Kobby loves 埼玉&レッズ

埼玉と浦和レッズを愛する管理者のブログです。

来期来る「アクションサッカー」(10/31大宮対仙台)

2009-10-31 19:56:53 | 他チーム
天皇杯で浦和が敗退し、行く場所がなくなった私は今日はNack5スタジアムまで大宮対仙台を見に行っていました。大宮はたまに見ているので、主力選手の特徴はある程度知っていますから、この試合を見た目的は来期J1で浦和と当たるかもしれない仙台の特徴でした。

仙台は自ら仕掛けるアクションサッカーが売り物という話を聞いたことがあります。それまではJ2の長丁場でそのアクションサッカーがスタミナ切れを起こし、カウンターを食らって敗戦という展開を想像していますが、この日の内容は大宮の張外龍監督が「J1に入っても10位前後には入れる」というものを見せてくれました。

仙台のシステムは普通にダブルボランチを置いたボックス型4-4-2で、変わっているようには見えません。しかもこの日は天皇杯で延長の可能性があるので、選手交代はどうしても遅めにせざるを得ず、普段J2でやっているサッカーとは微妙に違うかもしれません。

しかし、仙台の場合、ボールの落ち着くポイントが明確にあります。サイドハーフの梁勇基のところです。梁勇基は驚くようなスピードこそないものの、キックの精度と技術が売り物の10番で、この日の延長戦でも決勝点となる直接FKを決めています。逆のサイドハーフの関口にもドリブルという武器があり、仙台の中盤がボールを持つと面白いという雰囲気は醸し出しています。

FWが中原、中島と日本人2トップで、ここに外国人が補強される可能性はありますが、前から積極的に仕掛けるサッカーの面白さは十分に見せてくれました。浦和がこのチームと対戦したらという想像ですが、ショートカウンターを狙うのも一つの手かなと思います。

カウンターという言葉が入っているので、「げ、エンゲルス時代に逆戻りか」と思われた方もいらっしゃるでしょうが、同じカウンターでもショートカウンターは積極策で、前からプレスを掛けて高い位置でボールを取り、そこから相手の守備が整わない隙を狙うものです。

低い位置から積極的に仕掛ける、両SBの菅井、一柳のところからボールを奪えればチャンスになるのではと思いましたが、こういう積極サッカーの相手とJ1の舞台で対戦できるのは楽しみです。仙台も遠征先としては魅力的な地ですし、昇格してくれることを楽しみに待っています。
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1979年の西武

2009-10-31 13:09:01 | 他スポーツ
先日のドラフト会議で、花巻東高校の菊池雄星投手が6球団の1位指名を受け抽選の結果、西武が交渉権を獲得しました。本人はもともと12球団OKの意思だったので、入団は確実と思います。左投手というただでさえ貴重な存在で、150kmのストレートを持つという武器もあります。

是非とも大きく開花して欲しいですが、菊池については以前ネタにしたことがあるので、今回は西武の設立元年の1979年シーズンの話をします。西武は楽天とは違って、まったくのゼロから立ち上げた球団ではありませんが、その元年は苦しみました。

西武ライオンズは、以前福岡市を本拠地にしていたクラウンを西武が買収して、所沢の郊外にわざわざ新しい球場を作ってリニューアルした球団です。その立ち上げ期は楽天と同様、大規模な改造がなされました。

当時の主力選手の大半が新人か移籍組で、4番を打っていた田淵は阪神からのトレードで来た選手です。先発ローテーションもエース東尾こそ九州時代の主力ですが、松沼兄弟、森など新人が投げていました。

そんな西武は、当時は非常に弱いチームでした。開幕13連敗という不名誉なスタートを切ると、その後も松沼兄や森などは投げても投げても勝てないという状態で、シーズン二桁の黒星は当たり前という状態でした。

しかし、当時少年だった私は、所沢で野球を見られるという事実そのものが嬉しいことでした。結果は負け試合を見ることが多かったですが、当時斬新な発想だった西武球場のドリンクホルダーや、個別席のひじ掛け、人工芝の鮮やかな緑など、いろんな思い出があります。

その中では田淵の名前は大きく、少年だった私にも田淵だけは西武に来る前から知っていました。現楽天監督の野村克也氏も、当時46歳の大ベテランながら西武に在籍していました。それだけ、当時の根本監督が九州時代の戦力では勝てないと判断して大手術を行ったと思います。

根本監督は、チームを勝たせるという意味ではあまり結果を出せませんでしたが、次の時代につながる戦力をかき集め、礎を作るという意味では名監督でした。のちにダイエーの監督に呼ばれたのも、そういう理由と思います。
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人間の心理(10/28名古屋対アルイテハド)

