Kobby loves 埼玉&レッズ

埼玉と浦和レッズを愛する管理者のブログです。

澤穂希、現役引退

2015-12-16 21:59:52 | レディース
オフネタを書こうとしていましたが、サッカー系ブログとしては優先順位トップのネタが来ました。それは女子サッカーのカリスマ、澤穂希選手の現役引退です。澤穂希といえば、2011年の女子W杯の優勝を牽引したキャプテンで、W杯得点王、MVP、FIFAバロンドール(世界最優秀選手)という、男子ではありえないような未知の領域を切り開いています。

そんな澤穂希ですが、私は女子サッカーが人気のなかった時代に孤軍奮闘した印象が強いです。澤穂希は早熟の天才で、13歳で読売ベレーザの大人のトップチーム入り、15歳で日本代表入りという、今後更新は不可能と思われる記録を作っています。

17歳で出場した1996年アトランタ五輪は3戦全敗で敗退しますが、澤の将来は前途洋々かに思えました。しかし、その後2000年のシドニー五輪の出場権を逃したことで、日本の女子サッカーは企業チームが相次いで撤退し、冬の時代を迎えます。澤のいた日テレはチーム自体は残ったものの、選手の待遇がアルバイトに切り下げられ苦しい時代でした。

澤は日本人初の女子プロを目指して単身渡米して、アメリカのプロリーグでプレーすることに成功します。いつか、自分の力で日本の女子サッカーを強くしたい、そんな思いだったと聞きます。転機になったのは、2004年アテネ五輪の予選、朝鮮民主主義人民共和国戦でした。当時、共和国は日本より強いチームでしたが、靭帯損傷を押してトップ下で出場した澤にけん引され、見事出場権を勝ち取り「なでしこジャパン」の愛称もつくことになります。

それから、女子サッカーをめぐる流れは変わりました。日テレも選手の待遇をアルバイトから正社員にしましたし、練習環境のいい浦和レッズレディース、岡山湯郷ベル、INACレオネッサなどの新興勢力もできました。あのとき、澤が欠場して共和国に敗れていれば、こんな劇的な変化はなかっただろうと、女子サッカーにとってのターニングポイントでした。

それからの活躍は皆さんご存知の通りです。以前、大儀見が半田悦子さんが持っていた女子代表史上2位の得点数を更新したと話題になっていましたが、ダントツのトップは澤です。大儀見が澤の記録を抜こうとするなら、これから今までの得点とほぼ同じ数を決めないといけないほどです。そんな偉大な澤も、ついにスパイクを置くときが来ました。ありがとうと言いたいです。
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トヨタカップの記憶2(1994年ACミラン対べレス)

2015-12-15 22:06:06 | ワールドサッカー
トヨタカップの記憶で、試合内容が印象にある中で最も古いのは1994年のACミラン(イタリア)対べレス・サルスフィールド(アルゼンチン)です。当時は今ほどワールドサッカーを映像で見られなかった時代で、南米のべレスはもちろん、ACミランもこのときが初めての観戦でした。当時、欧州CLを優勝したACミランですが、当時はトヨタカップがリーグ戦の合間の平日に行われていた時代です。

強行日程のACミランは、どうやら何が何でもクラブ世界一を狙うというモチベーションは低かったかもしれません。事実、当時ミランのスポンサーだった自動車メーカー、オペルの販促活動に試合前の貴重な時間を割いて選手が従事したほどでした。

それは試合にも現れていました。相手の南米チャンピオン、べレスの方がコンディションが上だったからです。当時、べレスにはパラグアイ代表GKチラベルトがいました。のちに日本でも有名になり、さまざまな日本のテレビ番組に出演して話題を呼んだチラベルトですが、当時はまだ無名の若手でした。

また、べレスの選手で印象的だったのは、FWのアサドです。マラドーナに良く似た、低い身長ながら重心の低いドリブルが武器で、一時100kgを超えていた体重をこの大会に合わせて90kg台に絞っていました。当時はマラドーナの薬物使用による余韻があった頃で、マラドーナの再来に思えたアサドは刺激的でした。もっとも、アサドの名前を聞いたのはこのとき限りで、アルゼンチン代表などで活躍することはありませんでした。

