Kobby loves 埼玉&レッズ

埼玉と浦和レッズを愛する管理者のブログです。

長友佑都、日本代表復帰

2024-03-15 21:33:28 | 他チーム
昨日は、来週に予定されている日本代表のW杯予選、北朝鮮戦に向けた代表メンバーの発表がありました。その中でサプライズは、写真のFC東京DF長友佑都選手の代表復帰です。かつてはイタリア・セリエAのインテルでもプレー経験のある、代表キャップ数も3桁というレジェンドですが、37歳という年齢を考えると驚きました。

北朝鮮戦、特にアウェイ戦はどんな環境が待っているかわからない試合になるので、独特の緊張感があるでしょう。今の代表は若手が多いので、ここはベテランの長友が持っている経験で、チームをまとめて欲しいという人選なのでしょう。どうしてもこの試合は勝ちたいと判断すれば、吉田麻也、酒井宏樹、長友を呼ぶ可能性はあると思っていましたが、今がその試合なのでしょう。

長友の記憶をたどると、彼は遅咲きの選手でした。東福岡高校を卒業後、明治大学に進みますが、明治大学では2年生の途中までレギュラーになれず、1年生のときは応援団で太鼓を叩いていました。高校時代、ベンチプレスで100kgを上げたものの結果につながらなかったので、トレーニング方法を見直して体幹強化を図ったことで、ようやく明治大学で試合に出られるようになります。

初めて長友の名前を覚えたのは、2010年の五輪2次予選で消化試合になったマレーシア戦でのプレーでした。当時、FC東京の強化指定選手になるなど有名になり始めていましたが、左右両方のSBができることと、ゴール前に上がっていけるスピードは印象的でした。その後、大学4年のシーズンに明治大学でなくFC東京でプロとしてプレーすることになります。

FC東京ではSBで出場した彼がボールを持つと、その高い身体能力で何かやってくれるのではとスタンドがざわつく選手でした。その後、セリエAの下位チームのチェゼーナに移籍し、ここで空走りを苦にしない運動量を見せたことで、在籍半年で名門インテルからオファーを受けて移籍します。インテルとなれば、チームメイトは代表キャプテン、代表100試合、代表最多得点などの豪華メンバーでした。

そんな彼らとの練習を「毎日がW杯本大会のよう」と刺激的な経験をしてきた長友が、日本代表にもたらすものは多いでしょう。アジアカップでSBが課題のポジションになった日本代表にとって、このベテランがベンチに控えていれば安心感があります。何とか、最低でもホームの試合は勝利して、2次予選通過を確実にして欲しいものです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

富士フィルム杯神戸対川崎

2024-02-17 21:47:00 | 他チーム
久しぶりにサッカーを見て記事を書きます。今日は富士フィルム杯の神戸対川崎でした。前年のリーグ優勝チームと天皇杯優勝チームが参加できる名誉な大会ではありますが、本番のリーグ戦に向けては最終調整という意味合いも強い試合です。事実、川崎はACLのベスト16の山東戦まで中2日という厳しい日程の間に挟まった試合なので、家長や脇坂をベンチにも入れず、メンバーを入れ替えてきました。

序盤は神戸が狙い通りの試合運びをしました。川崎の左SB田邊のところを狙い、右FWの佐々木に入れてからCFの大迫に合わせる攻めができていました。また、川崎のアンカーのゼ・ヒカルドのところは神戸のプレスの餌食になっており、ここで奪ってからのショートカウンターが神戸の攻めのパターンでした。そのため、序盤から守勢が続く川崎はなかなか中盤の選手が攻撃参加できない悪循環になってきます。

もっとも、神戸に一つアクシデントが起きます。4-3-3のサイドMFで出場していた井出が、太もも裏の肉離れを起こしてFWの宮代と交代します。そのため、神戸は意図しない形で、布陣が4-3-3から4-4-2に変更となりました。次第に川崎の良さも出始め、左FWのパトリッキ・ヴェロンのドリブルは相手SBに瞬間のスピードで勝てて、ポケット(ペナルティーエリアのサイド付近)を仕掛けられる武器になります。

