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「竹下村誌稿」を読む 58 遠江国 15

(南町の秋葉灯籠/旧金谷町の秋葉社・秋葉灯籠23/2月9日撮影)

南町の秋葉灯籠は、巌室神社で、本町、田町の秋葉社に並んで立っている。

午前中、金谷宿大学展示で使ったパネルを金谷高校へ返却するのを手伝う。持ち出しに2時間以上掛ったものが、返却は要領をつかんで、一時間で済んだ。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

遠江の国司の初見は、仁徳紀、遠江国司上表云々とあるを始めとす。されどこの国司は孝徳帝の時置かれたる国司とは全くその赴きを異にせり。書記通訳に、

国司始めてこれに見えたり。されど後に云える国司というものとは異にて、司を「みこともち」と訓ずる。御命持の義なり。その時々天皇の御命を承り持って、その国の政を執る司人なる、それは国造の治否をも見せしめ、また大嘗会の料など収めしめ給う臨時の役にもよざし使わして、その国に暫く留り居れるもありければ、推古紀に国司国造と並べ称することもありしなり。その始置は詳らかならず。

とあり。孝徳帝のときには良家の大夫を以って国司を任じ、東方八道を治めしめしことも見えしが、遠江の国司は何人なりしか、伝わらず。惟うに国司の撰たるその任、もっとも重く、職原抄に、
※ 職原抄(しょくげんしょう)- 中世日本の有職故実書。全2巻。職原鈔とも。鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿北畠親房が、常陸国小田城で後村上天皇のために書いたものとされる。

凡そ国司の、和漢これ重し。これ、烹鮮の職と云う。また分憂の官と云う。
※ 撰(せん)- 多くの中からよりすぐる。
※ 烹鮮(ほうせん)- 政治を行うこと。(「老子」六十章の「大国を治むるは小鮮を烹(に)るがごとし」から。小魚を調理するとき細々と手を加えないのと同じように、政治もおおらかにするものだという意)
※ 分憂(ぶんゆう)- 古代の官職。国司の別称。


と云える如く、古今を問わず、その撰良をえること、甚だ易からず。而して遠江の国守は文武帝の時、遠江守、勤広壱漆部造道麿に善政を賞して、封二十戸を授けしことあり。これ史に見ゆる国守の始めとす。
※ 勤広壱 - 天智天皇3年(664)に制定された、冠位四十八階の一。
※ 漆部(ぬりべ)- わが国の上古の時代に、漆工を世職としていた部族。


以後、国守の補任交替も少なからざるべけれども、詳なることは知り難きも、和銅元年には美努連浄麿あり。奈良朝以来、大伴宿祢牛養、大伴宿祢山守、桜井王、百済王孝忠、多治比真人犢養、賀茂朝臣角足、大伴宿祢御依、栗田朝臣奈勢麻呂、下毛野朝臣多具比、高丘比良麻呂、大伴宿祢伯麻呂、多治比真人乙兄、伊勢朝臣老人、当麻王、藤原朝臣衡などあり。

王朝時代には、藤原朝臣黒麻呂、春階王、巨勢朝臣総成、橘朝臣入居(以上続紀)、大荒木臣忍国、大枝朝臣管麻呂、宇治王、和朝臣建男、清原真人長谷(以上後紀)、文室朝臣助雄、伴宿祢友足、安倍朝臣氏主、正躬王(以上続後紀)、橘朝臣数雄(文徳実録)、藤原朝臣真冬、高階真人管根、笠朝臣弘興、長岡朝臣英雄、田口朝臣統範、清原真人惟岳、藤原朝臣清保(以上三代実録)、平朝臣統理(類聚符宣抄)、など、皆遠江守に任す。而してこれら国守の位記は列して従五位下に叙せられしものゝ如し。一条天皇正略已後は、藤原説長、藤原国実、藤原顕広、藤原惟方(本朝世記)国守となり、井伊共資、その子共保、この国を領せり(遠記伝序)。
※ 井伊共保(いいともやす)- 平安時代の人物。遠江守藤原共資の養子。井伊氏初代当主。(ここまで来て、ようやく知った名前に出会った。女城主直虎の御先祖である。)
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