ミランは、コスタクルタがバックパスをミスして拾われ、後ろから相手を押して一発退場になるなど精彩を欠き、試合は2-0でベレスが勝ちました。当時の中継では、何とかこの両チームに興味を持ってもらおうと、いろんなエピソードを話していました。今でも覚えているのは、ベレス・サルスフィールドという名前が鉄道の駅の名前で、この駅の周辺にサッカー好きが集まってクラブを作ったことから、そのまま駅の名前をクラブ名にしたことです。

当時、海外のクラブは100年、日本のプロチームはできたばかりと、歴史には圧倒的な差がありました。日本のJリーグも、アメリカの北米リーグが10年ほどで消えた過去から心配する声もあった頃です。今、20年を超えたJリーグ、さらなる発展を願いたいです。
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kobby肉体改造2年9か月

2015-12-14 22:20:10 | 雑記
今日はネタがないので、珍しく自分のことを書きます。kobby肉体改造に着手してから、2年と9か月が過ぎました。この間、トレーニングルームのある桜環境センターのオープンなど、自分にとって追い風が吹いた幸運もありますが、かなり肉体改造の成果は出てきました。

その中で、顕著なのは、年頭の目標であった10kmのレースを無事に完走したことでしょう。今年の1月の時点では、連続して走れる距離は3kmでした。そこから、3km→5kmと少しずつレースの距離を延ばし、ついに10kmにたどり着くことができました。もちろん、まだまだ練習などで安定して10kmを走るには至っていないので、さらに距離を延ばすのはもっと先です。

今回の肉体改造では、年齢を重ねたベテランはどうやってトレーニングを楽しむか、少しずつですがノウハウが蓄積されてきました。学生時代から若手社会人時代にかけて、フルマラソンでサブフォーを達成したり、富士登山競走を完走したりしましたが、当時は体幹部を鍛える補強運動をあまり熱心にやっておらず、弱い体に無理やり強い負荷を掛けて仕事に悪影響が出た反省があります。

今のトレーニングの目的は、仕事にいい影響を出すためです。そのため、平日は走らないで散歩とスクワット中心、走るトレーニングは休日と決めています。このやり方だと、心肺機能はなかなか上がりませんが、体が強くなったという実感は自分自身の肉体に表れており、背中を触ると背筋が発達した感触があります。

また、筋トレを積極的にやろうとしたので、姿勢も良くなりました。学生時代の全盛期も、姿勢の悪さは課題で、歩き方、立ち方などが良くないという欠点がありました。今、職場でも気が付いたら立ち方や歩き方を直すようにして、少しずつですが姿勢を良くして疲労をためにくくしています。

そうした、ベテランの経験と知識がうまく融合すれば、全盛期と同じとはいかなくても、ある程度のところまでは鍛えられるのではと、自信が付いた1年でした。
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劣勢を跳ね返す(広島対マゼンベ)

2015-12-13 22:15:24 | 他チーム
クラブW杯準々決勝は、広島対マゼンベ(コンゴ民主共和国)も見ていました。序盤はマゼンベが圧倒した試合になりました。広島の誇る、佐藤寿人へのスルーパスやミキッチの1対1の突破、セカンドボールの処理などの長所がことごとくマゼンベの身体能力に潰されていました。マゼンベのような、サハラ砂漠以南の国がアフリカCLを制することはこれまで珍しかったですが、コンゴ民主共和国といえばレアメタルの国で、その景気がチームに反映したのでしょう。

序盤で広島が失点すれば、勝負は早々と決まってしまうだろうと、広島のサポにとっては絶望的な展開に見えました。前半のCKが、広島1本に対しマゼンベ8本と圧倒され、そのCKが決まれば終わりだったでしょう。それでも、広島は粘りを見せました。DF陣は上背で劣っても体をつけて相手のバランスを崩し、相手のミドルシュートには体を投げ出してブロックしました。これだけの身体能力を相手にするのはおそらく初めてだったでしょうが、基本を徹底する強さが広島にはありました。

その広島の1本のCKが試合を分けました。おそらく練習でやっていた形でしょう。茶島のクロスは一見ミスキックで、ゴール前に届かないボールに見えました。しかし、それをニアに走り込んだ佐々木が後ろへ流し、そこをドウグラスと塩谷が詰めて、塩谷が触ってゴールになりました。CKは、直接届けば対応が効きますが、ニアサイドで触られてしまうとGKやDFはどうしようもないと聞きます。マゼンベがミスキックだろうと思って、一瞬集中が切れたタイミングがゴールにつながりました。