前半は0-0で折り返した試合ですが、川崎の鬼木監督は前半の内容を良くないと見たようで、後半頭から左SBを田邊から三浦に交代させます。後半からサイドを仕掛けられるようになってきた川崎はゲームの流れを取り戻して、サイドから得たFKの流れから、神戸MF山口蛍のクロスを足に当てたファンウェルメスケルケンの当たりがシュートのような弾道になって、ゴールとなって川崎に先制点が入ります。

後半はあれほど脅威だった大迫になかなかボールが入らない展開になってきます。前半で意図しない布陣変更があったことも、神戸としてはゲームプランと異なる試合を強いられる要因の一つだったことでしょう。もっとも、リーグ戦の試合ならビハインドになった瞬間にベンチが動くでしょうが、この試合を調整試合の一環と見てか、神戸の交代は後半25分に、扇原とパトリッキを下げて広瀬と井手口を入れるまで待ちました。

神戸はパワープレーなど、無理に勝ちに行くオプションは見せず、試合はそのまま1-0で川崎の勝利に終わりました。ACLの都合でメンバーが落ちていた川崎の勝利は多少驚きではありましたが、神戸としても内容はそんなに悪くないと割り切れた試合だったのではと振り返ります。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遠藤保仁、現役引退

2024-01-10 19:26:19 | 他チーム
相手チームの選手とはいえ、サッカー系ブログとしては取り上げたいネタなので、昨季までジュビロ磐田に所属していた遠藤保仁選手の現役引退を取り上げます。遠藤保仁といえば、横浜フリューゲルスに在籍経験がある最後の現役選手で、横浜Fマリノスとの合併後は京都サンガでプレーしていました。当時は守備的な選手というイメージで、トルシエ監督が率いたU-20日本代表ではあまり出番がなかった印象です。

そんな遠藤保仁のイメージが変わったのは、ガンバ大阪で西野監督に出会ってからです。当時から、キックの精度とポジショニングの良さは抜群だったので、攻撃的な位置で使った方が持ち味が出るという、攻撃的MFへのコンバートがありました。これでガンバ大阪の攻撃的MFに定着した遠藤保仁は、ジーコ監督が率いていた当時の日本代表に呼ばれるようになります。

しかし、ジーコ監督時代の遠藤保仁は不遇だった印象です。理由は、ジーコ監督時代は海外組というだけで無条件に使う起用がなされていたので、国内組だけで戦う親善試合で攻撃的MFに入る遠藤保仁と小笠原は、海外組の中田英寿や中村俊輔が戻ってくると自動的にベンチに追いやられてしまいました。いったい、遠藤保仁と小笠原は、どういう思いで代表に合流しているのだろうと、その立場は気になる存在でした。

その代表歴は無駄にはなりませんでした。岡田監督が遠藤保仁をアンカーで起用する賭けに出たからです。確かに、京都時代に馴染みがあった位置とはいえ、国際試合のボランチとしてはどうかという思いも持っていました。昨日書いた通り、最初の試合になったオマーンとの3次予選で勝利し、その後は代表のダブルボランチといえば遠藤保仁と長谷部誠が定番になります。

ガンバ大阪でもボランチに入るようになった遠藤保仁は、2010年南アフリカW杯で、1次リーグ第3戦のデンマーク戦でFKを直接ねじ込むゴールで日本代表を決勝トーナメントに導きます。その後はザック監督にも信頼され、2014年ブラジルW杯にも出場し、史上最多の代表出場試合数を誇る、歴代ボランチでもトップクラスの選手になります。

上手さとポジショニングで勝負する選手だったこともあって、選手寿命が長かった遠藤保仁ですが、ついに去るときが来ました。今後は古巣ガンバ大阪でコーチに就任することが決まっています。指導者として、そのテクニックを若い選手に伝えていって欲しいと思います。敵ながら、印象的な選手だと、その印象は強烈です。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

J1リーグ得点王(アンデルソン・ロペス)

