのだが、
「92歳やと気がついて、ドっと絶望した」話に始まり、
「目が見えんように」なり、私が1年半ぶりに通院介助したことで
どうやら母はまた、「よしこに電話をかける」という行動を思い出したようだ。

昨夕も、18時40分頃、つまり私が夕食の支度にかかっている最中に、
家の電話が鳴り、出たら母で、
「私はもう、なんやら体もしんどいし、ほとほと困って、どうしたら良いやら、
誰か『こうしたらどうか』と言うてくれる人が欲しいんやけど、
ここの人ら皆、忙しいし、私にばっかり拘(かかずら)ってられへんし…」
と元気のない声で話し始めた。

母の話によると、とにかく今、大変困っているので誰か助けて欲しい、
と言うのだが、『誰か』って、ほかに居ないから私のことですよね(汗)?
何に困っているのか、と尋ねると、それは説明できないのだった。
『体もしんどいし』と言う以上、具合が悪いのか、どこか痛いのか、
とも尋ねてみたが、そういうことも、特に何もないのだという。
要するに、気持ちが不安で、ひどく不幸な気分であり、
それゆえに体も元気が出ない、くらいの感じか(汗)。想像だけど。

母の苦情を裏返しにして、母の希望を察するならば、
例えば、ホームを出て元の家に帰って、好きなように暮らし、
私に24時間そばに付き添って貰い、家事をして貰い、欲しいものを買って貰い、
体調に心配のあるときは医者に連れて行ってもらい、
心が不安定になったらいつでも話を聞いて、大丈夫だと言って慰め、
良い解決策を示して、万事なんとかして欲しい、……等々かなと思われるが、
……それは 無 理

「『こうしたらどうか』と教えてくれる人があれば、そうしてみるのに」
と母が何度も言うので、
「じゃあ、とりあえず寝たらどうか」
と私は言った。私が小学校4年生のとき、学校から帰ってきたとき体調が悪く、
しんどい、と母に告げたら、母は「寝なさい」と言ったのだ。
私は今、それに倣って答えた。すると母は、
「寝て寝られんことはないけど、ぐっすり寝られへんし、夜中に目が覚める」

「目が覚めて眠れんかったら、寝なならんと無理に思わへんでええから、
そのまま起きとってもええ。テレビを観てもええんやろ」
この私の返答も、かつて小学生だった私に、母が言ったことだ。
小学生の頃の私はかなり情緒不安定な子供だった。毎晩眠れなかった。
夜中に目が覚めて眠れなくなるから、床につくのが嫌だと、
夜になるとだだをこねたことがよくあった。そのとき母は、
「目え覚めて眠れんかったら、寝なならんと無理に思わへんでええから、
そのまま起きとったらええ」
と私に言ったのだ。

現在92歳の母は、私の返答に満足しなかった。
小学生だった頃の私が満足しなかったのと、おそらく同様に。
「ほんまに、もう、どうしたらええやらわからへんようになった。
誰か『こうしたらどうか』と言うてくれる人が欲しいんやけど」

それから母の「困っている」「誰か『こうしたらどうか』と――」
のリピートを40分間ほど拝聴した。
私の返答が何であれ、母の言うことはだいたい同じなのだった。
私は肯定も否定もせず、しばらく「ふん」「ふん」と聞いてから、
「明日(23日)な、またお昼御飯持って行くわ。どない?」
と尋ねたら、それは「食べたい」と母は言った。
「ほんなら、明日、な。楽しみに待っとり。お昼御飯、な。
それ食べて、気ぃ取り直して、またしばらく居ってみ。
来月んなったら、眼科のセンセんとこ行くから、また迎えに行くわ」

母は、わかったかわからないか不明だったが、
「ほんなら、そうしてみる」「ありがと」
と言った。多分、話が終わる気配を感じたので、合わせただけだろう(^_^;。
ちなみに母は、前の日に眼科に行ったことなど全く覚えていなかった。
記憶がモたないので、いつも自分がどうなっているかわからず、
不安になるのだろう、ということは私にも察することができる。
しかしその状態は、誰かの助言を得たところで解決するものではないだろう。
根本的な原因が老化なのだから、本人の納得の行くように改善する方法は無い。
強いて言えば、精神科にかかって安定剤でも貰い、
少しふんわりした気分になれば、主観的にはラクになるかもしれない。
当面、申し訳ないがそのくらいしか、私としても思いつくことは、ない(汗)。

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「七五三が全国化したのは平成に入ってから。それまでは関東の一部でしか行われてない」
という記事があったが(https://dailyportalz.jp/kiji/walking-with-folklorist-01
ここで言っている「七五三」とは、
「豊富なレンタル衣装から和装・洋装を選び、お色直しも含めた『前撮り』をする」
という内容の美粧+写真撮影を行う、家族イベントのことだろう。
それを提供する業者さんや、このテの「楽しみ方」をする人々は、
確かに、バブル以前にはほとんど無かったと思う。

