goo

知的冒険 天正の瀬替えの真実(3)

(稲刈りが終った田んぼ)

晩稲の田んぼなのだろう。ようやく稲刈りが終った。天日でこのように干すのは今では少なくなってしまった。しかし、天日で干す方が太陽の恵みを最後まで頂き、きっと一味も二味も旨くなって仕上がるはずである。

午後、会社勤めの頃の先輩、U氏が見える。古文書解読のお礼を頂く。こちらが楽しませて頂いたのに、恐縮した。牛尾のU氏の実家へも解読したものを届けて、大変喜んで頂いたという。そんなお話を聞くだけで、十分であった。明後日から、いよいよU氏の古文書がこのブログに登場する。

********************

 知的冒険 天正の瀬替えの真実(つづき)

目から鱗が落ちるとは、こんな思いを言うのだろう。受講後、自分なりに考えてみた。世は、天下分け目の関ケ原の戦いの10年前、まだ戦国の世の色濃い時代である。着任したばかりの中村一氏が、民政のために、こんな大工事を企てたとは、とても想像できない。

今まで「天正の瀬替え」の講演を聞いて、どうにも納得できない疑問が幾つかあったが、どの講演も、その疑問に答えてくれるものではなかった。講演される先生方も、当然そんな疑問を感じておられるはずであるが、そこへは言及を避けておられるように思われた。

それらの疑問は、
1.中村一氏にとって、大井川は領国駿州の西の端で、隣国の掛川(山内一豊の領国)との境あった。未だ戦国の火種があちこちのくすぶるこの時代に、そんな遠隔地で、微妙な地域に、大河の瀬替えという大工事を発案した動機が想像できない。

2.工事をすれば、志太郡の水害は少しは減るかもしれないが、決定的な対策であったとはとても思われない。現に慶長の大洪水(1604)で、島田宿は壊滅する。

3.瀬替えにより、牛尾山5町歩の畑は山内一豊の領分となり、新たに新田開発が可能な五ヶ村も山内一豊の領分となり、中村一氏には何もメリットはない。

4.どうして、中村一氏の功績を記す文書が全く見つからないのか。多くの史書が論拠に置く「掛川誌稿」も、言い伝えとして記しているにすぎない。

天正の瀬替えについて、もう一つ注目すべき、「大井川町史」の記述がある。どの講師であったか、それに言及された方がいた。「大井川町史」は、天正の瀬替えについて、まずは通説の通り、前述の「掛川誌稿」を引用して述べたあと、次のように記されている。

中村一氏の駿府在城期間は、天正十八年(1590)八月から慶長六年(1601)二月まで10年余のことで、年次は明らかでないが、この間に相賀山と牛尾山(駿河山・弁天山)の間の凹地を開鑿し、旧河流を堤防を築いてせきとめ、河道を現在のように変えたのであろう。

右岸は山内一豊領であったが、一豊にしても旧河道開発の便があり、事実これによって横岡・牛尾・竹下・番生寺・島の五か村の誕生を見、また左岸を領する一氏にとっても、潮山が山内領に入ることとなるものの、河流が島田河原を直撃するのを防ぐという利点があって、両者の利害の一致がこの大工事を成し遂げることができたのであろう。

当時野田村に居を構えていた、家康の代官長谷川藤兵衛長盛も、この事業に協力し、恩賞として八倉山を一氏より下賜され、伊太村共有林として与えたという。


つまり、天正の瀬替えの後、江戸時代になって、その工事を完成させた人として、長谷川藤兵衛長盛を挙げている所が、他のものに無い記述であった。(つづく)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 知的冒険 天... 知的冒険 天... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。