Kobby loves 埼玉&レッズ

埼玉と浦和レッズを愛する管理者のブログです。

母の誕生日

2011-03-31 18:57:43 | 雑記
今日は母の誕生日です。本来時計をプレゼントする予定が、計画停電で店が閉まっていたので延期してもらっています。母は家族で一番観察力が優れていて、桜草公園に出かけても一番最初に桜草を見つけるのはいつも母です。

花の名前もよく知っていて、私が知っている花は大抵母に教えてもらった名前です。自然の息吹もよく表現できるので、ブログもできそうに思えますが、PCに関しては電源の切り方も知らないほどの機械音痴なので、その繊細な表現を私が借りてブログのネタにすることもあります。

サッカーに関しては、我が家の場合弟が牽引車で、私と父はすぐにはまりましたが、母は少し遅れて試合を見に行くようになりました。今でも忘れられない、国立競技場の伸康焼香ポーズの試合(1994年浦和3-0横浜F)は母がまめにチケットぴあをチェックしてくれて偶然取れた席です。

しかもその席がメインスタンド中央の前から6列目という良席で、私はその後何度も国立競技場へ行っていますが、そんないい場所で見たことはそれ以来ありません。2002年日韓W杯のときも母の幸運に救ってもらっています。

当時、サポーター優先枠は試合をたくさん見た方が有利という話で、私と父は懸命に半券に住所と名前を書いて当選を狙いましたが、平日夜のナビスコ杯で私が行けなかった試合だけで応募した母が埼玉スタジアムのカメルーン対サウジアラビアを当てました。

この2002年のときは私が病気で本調子ではありませんでしたが、少しでも元気になってくれるならと、スポンサー枠で当てた日本対ベルギー戦のチケットを喜んで譲ってくれました。このW杯は家族全員がどこかの試合に行って、楽しめた1ヶ月間でした。

母の幸運は、福引きでも発揮され、自転車と秩父の温泉旅館の宿泊券を当てました。温泉旅館は私がおこぼれに預かったのですが、雪で別世界だった秩父の街を楽しむことができました。なんとか私や父が元気になって欲しいと、人のことばかり考えていた母ですから、お友達に会いに行くときに心置きなく行ってもらえるように、家を守るのがせめてもの親孝行かなと思っています。
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夢の締めくくり(3/29日本代表対Jリーグ選抜)

2011-03-30 18:42:26 | ワールドサッカー
この試合はあくまで慈善試合ですから、被災地に復興のメッセージを送ることが一番の目的です。ザックジャパンがアジアカップで優勝して初めての凱旋試合でしたが、今回の試合はサッカーが見られるという喜びを一番最初に感じました。

現役代表と元代表が対戦すればどんな試合になるのかという、私の疑問の答えになった試合ですが、Jリーグ選抜の方が合同練習がわずか1日で、チームとしての完成度がまったく違いました。

Jリーグ選抜の中盤は豪華メンバーを並べていましたが、全員がパスの出し手で、受け手になる働き蜂系の選手がいなかったことで、皆が足元でもらいたがってしまい、そのパスが緩くなったところを日本代表は容赦せずカットしました。

前半に出てきたベストメンバーの日本代表は、さすがアジアカップ優勝メンバーで、動きもきびきびしていましたし、遠藤のFKのような飛び道具も出ました。このメンバーが後半も戦っていればもっと大きな差がついていたでしょう。

慈善試合なので全員に出番を与えるというザッケローニの方針で、後半の日本代表は全員控え組をテストしました。このメンバーはあまり実戦で合わせていないので、この日本代表が相手ならJリーグ選抜も付け入る隙もあります。

しかし、Jリーグ選抜の得点者がカズだったことには驚いています。カズは日本サッカーの象徴として話題性で選んだ選手だと思っていたので、今でもワンチャンスに落ち着いて枠の中に決められる実力を持っていることは44歳という年齢を考慮すれば驚異的なことです。