2009-10-29 18:45:15 | 他チーム
第1戦で6-2の大差をつけられ、名古屋にとっては圧勝するしか勝機がない試合でしたが、テレビで途中から見ました。この試合は、点を取りたい名古屋の焦りと、余裕を持ってカウンター狙いのアルイテハドの冷静さが手に取るように伝わってきました。

もちろん、ストイコビッチ監督も圧勝狙いの強気なスタメンは並べていて、FWの巻、ケネディ、玉田と、MFながら得点力が売り物のブルザノビッチを同時にスタメンに並べてきました。ボール支配率を上げ、ケネディの頭に一回でも多くクロスを入れたいプランも伝わってきました。

しかし、ケネディのヘディングシュートはクロスバーをヒットします。形は作っても点にならないことが名古屋に焦りを生みます。右SBに本来MFの小川を置いていたこともあって、最終ラインには余裕がない名古屋は痛恨のパスミスから相手にカウンターで走られ、やってはならない先制点を取られてしまいました。

逆にアルイテハドの方は徹底的な現実主義のサッカーで、トップの位置をハーフウェイラインまで下げるベタ引きサッカーを選択しました。ただ、攻守の切り替えの早さはさすが中東でも有数の強豪で、名古屋がパスミスをすれば4人、5人と信じて上がって来られるチームの戦術意識の高さは感じました。

そんなチームが、名古屋のミスをてぐすね引いて待っている、蟻地獄に名古屋は引き込まれてしまいました。アルイテハドの2点目もカウンターからのアーリークロスからのヘディングシュートです。(これを決めた選手はCWCで浦和と3位決定戦を戦ったエトワール・サヘルのFWでした)

こうなってしまうと名古屋は何をやってもうまく行かなくなり、シュートチャンスにパスを選択したり、完全にフリーになった決定機を外したりと、サッカーには流れはあるものだと実感させてくれます。

この日のプレーを見る限り、アルイテハドは確かに強いですが、Jリーグに来たら確実に優勝できるとは限らないと感じたのも確かです。CBがゴール前でボールを取られたり、バックパスを相手に奪われたり、ケネディにマークが集まり過ぎてマギヌンをフリーにしたりなどのミスもあります。

もう少し、落ち着いた心理状態で始められる点差だったらと、第1戦にロスタイムで2失点したことが惜しまれます。
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大宮戦マニアック分析

2009-10-28 18:48:24 | 浦和レッズ
先日の大宮戦、ポンテの退場でどう中盤のバランスが崩れたか、マニアックに具体的に書きます。まず、ユースではボランチだった山田直輝ですが、前半戦好調だったのはフィンケ監督が攻撃的MFで使い、キープ力のあるポンテのフォロー役を命じたからです。

しかし、今回の出番は鈴木啓太の負傷による代役出場でした。守備力には課題のある山田直輝に、そのまま鈴木啓太の役割はできないと判断したフィンケ監督の決断で、ポンテをフォロー役につけて山田直輝に上がる自由を与えました。

山田直輝は自由を与えた方が持ち味が出る選手で、今回高原がキープできずにチャンスにならなかったものの、センスのあるパスも出していました。また、前線もエジミウソンの出場停止で「モザイク」状態でした。

一見、切れのあるドリブルで浦和の救世主になってくれそうな期待がある田中達也ですが、彼には1トップができず、MFに下がると持ち味が出ないという欠点があります。田中達也の力を生かすには前線は2トップでなければならないのです。

そのためには、高原に真ん中でしっかりキープして欲しいところですが、ここがマトにつぶされたのも敗因の一つです。それでも、チームバランスは保っていましたから、展開次第でチャンスはあると思っていました。

そこで、ポンテが2枚目のイエローカードで退場したのです。こうなると、まず山田直輝が思い切って前に行けなくなります。また、守備がメインの役割になると、山田直輝はまだJリーグのレギュラークラスと比較すると見劣りします。

次に問題点が出るのは前線です。ポンテの退場で攻撃的MFの位置が空きますから、どうしても田中達也が下がって中盤を埋めざるを得ません。しかし、先ほど述べたように、田中達也はMFは得意ではありませんから、どうしてもボールは持つけど前に展開できない状態になります。

その結果、1トップになった高原は孤立するばかりで、大宮も1点あれば十分としっかり引いてきました。その結果、カウンターを狙った大宮が追加点を入れて、このゲームは終わりになってしまいました。そんなバランスの崩れがあったと思っています。
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日本代表の親善試合

