平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
遠州高天神記 巻の四 4 高天神城落城の次第

快晴のもと、朝から一日、掛川図書館の文学講座で、「湖北六山文学散歩」に参加した。詳細は後日。
「遠州高天神記 巻の四」の解読を続ける。

(高天神城、的場曲輪跡)
本多平八郎忠勝、鳥居彦右衛門元忠、前に進んで、士卒を下知し、突っ立て/\攻め詰めて、金曲輪に追い込める。水野惣兵衛忠重、嫡男藤十郎勝成、蒐連(かかれ)/\と士卒を勇め、金曲輪より進みて、二の丸に攻め入らる。忠重従卒、清水治右衛門、山本市作、先鋒に進んで討ち死にす。的場曲輪の敵兵ら、ここを破られじと、必死に成りて防ぎしかば、寄せ手も攻めあぐんで、暫時猶予し居りたりける。
時に戸田孫六郎康永、上意を承りて、この曲輪を乗り破らんと言上せられしかば、兎も角も計らうべしと仰せ出されければ、戸田大いに悦び、直ちに進んで乗り込みしかば、士卒我劣らじと城中へ乗り込みて、火を懸け焼き立つる。戸田三郎右衛門忠次、同じく乗り込み、遂に的場曲輪を攻め破る。忠次従士、石原孫次郎、大屋喜助、植男十兵衛、芳賀治助、真っ先に進んで高名す。
松平主殿助家忠、勇を振って、敵兵多く討ち取る。家忠の手にては、板倉杢左衛門忠重、先登に進んで働きしが、闇の夜の事なれば、誰とは知れず、大剛の敵と寄せ合せて相戦う。かの者叶わずとや思いけん、跡をも見ずして逃げけるが、闇夜は闇(くら)し、堀の底へ落ち入りたり。忠重続いて追い掛け堀へ飛び込んで、遂に敵を討ち取りたり。この時家忠の従士、板倉長蔵定重を始め、究竟の兵五騎討ち死にす。かくて寄せ手多勢、気に乗りて、勇み進んで攻め立てしかば、残兵防ぐ事得ず、悉く討ち死にして、終に落城にぞ及びける。
※ 先登(せんとう)- まっさきに敵の城に攻め入ること。一番乗り。さきがけ。
※ 大剛(だいごう)- 非常に強いこと。また、その人。
※ かの者 - 大剛の敵のこと。
※ 板倉定重 - 忠重、勝重と三兄弟の三男。家督は次男勝重が継ぎ、後に旗本として、江戸町奉行、京都所司代を勤める。
※ 究竟(くっきょう)- きわめて力の強いこと。すぐれていること。屈強。
一 内藤三左衛門信成、菅沼治右衛門、兼ねて上意を承り、国安村に陣取りて、高天神の城兵、落城に及び討ち洩されの者ども、必定参るべし。待ち受けて悉く討留むべしと命によって、陣を取り、今や/\と待つ処に、御賢察の如く、廿二日夜半に城兵ら我れ先にと、国安をさして逃げ来る。待設けたる事なれば、やがて追っかけ追い詰めて、討ち取りける。
公、大いに御感有りて、厚くその功を賞せさせ給う。また戸田三郎左衛門忠次の従士、芳賀清介、石原孫次郎両人を御前に召し出され、その戦功を褒美せさせ給い、御弓及び五十貫宛の恩賜有り。その外、有功の人々に、それぞれの御褒美をぞ、下し給わりける。
この時、信長公より加勢として、佐々内蔵助、野々村三十郎、御勢に加わり、罷り在りければ、両人御味方へ討ち取る所の首数、銘々に実名、また高名の甲乙ともに、名を書き記し、御暇を賜って皈(かえ)りける。
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