Jリーグ選抜の実力次第では試合にならないリスクもあったこの試合でしたが、Jリーグ選抜も持てるベストの力を出してこの試合を接戦にしました。欲を言えば、Jリーグ選抜の人選をMVP投票の上位選手ではなく、ストイコビッチ監督に一任していればもっとバランスの良いチームになったと思いますが、今は試合ができた喜びを噛みしめて、4/23を待ちたいと思います。
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情熱は今でも(カズ)

2011-03-28 19:06:33 | 他チーム
今回、Jリーグ選抜にJ2から唯一選ばれたカズ(三浦知良)選手の思い出です。カズといえば私の世代には「セリエAに初挑戦した日本人」というイメージが今でも強く残っています。セリエAのジェノアへレンタル移籍したカズは開幕戦のACミラン戦でスタメン出場します。

今は日本人が多く海外に移籍する時代ですが、カズの時代はセリエAのEU枠外の外国人枠はわずか二つしかありませんでした。そのため、ジェノア側の期待も主力選手になってもらわなければ困るというものだったに違いありません。

カズはスタメンで出たり途中出場だったりで、リーグ戦の22試合に出場しますが、ゴールはジェノバダービーのサンプドリア戦の1点だけにとどまりました。所属クラブで出場機会を失うと実戦の勘が鈍り、選手としても下降線をたどったケースを何度も見ています。

カズがそうならなかった理由は、日本代表に戻れば不動のエースストライカーだったからでした。今では選手を代表に呼ぶ際は日本協会とクラブ側がぎりぎりの交渉をしていますが、当時カズの代表招集をジェノア側が止めたケースはほとんどありませんでした。

戻るところはある、代表で点を取ればいいというモチベーションで当時のカズはプレーしていたと推測しています。カズが日本代表のエースストライカーだった時代は長く、代表91試合の実績を誇ります。

カズが44歳の今でも現役を続けられているのは、今でも持久力テストをやると横浜FCの若い選手より高い数値を出すという本人の努力が最も大きいですが、ブラジルでプロを経験したことで、チームを移ることに抵抗感がなく、一番条件のいいチームに行くとドライに割り切れるのも理由だと思います。

京都時代は元代表としては屈辱的な「0円提示」も受けていますし、神戸も戦力外同然で放出されていますが、それでも諦めることなく、行けるチームがあればJFLでも地域リーグでも現役を続行したいという意欲は今でも健在です。

おそらく、Jリーグ選抜では展開に余裕があれば、カズに点を取らせようとボールを回してくれる可能性があります。そこで点を取って、今や伝説の「カズダンス」を生で見たいと思っている方はたくさんいると思います。
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日本代表慈善試合プレビュー

2011-03-27 17:35:45 | ワールドサッカー
あさっての火曜、久々に集合するザックジャパンが、Jリーグ選抜チームと大阪長居陸上競技場で対戦する慈善試合があります。今の時期は本来なら観戦記やプレビュー記事であふれかえっているはずの当ブログが、こういう事情だからやむを得ませんが、ネタ探しに苦労しているのは予想すらしていませんでした。

日本代表は海外組を12人も含む、アジア杯を戦ったベストメンバーの凱旋試合になりますが、相手のJリーグ選抜が面白いチームになっています。特にJリーグ選抜の中盤は豪華で、小笠原、中村憲剛をダブルボランチに置いて、攻撃的MFに小野伸二と中村俊輔を置いたら攻撃力だけなら日本代表と比べてもそんなにひけは取りません。

もちろん、鹿島の青木のような守備専門のタイプのボランチがいないので、チームバランスという意味では少し前がかりの印象はありますが、全員がパスを出せる中盤はきっとサポーターの注目を集めるでしょう。また、Jリーグ選抜のCBは、かつての代表CBコンビだった中澤と闘莉王だということも注目です。