2024-01-07 20:53:11 | 他チーム
最終戦で点を取って、J1リーグの得点王に輝いた横浜FMのFW、アンデルソン・ロペスについて書きます。Aロペスは日本でのキャリアを広島でスタートしますが、印象的なのは札幌時代です。当時は今のような9番ポジションではなくアタッカータイプでした。カウンターの際に、彼が追いついてゴールを決めている印象が深いですが、札幌時代の記憶では、ゴールに喜びすぎて札幌ドームのピッチから2mほど下に落ちてしまったエピソードが印象深いです。

おそらく、Aロペスとしてはゴール裏のサポーターに近づいて喜びを表現したかったのでしょうが、彼は札幌ドームのピッチが上にかさあげされていることを知らず、気が付いたら彼の姿はカメラから消えていました。サッカー選手なので運動神経が良く、怪我は免れましたが、これで札幌にやってきた新加入選手は最初に注意されるようになったことでしょう。

札幌から、一旦中国リーグを経由して、横浜FMには2022年に前田大然がスコットランドに移籍した後釜のストライカーとして加入しました。ここからは点を取る役割に絞られた彼ですが、途中相手DFに唾を吐いた行為で6試合出場停止になったのが響き、11ゴールにとどまります。それでも、当時の横浜FMで「外国人に代わって外国人が出てくる」という驚異的な選手層の厚さを誇る一つの駒でした。

昨季は不動の9番タイプに定着して、ACLとの掛け持ちで強行日程だった横浜FMを牽引しました。浦和がそうであったように、終盤戦は試合数が過多だったチームは最後に息切れしましたが、それでも22ゴールは自己最多で、30歳になった2022年シーズンが彼にとってブレイクの年になりました。昨年11ゴールを挙げながらC大阪に移籍したレオセアラの穴は、自分一人で埋めた格好です。

どうしても、最後の仕上げをするタイプのFWなので、あまり彼の個人技にやられた印象はないですが、Jリーグでのキャリアも長くなってきました。それだけ、いろんなチームのサポにも愛された、いい選手なのだろうと思えます。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イビチャ・オシムの記憶

2024-01-02 21:11:35 | 他チーム
今年はアジアカップがあるので多少時期は短いですが、オフの間は自分自身の昔の記憶を掘り起こして記事にします。今回は、ジェフ千葉や日本代表で監督をしていた、イビチャ・オシム氏の記憶です。オシムは1990年W杯のユーゴスラビア代表監督で、当時ベスト8ながら「欧州のブラジル」と異名を取った、華麗なサッカーを展開した当時の監督でした。

そんな世界の名将が日本にやってきたのには、いくつかの運もあります。まずはオシムはお金で動かない監督だったことです。そのため、Rマドリードなどから高額オファーが来ても断っていました。もう一つは、オシムは義理を大事にする監督で、当時のジェフ市原が誠意あるオファーをして粘り強く待った結果、越年してJ1の他チームの監督がすべて決まったタイミングで市原にやってきました。

監督としてのオシムは、厳しい指導で知られました。オシム語録にある「休みから学ぶものはない」という方針で、事前に休日を予告しなかったことで選手たちは休みの予定が立てられないと不満でした。しかし、そんなオシムが選手たちの信頼をつかんだのは、以前は格下チームによく負けることがあった練習試合で連戦連勝できたからです。プロのチームである以上、この監督についていけば勝てるとなれば、おのずと信頼はつかめるでしょう。

浦和サポの私にとって、オシムが率いた千葉はかなり嫌な相手でした。ミスはよく出るチームで、浦和ボールには何度もなるのですが、皆がカバーリングをする意識が強くてなかなかチャンスにさせない相手でした。押し気味のはずなのに、点だけはなぜか取れないという思いをすることが多かった記憶です。また、オシムは阿部勇樹を最も信頼しており、ゲームメーカーのポンテに阿部勇樹をマンツーマンでつけて消しに行く戦いもよく見せました。

日本代表監督になってからのオシムも印象的でした。当時、試合前のウォーミングアップの練習で、最初ストレッチをさせてから、最後に日本代表に与えられるハーフコートをほぼめいっぱい使って、11対10の紅白戦をやっていたのは今でも印象的です。オシムなりに、選手は実戦で成長するものという考えが、こういう珍しい練習に表れていたのでしょう。

