転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



(写真は、サントリーホール前のカラヤン広場のツリー)

実質的に24日一日だけしか東京で過ごせる時間がなく、
昼は国立劇場に行くということで全く迷いはなかったのだが、
夜に関しては読響と、尾上左近の出る歌舞伎座『盛綱陣屋』とで激しく悩んで、
結局、私はこちらを取った。
イェルク・デームスの弾くベートーヴェンが聴きたかったからだ。
小林研一郎指揮、デームスのピアノでベートーヴェン『ピアノ協奏曲第3番』。

リハーサルがどのようであったかは知る由もないが、
デームスの自由自在のピアノに、オケが翻弄されているようなところが
あちこちにあった。
デームスはそれだけ、年齢を重ねて心が解き放たれたということなのだろう。
私の脳裏には、フー・ツォンが引用していた「赤子之心」という言葉や、
ハイドンの楽曲が、高齢になっても無心に遊ぶような彩りを放っていたこと、
また、晩年こそむしろ、レンブラントの自画像に光が射すようになったことなどが、
脈絡もあまりないまま、次々と浮かんでは消えた。

私がベートーヴェンの曲の多くを大変好ましく思うのは、
いつも「神様は居るんだ」という作曲家の言葉が聞こえるからなのだが、
88歳という年齢のデームスがそれを自由に闊達に弾くと、
まさに、ベートーヴェンの素朴な信仰が描き出されているように感じられた。
神社神道では、乳幼児であればあるほどこの世との交わりがまだ淡く、
それだけに神様に近い存在と考えるようだが、
年齢を経て赤子之心を持つに至った人もまた、
天衣無縫の、神の領域に近いもの、と思って良いのではないだろうか。
……などという連想も、デームスの音を聴いていると思い浮かんだ。

第3番はベートーヴェンが30歳頃に書いたもので、
作曲家としての彼の、創生の意気みたいなものが随所に感じられるが、
21世紀の聴き手である私には、その後のベートーヴェンがどうなったか、
彼の人生がどのようなものであったかも、概略だがわかっている。
演奏者のデームスもまた、ウィーンに生まれ、ギーゼキングに習い、
三羽烏のひとりとして世界的なピアニストとして活躍し、今日に至っているわけだが、
振り返れば彼のこれまでの道のりも、華やかではあっても、
決して平坦ではなかったことだろう。

…ああ、私は幼い頃、ギーゼキングの録音も本当に好きだった、
ギーゼキングは完璧主義者だったが、
オフにはチョウチョの好きな、可愛らしいお爺さんでもあった、
という逸話があったな……、
そうそう、U女史が以前、……あれはもう今から30年くらい前か、
デームスがいかにマイペースな芸術家で、
エージェントに我が儘を言って通して貰っているか、等々について、
面白おかしく話して下さったことがあったものだった。
………。

作曲家も演奏家も、聴き手も、遙かな人々も身近な人たちも、
皆、それぞれの人生で格闘し、生きられるだけ生きて、逝ってしまった。
88歳のデームスも、少なくとも残りの演奏家人生は、
どう見たって、もはや大変長いとは言えないだろう。
私自身にしても、無限に時間があるように思えた二十代の頃とは、もう違う。
この曲には、この芝居には、私の人生であと何回巡り会えるだろうか?
ひょっとすると、この一回が最後になるかもしれないものもあるのでは…?

今回、ベートーヴェンの3番の協奏曲を聴きながら私の中に浮かんだものは、
思い返せば、すべて、様々な人生の絵だった。
ベートーヴェンは言うまでもなく、デームスもまた偉大で、
そして、やはり、心から愛おしい存在なのだった、と聴き終えて、思った。

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雪の舞う国立劇場。午前11時開演。
三ヶ月通して上演される仮名手本忠臣蔵の、二ヶ月目。

堪能いたしました。
音羽屋の旦那(菊五郎)さん圧巻、
後半、勘平の台詞は極めて少なく、言葉によらない演技だけで
あれほど激しいドラマを見せていたのだと、私は見終わって改めて畏れ入った。
型の美しさは当然のことだったが、それを超えたところに
今回の菊五郎の目覚ましさがあった。
そして大播磨(吉右衛門)にもただただ感服!
仇討ちという肚(はら)を持ちながらも、それを皆に悟らせない、色気や大きさ。
周囲の懸命の訴えや、周辺で刻々と進行する事件を
吉右衛門の由良之助は、これまた台詞も動きも抑えたままで、
見ていない・聞いていないかのように装いながら、
実はすべて詳細に把握し続け、最後に時を見極め、決断を下した、
……というのが、大変よくわかった。
これぞ、主役!!