2009-10-27 18:17:43 | ワールドサッカー
今日のサッカーネタで、日本代表がイタリア代表から親善試合のオファーがあったものの、アジア杯予選の香港戦を動かすことができず断念したというニュースがありました。岡田監督が自ら公言したので事実でしょう。

これを見ると、どこのチームも他大陸との力関係をはかりかねているようです。オランダもW杯予選突破を決めたら日本との親善試合を受けてくれましたから、W杯に4大会連続で出場する日本の力は海外のチームも評価しているようです。

それなら、スコットランドやトーゴは来日メンバーを落としたではないかと思われる方もいらっしゃるでしょう。それは、日本代表の国内での親善試合には早めに動く必要があったことが理由として考えられます。

そのため、交渉時点では予選突破の可能性が残っていた両国に声をかけたのですが、結果は最悪の予選敗退で、W杯につながらない日本遠征ならベストメンバーを送りたくないと思われたとしても仕方ありません。

スコットランド戦に関して言えば、日本代表も自らの都合でアジア杯予選の香港戦を中1日で入れたので、ベストメンバーをスコットランド戦で出せなくなりました。あまり人のことは言えないと思われる方もいらっしゃるでしょう。

ただ、アフリカの身体能力に慣れるつもりで呼んだトーゴ代表が、実際は格下と思われた香港代表とあまり変わらない実力だったのは誤算でした。日本代表の親善試合はミステリーツアーではないから、直前までどこと対戦するか分からないというわけには行きませんが、何かもっといい手はなかったかと残念に思います。

岡田監督は、今後の国際Aマッチデーには可能な限りW杯出場が決まったチームと対戦したいと言っていますが、最悪の場合は次のアウェイの南アフリカ戦が大会直前を除けば欧州組を呼べる最後の機会になる可能性も考えているようです。

幸い、南アフリカは開催国で、しかも親善試合で黒星続きとチーム状態が良くないので、一刻も早くベストメンバーで試合をして勝ちたいでしょう。しかも、監督も替わったばかりですから、新監督の戦術も浸透させたいでしょう。そんな貴重な機会を無駄にしないことを、日本代表には期待します。
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2000年新潟の旅

2009-10-26 21:33:00 | 雑記
先週、新潟のアウェイ戦があったので思い出しましたが、私にとっての新潟の旅は2000年、浦和のJ2時代が思い出です。当時、交通費を節約するために、「あさひ朝得切符」という始発の新幹線に乗るとほぼ半額で新幹線に乗れる切符を買って、朝8時半に新潟に着きました。

このままスタジアムで行列するのはもったいないと思った私は、市内循環のバスに乗って資料館に向かいました。それまでは新潟の街に関する知識はゼロでしたが、北前舟の風待ち港として栄えたこと、信濃川の河口をさかのぼったところに港を作ったこと、江戸時代の代官の川村氏が掘割の町を作って「商都」にしたことを知りました。

確かに、戦国時代の「越後」のイメージは現在の上越市に居城を置いた上杉謙信のものです。今の新潟市が栄えたのは、後の世の人の努力があったからなのですね。ただ、その掘割は戦後の高度経済成長期に、交通の邪魔になるという理由で埋められてしまいました。

今考えるとなんとももったいない話です。もし、この堀があれば、九州の柳川にも負けないくらいの「水の都」としてアピールできたはずです。当時、居酒屋で初老の店員さんに聞いたら、少年時代に堀があった話を聞かせてくれて、当時の写真も見せてくれました。

しかし、肝心の試合の方は、記憶力の良い方なら覚えていらっしゃるかもしれませんが、浦和は退場者を出して1-6と惨敗を喫しました。この怒りの感情を静めるのには時間がかかりました。当時はJ2のテレビ放送はなかった時代ですから、弟は私の電話だけが情報だったので、まさかこんな結果になるとはと唖然としていました。

そんな状態でしたから、これは日本海でも見て落ち着かせるしかないと思い、当時の新潟市陸上競技場から歩いて30分ほどのところにある日本海目指してまっすぐに歩を進めました。当時は梅雨時だったこともあって曇り空でしたが、日本海を見ていると、浦和レッズの負けに対する怒りが少しずつ静まってきました。

その後はNEXT21ビルで上から新潟の街を見て、今でも新潟には大きな船が留まっている様子を見ることができました。船の修理場(ドック)もあったように見えました。こういう、関東地方にはない街の様子を見られただけでも良かったと、レッズの負けを除いては満足だった旅でした。
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モザイクの一片(10/25浦和対大宮)