しかし、「七五三」そのものは昔から全国にあった。
上記のようなバブリーな写真イベントが出現する前は、
「七五三」というのは、晴れ着を着てお宮参りをすることだった。
お寺や教会でも同種の行事や式典を持っていたところもあった筈だ。
昭和42年に、私が、神戸の本住吉神社に母と一緒に行ったときの写真がある。
そのとき私が着ていた着物は、赤ん坊時代の初宮詣のときのと同じもので、
最初から四つ身で用意して産着に使ったものを、
七五三のときに祖母か母が、晴れ着として縫い直して私に着せたのだ。
呉服屋さんで上等な反物を選んで仕立てて貰う「お誂え」は、
その頃でも富裕層の楽しみだっただろうと思うが、
昭和一桁以前の生まれの女性ならば、大なり小なり和裁ができたから、
着物は、格別高価なものでなくとも、家にあるものを仕立て直して、
寸法の合ったものを自分たちで用意することができたのだ。

ちなみに記事中の成人式の話も同様で、昭和の頃には普通にあった。
確かに、1年前から貸衣装屋さんをまわって振袖を選んで予約したり、
オーダーレンタルで自分用のをつくって貰ったりして、前撮りする、
というやり方が定着したのは平成以降なのだろうが、
振袖を着て記念写真を撮影することだけなら、昔から皆、やっていた。
当時は、特に女性にとっては、この写真が「お見合い写真」でもあり、
「成人式のために髪を伸ばす」女の子たちも、よくあったのだ。
私自身はそういう感覚の家に育っていなかったので、振袖も持っていなかったが、
少し余裕のある家だったら、成人式を前に振袖を購入することも結構あった。
親戚やお友達の披露宴にも着ていけるので、持っていれば出番はあったのだ。

要は、現在皆が「七五三」「成人式」だと思っている一連の家族イベントが
全国に定着したのは平成になってから、と言うことは出来ると思うが、
「七五三」も「成人式」も昭和の前半から各地に既にあり、
ごく一般の多くの人々が、その当時のやり方で祝っていたのだ。
近年、私は神社関係の仕事に携わる機会が増えたので、
「七五三」の本筋は「お詣り」なのだがな、と少し残念に思っている。
和服でも洋服でも、自分なりの「正装」で神さまの御前に進み、
ここまで育ったことへの感謝を込めて家族でお詣りし、
更なる健やかな成長と幸せを祈願するのが「七五三」だ。
スタジオでの衣装レンタルや撮影イベントをしていなかったからといって、
「七五三」をやってない、訳ではないのだ。

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一昨日、母が「目が見えんようになった」と電話して来たので
連休明けの今朝9時、目指す眼科が開くと同時に電話をしたが
しばらく受診していなかった母は初診同様ということで予約はできず、
いつぞやと同じく、まず私がタクシーでホームに行って保険証等を受け取り、
そのまま、ひとりで先に眼科受付を済ませて順番を取って待合室で待ち、
母には介護タクシーさんをお願いして、30分後くらいに来るようにする、
という作戦で、ホームのスタッフさんとも打ち合わせをし、出かけた。

万事、段取り通りに巧く行き、母は車椅子でやってきた。
そして、あまり長く待たされることなく、来たらすぐに視力検査等をし、
待合室に戻ってちょっと喋っていたら、また間なしに呼ばれて、
診察を受けることができた。
右目は加齢黄斑変性があり、これは治療のしようがないとのことだったが、
左目は後発白内障が見えるので、レーザーで処置すれば白濁が取れて
よく見えるようになるかもしれない、とのことだった。

『かもしれない』と消極的にならざるを得ないのは、
左目にも加齢黄斑変性が観察されるからだったが、
それでも視界の白濁が軽減されれば、多少なりともすっきりすると期待でき、
レーザーは白内障手術そのものよりずっと軽く、苦痛のない手術なので、
やってみても良いのではないか、ということになった。
重大な合併症等は事実上、ほとんど心配ないとのことで、
術後一時的に飛蚊症が出るかもしれないが、じきに軽快する、と言われた。
それで、次回10月初めにこれを受けることに決めて、予約を取り、
説明書類や予約票、同意書などを頂いて、きょうは終わった。

オンライン面会を除くと、母と直接会うのは1年半ぶりくらいだったが、
母のほうはそのことに関してさしたる感激はないようで(爆)
私を見たらすぐに昨日も会っていたような普段の調子で反応し、
待ち時間にスマホで、娘のところの黒柴ちゃんを見せたら、
「あら~、可愛いね~!」
「犬いうものは、人間とおったらいろんなことよう覚えて、
表情もええし、可愛いもんやね」
と御機嫌だった。……目はそれなりに見えてはいるのだった(汗)。
待ち時間と受付番号を表示するスクリーンの数字も、
大きいものは問題なく読めていた。

