平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
遠州高天神記 巻の四 6 孕石主水切腹の事、大河内が事

名古屋のかなくん一家が帰って来て、夕方から孫4人が集まり、たいへん賑やかであった。
「遠州高天神記 巻の四」の解読を続ける。
孕石主水切腹の事
一 孕石主水と云う者、天正九年辛巳三月廿二日の夜、高天神落城の時、生け捕りに成り、切腹仰せ付けらる。これは竹千代公六歳に成らせらる頃より十九才まで、駿河府中の少将の宮の町に、御気遣い成られ御入りの時、隣屋敷にて、上の原へ鷹野に御出、孕石が林へ、御鷹前はねて入る時、居の上に入り候えば、参州の忰に飽き果てたると度々申しつる。我も覚えた、孕石も存ずべしとて、我れ飽き果てたる孕石なれば、兎に角、腹を切らせよと、上意下る。孕石に申し渡す。
※ 鷹野(たかの)- 鷹狩りのこと。
※ 御出(ぎょしゅつ)- 貴人が外出すること。おでまし。
※ 飽き果てる - すっかり飽きること。
孕石承り、その儀なり、悔しき事もあらずとて、南に向いて腹を切るを、傍より申しけるは、流石孕石ほどの者が、最期を知らず。西へ向いて腹を切ると云う。汝は物を知らざるなり。仏は十万仏土中、無二また無三、除仏方便説と説き給う時は、西方ばかりに極楽は有ると思ふか、あら胸狭(せば)き事なり。何の極楽を嫌わんやと、南に向きて腹を切りたりける。
※ 仏は十万‥‥ - 法華経方便品第二の文。意は「十方仏土の中に、(ただあるのは一乗の教えのみで)二乗も三乗も無い。しかし、仏が方便して説くは除く。」

(大河内が繋がれた石牢)
大河内が事
一 大河内伝左衛門と申す者、駿府に御気遣いの時、細々御前へも参り、御用をも達し、御奉公ぶりを致したる者なれば、城より何時切って出たるとも、御助け有るべき思し召しの処、石川伯耆守攻め口の前に、先年丸尾和泉守が子、修理允が古屋敷の跡に、石風呂有り。この中へ入りて居たりけるを、命を御助け成らるのみならず、色々の物を下され、送りを付けて、国へ御返えし有ける。御情けの程こそ有り難けれ。
※ 大河内伝左衛門 - 大河内の高天神城籠城については2つの説がある。一つは、天正二年に武田勝頼により落城した際、籠城側であった大河内は、高天神城からの退去を拒んだために、石牢に繋がれていたが、七年後に無事救出されたという説である。もう一つは、大河内は武田方に寝がえり、そのまま高天神城に留まったとする説である。高天神記は、どうやら後者の立場を取って書かれている。前者では石牢が、後者では石風呂となる。但し、現在の高天神城跡には大河内が繋がれたという石牢の跡が残っている。
※ 石風呂(いしぶろ)- 蒸し風呂の一種。岩屋や石室でする蒸気浴。石を焼いて水をかけたり,海藻を焼いたりして,蒸気を発生させる。
さて、高天神の城、天正二年戌の年、甲州へ攻め取られ、同九年辛巳の年、浜松へ御取り返えし、城東郡御手に入る事、天下泰平に御治め成らるべく相なりとて、上下さざめき、御感悦限りなく、浜松へ御帰城成られ、諸士に御褒美、加増など下され、御暇給わりて、各諸将、在所々々へ帰り、万歳を唱え休足あるこそ目出度けれ。
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