その後、広島はまたもCKから千葉のゴールで追加点を入れます。2-0の展開で、マゼンベは攻撃的な選手を次々と投入せざるを得なくなり、前半あれだけ機能していたシングルマ(10番)、アサーレ(7番)、トラオレ(11番)の攻撃を放棄することになります。最後の交代枠では、左SBボアテング(27番)を下げて攻撃的MFを入れて、トラオレを急造DFに下げる交代に出ましたが、その急造DFトラオレのところをミキッチに狙われて失点と、マゼンベは全ての手が裏目に出ました。

もちろん、広島の次の相手、南米代表のリバープレートには苦戦は免れないでしょう。しかし、劣勢を耐えて跳ね返した強さは何かを広島にもたらしたはずです。また、広島の試合を見てみようという気持ちになりました。
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中国人で組織したオプション(広州対クラブアメリカ)

2015-12-13 21:49:43 | ワールドサッカー
クラブW杯準々決勝、広州(中国)対クラブアメリカ(メキシコ:以下アメリカと書きます)を見ていました。こういう、異なる大陸のチームの対戦では事前の視察が難しく、予想と違うフォーメーションが十分あり得ます。広州が、予想フォーメーションの4-2-3-1を手直しして、右MFの16番をボランチ気味に下げてきたので、アメリカ側がうまく対応できず、序盤は広州がボールを回していました。

しかし、回されながらも、アメリカはカウンターを常に狙っていました。アメリカのロングボールの精度は高く、31番のキンテロが空くことが何度かありました。アメリカはメキシコのチームですが、実態は「南米選抜」ともいえる南米各国の選手を集めており、メキシコ人はスタメンに2,3人です。そのメンバーの連携は熟成されており、広州の攻めをうまくいなすダイレクトプレーが冴えていました。

アメリカの2トップが機能して、ベネデット(9番)のドリブルからクロスを頭でペラルタ(24番)が押し込んだ時点で、アメリカの勝利は確実と考えていました。広州のルイス・フェリペ監督は追い込まれて次々と交代カードを切らざるを得ず、早い時間で交代枠を使い果たし、しかも売り物のブラジル人はロビーニョ(56番)が守備に難ありという理由で後半頭で交代、ポストプレーヤーのエウケソン(9番)もボールに絡むことができず交代と、広州としてはある程度負けも覚悟したでしょう。

しかし、苦し紛れに打った、1トップ告林(29番)のオプションが意外にも当たりました。告林はエウケソンより運動量が多いポストプレーヤーで、前線でボールを落ち着かせて流れを呼び戻しました。右MFに27番(ジョン・ロン)、左MFに20番(ユー・ハンチャオ)と中国人で組織した攻撃もパスが回り始めました。

また、ブラジルW杯にも出場した超大物である元トットナムのボランチ、パウリーニョ(8番)が意地を見せました。同点ゴールの場面ではパウリーニョが自陣から長いドリブルで攻めあがったところを、告林がポストプレーで戻し、27番がミドルを突き刺したものです。しかし、それでも交代枠の関係で延長になれば広州不利です。

もう延長戦は間違いないと感じたロスタイム、CKをパウリーニョが押し込んで広州が勝利し、悲願であったバルセロナとの対戦を実現しました。ブラジル人が機能しなかったときに備えて、中国人で組織するオプションを用意した、フェリペ監督の育成が成果を出した試合でした。
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浦和の祭り「十二日まち」

2015-12-12 17:45:50 | 埼玉
毎年、12月12日は浦和の調(つきのみや)神社のお祭り「十二日まち」です。今年はたまたま土曜日に当たったこともあって、歩行者天国が引かれた旧中山道は人でごった返していました。普段の私は、混んでいない裏道に回る行動パターンですが、たまにはお祭り独特の雰囲気も感じたいと思って、あえて人混みの中を歩いていました。トップの画像は、調神社の狛犬の代わりのウサギです。



普段、浦和の街はこんなに混まないのでびっくりですが、露店でどんなものを売っているか観察してみました。ただカメラを向けるだけで買わない、お店の人には迷惑な存在ですが。