2009-10-25 21:37:46 | 浦和レッズ
大宮は長身のラファエルが加入したこともあって、サイドハーフからラファエルにボールを集めてのポストプレーで攻めると予想していました。しかし、実際は違いました。立ち上がりのプレーで、藤本のクロスにラファエルが空き、GK山岸と1対1になる場面がありました。

この場面こそ山岸が止めましたが、これがその後の試合の流れの伏線でした。浦和の最終ラインはこの時期になっても4バックに慣れていないラインコントロールのまずさを見せ、藤本の縦パスでラファエルに抜け出され早々と失点します。それでも、新潟戦で見せたチームバランスの回復を見せれば点は取れるはずと、そのときは悲観はしていませんでした。

浦和の中盤は、鈴木啓太が負傷で離脱したこともあって、山田直輝がボランチに入っています。1対1と守備力の鈴木啓太から、運動量と機動力の山田直輝に代わることで、当然構成のさせ方も変わってきます。まず、山田直輝はポイント毎に前に行ってもらってこそ持ち味が出るという考え方でフィンケ監督はきました。

しかし、それまでは鈴木啓太と阿部勇樹が後ろでどっしりと構えていたのが浦和の中盤でしたから、山田直輝に前に行かれるとどうしても一枚足りなくなります。それを埋めるのはポンテの役割でした。ボランチの脇のスペースでポンテが受け、そこからドリブルで前に進む、3ボランチ気味の布陣でボランチの位置の安定感を出す作戦でした。

いわば、欠点もそれぞれあるMF陣の個性を「モザイク」状に重ね合わせたのが浦和の中盤だったのです。それはポンテの退場で一気に崩れました。これで中盤の安定感は望むべくもないと思った浦和は、後半の立ち上がり、運動量を全開にして一気に同点ゴールを狙いに行きました。

しかし、それは大宮にとっても狙い通りの作戦でした。トップのラインをハーフウェイライン付近まで下げ、俊足の石原を走らせるカウンター狙いの戦術に、浦和のDFラインが耐え切れずに2点目を失った時点でジ・エンドでした。SBも上げず、慎重にゴール前を固める大宮の前に、梅崎もエスクデロも数的不利を突破できず、ただ時間だけが過ぎていくばかりでした。

結局、カウンター対策という意味では、この試合も結果を出せませんでした。一度、紅白戦で控え組に徹底的にカウンターを狙わせて対策を試すなど、何らかの手は必要に思えました。
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カズのイタリア挑戦

2009-10-25 13:58:49 | ワールドサッカー
現横浜FCの大ベテラン、カズですが、1994年シーズンにイタリアのセリエA、ジェノアに移籍したことがあります。当時、日本人のセリエA挑戦は初めてだったことで、大いに話題を呼びました。今のセリエAとは違って、当時はEU圏外の外国人枠は二つしかなく、ジェノア側は中心選手になってもらわないと困る立場でした。

カズは開幕戦で、アウェイのサンシーロスタジアムのACミラン戦でスタメンデビューします。しかし、不運なことにこの試合で負傷交代してしまいます。それ以降はスタメンとベンチを行ったり来たりで、ゴールはジェノバダービーのサンプドリア戦の1点にとどまります。

これまで、多くの日本人が欧州リーグに挑戦してきましたが、出番を失って実戦の勘が鈍って選手としてのキャリアも下降線をたどるというケースも見ています。カズがそうならなかったのは日本代表で不動のエースストライカーだったことが大きいと思います。

今は、代表招集をめぐってクラブと協会がもめるケースは多々ありますが、カズの場合はジェノア側に招集を拒否されたことは一度もありませんでした。ジェノアの大事な試合だった残留決定戦でもあっさり代表に行かせたほどで、カズは残念ながらジェノアでは中心選手ではないという扱いだったようです。

当時、日本のマスコミはカズのセリエA挑戦は失敗と断言していました。確かにFWが一年で1点しか取れなければ戦力になったとは言い難いですが、カズ本人は21試合に出られたと前向きに考えたいと言っていました。

当時、日本人が海外で成功するためには、下位チームに加入して自らの力で勝たせるしかない時代でした。そんな困難なノルマを達成した中田英寿はさすがですが、今は日本サッカーの地位も上がり、小野伸二(当時フェイエノールト)のようにある程度実力のあるチームに加入できる選手も出てきました。

カズのケースは、それだけ困難な道に挑み、セリエAがどんなものか日本人サポーターに示すという意味では重要だったと、今では思っています。
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ガス検針からの生え抜き(藤山竜仁)