もちろん、彼らは代表を引退したわけではないので、この試合をザッケローニに対するアピールのチャンスと思っていてもおかしくはありません。代表対元代表のような試合で、必ずしも現代表が勝てる相手ではないというところも面白いところです。

また、被災地のJ1仙台からはJリーグ選抜に梁勇基、関口の両サイドハーフが選ばれています。正直サッカーどころではない日々を過ごしたと思われるだけに、コンディションはベストではないかもしれませんが、元気な姿を見せることが復興につながると思って、頑張って欲しいと思います。

もちろん代表の方も楽しみはたくさんあります。やはりインテル(イタリア)で試合に出ている長友はどこまでパワーアップしているか、代表で見れば違いがわかるかもしれません。内田もシャルケ(ドイツ)で試合に出ていますし、日本人が海外に出ても試合に出れず撤退という図式は彼らが完全に崩しました。

中継する日テレにはあまり派手な演出をしなくてもいいですから、淡々と試合を映して欲しいです。インタビューより、試合の中身の方がファンは見たいはずですから。
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29年のプロ生活(工藤公康)

2011-03-26 21:07:05 | 他スポーツ
今日、昨年まで西武に在籍していて、現在無所属ながら現役続行に意欲を見せている工藤公康選手と、スポーツライターの二宮清純氏の対談がありました。そういえば工藤は思い出の選手だったけどブログのネタにしたことはなかったなと気づいたので、古い思い出が多くなりますが書きます。

工藤は今年47歳で、18歳で名古屋電気高(現愛工大名電)を卒業してプロ入りしてから実に29年で、実働年数の最長記録保持者です。メジャーリーガーではたまにこういう驚異的な投手寿命を誇る選手はいますが、日本人ではパイオニアで、先発にこだわらず左のワンポイントでもいいからと現役にこだわったことがこの記録に結びついています。

工藤が入団した当時の西武は、東尾、田淵、大田らベテランが多く在籍していたチームで、根本監督が基礎を築いたチームを広岡監督に交代させて勝ちに行こうとした初年度でした。工藤は一年目から一軍に入っていましたが、当時は左の中継ぎとしての起用でした。

先発になったのは、防御率一位を取った昭和60年からで、このあたりから伊東、秋山、渡辺久信ら後の西武黄金時代を築く若手選手が登場してきます。工藤のイメージは、当時よくいた豪腕投手の典型で、直球とカーブだけで抑えるというクラシックな投手でした。今は高校野球の投手までスライダーを投げる時代ですから、その投球が通用したのはその球威が優れていたからでしょう。

工藤は昭和61年の日本シリーズ、当時DH制のなかったシリーズで打席に入り、第5戦でサヨナラタイムリーを打つという普段打席に立たないパリーグの投手としてはめったにない快挙を成し遂げています。この年、3連敗から4連勝で逆転日本一になった西武は、奇跡と大いに賞賛され、工藤もその中心選手としてその後の西武黄金時代を支えます。

森監督が率いた西武の黄金時代は、巨人のV9時代とよく比較され、確かに9年間で8回パリーグ優勝、6回の日本一とドラフト制度ができた中でこれだけのチームを作るのは奇跡的とも言われました。そんな工藤はFAでダイエーに移籍して、その後巨人にも移籍して優勝請負人とも呼ばれます。

去年、西武に18年ぶりに戻ってきた工藤は、すっかり変わったメンバーを見て「新しいチームに入ったよう」と言っていましたが、中継ぎとして結果を出すことはできませんでした。日本にもマイナー契約のようなものがあれば、工藤もまたどこかでプレーするかもしれないと思うのですが、日本はまだ年齢の壁があり工藤の現役続行は厳しいです。

それでも、歴史に残る大投手として、何をやっても食べていけるだけのインパクトは既に残しています。解説なり指導者なりで、また表舞台に出てくることを期待しています。
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キャプテンシー(小野伸二)