懐かしの「じゃがバター」です。お祭りの定番で、これだけは間違いなくあるお店です。祖父母がふかしてくれた、ジャガイモやサツマイモのことを思い出していました。



水笛と書いてありました。



熊手売り場で見つけた、猫の七福神です。



五平餅に似た、だんごがおいしそうで撮ってみました。







植木です。これも祖父の趣味だったので思い出します。



ドネルケバブです。本場トルコでは羊やヤギの肉でしょうが、日本人の味覚に合わせてこのお店では鶏肉です。刀のような巨大なナイフで切り落とし、それをパンに挟んで食べる、埼スタではよく食べる味です。



旧街道の面影を残すお茶屋さんです。



歩行者天国の出口です。

あとは冬の風物詩の羅列です。





シクラメンです。



パンジーです。




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トヨタカップの記憶(1997年ドルトムント対クルゼイロ)

2015-12-12 12:26:53 | ワールドサッカー
今はクラブW杯になって発展的に解消しましたが、冬のサッカーといえば国立競技場のトヨタカップだった時代は長かったです。当時、日本に真剣勝負のスポーツイベントを開催したいと考えた広告代理店が、欧州と南米のクラブ王者が戦うインターコンチネンタルカップを中立地の日本で一発勝負にしたのが始まりです。

トヨタカップのチケットは日本のサッカーでは当時最難関のチケットでした。私は自力では一度も取れませんでしたが、知人経由で入手した1996、1997、1998年と三度国立競技場のスタンドに座っています。その中では、印象的だったのが1997年のドルトムント(ドイツ)対クルゼイロ(ブラジル)です。

当時、クルゼイロは無名選手が中心だったチームで、まともにやってもドルトムントには勝てないと考えたらしく、他チームでプレーしていたFWベベット、FWドニゼッチ、MFパラシオスを1ヶ月の短期レンタルで獲得して勝ちに来ました。

そのため、ドルトムント側も一時はACミランのウェア、ユベントスのデル・ピエロの短期レンタルを考えましたが、欧州にはこういう短期レンタルの習慣はなく、現有戦力でトヨタカップに臨むことになります。ただ、この試合はチームとしての完成度の差が勝敗を分けました。

国立競技場のスタンドから見ると、ドルトムントの守備陣の組織力に驚くことになりました。当時、3バックは2ストッパーが相手2トップにマンツーマンで付いて、後ろのスペースをリベロがカバーするのが、加茂監督の日本代表でお馴染みでした。しかし、ドルトムントの守備は見たことのなかった組織でした。ドルトムントのDFは、フレキシブルなポジションチェンジを見せ、リベロがストッパーの位置にスライドしたり、高いラインを引いてコンパクトにするなど、それまでの3バックの常識がくつがえされました。

これに対し、クルゼイロは急造チームのため、組織力の弱さが出ました。ストライカーのはずのベベットがボールを持つ位置はタッチライン際で、誰にボールを集めて点を取るかの考えがあいまいだった印象です。このクルゼイロの失敗で、それからは短期レンタルをするチームはなくなった、歴史の1ページでした。
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身体能力で勝負する(ネイマール)

2015-12-12 00:03:51 | ワールドサッカー
またもバルサネタですが、3トップ紹介の最終回、ネイマールです。ネイマールは個人技のメッシ、スピードのスアレスの中間のキャラクターで、スピードを生かして走っても良し、ドリブルで相手DFに仕掛けることもできます。彼が有名になったのは、2011年クラブW杯でサントスFCのFWとして来日したときですが、当時はバルサ相手にほとんど何もさせてもらえませんでした。

それから4年経ち、今では当時の対戦相手だったバルサの選手として、2度目の来日を果たします。もっとも、スペインリーグは映像が有料放送で手に入らないので、彼の印象はブラジル代表でのプレーがほとんどです。ブラジル代表では、メネゼス監督時代は1トップで起用されていましたが、機能したとは言い難く、後任のルイス・フェリペが右MFにコンバートして持ち味が出るようになりました。この事実から見るとウイングが彼のベストポジションという印象です。

個人技もあるネイマールですが、テクニックで抜くメッシとはタイプが異なり、身体能力で抜くドリブルを見せることが多いです。スペースがあると持ち味が出ます。バルサというチームにいれば相手がメッシにマークを集中させるので、必然的にネイマールが得意とするスペースを生かした身体能力のドリブルが生きやすい環境です。

それでも、ただのアシスト型のウイングではなく、ネイマールは自分でも点が取れます。それは、昨年日本代表が中立地シンガポールでブラジル代表と対戦して0-4と惨敗した試合で活躍したのがネイマールという事実に表れています。おそらく、準決勝の相手は問題にならず、決勝で当たる可能性が高いリバープレートのDFがどこまで止められるかというのが焦点になると思います。