最後は脳梗塞で倒れ、日本代表でのオシムは未完成に終わりました。もっとも、この世界の名将から学んだものは大きく、これからオシムの指導を受けた選手たちがいろんなチームの監督になって表現していくでしょう。サポーターでも印象的なのですから、毎日一緒に練習していた選手たちは、もっとビビッドな印象を受けたはずです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

J1リーグMVP(大迫勇也)

2023-12-17 10:40:00 | 他チーム
J1リーグのMVPと得点王に輝いた、写真の大迫勇也選手を取り上げます。大迫は鹿児島城西高校時代に、高校選手権で10得点という当時の新記録を作って、鳴り物入りで鹿島入りします。「大迫半端ない」は、この鹿児島城西高校時代の対戦相手が、レベルの違いに驚いて発した言葉です。鹿島でも順調に戦力になり、背番号も2年目から9番になると、ドイツ2部の1860ミュンヘンからオファーを受けて海外挑戦します。

1860ミュンヘンでも主力FWになり、ドイツ1部のケルンに移籍して念願の1部でのプレーを実現します。このケルン時代に何度か映像で彼を見ましたが、大迫は点を取ることで欧州で認められたFWではないとわかりました。当時、大迫はスピード型FWモデストと2トップを組んでいましたが、彼の良さは縦パスを正確に足元に収められる技術でした。

この大迫のキープから、モデストの動きをよく見て、パスを出してモデストを走らせる形が当時のケルンの武器でした。この大迫のサポートが効いて、モデストは12得点と結果を出して、中国から高額オファーを受けることになります。のちに大迫が移籍したブレーメンでは、大迫のポジションはトップ下に移されます。キープとパスという大迫の技術を、MFとして生かすチーム方針になります。

しかし、当時のブレーメンは残留争いのチームでした。2020年にプレーオフで辛くも1部残留したものの、翌2021年についに2部降格し、大迫はJ1の神戸からオファーを受けて日本復帰を決断しました。しかし、神戸での大迫はチーム状態の悪さもあってなかなか機能せず、長年定着していた日本代表から外されて2022年カタールW杯出場を逃すことになります。

今季、神戸が走るサッカーに切り替え、大迫や武藤などのベテランが率先して動いたことで、神戸は開幕から順調に勝ち進みます。得点もアシストもできる大迫はチームの中心として活躍し、今季22得点で得点王になりました。33歳という年齢もあって日本代表はなさそうですが、こういうベテランが復活できるのは、サッカーの面白さですね。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天皇杯決勝川崎対柏

2023-12-09 22:28:30 | 他チーム
頭痛を抱えながらだったので完全なレポートではないですが、今日の天皇杯決勝、川崎対柏はテレビ観戦でした。川崎は4-3-3、柏は4-4-2と戦術的には数が合わないところが出る試合で、どちらがその優位性を生かせるかの試合と予想していました。柏のダブルボランチの椎橋と高嶺が、川崎のインサイドハーフの脇坂と瀬古に付くと、アンカーの橘田が空くので、川崎としては橘田を使ってゲームを組み立てたいところです。

しかし、柏はそれをさせないような試合運びを見せてきました。柏の2トップ、細谷と山田に対して、川崎のCB2枚のパスコースを限定させて、橘田にボールを入れさせない守備をしてきました。これはカタールW杯の1次リーグで、イングランドのアンカーのライスに対して、アメリカの2トップがパスコースを限定させて消した展開に似ています。

また、柏のMFマテウス・サヴィオも、細谷と山田の特徴を理解して、グラウンダーの縦パス主体で相手DFラインの裏を狙う攻めを繰り返しました。これで川崎の守備は後ろに回される展開が続き、GKチョン・ソンリョンが何とか守ったものの、攻撃は外側から回すしかなくなって苦しみます。川崎が先に動いて、左FWの宮代とMFの瀬古を下げて瀬川と遠野を入れた鬼木監督の采配にそれは表れていました。