2011-03-25 18:54:08 | 他チーム
今や清水の大黒柱の小野伸二選手ですが、今年はキャプテンになったと聞いています。昨年ほぼフル出場できたことで、伸二自身も自信を持ってキャプテンを引き受けたと思います。もともと伸二のキャプテンシーは高く、1999年ワールドユース準優勝のときのキャプテンぶりは評価されています。

私は浦和サポなので、どうしても浦和時代のことを書いてしまいますが、浦和がJ2に降格していた2000年シーズン、当時20歳の伸二にキャプテンの重責を任せたのは悪いことをしたと思います。A代表や五輪代表で不在がちだった伸二に、チーム全体のことを任せたのは時期尚早だったように思えます。

しかし温厚な性格で誰からも好かれる上、プレーと同様に視野の広い伸二はキャプテンに向いています。長友が今、インテル(イタリア)で積極的に人の輪に入っていけることが話題になっていますが、その走りはフェイエノールト(オランダ)時代の伸二だったと思います。

伸二は日本における「天才」の定義を変えた選手でもあります。伸二が浦和に入団した1998年は、4年前までマラドーナがW杯でプレーしていましたから、天才といえばマラドーナのように何人も抜いてゴールを決める選手というイメージがまだ残っていました。

伸二のプレーはマラドーナとは対照的に、自らがボールを持っている時間をダイレクトプレーで極力短くして、周りの味方のためにお膳立てをする選手です。

当時、U-17代表に入ってエクアドルでのU-17世界選手権に出場するなど、実力には疑いはないものの、高校選手権に3年間で一度も出場していないので、映像でプレーを見た浦和サポはおらず、どこがすごいのかは誰も知らない選手でした。

中田英寿の出現でパサーは必要と思い始めた頃ですが、小野伸二はこれまで見たどんな選手ともイメージが違い、注目しないとわからないプレースタイルですから、慣れるまでは時間がかかりました。当時はパスを引き出せる福田やベギリスタインなどもいたので、シーズンが終わる頃にはゴールを決めた選手よりアシストした伸二の方が目立つようになりました。

たまに清水の試合を見ると、浦和サポを熱狂させた高い技術は健在です。今回、慈善試合のJリーグ選抜に選ばれ、久しぶりにそのプレーを見ることを楽しみにしています。
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プリンセス・プリンセス「世界で一番熱い夏」

2011-03-24 18:48:25 | 雑記
昨日、オリコンチャート1位になった曲を取り上げて放送した番組がありました。震災関連の番組に少し疲れを覚えたので、たまにはそんな番組もいいだろうと思って見ました。見てみたらアラフォー世代狙い打ちの番組で、若い頃の名曲を懐かしく聞きました。

その中でプリンセス・プリンセス(以下プリプリ)の名曲、「世界で一番熱い夏」がかかっていたので、懐かしさのあまりブログのネタにします。この曲は当時の人気番組「兼高かおる世界の旅」の主題歌だった曲で、プリプリらしいハイテンションの曲です。

この曲でシャングリラというホテルがあることを知るなど、この曲がはやっていた当時は外国に行ったことがなかった私には憧れを強めた曲でした。旅行番組のイメージ上、海外に行きたくなる曲が必要でしたが、この曲はぴったりでした。

「退屈なイルミネーション、ざわめく都会のノイズ」という歌詞はおそらく東京の都心部をイメージしたのでしょうが、そこからいきなり空港に行って海外に飛び立てば確かに高揚感を覚えるでしょう。日本の場合国境は全て海なので「遥かな国境を今越えるの」というのもぴったりです。

プリプリが出てきた当時はボーカルだけが女性というバンドはたくさんありましたが、キーボードからドラムスまでメンバー全員が女性だったバンドは珍しかった時代です。当時、新しいものを求めていた音楽ファンに訴えるものがあったのでしょう。