あらしちゃん(松緑)の定九郎がまた、キレッキレ!だった。
暗闇から最初に登場する定九郎の白い手、
与市兵衛を殺して奪った財布を口に咥え、
血に汚れた刀を着物の裾で拭き、足を踏み出したかたちの見得、
財布の中身を手探りであらため、たった一言の台詞「…五十両」。
……と、花道から舞台上手へと猪が駆け抜け、
その刹那、猟師の火縄銃の音が響き渡り、
目を見開いた定九郎の口元からは真っ赤な血が零れ零れて、
白塗りの太股に音もなく落ちる……!
たったこれだけなのだが、まさに息詰まるほどの10分間で、
今のあらしちゃんの、極限までの様式美を見せて貰ったと思った。

更に、今回のあらしちゃんのお蔭で、
私は初めて定九郎がどういう役なのかがわかった。
以前は、「悪の華」としてのビジュアルが定九郎の見どころだとしか
私は思っていなかったのだが、この芝居において大切なのは、
むしろ定九郎が「誰なのか」という部分なのだった。
すなわち、定九郎は塩冶家の浪人でありながら敵方に通じる裏切り者であり、
勘平の舅・与市兵衛を殺害した仇でもあったわけで、
偶然とは言え、この男を撃った勘平は、
二重三重に忠孝を尽くしたことになったのだ。

定九郎が、ただの色悪としてのチンピラでなく、
深い意味を持つ役としての印象を、残していればいるほど、
彼の命を絶ち五十両を奪い返すことになった勘平の行動もまた、
その価値を発揮するのだと、私はようやく理解できた。
だからこそ、功成り名遂げた武士となるはずであった勘平が、
志半ばで腹切をすることになった切なさと
命の際に連判状に血判を押すことのできた晴れがましさも、際立つのだ。
そして、由良之助が最後に、勘平の血糊の残る形見の刀で丸太夫を斬って、
手柄を立てさせてやる場面も、
定九郎の登場から始まる道筋が鮮やかであれば尚更、
結末としての手応えを増すのだ。

ともあれ、今回の五段目六段目七段目、私にとっての決定版になったと思う。
観ることができて本当に良かった!
おそらく、これが今年の私の観劇の中ではベスト1となるだろう。



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(写真は、JR広島駅の在来線コンコースにあるカープ優勝パネル)

カープのファン感謝デー帰りの人々でごった返す広島駅をあとに
ちょっと東京に行って来ます…

(相変わらず広島駅はカープ優勝で盛り上がっている(^_^;。
構内には名場面パネル、感動をありがとうポスター各種、
そして拡大する一方のグッズ売り場、その他、市街地商業施設の企画各種(笑))




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11月10日にエクスプレス予約から来たお知らせメールによると、
JR東海浜松工場の敷地内から発見された不発弾の処理作業が
12月18日(日)に行われることになり、当日朝、浜松~豊橋で
8時半から9時半の間、新幹線が運転見合わせになるということだった。
作業が順調に進めば、昼の12時半頃には平常ダイヤに戻る見込みだそう。

休日朝の話だし、それ自体はさほど重大な問題にはならない、
というのが世間一般の感覚だろうかとは思うが、
この日は実は、ポゴレリチの豊田公演が午後3時から始まることになっている。
作業が予定通りなら、午後の新幹線には直接の影響はなさそうではあるが、
私は今回、これ一回しかリサイタルが聴けないという事情もあるので、
お知らせメールを読んでから、当初の日帰り計画を変更し、
17日の仕事が終わったあと夜に広島を出発し、現地で前泊することにした。
近いところから来る人たちは、時間を少し調整すれば大丈夫だろうが、
広島からだと結構、距離があるので、僅かなアクシデントでも怖いのだ。
もともと12月は、ヘタをすると天候不良などで列車が遅れないとも限らず、
昼公演なのに当日出発では少し不安があるかな、
と感じていたので、もうこの際、思い切った(^_^;。


それにしても、なんでまた、よりによってポゴレリチが豊田で弾く日に
JR東海浜松工場でバクダンの処理があったりするんだろうねぇ。

……ついでにもう一泊して、帰りに京都の顔見世に寄るってのはどうよ……?
(ちなみに今年の顔見世は、南座が閉まっているため先斗町歌舞練場で行われる。)


追記:演奏会二日前に再度予定を変更して豊田日帰りに。
仕事の関係で行けるかどうかと迷い続けた友人が、
スケジュールをなんとかして「行く!」と決めたので、
私も彼女と一緒に、一日で往復することにしたのだ。
不発弾処理は我々の目的地よりかなり東寄りなので、
多分、影響はないだろう、ということで(^_^;。

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休息  


(写真は、フタバ図書で文庫を二冊以上買うとついてくる、
特製カープ優勝ブックカバー(笑))