ネイマールは欧州CLで負傷したという情報もあり、来日するかどうかは微妙ですが、これほどの才能が見られたら楽しみにしたいと思います。
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リオネル・メッシの特徴

2015-12-10 22:33:47 | ワールドサッカー
クラブW杯、今日が初戦でした。広島がオセアニア代表のオークランドを2-0で破って準々決勝進出を決めました。少し眠かったのでその試合の印象はあまり残っていないので、またもバルサネタで、FWリオネル・メッシ選手を取り上げます。

メッシは身長167cmと小さく、圧倒的なスピードを持っているわけでもないですが、サッカーはうまければ全てを超越できるというのが、そのプレーから見て取れます。振りが小さくても強烈なシュートを放てますし、相手がスペースを消す守り方をしても、その狭いスペースでボールを持って時にはシュートも放てます。

彼のプレーで驚いたのは、ショートコーナーでドリブルを見せたことです。普通のことのように見えますが、CKですから攻撃側はCBの選手を上げてヘディングシュートを狙わせようとしているタイミングです。もし、ドリブルを取られてしまうと自陣にCBがいないという、決定的なピンチを引き起こすリスクのあるプレーです。

よほど取られない自信がなければできないプレーですが、メッシの場合当たり前のように相手を抜いて、フリーでちゃんとクロスを上げてくれるから驚きです。最初、このプレーを見たときはわが目を疑いましたが、次第に「メッシならありうる」と納得するようになりました。

また、メッシは高い得点力があり、スペインリーグではロナウドと試合数を上回るペースの得点王争いを繰り広げていますが、MFとしても高い能力を持っています。周りを見渡す視野の広さも持っているので、場合によってはトップ下に置いてメッシのパスからチャンスを狙うオプションもあります。

ただ、メッシは守備はまったくしてくれません。バルサが堅実にバランスを取る、ラキティッチをメッシの裏に置いているのは、おそらくメッシの守備範囲をカバーする意図もあるでしょう。アルゼンチン代表でも、裏のスペースをマスケラーノをカバーさせて相手にカウンターを狙わせないようにしていました。

そのあたりも含めて、観察するといろんなことが見つかる選手なので、楽しみにしています。
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開幕戦3本塁打(小早川毅彦)

2015-12-09 22:07:42 | 他スポーツ
野球観戦は西武戦がほとんどの私ですが、他カードで今でも思い出せる数少ない試合が、1997年開幕戦の巨人対ヤクルトです。当時、私は神奈川県の某市に住んでおり、そこから金曜日に実家に戻る生活をしていました。その2時間弱の道のりは当時はラジオで野球を聞くのが楽しみで、たまたま巨人戦にチャンネルを合わせていました。

当時の巨人は、80年代末から黄金時代を作った桑田、斎藤、槙原の3本柱が中心の投手王国で、この開幕戦にも満を持して斎藤を先発させました。これに対し、ヤクルトは野村ID野球とは言われながら、この年は評価が低く、この開幕戦では広島からトレードで獲得したベテランの小早川毅彦を5番でスタメン起用してきました。

広島でも出番が少なくなっていた小早川毅彦は、当時は終わった選手のように言われていました。その小早川に、野村克也監督は「法大一年目も、広島一年目もお前は好成績だった。ヤクルト一年目も好成績のはずだ。」と言って送り出していたと聞きます。その起用は当たり、なんとこの開幕戦で1試合3本塁打という鮮やかな活躍を見せました。

巨人の3本柱の時代にピリオドを打つことになった、この小早川の3発は巨人ファンにとっては衝撃的だったはずで、当時の野球漫画にも「今年のペナントは小早川の3発で終わった」というような巨人ファンのぼやきが載ったほどです。小早川の成績は2割2分台と決してクリーンナップの成績ではなかったですが、これで勢いがついたヤクルトはペナントを制し、日本シリーズでも西武を4勝1敗で破って日本一になっています。

当時、野村克也監督は「再生工場」と言われており、他球団を戦力外になった選手が鮮やかな復活を遂げるということが話題になっていました。小早川の活躍が、その中では最も印象に残っています。小早川は、今はNHKの野球解説者です。ヤクルトで野村ID野球を吸収したことが、きっとその解説にも影響をもたらしたはずです。
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