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「竹下村誌稿」を読む 62 遠江国 19

(釜谷の秋葉社/旧金谷町の秋葉社・秋葉灯籠27/昨日撮影)

釜谷を歩いた時、最後に石の祠を見つけたが、それが秋葉社だとは気づかず、写真も撮って来なかったので、昨日、写真に撮ってきた。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

後、掛川、横須賀、浜松の諸城主、屡々(しばしば)交迭ありて、浜松は弘化二年(1845)、井上河内守正春封(六万石)を受けしより三代二十四年、掛川は延享三年(1746)、太田備中守資俊入部(五万石)せしより七代百二十二年、横須賀は天和二年(1682)、西尾隠岐守忠成城主(四万石)たりしより八代百八十六年、相良は宝暦五年(1755)、田沼主殿頭意次始めてこの地に封せられしも、天明中、廃せられ、文政六年(1823)、その子玄蕃頭意正(田沼)、再び相良に封(一万石)せられしより、三代四十五年にして明治維新に至る。
※ 交迭(こうてつ)- 更迭。ある地位・役目にある人を他の人と代えること。
※(田沼)玄蕃頭意正(たぬまげんばのかみ)- 陸奥下村藩の第五代藩主、のち遠江相良藩の藩主。相良藩田沼家六代。藩祖・田沼意次の四男。


また別に一藩を建て、堀江(大沢基寿)と云う。その余、本州の地、なお十余万石あり。これらは幕領諸侯領旗下の知行、及び社寺の領土などありて、犬牙錯綜せり。幕領は中泉に代官を置き、これを支配せしむ(地誌提要国郡沿革考など)。
※ 堀江藩(ほりえはん)- 明治維新期の短期間、遠江国敷知郡の堀江陣屋に藩庁を置いた藩。高家旗本大沢氏の知行地(堀江領)を、大政奉還後に実高が1万石以上と届け出、明治政府から藩として認められた。その後、石高の虚偽申告として事件となる。(万石事件)
※ 犬牙錯綜(けんがさくそう)- 犬の牙のように両国の境界が入り交じること。


明治元年九月、徳川家達、遠駿三に封ぜられ、静岡藩知事に任ず。浜松、中泉、掛川に郡政役所を置き、民政を分治し、浜松(井上)、掛川(太田)、横須賀(西尾)、相良(田沼)の諸藩、皆な、安房、上総に移封す。すでにして諸藩の版籍奉還となり、府藩県三治一致の制となり、廃藩置県となり、同四年、浜松県を置きて本州を治す。

同五年行政区画を定め、本州を三大区、八十小区に分かち、引佐、麁玉、敷知、長上、浜名を第一大区、磐田、豊田、山名、周智を第二大区、榛原、佐野、城東を第三大区と称す。同九年、浜松県を廃し、静岡県を併合し、その支庁を浜松に置き、西遠を管轄す。

同十二年、郡区改正により、浜松支庁及び大小区を廃し、浜松に敷知、長上、浜名郡役所を、気賀に引佐、麁玉郡役所を、見附に磐田、豊田、山名郡役所を、掛川に佐野、城東郡役所を、静波に榛原郡役所を置き、郡長を任じ、郡政を行なわしむ(大正六年四月稿)
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