当時はファンだった私は結構アルバムも買っているのですが、シングルカットされていない曲にはハイテンションでない曲もあります。そんなマイナーな曲で癒しを得ることもありました。

今はプリプリは解散したので、生放送でもう一度という訳にはいかないでしょうが、私の青春時代だった90年代を思い出すきっかけになりました。あの頃はアクティブだったなあと振り返ります。
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もろ差しの芸(逆鉾)

2011-03-22 20:41:14 | 他スポーツ
今、計画停電中で不安な時間を過ごしています。もちろん被災地のことを思えばこんなもので済んでいるだけでありがたいですが、夜の停電は周りが真っ暗で何も見えないので、なかなかやることを見つけるだけでも苦慮しました。

こういうときは自分の好きなスポーツのことを考えるのがいいだろうと思うので、ブログの原稿を携帯メールで書くのがいいと思い、ネタがないときは昔の大相撲からといういつもの私のパターンで、9場所連続関脇という当時の記録を作った逆鉾(現井筒親方)の思い出です。

逆鉾は元関脇鶴ケ嶺の先代井筒親方を父に持つ、「井筒3兄弟」の次男です。逆鉾は父の得意技だったもろ差しを得意としていたので、よく父と比較されていましたが、鶴ケ嶺は私はリアルタイムでは見ていない力士なので、残念ながら私は比較できません。

これについては元鶴ケ嶺本人の言葉を引用すると、「もろ差しになるまでは逆鉾の方がうまいが、私はもろ差しできめられたことが少ないので、なってからは私の方がうまい。」と言っていました。三賞最多記録を持ち、技能賞の常連だった鶴ケ嶺から、この言葉を引き出したのですから、逆鉾もよくやったと言うべきでしょう。

逆鉾は長く関脇をキープしましたが、その間の成績は8勝7敗がほとんどで、大関昇進のチャンスをつかむまでにはいきませんでした。ただ、あの当時は大関が4人いた時代で、大関の一角を常に崩さないと勝ち越しは難しい時代でした。

もろ差しは立ち合いでいきなり入ることは難しく、相撲の流れの中で巻き替えが必要なのですが、相撲の鉄則で相手に巻き替えられたら前に出ろというものがあるくらい、相手を呼び込むリスクのある技です。

しかし、そのもろ差しを上位相手に何度も成功させた逆鉾の技量は確かだと思います。弟の寺尾と同時に関脇を張り、当時は史上初だった兄弟同時関脇を成し遂げたことも、価値があります。

長く現役を続けた寺尾のようにはいかず、逆鉾は肩を痛めて関脇を陥落してから急速に衰えてしまいました。もっとも、井筒部屋を継ぐことは既定路線だったらしく、父の後を継いだ逆鉾はモンゴル人の鶴竜を関脇まで育てています。鶴竜は白鵬に勝てるポテンシャルはあると評価されているので、是非とも大関、横綱を狙うくらいまで育てて欲しいです。
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ごっつあんの陰(インザーギ)

2011-03-21 13:46:44 | ワールドサッカー
昨日、負傷で今季絶望になったACミランのFW、インザーギがミランサポーターが集まるパーティー会場に姿を見せるという映像を見ていました。インザーギは既に37歳の大ベテランで、復帰も困難な道だとは思いますが、本人は現役続行に意欲を示しているらしいです。

インザーギといえば、クラブW杯決勝のボカ・ジュニアーズ(アルゼンチン)戦で途中出場で決めた、ごっつあんゴールのイメージがあります。確かに、インザーギはスピード系FWなので、もらうときは相手DFを完全に振り切ってフリーのことが多いです。しかし、そのごっつあんゴールの陰には、イタリアのセリエAならではの苦労も抱えています。

インザーギはイタリア北部の地方都市ベルガモを本拠地とするアタランタで、リーグ得点王になってユベントスに移籍して世界的選手になりました。ユベントス時代は当時2トップを組んでいたデルピエロと合わせて「デルピッポ」と呼ばれたほどの名コンビでした。

