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信濃国分寺の三重塔

(信濃国分寺のハス)

雷滝を見たあとは塔を見に行こうと話した。長野県には五重塔は無いが、古い三重塔が何基もある。資料を見ると三重塔が最も集中してあるのが上田である。少し寄り道になるが、上田に足を延ばすことにした。

最初にカーナビを設定したのが信濃国分寺である。奈良時代、全国に出来た国分寺の一つ、信濃国分寺はその後300年の間に兵火や災害によって消滅してしまった。室町時代に至って、元の位置から200mほど北の段丘上に現在の国分寺が再建された。

信濃国分寺ではかつて毎月8日の縁日に市が立ち、地元では「八日堂」と呼ばれて親しまれてきた。今でも正月8日の縁日にはだるま市も催され賑わいをみせる。今の季節には国分寺裏の休耕田に植えられた蓮の花が開花して、カメラを持って訪れる人が何人もいた。今年蓮の花を見るのは、サッポロビール焼津工場ビオトープ園で大賀ハス(二千年蓮)を見て以来、2度目である。


(信濃国分寺の三重塔)

国指定重要文化財の信濃国分寺三重塔は参道左側に建っていた。前にヒノキ科の巨木があって、参道側からは三重塔の全容がよく見えない。この巨木は幹のねじれ具合などからビャクシンのようだ。

聖武天皇の勅願によって全国の国ごとに建てられた国分寺には当初、七重塔などの塔が建てられた。しかしすべてが失われ、その後再建されて、現在国分寺の塔として残っているのは、五重塔が備中国分寺、三重塔が越後国分寺、飛騨国分寺、豊前国分寺とここ信濃国分寺の五基ですべてである。その内、室町時代中期に建立したといわれるここの三重塔が最も古い。

信濃国分寺の三重塔はこの後回ることになる大法寺三重塔によく似ている。おそらく宮大工たちが、同じ東山道筋にそびえる天下の名塔、国宝の大法寺三重塔(鎌倉時代)を手本として造ったからだという。時代が違うから同じ宮大工が造った訳ではない。このように過去に造った塔が手本となって、次々に塔が造られ続け、現代まで営々と塔建築の技術が伝わっているのである。

この三重塔は、全体に「和様」という手法で統一されているため、ととのった感じをもつ塔だという。塔の様式に「和様」と「禅宗様」があるという。その二つの様式を併用している塔もあると聞く。塔見物を始めてまだ日が浅いから、「和様」だ「禅宗様」だといわれても判らない。今判っているのは「禅宗様」の方が屋根の反りがきついという点ぐらいであろうか。追々勉強して行こう。

信濃国分寺を後にして丘を下って、国分寺跡の方に回った。辺り一面の桑畑だったのを、開発の波に押されて、昭和38年から七回の発掘を重ね、全容が明らかにされた。敷地内には国分寺跡など注目されない時代に敷設された旧国鉄、現在のしなの鉄道が一本真ん中を過ぎっている。国分寺跡は現在は鉄道部分を除いて公園として残され、出土品などは敷地内に建てられた信濃国分寺資料館に納められている。ただし本日は休館日であった。
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