2009-10-24 22:30:37 | 他チーム
つい先日、FC東京の藤山竜仁選手が今季限りでの戦力外通告を受けました。藤山といえば、他チームサポの私にも印象に残る名前で、FC東京のサポほどの思い入れはないにせよ、自分なりに記憶に残っている思い出を書きます。藤山は鹿児島実業高校の出身で、当時のスター前園真聖と一緒にプレーしています。

しかし、Jリーグ横浜Fで脚光を浴びる前園とは対照的に、藤山は当時JFLの東京ガスに入団し、最初はアマチュア契約でガスの検針作業までやっていました。前園はプロであれだけサッカーをやれているのに、自分はこれでいいのかと本人は自問したらしいです。

それでも、記録を調べたら藤山は高卒ながら、一年目から半分近い公式戦に出場しています。これはJFLといえども驚異的なことで、いつ注目を浴びてもおかしくない実力はあったものと思われます。しかし、もう一つの不運が藤山を回り道させます。

それは、東京ガスがJリーグ入りしない方針だったことです。当時の東京ガスは強く、下手な準会員チームより上の力があり、JFLで優勝したこともあるのですが、ガス会社が「公益法人」であることから、私企業のJリーグチームの運営に手を出すのはどうかという意見があったそうです。

その壁が取り払われるのは、1999年のJ2創設とFC東京の設立を待たないといけませんでした。J2を一年で突破したFC東京の左SBとして、ようやく藤山は注目を浴びることになりました。しかし、原監督の就任で左SBは補強ポイントに挙げられ、磐田でどこでもこなせる選手だった金沢を補強されてしまいます。

そんな藤山が、今までFC東京でプレーできたのは、CBができるからでした。上背は170cmと低い藤山ですが、動きの良さでは相手のスピード系FWと言われる選手と比較しても遜色なく、CBに長年苦労してきたFC東京の最終ラインを支えた、陰の功労者でした。ナビスコ杯の優勝の瞬間のピッチにも立っていました。

しかし、今季はボランチの米本の台頭と今野のCBコンバートで、藤山はすっかり出番を失ってしまいました。それを考えると今回の戦力外通告は不思議な話ではありませんが、本人は現役にこだわる意向らしく、J2以下でも行くつもりのようです。下位チームなら、彼の経験が役に立つチームは結構あるのではと思いますが、幸運を願いたいと思います。
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元スウェーデン代表ラーション引退

2009-10-23 18:57:33 | ワールドサッカー
私にとっては同世代のスター、元スウェーデン代表のヘンリク・ラーション選手が今季限りの引退を表明しました。1994年、2002年、2006年の3度のW杯に出場した息の長い選手でした。ラーションは、1994年のW杯当時はドレッドヘアの金髪を振り乱すのが印象的なスーパーサブでした。

当時スウェーデン代表は3位に入り、国を挙げた歓迎がなされたようです。翌1998年のW杯は予選で敗退しますが、ラーションはスコットランドのセルティックに移籍します。英語が堪能なラーションにとっては言葉の壁のないチームで、ここで欧州全体でも得点王に輝くなど、地位を確立します。

今でも、セルティックのオフィシャルショップでラーションのビデオが売られているほどで、チームの伝説的選手の一人です。そんなラーションを一度、生で見る機会がありました。2002年W杯、埼玉スタジアムのイングランド対スウェーデン戦です。

残念ながら、ラーション自身のゴールはなかったのですが、右足でも左足でも頭でも点が取れる、バランスの良いストライカーという片鱗は見せてくれました。この試合は1-1で引き分け、イングランドが25年スウェーデンに勝てないというジンクスが伸びた試合でした。

しかし、この話には続きがありました。次の2006年W杯、またもやイングランドとスウェーデンは同じ組に入り、再戦が実現します。このときは1次リーグの最終戦での対戦で、イングランドは2連勝して1次リーグ突破を決めていました。

そのため、イングランドはなにがなんでもスウェーデンを叩き潰すという気持ちは薄かったかもしれませんが、ロスタイムまでイングランドがリードしていました。しかし、そこで同点ゴールを叩き込んだのがラーションでした。

角度のない左サイドから決めたゴールが、ラーションの集大成でした。その後は2008年欧州選手権で代表復帰しますが結果は出せませんでした。しかし、スウェーデン代表で100試合以上に出場して37ゴールを決めた活躍は、歴代代表と比べても遜色ないでしょう。

今回、スウェーデン代表は南アフリカW杯には出ません。もし出れば、ラーション復帰もあり得ない話ではないと思っていましたが、これでもうラーションを見る可能性はなくなりました。しかし、その輝きは今でも色褪せません。いつか監督として、どこかで見られたらと思います。
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