しかし、当時知人から借りて見ていたユベントスがらみの映像を見ていると、トップのインザーギは徹底的に相手DFから削られました。特にアウェイ戦では、イエローまがいのファウルを受けても、なかなかカードを出してもらえず、「やられ損」だった苦しい役回りでした。

そんなインザーギの哲学は、「何回オフサイドに掛かっても、一回抜ければ1点取れる」というものでした。スピード型はこういう哲学を持つのもありだと私は思います。それを真似る選手も日本にはいて、広島のFW佐藤寿人あたりも同じことを言っています。佐藤寿人がゴールを決めたときに、コーナーフラッグのてっぺんを持つのはインザーギのまねという話を聞いたことがあります。

ただ、こういうタイプは味方がいいパスを出してくれるから輝くということもできます。ユベントスではジダンと組んでいましたし、ACミランでもセードルフ、ピルロらいいパサーがいます。弱いチームに行ったら輝くことは難しく、最後までビッグクラブでプレーしないといけない選手かもしれません。

この年齢で今でも頑張っているのは、世界のベテラン選手に希望を与える存在の一人だと思います。もう一度、ミランチャンネルで映像を見られたらいいなと思います。
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これで後はFWのみ?(山田暢久)

2011-03-20 17:47:13 | 浦和レッズ
今日は計画停電がなく、久しぶりに落ち着いた時間を過ごせました。それでも日用品の買い物に行っている母からは物がないという報告を受け、被災地のことを思えばこんなもので済んでいるだけでもありがたいとはいえ、やはりこの震災の影響が完全になくなるまでには時間がかかることは痛感しています。納豆が復活して、納豆好きの父がしばらくは毎朝納豆が食べられる環境が復活するなど、改善はしてきていますが。

今日はオフネタですが、昨年ついに新たなポジションであるCBで一年間レギュラーでプレーして、いよいよFWをやれば全ポジション制覇か?というベテラン、山田暢久選手のネタにします。もっとも、暢久のFWはまったくの未知のポジションではなく、1995年に暢久の才能を見抜いたオジェックがいろいろなポジションで起用したときに、ちょっとだけFWもやってはいますが。

暢久というのは不思議な選手で、厳しい自己管理をしているという噂は聞きませんし、DFで出ているときに相手の個人技を食らうと、比較的諦めが早くあまり追わないといった弱点も明らかになっているのに、それでもどこかのポジションを自分のものにして、シーズンが終わったらきっちり結果を出している選手です。

暢久は1994年入団と、浦和の中では断トツの古株で、今やその次は鈴木啓太(2000年入団)とすっかり世代交代した浦和で、今でも当たり前のように試合に出ています。浦和を選んだ理由が「弱いチームだからすぐに出られそう」という理由だったところは、結構本音を言う暢久らしいコメントです。

そんな暢久も、一度だけ移籍を真剣に考えたことがありました。それは1999年のJ2降格のときで、当時は代表入りの野心を持っていた暢久にとってはJ2でプレーするというのは受け入れがたいことだったかもしれません。しかし、何とか1年でJ1に復帰しようと、岡野あたりがチームメイトみんなに電話を掛けて、チームに残って欲しいと懇願したこともあって、暢久は残り、現在まで浦和でプレーしています。

一度はトップ下をやってみたいという夢もブッフバルト監督が叶え、ポンテからのボールを動き回って引き出す、暢久なりのトップ下像は見せました。ペトロが暢久をどこで使うかは注目していましたが、フィンケ時代と同じCBだったことには多少驚きもあります。しかし、確かにDF陣の中では一番パスがうまいこともあって、最終ラインからの組み立てを意識するなら暢久は必要という考えもわかります。

ここまで来たら、あとはギドの持っている、浦和最年長出場記録(36歳)を塗り替えて欲しいというのが、私の希望です。
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