それでも、川崎も布陣を4-2-3-1に変更して、トップ下に家長を置いて流れを戻しますが、両チームともに決定打を欠き、試合は0-0のまま延長戦に入ることになります。延長戦になると、川崎はゴミス、柏は武藤というベテランストライカーを6人目の交代で投入して勝負に行きますが、柏は味方スルーパスに抜け出した細谷がGKチョン・ソンリョンに止められます。

ゴミスにもチャンスは来ました。右SB山根のクロスを頭で合わせて枠内に行く決定機がありましたが、これは柏GK松本がファインセーブでギリギリ止めて、試合は120分でも決着が着かずPK戦になります。PK戦は最初の3人が成功して、柏の4人目仙頭がポストに当てる失敗で川崎は決めれば勝ちという状況にしますが、5人目で登場したゴミスが松本に止められます。

最後は10人目までもつれ込み、GK同士が蹴る異例の展開でした。先に蹴ったチョン・ソンリョンが決めて、松本がチョン・ソンリョンに止められて、この死闘は辛くも川崎の勝利で決着しました。内容としては柏が良かった試合ですが、GKチョン・ソンリョンを中心とした川崎の守備が耐えたことが、この結果につながったのでしょう。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

井原正巳の記憶

2023-11-06 21:10:57 | 他チーム
元横浜M、磐田、浦和のCB、井原正巳さん(現柏監督)の記憶です。井原といえばCBで少し下がり目に陣取る「リベロ」という言葉を有名にした、日本代表時代の活躍が印象的です。1993年アメリカW杯予選は柱谷哲二と、1997年フランスW杯予選は小村と組んで、長年日本代表のCBといえば彼でした。守山高校時代はFWでしたが、ユース代表時代にCBにコンバートされます。

監督の好みが表に出やすいCBというポジションで、代表キャップ123試合は偉大です。オフト、ファルカン、加茂、岡田と歴代監督が彼をCBの軸と考えていた証明でしょう。読みとカバーリングのDFという印象で、所属の横浜Mでも井原と小村のCBコンビが長年定番でした。もっとも、浦和サポの私は、1997年の駒場での浦和戦で、デビュー戦だった永井雄一郎が井原をドリブルで翻弄した場面も思い出せますが。

1998年のフランスW杯本大会では、アルゼンチン、クロアチアという強豪と戦うために、秋田、中西をストッパーに置いて井原がリベロに入る3バックで戦いました。その戦いは3戦全敗に終わりましたが、井原がW杯という大舞台にギリギリ間に合ったというのは、今でも印象に残っています。また、CBにしては得点力があり、1995年にウェンブリーのイングランド代表戦でヘディングシュートで点を取った印象もあります。

浦和加入はキャリアの最晩年だった2001年です。当時、J1に戻ってきた初年度だった浦和が、課題のCBにベテランの彼の経験を必要としました。さすがに往年のスピードはなくなっていましたが、当時井原とコンビを組んだ新人だった坪井慶介さんにも、多くのものをもたらしたことと思います。2002年の現役最終年は、代表でも一緒だったオフト監督が、坪井、内舘がストッパーとして相手DFにマンツーマンで付き、後ろを井原がカバーする3バックで戦いました。

2002年は8連勝で一時首位に立つものの、そこから連敗して最後は残留がやっとの成績になりました。そのときにオフト監督が来季のリベロを新外国人のゼリッチに変えることを決断して、井原は浦和を去ることになります。引退後は柏のコーチ、福岡の監督などを歴任し、今は柏を率いています。彼の現役時代を知らないサポも増えたでしょうが、久しぶりに彼の姿を見てネタにしたいと、昔話をしてみました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Jリーグ初代得点王(ラモン・ディアス)

2023-06-04 11:17:02 | 他チーム
今日は埼スタに行くので、即日更新ができなかったときのために穴埋めネタを用意して出かけます。

先日、ACL決勝で、浦和の相手アルヒラルの監督だったのが、写真の元横浜MのFWラモン・ディアス氏でした。1979年ワールドユース日本大会の優勝メンバーで、1982年スペインW杯にアルゼンチン代表として出場したFWで、1989年にはインテルでセリエA優勝メンバーになるなど、世界を渡り歩いた名選手でした。もっとも、横浜Mに加入した1993年時点では既に34歳で、運動量は全盛期に比べればかなり落ちていたと聞きます。