「一昨日は、急に目が見えんようんなって、
自分がどこへおるやらもわからんし、どないしようかと思うて」
「今は、そんときよりは、少しよう見えるようんなった」
等々と母は話しており、精神的な不安も大きかったようだった。
しかし診察の結果としても後発白内障は確かにあった訳で、
見えにくくなったという訴えもまた、根拠のないものではなかった。
診察後、会計を待ちながら私が、
「良かったな、治療できるて。若い人のようにはいかんから、
完全に見えるようにはならんかもしれんけど、それでも良うはなるよ」
と言ったら、母は嬉しそうにしていた。

終わって、介護タクシーさんに電話をしてクリニックまで迎えにきて頂き、
私も同乗して、ホームまで母を送り届け、保険証類を受付に返した。
次回の予約票や、きょうの診断結果、次回の処置予定、等々の紙も、
保険証類と一緒に、スタッフさんに取り次いで貰うよう受付に頼んだ。
母のいるフロアのケアマネさんがすぐに迎えに降りてきて下さり、
私が渡した書類を受付で受け取られ、我々が挨拶を済ませると、
母本人はもう、私のほうなどろくに見ずに、
車椅子を押されて、サッサと自分の居室階へと帰って行った(^_^;。
本人が言うとおり、万事がぼんやりとしか理解できていないのだろう、
という様子なのは見てとれたが、別に取り乱してもいなかったし、
情緒は概ね、安定しているようだったので、きょうのところは一応安心した。

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夕方、母が家電のほうに電話してきて、
「あたしゃ、困ったことに、急に、目が見えんようになった」。
いきなり真っ暗闇になったのか、脳血管障害か何か!?
とびっくりしたが、そういうことではなく、
急にものが見えにくくなったと感じる、とのことだった。
家具の配置などはわかる、人の顔もわかる、カレンダーの数字も読める。
しかし、本を読んだりメモを書いたりはできないような気がする、
とのことだ。
電話は、スタッフさんに番号を言って押して貰った、と。
後発白内障か、加齢黄斑変性の悪化か、網膜剥離等か?

「ま~、目が見えんようになるやなんて、思うてもみんかった」
「さしあたって、私の生活上の介助をしてくれる人をつけなならん」
と母は自分で決めていたが、仮にそういうことが必要な状態だとしても、
私がどこかに電話一本かけて今日から手配できるような話ではない(汗)。
それより、眼科か、必要なら脳神経外科などで診察を受けることが先決では。

ホームのスタッフさんに、目が見えにくくなったことは伝えたのか、
と尋ねたら、「まだ言うとらん」。
それならとにかく先に、スタッフさんに伝えるように、と言ったら、
「ここの人に言うのぉ?」
と、ここでなぜか母は声を出して笑いだし、荒唐無稽な反応に私のほうが戸惑った。
そういえばいつぞやも、コロナが蔓延して世界中で何十万人も死んでいる、
と私が言ったとき、母がけらけら笑ったことを思い出し、
老化現象のひとつとして感情表現がおかしくなっているのか、
私が母の笑いのポイントを理解できなくなっているのかと悩んだ。
だいたい、『目が急に見えにくくなった』話の続きで、
いきなり笑い出すとは、一体全体どういう精神状態なのか(汗)??
「ほなら、言うわ、あのねぇ、あなた!あたしねぇ……」
と母は私との会話を唐突に打ち切って、
そばに来られたらしいスタッフさんに話しかけ、
電話のほうは切れて、ツーツーツーとなった。

五分後くらいに、ホームのスタッフさんから私の携帯に電話がかかってきて、
ようやく、普通に意味のわかる話をすることができたのだが。
私に電話して来る前に、母はスタッフさんに
「目ぇ見えんようになってん。白内障になってぇへん?」
と尋ねたのだそうだ。
しかし母の瞳は澄んでいて、白濁は見えなかった、と。
母は2016年2月に両眼の白内障の手術を受けており、
その際に、加齢黄斑変性を指摘されている、
と私が告げると、スタッフさんは納得されていた。

ともかく診察や検査が必要だろうと思われたが、
折悪しく今は連休中で、どこの眼科も休診なので、
私が火曜日の朝イチで、前に白内障手術をして貰った眼科に電話し、
介護タクシーを手配し、ホームに母を迎えに行き、
眼科受診に連れ出すことになった。
最初、ホームのスタッフさんが付き添って行く
という前提で話が進みかけたのだが、
私が行っても良いですかと尋ねたら、OKだったので、
1年ぶり以上で母に直接会うのも良かろうと思い、
私が連れて行くことにした。

それから、また母の携帯に電話したら、ちゃんと本人が出てきた。
携帯のボタンは一応は見えるのか、
それともガラケーだから手探りで応答できたのか?
週明け火曜日に受診する予定で、私が迎えに行くから、
と言ったらとても喜んでいた。電話のあとで、
「体の具合が悪いと言って電話したら、すぐに私が登場する、
という点だけ学習されると、ちょっとマズいかなあ(^_^;」
と私が言ったら、転夫ころもんが、
「そんな記憶力は無いだろうから、大丈夫では(^_^;?」

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