きょうは、10月20日以来初めての、何の予定もない日だ。
どこへも行かなくていい、化粧しなくても失礼にならない。
素晴らしい、天国だ(滂沱)!!
「もう○時!」「あと○分(T_T)!!」の無い日が、20日ぶりに来た……!!
解放感と安堵で溶けそう。
ゆっくりコーヒー飲んで、本読んで、ごろごろして、
思いっきり自分の時間を無駄にしたい。

時間を無駄にできる、
……これは、この世の最高の贅沢のひとつだと、中年以降に知った。

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初優勝の昭和50年以来、カープは優勝パレードをしたことがなかった。
そのあとも優勝経験はあったし、日本一になったこともあったのに、
結局、初優勝を超える盛り上がりは、二度と無かったようだ。
何しろ、パレードは何かと費用がかかる。
球場での試合やイベントのように、入場料を取れる企画でもない。
赤貧の球団としては、よくよくのことがないと、実施できなかったのだろう。
今年の優勝は、41年ぶりに起こった、その「よくよくのこと」だった。

広島の街がカープの赤一色に 41年ぶり優勝パレード(デイリースポーツ)
『25年ぶりのリーグ優勝を達成した広島が5日、広島市内で優勝パレードをスタートした。広島の優勝パレードは初優勝した1975年(昭和50年)以来、実に41年ぶり2度目。今季限りでの現役引退を表明し、永久欠番にもなった黒田博樹投手(41)の背番号「15」は、この日限りで見納めとなる。』『選手、首脳陣が、オープンカー4台と、オープンデッキのバス5台に分乗。スタート地点の西観音電停東交差点付近を出発した。沿道にはあふれんばかりの人、人、人。故人の遺影を掲げ、涙するファンの姿もあった。真っ赤に染まった広島の街からは、次々に「感動をありがとう」の声が飛んだ。』

私は土曜日は朝から仕事があり、現地には行けなかった。
ただ、早くから市街地は赤い人々があちこちで目に付き、
上空は取材ヘリが飛び交っていて、いつもと違う、賑やかな雰囲気が感じられた。
あとでタクシーの運転手さんが仰っていたところでは、
パレードのコースとなる道には、前夜から場所取りする人々が、
「そりゃもう、えっと おっちゃったです(=それはそれは大勢 いらっしゃいました)」
とのことだった。

この日は、出勤途中に、明らかにパレード関係とは違う箇所に
長蛇の列ができていて、とぐろを巻いているのが見えたのだが、
先頭付近まで辿ってみて、それが何であったかがわかった。
この日に合わせ、地元の福屋デパートオリジナルの、
カープ優勝記念「胴上げタオル」が限定発売されることになっており、
それを買うために並んでいた人たちだったのだ。
会社帰りに覗いたら、勿論タオルはあっという間に完売していた。


ちなみに、福屋はカープ優勝後、店舗ビル壁面の幕を
ポストシーズンの進展に合わせて、大変きめ細かく掛け替えて
常にカープを応援していた(笑)。
これが最後に『日本一 おめでとう』にならなかったのだけは残念だったが、
それでもここに『優勝』の文字が躍るなんて晴れがましいことは、
去年の今頃には考えられなかったことだった。
カープが優勝、CS突破、……私は会社帰りに見上げるたびに、
今年はなんて幸せなんだろうと思ったものだった(笑)。
まさに『感動を ありがとう』だった。
カープのお蔭で、私は幾度、元気が出たことだろう。
地元球団があるって本当に良いことだなと、心から思えたシーズンだった。


パレードのあとは、マツダスタジアムで優勝報告会が行われた。
これまた、私は勿論チケットを持っている筈もなく、
後から記事や録画で観ただけだった。
この報告会は、黒田が現役選手として最後に皆の前に立つ機会でもあった。
私は決して、黒田の大ファンだったというような経歴は持っていなかったが、
それでも、マウンドとの別れに膝をつき感極まった黒田の姿には、胸が熱くなった。
「野球を楽しんだことはない」
と語っていた黒田の言葉にも深い共感を覚えた。
自分の持てるものすべてを賭けた真剣勝負は、「楽しい」ものとは違う、
と私は常々思っていたので、黒田の言っていることが私なりにだがよくわかった。
実に、みごとな投手だった。
カープへの電撃復帰だけでも劇的な出来事だったのに、
最後に優勝をもって黒田を送り出すことになり、
ここに黒田伝説は完璧なかたちで完成したのだと思う。