当時の記事を読む限り、相手選手のコメントでは「あまり動く選手ではないし、守備もやらない」という評価でしたが、良いボールに反応して瞬間的に動ける力は維持していました。久しぶりに映像で見た、Jリーグ開幕戦のV川崎対横浜Mの試合でも決勝点となる2点目のゴールを決めていますが、これもシュートのこぼれ球に誰よりも早く反応していたからこその得点でした。

また、彼はほとんどのシュートが左足だったという特徴があります。右足の方が打てるタイミングでも強引に左足で打つこともあり、そのちょっと不器用なところも得点という結果でカバーできるFWでした。当時の横浜Mはホームゲームを現在のニッパツ三ツ沢競技場で行っていましたが、このサッカー専用スタジアムで、彼のテクニックを生で見た人は幸運だったと思います。

Jリーグ在籍は3年弱で、1995年シーズンに国立競技場の浦和戦で決めたゴールを最後に、古巣リバープレートに監督として戻ることになります。それからは指導者として長いキャリアになりますが、2017年、2023年と2度、相手アルヒラルの監督として浦和に来ています。このアルヒラルは非常に強いチームで、圧倒的な個人技をベースにサイドを崩すサッカーを見せていました。

これを書くために調べましたが、パラグアイ代表監督や、リバープレートを率いてリベルタドーレス杯優勝などの実績もあります。欧州トップクラブの経験こそないものの、南米では名の知れた指導者であることは間違いなく、久しぶりに元気な姿を見られたことは良かったです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

香川真司の記憶

2023-03-06 22:39:10 | 他チーム
先日の試合で、相手のC大阪で途中出場していた、MF香川真司選手の記憶です。この試合ではC大阪が途中からシステムを4-3-3に変更し、3枚のMFの左サイドで香川を起用しましたが、特にこれといったインパクトは残せませんでした。もっとも、日本人で初めてのマンチェスターユナイテッド移籍など、彼の成し遂げた偉業は今でも色褪せません。

私が香川の名前を意識したのは、2008年の北京五輪壮行試合のアルゼンチンU-23代表戦です。当時19歳だった香川は代表当落線上の位置でしたが、左MFで途中出場した彼が、誰もがパスを想像した場面で予想しなかった超ロングシュートを選んだサッカーセンスには惹かれました。アルゼンチンGKが必死で戻ってクリアしたので記録には残っていないですが、このプレーもあって北京五輪の代表入りを果たしています。

また、2010年の埼玉スタジアムでのアルゼンチンA代表戦で、新生ザックジャパンで左MFで出場したプレーも印象的です。当時、メッシも含めた超豪華メンバーのアルゼンチンに注目が集まっていましたが、香川は切れ切れの個人技でアルゼンチンDFを手玉に取り、「本田圭佑、香川真司のMFは日本のストロングポイント」という実感がありました。

2010年南アフリカW杯はサポートメンバーという苦境も味わった香川ですが、その前年に当時J2だったC大阪で、MFでありながら36得点で得点王という活躍で海外クラブも注目する存在になり、ドイツのドルトムントから完全移籍のオファーが届きます。このドルトムントで、トップ下のポジションに定着した活躍が評価され、2012年には強豪マンチェスターUからオファーが来ます。

マンUでの彼は、トップ下としてセカンドストライカー的に前に出ていくプレーで、ファーガソン監督には評価されます。当時の彼のプレーを、元日本代表監督のイビチャ・オシム氏は「意図的に身体接触を避けることで技術を発揮している」と、彼の持っている瞬間的なスピードを評価していました。しかし、マンUの監督が後任のモイーズ氏になると力を発揮できなくなり、古巣ドルトムントに戻ることになります。

スペイン2部のサラゴサ、ベルギー1部のシントトロイデンなどを渡り歩き、日本には13年ぶりに戻ってきました。今でも上手いのは間違いないので、彼の持っているボールテクニックは、どこかの試合で見られることでしょう。今回は生写真が撮れたので、この偉大な選手を振り返るきっかけにできました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする