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御時服拝領願上の結果

(昨日の夕方、東の空に出ていた放射線状の雲)

昨日の書き込みで、紀州家に先例の通り御時服の拝領を願った結果、どうなったのか。海野家の文書には続きがある。願い書は糀町の紀州藩江戸上屋敷に届けられ、東海道御通行の際、岡部宿の本陣で拝領を受けた。以下へ書き下した文で記す。

右の願い書、江戸糀(こうじ)町御屋敷へ差し上げ置き候のところ、文化十五年戊寅三月、岡部宿、御本陣仁藤清左衛門方、御旅館の節、御用人由比楠左衛門様、曽根孫太夫様、御両人御出、玄関より二間(ま)目御席、曽根孫太夫様御時服熨斗目御持参にて下さる
※ 熨斗目 - 練貫(ねりぬき)の平織り地。また、これで仕立てた腰替わりの小袖。腰のあたりに多くは筋や格子を織り出したもので、江戸時代、武士が礼装の大紋や麻裃(あさがみしも)の下に着用した。

         御書付曰く
一 時服一            海野弥兵衛
 代々
御目見に罷り出で候儀につき、格別の品を以って之を下さる

右につき風呂敷懐中に致し、罷り上り候いて都合宜しく、御礼には御用人、由比楠左衛門様、曽根孫太夫様まで上る、外に落合雅樂助様、御用人に付参る、翌十七日玄関にて御挨拶有り、願い書差し上げ、十五年目に御時服拝領なり、外衣服へ御紋は染付け着用致すべし、但し、上になるとも、下になるとも、手前の紋服着用致すべし、御紋付重ね着致し候いては、御紋手前の紋に相成り候ゆえ、御紋重ね着は相成り申さず由、曽根孫太夫様、海野兵左衛門様、御両人より申し渡され候なり

※ 外衣服 - 拝領の熨斗目の上に着る衣服、大紋や麻裃。

この文書を読んでみると、拝領の熨斗目には徳川家の葵の御紋が付いていることが分かる。同時にその上に着る大紋や麻裃にも葵の御紋を付けることが許される。但し重ね着するときは、下に隠れてしまうので、拝領の熨斗目は重ね着のときは着てはならないと釘をさされる。ともあれ、葵の御紋が付いているならば、願い書を出しても頂きたい気持は分かる。徳川家から拝領したものであることが一目で分かるのだから、大変有難い御時服である。海野弥兵衛さんは、早速、お礼の挨拶をしながら、礼状を渡す。

一筆啓上仕り候、春暖御座候えども、大守様ますます御機嫌よく遊ばしなされ御着き、恐悦至極に存じ奉り候、はたまた貴君様いよいよ御勇勝遊ばされ御下着、珍重奉り候、誠にもって御通行のみぎりは相変らず御目見仰せ付けなされ、その上御時服拝領仰せ付けなされ、冥加至極、有難き仕合せ、致し奉り候。これにより御着き、恐悦御礼かたがた愚札を捧げ候、恐惶謹言
  三月吉日                     海野弥兵衛 信能
    由比楠左衛門様
    曽根孫太夫様
    落合雅樂助様

※ 愚札 - 自分の手紙をへりくだっていう語。

御用人からの返書には、この礼状が紀州藩の藩主に披露されると書かれている。

     御返書下され候、覚え
御状披見致し候、先ずもっていよいよ御堅勝御入りなされ、珎重の御事にござ候、拙者ども無異にこの表に到着いたし候につき。御状の趣、忝くいたし候、かつ紀伊殿旅中において時服遣され候につき御礼の儀は披露に及ぶべく候、よって御報せかくの如く候、恐惶謹言
  三月廿八日
                     落合雅樂助  紀智  花押
                     曽根孫太夫  長永  花押
                     由比楠左衛門 定前  花押
                   海野弥兵衛様


一連の文書を読んでいくと、御時服拝領がどのような経緯で行われ、どういう意味を持っているのかが分かる。地方で葵ブランドの衣服を着ていることがどんな意味を持つのか、水戸黄門の印籠を例に出すまでもない。なお、途中で出てくる海野兵左衛門は、一族から紀州候に付き随って家来になっている者である。
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