広島・黒田 マウンドにお別れ 「クロダ」コールの中、膝ついて涙に暮れる(デイリースポーツ)
『25年ぶりのリーグ優勝を果たした広島が5日、本拠地のマツダスタジアムで優勝報告会を行った。今季限りで現役を引退した黒田博樹投手(41)は、最後となったユニホーム姿で大粒の涙に暮れた。「世界一のカープファンの前でユニホームを脱ぐことができる。最高の引き際でした」と感謝の思いを述べた。』『「リーグ優勝の時の胴上げを大切にしたいから」と拒否していた胴上げだった。だが、新井らに促されると、マウンドの中央へ。背番号と同じ15回、高々と宙に舞った。その輪が解けると1人、1人と言葉を交わしながら抱擁。最後は1人マウンドに残ると、おもむろにマウンドの手前で右膝を付いた。』『現役生活20年。思いが脳裏を駆け巡ると、しばらく顔を上げられなくなった。涙、涙に暮れる。真っ赤に染まったスタンドからは、「クロダ、クロダ…」の大合唱が鳴りやまなかった。「いろいろ…いろんな苦しい思いをしたので。あのマウンドに立って、スタンドを見るのも最後かな、と思うと」と話す言葉が詰まり、感謝を述べてまた涙に暮れた。』『「あのマウンドにもう上がらなくていいんだ、という気持ちと。もう上がれないんだという気持ちと。最後の最後まで野球の神様がいると思って、野球を続けてきたので。20年間のお礼ですね」』『広島で投げた方が、1球の重みを感じられると昨年、広島に電撃復帰を決めた。今季、チームの精神的な支柱として、25年ぶりのリーグ優勝達成。「出来過ぎの野球人生」とし、現役最後の瞬間に「このメンバーで野球ができなくなるさみしさと、マウンドの景色を見ることができないさみしさがある」と、しみじみと振り返った。』『引退会見で「涙はいっぱい流してきたので、最後くらいはいいかな」と話していたが、最後は涙のフィナーレとなった。スタンドも涙に暮れた。「本当にありがとう」の声援が鳴りやまなかった。』

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毎年の話だが、昨日今日と、実家のある村の秋祭りだった。
楽しくなかったとは言わないが、……それなりにやり甲斐もあったが、
年々、両親が老い、私の労働の割合が大きくなっていることを痛感した(汗)。
仕事が多いうえに老親のお守り(爆)もせねばならず、厳しかったorz
疲労困憊。

くたくたなので本当は早く寝るべきなのだが、
寝たら一瞬で朝になってしまい、また時間に追われる一日が始まるので、
それでは体は休まっても心が全く安まらない。
「あと○分!」「もう○時!?」「うゎ~~!!」
と朝から続けざまに急き立てられる毎日を過ごしているので、
それがないのは、この、夜のひとときしかなく、
とてもじゃないが勿体なくて布団に入れない。

明日は、実家村の祭りの後片付け作業に出たあと、
タクシーで会社に急行する予定だ。
高速を使えば1時間かからずに市街地に戻って来られる。
散財だが、私は目下、時間と体力をお金で買っている(^_^;。

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ポゴレリチの、98年以来となる最新録音がネット配信で出ました……!!!

メアドとパスワードを設定すると無料お試しですぐ聴くことができます。
ベートーヴェンのソナタ22番と24番がUPされています。
https://partner.idagio.com/pogorelich/

****************

ポゴレリチの言によると、現代の若い世代にアプローチするためには
彼らの使う媒体、すなわちスマホ等を通じたデジタル配信が有効と考えた
ということだ。
そしてこのIDAGIOがその機会を提供してれた、と。
なんて素晴らしいことなのだろうか、ついにキタのか、録音が!!!

……は、良いのだがよ(^_^;、
人がシヌほど忙しいときに、どーーーして、
こんなデカいことをシレっとやってくれるのだろうか!!!
今これを追求している暇が、全然、ないっ!!!

****************

(11月1日 22:06補足)

録音は、今年の9月10日から13日にかけて、
ドイツのシュロス・エルマウ城のホールにて行われたということだ。
使用楽器は現地にあったスタインウェイのコンサートグランド3台のうちの1台。

完成したものからアップして行って、録音がたまったら一枚のディスクにする、
と以前、ポゴレリチは公式サイトで言っていたと思うのだが、
その考えは変わっていないだろうか。
ソナタ22番を弾いたなら23番はセットだろう、という気がするし、
現にポゴレリチは2013年のリサイタルでは
前半の最後を22番、後半の最初を23番にしていたのだが、
22・23・24番を入れて一枚のディスクにする計画は、まだ無いだろうか。

一曲でも単独で公表できるのは、デジタル配信の長所だと思うので、
こういうやり方を私は聴き手として歓迎はしているのだが、
一方で、アルバムという単位での表現も聴きたいと切に願っているので、
「ベートーヴェンアルバム」の発売を、強く希望する。

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